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視界の一面が真っ赤だった。
風に流されて、肌を焼くほどの熱を持った粉が舞い、僕の方へ吹き付けてくる。飛んできた火の粉は汚れた作業着に小さな穴を空けた。すぐ眼前では、宇宙へでも旅立つような、物々しい装備(衣服というよりも適切だ)を纏った人たちが立ち塞がっていた。
僕は、その日、ついに燃え盛る火に直面したのだ。
今までの人生を思い返すと、遅すぎるともいえる出会いであり、そのためにこの可能性は微塵も頭の中に描いていなかった。もういいだろうと、許されるだろうと、そう、思っていた。それが間違いだったに違いない。
肩にかけていたボロボロのカバンが足元に落ちるか否かといったタイミングだったろう。僕は勢い良く燃えている目の前のそれに飛び込もうと、疲れ切った足の裏に力を込めてスタートを切ろうとしたが、あっけなく防護服を纏った男とも女とも知れない誰かに阻まれた。そのまま身動きが取れないよう拘束されてしまう。
「あの、中に……」
やっとのことで呟いた言葉は、炎が辺りの空気を食らう音に、そして集まった野次馬たちのざわめきに掻き消された。
やめてくれ。止めないでくれ。そう言ってやりたかった。
もう、僕には何もない。充分だろう、一緒に死なせてくれ。そう、叫びたかった。
*
「あの、すみません。この辺りに、佐藤周博士はお住まいでいらっしゃいませんか?」
「はあ?」
唐突に声を掛けられ、視線を上げると、そこには見知らぬ女が立っていた。先ほどと同じ場所に座り込んでいるのは間違いないが、消防隊員に食って掛かったその後のことは何一つ憶えていない。辺りを見回すと、火災は随分前に沈静化されたらしく、木造アパートの残骸らしき焼け焦げた骨組と瓦礫だけがロープを張られた向こう側に残されている。夢などではなかったらしい。傍らの女のことなど構ってはいられない。
僕は、すぐさま立ち上がると、その燃え尽きた建物跡へと走った。途中のロープを飛び越え、崩れかけた骨組みだけの自宅へと。自宅であった106号室付近はすっかり燃え落ちていたが、そんなことはどうでも良かった。付近の瓦礫を掻き分けた。
できることなら、見つからないでほしい。
まだほんのり暖かな瓦礫へと手を突っ込み、それをどかす。そんな作業を30分以上続け、そんな希望を抱いたその時。ある木材の焼け残りをどかした際に、ヂリ、と濁った金属音が聞こえた。ころりと転がったそれを摘み上げる。間違いない。
最愛にして唯一の家族へくれてやった小さな鈴だった。彼女が動くたびに音を立てるよう、どこにいてもわかるよう、いなくならないよう、100円均一で買って付けてやったものだ。元は綺麗な球形をしていたそれは、熱のためか少しひしゃげてしまっている。頭に血が上るのを感じた。手はもう言うことを聞かずに、その付近のまだ少し熱を持った瓦礫を掴んでは放り投げる。
しばらくその作業を続け、ようやく目当てのものが見つかった。否、本当ならば、見つかってほしくなかった。
「スズ。……っ、お前だよな。スズ……っ。ごめんな、……ごめん、ごめんなぁ……。傍に、一緒に、ああ……!」
真っ黒に焦げた木材の下に、半分ほどは砕けて本来の姿を失った、しかし、確かにそれと分かる証が存在していた。
命を失いながらも、その姿を燃やしながらも、白い骨に変わり果てながらも、煤に塗れながらも、……主を、僕を待った、愛猫鈴子。その、……変わり果てた姿だった。
*
あれは忘れもしない。小学校五年生のある夏の日。
仲の良いクラスメイトからの誘いを断り、寄り道をせず小学校から帰ってきた僕が、玄関の戸を開け「ただいま」と声を掛けても母の聞きなれた「おかえり」の返事がなかった。
不思議に思いながらも廊下をぱたぱたと歩き、母がいつも僕を待ってくれている居間に続く扉を開けて、中を覗き込む。普段は夜遅くまで帰ってこない父と、いつも優しく僕の帰宅を迎えてくれる母が、電気もつけずに薄暗い部屋で、ダイニングテーブルを挟んで向かい合っていたのだ。
僕がドアを開けて少し経ったとき、両親はようやく僕に気づいたらしかった。
「おかえり」
そう言った顔は引きつっていて、僕はそんな母の表情を今まで一度も見たことがなかった。
