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10/7 改稿。
「いかがです?」
女に首根っこをつかまえられて、揚句、引きずられ、どこか狭くて暗い場所に放り込まれた。ほのかにラベンダーの香りがする。猫のような扱いだ、と辟易している間に、女は「出てください」などと言う。なんなんだこの扱いは、と憤ったのもつかの間のこと。
今、あまりにありえない光景を目の前に、呆然としている。
「……あんまし、面白いもんじゃねえな」
そう、答えるのが精いっぱいだった。
先ほどまで女の宿泊している(ついでに言えば僕も昨日泊まった)ホテルの部屋にいたはずなのだ。しかし、どうしたことか、今コンサート会場の真っただ中にいる。もちろん観客席だ。一度もこういったところには来たことが無いので何と説明するのが適切かはわからないが、隣の女がアリーナ席だと言うので、きっとそうなんだろう。周りは老いも若きも、ほとんど女性。大変な居心地の悪さを感じる。
「あら、ご自分のステージですよ?」
「……気持ち悪い」
そうなのだ。信じがたいことに、正面のステージ、そしてその後ろの非常に大きなモニタ画面には一日に数度は鏡で見かける顔が映っていた。にこにこと愛想を振りまくその顔はイキイキとして作り物のようにも思えず、ただただ気持ちが悪い。そしてその僕に瓜二つな男と肩を並べて歌い、踊っているのは、世俗に疎いと自負していても知っている顔ぶれ。昼休憩に職場のテレビで見かけたことがある同世代のアイドルたちだった。
「こちらの佐藤周は、トップアイドルグループ『イザナギ』のメンバーです」
「あ、そう……」
見れば見るほど不思議でならない。何かのドッキリではないかと疑うが、しかしこんな費用と労力を使って僕にドッキリを仕掛ける理由など見当たらない。
「そろそろアンコールになりますが、最後まで見ていかれますか?」
「いい」
「そうですか。……イザナギのアリーナ席チケット、なかなか取れないんですよ?」
「いや、無理だから」
僕が答えるや否や、いや、まだ言葉の途中だったかもしれない。とにかくそのくらい素早く、また僕は例の狭苦しい場所へ突っ込まれ、気づいたときには元の部屋へと戻って来ていた。
「これで、信じていただけましたね?」
「……仕方ないな」
「ありがとうございます!」
僕の答えを今度はちゃんと聞いて、女はにっこりと笑った。
「では、本題に移りましょうか」
未だ先ほどの出来事の余波を受けている僕に、女はゆっくりと説明を施した。あのコンサート会場は、この世界ではない別の世界で行われていたものだということ。そこへ、女と僕は、女がここへやって来たときに使ったという時空移動装置を使って転移した。そして、この世界以外の僕という存在は、アイドルではなくとも、皆「成功した」と言われるような生活を送っているということ。例のコピーペーパーの束に記されているのがそれだという。
つまり、この三千並行世界に存在する全ての佐藤周のうち、僕だけが、このような辛酸を舐めさせられているのである。というのが女の言う主旨だ。
確かに、先ほどのステージの上に立っていたのは僕であったと思えた。そして僕は、アイドルになんぞなった覚えはないし、二人も存在してやるつもりもない。従って、並行世界は存在するし、それを行き来する装置があるというのも信じてもいい。しかし、女が言うところの『三千世界は収束する』というのが、つまり、僕以外が皆勝ち組だというのはなかなか胡散臭い。その旨を女に伝える。
「やはり、佐藤博士の同存体……バカではありませんね」
「……アンタ喧嘩売ってる?」
「いえいえ、あなたのポテンシャルがやはり思った通りだと」
「はあ?」
なんとなく癪に障る女である。
「それと、私の名は『アンタ』ではありません。レイナ・フェラートです。一度自己紹介したはずですが」
「あ、そ」
レイナ。女は再度名乗った。忘れていたわけではない。僕が一番聞きたくない名前だったから、口にしたくなかったのだ。
*
「周くーん!」
授業が終わり、昇降口へ向かうと、いつものように辺り一帯に僕の名が響き渡った。
