過去の事件② 1億円強盗殺人事件
「連れ去られた……?」
「うむ。まずこの事件の前に何が起きたのかを話しておかねばならん。この事件の発端は、悪魔見習い試験の終了後にある人間界での研修期間でのことじゃ」
「悪魔見習い試験の後にも人間界で研修があるんですか?」
沙良は嬉しそうな顔をする。
「まあ、その時のパートナーは樹ではないと思うがの。欲にまみれた人間をうまく操作し、破滅に追い込むのがこの研修の目的となっておるし」
「……嫌な研修ですね」
一転沙良の顔が嫌そうな顔に変わる。
「人間にだっていい人間ばかりではなく、悪い人間もおる。妾もその辺りは割り切ってこの研修に臨んだが、いい気はしなかったの」
ミルダはそう言うとごほんと1つ咳払いをする。
「話を戻すが、その時に失楽の悪魔と組んだ男、こいつがちと面倒な男だったようじゃ」
「面倒な男ですか?」
俺は聞き返す。
「何でも、破滅の過程で精神をやられていたそうでの。銀行強盗を起こす頃には何が何やら分からなくなっておったらしい」
「精神疾患ってやつですね」
沙良はふむふむと頷く。
「で、いざ銀行強盗を起こしたとき、そこにたまたま人質になっていた小さな女の子を一人拳銃で撃ってしまったそうじゃ。見ていた失楽の悪魔は相当精神に堪えていたらしいの」
「それでどうしたんですか?」
沙良は聞く。ここまではただの銀行強盗事件の顛末を聞いているだけだ。
「失楽の悪魔は撃ち殺された女の子と被疑者を魔界に連れ帰った。もちろん、普通に連れ帰るだけでは目立ってしまうから、固有の能力を使用しての」
「……そもそも、失楽の悪魔の能力って何なんですか?」
俺は聞く。今までの悪魔の能力は、変化であったり吸収であったり回復であったり、といったような能力だった。
「熟語で表すなら失心、相手をぼんやりとさせてしまうだけの能力じゃ」
「……それだけですか?」
あまりにあっさりとした説明に沙良は思わず聞き返してしまう。
「いや、この能力は相当に強力じゃ。相手をぼんやりとさせるというのは相手に時間を忘れさせることにもつながるからの。応用で数秒程度なら時間を巻き戻したりといったことも可能なのだそうじゃ。それに使い方によってはじゃが、人の行動倫理や価値観、意思も変えてしまうことができるらしいの」
「どちらかというと人心掌握寄りの能力ってことですね」
俺の言葉にミルダは頷いた。
「憤怒の洗脳ほど能力の強さはないが、幅広く応用の利く能力であることは確かじゃな」
「で、その撃たれた女の子はどうなったんですか?」
沙良が話を元に戻す。
「その撃たれた女の子はまだその時点では息があったそうじゃ。だからこそ当時の失楽の悪魔はその子を救うために奔走していたと聞いておる。もちろん、一緒に連れ去って来たパートナーには失心の能力をかけたうえでの」
「……それで、結果はどうなったんですか?」
その言葉を聞き、ミルダは首を横に振る。
「残念ながら、人間として命を保つことはできなかったそうじゃ」
「そんな……」
沙良は言葉を失う。だが、俺はミルダの妙な言い方に引っかかっていた。
「待ってください。人間として、というのはどういうことですか?」
「うむ。その女の子はの、魔界で生きられるように失楽の悪魔に新しく命を吹き込まれた。つまりヴァニタスとして生きることができるようになったのじゃ。おかげでどうにか命だけは助かった、とまあこういうわけじゃな」
「……じゃあ、めでたしめでたし、じゃないんですか?」
沙良の疑問に俺も頷く。ここまでなら何の問題もない。多少あったとはいえ、一人も命を落としていない以上はむしろ良かったね、で済んでもおかしくない話だ。
「ところがこの話には続きがあっての。先ほど失心の能力をかけられた被疑者がいたじゃろ? 失楽の悪魔はそいつを怒りに任せて殺してしまったんじゃ」
「えっ……」
俺も沙良も言葉を飲み込む。
「さらに、失楽の悪魔はこんなことが起きたのは魔界のせいだ、と言って魔界全土に反乱を引き起こしたのじゃ。彼には人望もあった故、結構な人数が魔界の掟に反旗を翻したそうでの。反乱を抑えるのに数か月かかったそうじゃ」
「そんなの軽く戦争クラスの出来事じゃないですか……」
沙良は絶句する。
「結局団結した大罪たちによってその反乱は抑えられ、その時に反乱に手を貸した連中は皆今も牢獄で生活しているがの」
「……手を貸した連中? 失楽の悪魔はどうなったんですか?」
「奴そのものは行方不明じゃ。もしかしたら今も魔界のどこかでひっそりと暮らしておるかもしれんし、もう死んでしまっておるかもしれん」
ミルダによると、失楽の悪魔は魔界を引っ掻き回すだけ引っ掻き回してどこかに雲隠れしてしまったらしい。そのことが公になると困る、と考えた魔界側はこの事件そのものを魔界の歴史から抹消してしまったのだという。
「ただ、この事件を知る悪魔は今も大罪におるからの。完全に出来事を消し去るのは不可能だということじゃな」
「それってもしかしてさっき言ってた……」
沙良が言いかけた言葉をミルダは肯定するように首を動かした。
「うむ。メル・シャルフィリア。彼女こそ1億円強盗殺人の被害者にして、ヴァニタスから大罪にまで成り上がった人間界屈指の出世者じゃよ」