それから数日。端的に言えば、父がクビになったとか、働いていた会社が倒産したとか、そんなような話だったと思う。当時小学生だった僕には詳しいこと、つまり大人が「子供にはムツカシイ」と思っている内容のことは何一つ教えてもらえなかった。ただ、その日以降しばらくの間、父が、僕が学校に出かける時刻になっても家にいたことは憶えている。そうして代わりに、母が昼間、家を空けるようになった。
友人たちに、母が近所のスーパーでレジを打っていたと聞かされた。父はというと、母の代わりのように家に籠って何かしていた。今と思い返せば、おそらく慣れないながらも家事をこなしていたのだと思う。
しばらくすると、父もまた、家から出始めた。しかし、その服装は以前のような背広姿ではなかった。グレーと水色の中間のような色のつなぎを身に付けて、家から出ていくようになった。しかもその時間はまちまちで、朝だったり、夜だったりした。僕が学校へ行っている間に家を出ていくこともあった。その頃は相変わらず母も昼間働いていたので、自然と、僕は鍵っ子になった。
初めて家の鍵を手渡されたときは、少し心が弾んだ。親が共働きの同級生たちがランドセルの中に隠し持っている「鍵」というやつが、どうにも大人の象徴のように思えたからだ。しかしその誇らしい気持ちも、一か月ほども経つと色あせた。
帰宅した僕を待っている冷えた夕食。ラップの掛けられたそれを電子レンジで温め、一人で食事をした。母が家で待っていてくれたときには、そんなことをせずとも暖かなご飯にありつけていたのに。その頃は毎日、その日の出来事を話しながらその合間に箸を進めたものだ。
「今日はどんなことがあったの?」
少し鬱陶しくあった母の問い掛けが、どうしようもなく恋しかった。
*
目の前に散らばった骨をひとつ残さず拾い上げ、煤で爪の中まで黒く染まった手の平でそっと包み込んだ。あまりに軽い。それもそのはずだろう。鈴子は、まだ生まれて半年にもならない仔猫だった。
「ごめんな、スズ。……熱かったろう?苦しかったろう?」
この小さな体に、僕の心を一身に背負って生きていたのか。
「きっと、重たかったろう……ごめんな」
さして大きくもない手の中にすっかり収まってしまった愛猫に、謝罪を繰り返した。きっと届くまいと思いながら。やはり、一緒に行きたかった。
どれくらいの間、そうしていただろう。気づけば、太陽はその半身以上を西の山脈へ隠し、青かったはずの空を赤く染め上げていた。目尻に溜まった涙は、零れ落ちることなく既に乾いてしまっている。こんなときでも、泣けないのか。どこかで見ている別の自分が呟いた。
明日は、仕事を休もう。いや、もう辞めてしまっても構わない。
そうして、僕の最後の家族だった鈴子をどこか、見晴らしの良い場所へ眠らせてやるのだ。この小さな猫は、生まれてこのかた、木造築三十年のボロアパートの一室しか知らなかったのだから。もっと沢山のものを見たかったろうに。彼女はたった半年しか生きられなかった。ドラッグストアで一番安いカリカリなんかより、もっと美味しいものだって食べたかったに違いない。そうだ、彼女の墓にはいつも値札ばかりを見て手を伸ばせなかった、あの猫缶を供えよう。
せめてこれからは、猫らしく気ままに過ごせるように。
そう心に決め、手の平に集めた骨をそっと抱え込む。
「あの……」
背後から声を掛けられた。女の声だ。
「……何か?」
ゆっくり振り返ると、少し離れた場所に女がひとり、立っていた。先ほどの女だろうか。ろくに顔も見ていないせいで判別できない。
*
そんな寂しい心を慰めてくれたのが、隣の家に住む、一つ年下の幼馴染だった。
彼女は、僕の家に両親がいない日には必ず遊びにやって来た。遊び盛り、しかし保護者なしでは遠出の許されない小学生にとって、大人のいない友人の家というのはどうにも心躍るものだ。我が家に僕一人の放課後には、すぐさまランドセルを自宅の玄関に放り投げて僕の部屋までやって来る。彼女はいつも、僕がそれまでに買ってもらったテレビゲームで遊びたがった。彼女の両親は厳格で、それまでゲームの類は全くと言っていいほど与えられなかったらしい。
僕が遊びつくしたゲームに興じる彼女の手さばきは拙いもので、僕にとっては相手に不足有り余るものだったが、他に遊び相手がいるわけでもない。仕方なく、放課後帰宅してから彼女の家の夕食の時間まで、相手をして過ごした。
