泣く犬 (666文字)
その古い家は玄関の戸を開けると広い土間があった。
土間の右手にはむき出しの階段があり、調度その下に囲炉裏のようなものが設えられている。
そこには老いた漁師夫婦が住んでいた。
夜が明けたかを知らせる朝日が差し込む頃。
漁師の妻がエサ皿にカラカラと、餌を入れる音で目が覚めたのか、囲炉裏の手前に寝そべっていた一匹の犬が、もぞもぞと動き始める。
「おぉや、起きたかい? 今朝は寒いと思ったら、ほぉら降り出したよ」
漁師の妻はエサ皿と水椀を並べ置くと、まだ目覚めきらない黒い犬の傍らに跪き、首回りを撫ぜて話しかける。
囲炉裏は暖を取るためではなく、魚を焼くためにしつらえられたものだ。
夜が明けきらぬうちに船が沖から帰ってくると、漁師の妻は朝餉の支度をはじめる。
パチパチと爆ぜる炭をおこし、自食用の稚魚を二尾、串に刺し焼く。汁鍋には海藻を落とし、白米を小釜で炊く。
漁師は冷えた体を熱い湯に浸けて人心地着く。
湯上りに妻が畳み置いた藍色の部屋着を纏い、食事を終え寝床で仮眠するのが常であった。洗いたての洗剤臭に魚臭さが混じり込む。
ギシギシと板を軋ませ二階へ上がると、古家に似あわぬベッドが鎮座している。今は都会に出た息子が買い、送ってくれたものだ。
階下から黒い犬が妻を呼ぶ声が聞こえる。
日々の中にある平穏な瞬間であった。
幼い息子が拾ってきた子犬が、今はぼさぼさ毛を震わせ漁師の妻を呼ぶ。
それは都会の喧騒にかき消される息子の声の様でもあり。
川の字になって過ごした夜を思い出させた。
老いた犬と漁師と妻は、明日もまた遠くに住む息子を思いながら、今日を繰り返すのだろう。