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10/7 改稿。

 2時間歩き続けて辿り着いたのは、小学生の頃友人と何度か訪れたことのある、名前も知らない山の中腹にある見晴らしのいい場所だった。アスファルトで舗装された道はそのうちに砂利道になり、ここへつながる頃にはすっかり木や草を掻き分けて進む獣道へ変わり果てていた。この道を歩く者ももうほとんどいないのだろう。すぐそばにある沢には山頂から冷たい湧水が流れ込み、真夏だというのにひんやりとした空気が辺りに漂っている。


 そのちんまりとした、しかし街をすっかり見渡せる高台に、その辺に落ちていた木片で穴を掘り、そっと骨を埋めた。熱でひしゃげてしまった鈴も一緒に入れてやる。愛猫、鈴子の唯一の遺品だ。

 少し赤茶けた土を念入りに被せて、その上に、ここに来るまでに沢で拾った緑色の石を乗せた。小ぶりな漬物石のようなその石の前には、高級猫缶を供えてやる。缶から出して、シーチキンのように解してやったやつだ。

「どうだ、鈴子。美味いか?」

 もっと早く、彼女が生きている頃に食べさせてやればよかった。と後悔ばかりが頭を巡る。それを振り切るように、目を瞑って彼女と過ごした半年を思い出そうとしたが、存外、月並みの出来事しか浮かばない。

 拾ってきたときには、猫だか鼠だかわからないような生物だった。毎日手に乗せてミルクをやり、下の世話をしているうち、段々と猫らしくなっていった鈴子。広げた古雑誌の上に寝転がられて困ったこともあった。猫じゃらしを持ち帰って、鈴子が疲れて寝てしまうまで延々と遊んだこともあった。そんな、猫の飼い主ならば当たり前のように経験することばかり。


「佐藤さん」

 極ありふれた苗字を呼ばれて振り返る。日本全国におよそ二百万人ほどいる同姓のうち、ここにいるのは僕一人だ。

 背後に広がる針葉樹林、そのうち一本の木の陰から、女がこちらを伺い見ていた。

「また、必ず来るからな」


 僕は、これからこの女に騙される。また一緒に暮らしてくれな、スズ。きっとすぐ会えるから。


 *


 父の葬儀は、激しい雨の吹き付ける土曜日に行われた。ぱらぱらとやって来る弔問客を相手に、疲れた顔で頭を下げる母と、同じようにげっそりとした様子の祖母。僕は、その二人の横で大人しくしていた。前の日の晩に覗き込んだ父の顔は、ありがちな表現だが、眠っているようにしか見えなかった。

 その解き放たれたように安らかな死に顔に、何の根拠もなく、「父さんは、疲れていたんだな」とぼんやり感じた。


 葬儀も滞りなく済み、やっと家の中も少しだけ落ち着いて、沈黙だけがウイルスのように蔓延していた水曜日の夕方、幼馴染が家を訪ねてきた。彼女は、父の葬儀にも家族と共に参列してくれていた。3日ぶりの対面である。

 僕はというと、昨日あたりからは手伝いなどをさせられることもなく、ぼんやりと父のことを思い出しながら一日を過ごしていただけだったので、正直彼女の訪問が嬉しかった。彼女が仏前に手を合わせた後、僕たちはいつものように二階の部屋へ閉じこもった。

 お互いの言葉は少ない。彼女がぽつりぽつりと学校の様子などを話してくれるが、特に話が広がることもなく、そのままふたりで押し黙った。僕は気にならなかったが、彼女はその沈黙に耐えかねているらしいのがなんとなくわかった。

 何か僕から話しかけてやるべきだろうか。しかし何を話せば良いのだろう。

 ここ数日家に籠っていた僕は、話のネタになりそうなものを持ち合わせていなかった。


「……父さんがさ、もういないなんて、思えないんだよな」


 そんなことを考えていると、口から勝手にそんなセリフがぽろりとこぼれた。

 思ってもいなかったことで自分ながら驚いた。僕は、もう父に会えないことを理解していた。俯いていた彼女がバネのように顔をはね上げ、こちらを見つめる。その瞳には涙が滲んでいた。