「……また待ってたのか?」
「当たり前だよ!一緒に帰ろっ!」
「佐藤、今日も彼女のお迎えかよ」
「そ、そんなんじゃ……」
「そうでーす!みなさん、周くんがいつもお世話になってまーす!」
「こら、玲奈!」
「あんな可愛い彼女連れやがって!佐藤のくせに!ずるい!」
「ちくしょう、俺たちにもおこぼれ寄越せ!羨ましい!」
「お前、おこぼれでいいのか。志は高く持てよな」
「玲奈ちゃーん、友達紹介してー!」
クラスメイトたちはそんな僕らを見てひとしきり恨み言を言い募っているが、反面表情は笑っている。そんな彼らに手早く別れを告げ、急いで上履きと下足を入れ替えた。
『あの日』以来、僕と幼馴染の御影玲奈は、『そういう』関係になった。……と、僕は思っている。
彼女が中学へ上がって約一年、当たり前だが僕と同じ学校へ通う玲奈は、朝は一緒に登校し、そして帰りには今のように僕をいつも待っている。そして僕の方も、それとなく玲奈が帰る時間に合わせている。少し心配になって他の友達と一緒に帰ったりはしないのかと尋ねてみれば頬を膨らしてそっぽを向いてしまう始末だ。そんな仕草も可愛いと思うようになってしまったらもう後戻りはできないのだろう。
そう、僕はもう後戻りできない。
そうしてくだらないおしゃべりをしながら帰って、それからは相変わらずだ。玲奈は家にカバンを置き、着替えをしてからすぐに僕の家へやって来る。家にはあれ以来祖母がいる日がたまにあったが、それでも変わらない。祖母は玲奈を孫のように可愛がってくれたし、玲奈も、祖母へ礼儀正しく、ときに甘えた態度で接していた。
「玲奈ちゃんが周のお嫁さんになってくれたらいいねえ」
たまに祖母の言う言葉はその頃の僕にとってまんざらでもなく、しかし口に出すには恥ずかしく、なんとなく有耶無耶に返答をしていた。
父が死んでから、母は、昼間のパートに加えて夜にも働いていた。母の言うところによると、知り合いの働くスナックで雇ってもらうことができたらしい。スナックというのが実際どんなところなのか僕は知らなかったが、なんとなく、少し口に出すのが憚られるようなところなような気がして、近所のおばさんたちに尋ねられても曖昧な答えで返すことにしていた。
母が帰宅する時刻は大抵深夜で、0時を回ることが大体だった。昼間も仕事をしている母は、以前のように夕食を作り置いてくれる余裕もない。僕が帰宅すると、大抵の日はリビングのテーブルに幾らかの夕食代が乗せられているのがお決まりだった。そのためと言って、祖母がいない日は玲奈が遅くまで入り浸っては覚えたての料理を作ってくれることも増えていった。そんな日は、決まって二人連れだって近所のスーパーへ買い出しに行き、献立についてあれこれ相談しながら食材を買ったり、たまにスーパーの二階に入っている書店に併設したカフェでお茶をしたりした。ささやかなデートだが、僕にはそれが、将来の予行練習のようでなんだか嬉しかった。
これから何年後かわからないが、玲奈といつの日か結婚して幸せな家庭を築くのだと、それまでずっと玲奈は僕の傍にいてくれるのだと、あの頃は何の疑いもなく信じていたのだ。
*
「……で?これからどうするって?」
「現在確認できているだけの並行世界で、『佐藤周』の幸福指数を機関に調査させています。その結果が出るまで、こちらは並行世界を跳んで実地調査をする他ありません」
「それってどういう……」
「とりあえず行くしかないってことです!」
言い終わらないうちにまた女に首根っこをつかまれ、僕は暗い密室へ投げ込まれた。またか。
「アン……レイナ、だっけ?なんで毎度こんな不快な思いをせにゃいかん……」
「我慢してください。一応、時空移動装置は機密事項なんです」
「じゃあ俺を連れてくるのやめろよ!」
「しっ……静かに、来ました」
レイナにつられて息を潜める。すると、僕たちが身を隠している通路の角の向こう側から、カツカツという足音が聞こえて来た。こっそりとその足音の主を盗み見る。
やはりというか、僕だった。
「佐藤周検事です」
言われてみれば、仕立ての良さそうなスーツの胸にはよくわからない尖ったデザインのバッジが輝いている。弁護士バッジに秤の図案が採用されていることは知っているが、生憎検事バッジには知識がない。