彼女と毎日のようにゲームをし続け、二年が経った。彼女が帰宅すると、相変わらず夜遅くまでひとりきりで過ごす夜がほとんどだった。僕はその年、中学生になっていた。言うまでもなく、忙しい両親は入学式には来られなかった。
通い慣れた小学校に比べて少し遠くにある中学校にはそれまでより多くの子供たちが通ってきていて、約四十人のクラスメイトのうち、だいたい半分くらいが他の小学校出身の生徒だった。新しい友人たちとも思ったより早く打ち解けることができて、僕の中学校生活は順調だった。
通っていた中学校の校則では、生徒全員が何らかの部活動に所属しなくてはならなかったが、相変わらず、幼馴染は放課後になると遊びに来たので、僕はほとんど帰宅部のような状態の科学部に入部してそれまでと同じような日々を送っていた。
違いと言えば、中学生になって学校の終わる時間が少し遅くなったために、幼馴染と顔を合わせる時間が少なくなったことくらいか。
そうして僕は、学校ではクラスの友人たちと、放課後は幼馴染と過ごしながらそれなりに充実した日々を送っていた。
その頃には我が家にあるゲームソフトは彼女ですらプレイし尽くしていたので、二人のお小遣いを合わせて共同でソフトを少しずつ買い足すことにしていた。すっかりゲームに詳しくなった彼女と、次に買うソフトについてだらだらと話しながらゲームをプレイする時間は、いつの間にか掛け替えのないものになっていた。
相変わらず働き詰めの両親とゆっくり過ごす間もなく、また一年が過ぎ、僕は中学二年に、そして幼馴染は僕と同じ中学校に入学した。彼女の入学式の次の日の夜、二人でささやかなお祝いをした。彼女は甘い物が好きだったので、僕は、少しずつ貯めていたお年玉を使って彼女の為にケーキを用意した。確か、彼女はとても喜んでくれた。
それからの日々は、二人でゲームをするよりも、一緒に勉強をする時間の方が長くなっていった。僕はそれなりに学業の成績が良かったので、家庭教師のようなつもりになって、彼女の宿題を手伝ってやった。大したことのない問題でも、解き方と正解を教えてやると彼女は大げさに喜んで見せるので、僕は非常に気分が良かった。彼女が帰った後、僕はいつも一人で自分の宿題、そして予習と復習をこなした。
*
「いえ、その……。佐藤、周博士という方に……」
「それ僕の名前だけど?」
極々ありふれた苗字に、そうそうにはいない名前。それが僕の名だ。女は慇懃な言葉遣いではあるが、どうも不躾な印象を受けた。その女を睨み付ける。夕暮れ時で薄暗いため、相手の顔はよく見えない。ただ、若そうではある。
「え。……では、その、あなたが、佐藤博士……ですか?」
「博士なんかじゃない。人違いだと思う」
そう。僕は博士なんて大層な肩書で呼ばれるべき人間では全くありえない。なんせ最終学歴は中卒だ。実際そんな見た目ではないことも承知している。油汚れの染みついたねずみ色の作業着は煤で汚れ、自分で切っている髪は、やや伸びてざんばらの様相を呈し始めている。今朝剃り忘れた髭だって無精たらしい。
「そんな……。でも、この年代、地区で佐藤周……やっぱり、あなたです!博士!」
「だから、博士なんかじゃない。俺は……見ての通り、だ。……博士?意味がわからない」
付き合いきれない。頭がおかしいんじゃないか、この女。僕は歩き出した。女の横を無言で通り過ぎる。
急ぎ足だが、手の平にそっと包んだ鈴子が揺れないように、こぼれないように、気を付けて歩を進めた。
「ええっ、もしかして、次元座標が……?でも……それにしては……。待って、待ってください」
女は何事かをぼそぼそと呟いた後、またも僕に語りかけた。それを無視する。
「おかしいんです!あなたが、佐藤博士が、そんな生活をしていることがおかしいんです!待って!一緒に、人生を……修正しましょう……!」
「……はあ?」
うっかりしていた。女の方へ視線を向けてしまったのだ。人生を修正?馬鹿馬鹿しい。やはり、頭がどうかしているとしか思えない。
「信じてもらえないと思いますが、わたしは……未来から来ました。佐藤博士が、いえ……あなたが、開発した時空移動装置に乗って」
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