「そう、だね……」

 普段大げさにはしゃぎ、ときにはむくれたりしてころころと表情を変える彼女が初めて見せる顔で、それは氷細工のように繊細に感じられた。

 それを見て呆然としていると、彼女の瞳に溜まった涙が、ころりと一粒、頬の上を転がった。

 すると、一度溢れてしまうと抑えが利かないらしいそれは、次々と転がり落ちていき、最後には決壊した。

「なんで、……おまえが泣くんだよ」

「だってぇ……可哀想なんだもんん……お兄ちゃんは、お兄ちゃんは、おじさんのこと、大好きだったのに……」

 お兄ちゃん、というのはほんの幼い頃、彼女が戯れでつけた僕の呼び名だ。お互い一人っ子だったからか、その兄妹ごっこは長らく二人の間ではブームになっていた。流石に小学校も中学年になった頃からは名前で呼ぶようになっていたので、久しく聞かれない呼称だった。

「なのに……お兄ちゃんが泣かないからぁ!……だから、代わりにれーなが泣くんだよぅ……」

「なんだそりゃ」

 盛大に泣き続ける彼女の頭を撫でてやる。そういえば、こうして頭を撫でるのもいつぶりだろうか。幼い頃にはお兄さんぶってよくやっていたような気がする。

 しばらく彼女の髪を梳いたり、くしゃくしゃにしたりとしながらそのままの状態を続けた。指を通る髪の毛はサラサラとして心地よい。この数年で彼女は髪を伸ばし、それまでのショートヘアから一変して、すっかりロングヘアの清楚な少女になっていた。しかし僕は、彼女がそんな見た目通りのしとやかな女ではないことは知っている。


 どこか気が抜けていたのかもしれない。次の瞬間に幼馴染は僕の肩にすがりつき、胸に顔を埋めて泣いていた。幼い頃ならともかく、中学生にもなってこんなに女の子とくっついたことはなかった。心拍数が跳ね上がる。

「お、おい、れな」

 躊躇いがちに声を掛けるが、彼女は相変わらず声を殺して泣いている。

 仕方なく、先ほどと同じように頭を撫でてやる。長い髪に指を絡ませ、肩をさする。そうしているうちに、彼女の肩の震えが止まり、嗚咽も聞こえなくなった。やっと泣き止んだようだった。


 ようやくこちらを向いた彼女の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。目の周りは腫れて真っ赤になっているし、瞳にはまだ残滓の涙が留まっていた。窓から差し込む光が反射して、どうにも綺麗だった。

 そっと、そして戸惑いながら、彼女の体を抱き寄せる。今に限っては氷細工のように見える彼女が欠けてしまわないよう、そっと。

 先ほどまで指を絡ませていじっていた彼女のサラリとした髪からは、花のような、石鹸のような、不思議と清潔感のある香りが漂ってきた。なんとはなしにもう一度指を絡める。

「お兄ちゃん……」

 つるつるとした触り心地が気持ち良く、その長い髪を指で梳き続けていると、彼女が僕を呼んだ。手を止めて、相手の顔を覗き込む。すると、唇に柔らかなものが触れた。離れることのないそれを、頭の片隅で理解し、僕は目を閉じる。

 どれくらいの間、そうしていたのか、僕にはわからない。だが、いつの間にか僕の目からも、よくわからない水分が流れ落ちていた。

「玲奈……」


 *


「なんだ、こりゃ」

 鈴子に別れを告げ、女が拠点としているらしいホテルの一室に戻る。昨晩はこの部屋に強制的に連行され、不本意ながらも一夜を過ごした。

 と言うと誤解を招きそうなので補足するが、この部屋には寝室が二部屋、そしてその間にリビングルームが用意されている。2ベッドルームというやつだ。お察しの通り、高級そうなホテルである。素性の怪しい女が何故こんな部屋を借りられるのか不思議であると同時に、思った以上にヤバいことに首を突っ込んでしまったのではと多少不安になったのが昨夜のあらましだ。

「昨夜お願いしていた調査の結果です。ご覧いただければわかると思いますけど……あなたはやはり、特異点(イレギュラー)です」

 女が差し出した分厚いコピー用紙の束にざっと目を通す。そこには、同じ名前、生年月日のプロフィールが羅列されていた。身長や体重などもほとんど相違ない。

「大手商社社員、国家公務員、小説家、デイトレーダー、IT企業社長……」

「ご感想は?」

「勝ち組だな……って、アイ、ドル?」

「よろしければ見に行って見ますか?」

「はあ?」

 僕はまた女に首根っこをひっつかまれて強制連行された。

 先ほどまで適当に目を通していたプロフィールたち、その名前欄には全て『佐藤周』と印字されていた。

お読みいただきありがとうございます。

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