しかし、確かに検事と言われればそう見える。検事でなくとも、人生に成功した男の雰囲気はあった。
「……勝ち組感あるな」
「異常なし。では次へ」
「え、これで終わり?」
そうして、また僕は乱暴に時空転移装置とやらに投げ込まれ、同じような謎の所業を繰り返した。医者、弁護士、官僚、モデル、売れっ子配信者……ありとあらゆる『勝ち組の僕』を見せられた。
「どうです?底辺はやはりあなただけだと思っていただけましたか?」
この女、調査などと言いながら結局それが目的だったのだろうが、と憎々しい思いがふつふつと湧き上がるが、僕はそれどころではない。ホテルの部屋に備え付けられたトイレの便座に突っ伏していた。
「時空酔いですね。ままあることです」
「いつかぶん殴ってやる……!」
「あら怖い」
レイナの軽口に付き合う余裕もなく、僕は嘔吐した。
*
僕と玲奈が『そういう』関係になってから約一年。僕は中学の最終学年も終わりに差し掛かっていた。相変わらず我が家の経済状況は芳しくなさそうで、僕は、高校へ進学しないことを決めた。それを話すと、母も祖母も強く反対した。しかし、我が家に高校の学費を払う余裕があまりないことは中学三年生であった僕の目にも明らかだった。母は、父の残した遺産も、保険金もあると僕を説得したが、当時の僕はそれを母の老後にでも使ってくれた方が有意義だと僕は考えていた。それに、特に進学しようという気概も僕には無かったのである。
せめて夜間でもと食い下がる母の剣幕に折れ、僕が市内の公立高校の二部へと進学を決めたその夜も、玲奈は僕の家へやって来た。相変わらず父の仏前に手を合わせてから、僕の部屋へと向かうのがお決まりのコースだ。
「お兄ちゃん、夜間高校へ行くんだね」
玲奈は、時折昔のように僕のことを兄と呼ぶ。
「うん。……昼間は働こうと思う」
「そっか……。じゃあ、玲奈はお兄ちゃんのこと、一生懸命サポートする!」
にっこり笑ってほとんどぺたんこな力こぶを作って見せる玲奈は、冬の陽だまりで咲く狂い咲きのタンポポのように僕の気持ちを和ませた。
「じゃあ、俺は……いっぱい稼いで、お金を貯めて、玲奈に辛い思いはさせないようにするよ……」
「え?なんで?どういうこと?」
精一杯のプロポーズまがいのセリフは、少し天然の入った幼馴染には少し難しかったようだ。苦笑しながら、彼女の髪を指で梳いてやる。そうしてやると、いつものように、玲奈は気持ちよさそうに目を閉じた。
「ごめんね、周……」
翌春の四月。中卒では難しいかと思われた就職先も無事決まり、初出勤の朝。相変わらず昼も夜も働き詰めの母が珍しく朝食を作ってくれ、同じ卓についたと思うや否や、そんな言葉を投げかけてきた。
「何言ってんの?母さん。……俺は、自分で決めたんだよ?」
そう、自分で決めたのだ。確かに、普通高校へ進学するクラスメイト達の浮かれた表情を眺めていると、羨ましくなかったとは言えない。しかし、自分は自分で決めた道を進む。その矜持が僕にはあった。
「すぐに仕事できるようになって母さんに楽させるからさ。ちょっと待っててよ」
「周……」
右手に持った箸を震わせ、母は涙を流していた。このところ、母の泣き顔をよく見るようになった。
「母さんが泣くようなことは何にもないよ。俺、今日を楽しみにしてたんだ」
母の作ってくれた卵焼きを口に放り込み、新品の仕事用具が詰まったカバンを肩にかけて僕は席を立った。母の涙は、いつも胸に痛い。
「おにいちゃーん!」
母から逃げるように玄関の戸を開けると、そこには玲奈が待っていた。彼女は今日から中学三年生になる。何かの包みを両手で高々と掲げていた。
「おべんと!玲奈が作ったんだよ!」
「へえ、じゃあ覚悟して食わないとね」
「ちょっと!どういうこと?」
「冗談だよ、……ありがとう」
朝食を作るだけで精いっぱいだった母は、弁当を用意することが出来なかった。それを見越して玲奈が作ってくれたのだろう。ずっしりと重いそれをしっかりと受け取り、玲奈に手を振って初めての職場へ向かった。
お読みいただきありがとうございます。