第一話 かわいいね、何て名前?
左手を顔の前にかざすと、薬指の指輪が部屋の明かりを小さく反射した。
そのたびに、頬が勝手に緩んでしまう。
私は夏子、二十一歳。
筑波大学の三回生で、今は恋人の大介くんと大学近くのアパートで暮らしている。
――いや、恋人という言い方は、もう少し違うのかもしれない。
先日、恋人の大介くんからプロポーズされた。
まだ入籍したわけでも、結婚式の日取りを決めたわけでもない。
それでも私の薬指には、彼が選んでくれた指輪がある。
「……ふふっ」
何度見ても笑ってしまう。テーブルの上には、二人分の夕食。
今日は大介くんの帰りが少し遅い。私は椅子に座ったまま、指輪を眺めていた。
この指輪を渡してくれた大介くんは、私にとって誰よりも大切な人だ。
一緒にいるのが当たり前で、隣にいない生活なんて考えられない。
けれど、初めて出会ったときから、私が大介くんを好きだったわけではない。
むしろ、正反対だった。
小学一年生の春。入学式を終え、新しい教室で自分の席に座っていた私は、少しだけ緊張していた。
知らない子ばかりの教室。
新しい机。
新しい教科書。
私は背筋を伸ばし、できるだけしっかりした子に見えるように座っていた。
そんな私の前に、一人の男の子が現れた。
少し癖のある黒い髪。大きな目。
真新しい黄色い帽子を、なぜか少し斜めに被っている。
その男の子は私の机の前に立つと、じっと私の顔を見つめた。何だろう。
そう思って見返していると、男の子は何のためらいもなく口を開いた。
「かわいいね。何て名前?」
私は何も答えられなかった。
小学一年生の男の子に、いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
今なら、もう少し違う反応ができる。
笑ったり、ありがとうと言ったり、名前を教えたり。
けれど、当時の私は違った。
知らない男の子に突然顔を覗き込まれ、かわいいと言われたことが恥ずかしくて仕方なかった。
だから私は、そっぽを向いて答えた。
「……知らない人に名前を教えちゃだめなんだよ」
「同じクラスだから、知らない人じゃないよ」
「まだ知らない人だもん」
「じゃあ、今から知ってる人になればいいよ」
何なの、この子。
入学初日から距離が近すぎる。私はますます顔を背けた。男の子は気にした様子もなく、自分の胸を指さした。
「僕、大介。大きいに、介って書くんだって」
「聞いてない」
「君は?」
「教えない」
「どうして?」
「知らない人だから」
「僕はもう名前を言ったから、知ってる人だよ」
子どもなりの理屈なのだろう。
けれど、そのときの私には、ただしつこい男の子にしか思えなかった。
大介くんは私が答えるまで、その場から離れようとしなかった。
根負けした私は、小さな声で名前を教えた。
「……夏子」
「なつこちゃん?」
「そう」
「なっちゃんだね」
「なっちゃんって呼ばないで」
「どうして?」
「まだお友達じゃないから」
「じゃあ、お友達になろう」
「やだ」
我ながら、ひどい返事だったと思う。
けれど、大介くんは傷ついた顔をしなかった。
それどころか、うれしそうに笑っていた。
「僕は、なっちゃんとお友達になりたい」
「私はなりたくない」
「じゃあ、明日また聞くね」
本当に変な子だった。
普通なら、嫌だと言われれば諦めるはずだ。
少なくとも、私はそう思っていた。
けれど、大介くんは次の日も私のところへ来た。
「なっちゃん、おはよう」
「なっちゃんって呼ばないで」
「今日、お友達になる?」
「ならない」
「じゃあ、明日また聞くね」
その次の日も来た。
「なっちゃん、おはよう」
「だから、その呼び方やめて」
「今日、一緒に帰ろう」
「帰らない」
「同じ道かもしれないよ」
「違う道でも帰らない」
「じゃあ、途中まで」
「嫌」
それでも大介くんは諦めなかった。
休み時間になると私の机に来て、何をして遊ぶのか聞いてくる。
体育があれば、走るところを見てほしいと言う。
給食では、嫌いな野菜を食べられたと報告してくる。
私はそのたびに、短く返事をした。
「そう」
「知らない」
「興味ない」
「向こうに行って」
それなのに、翌日には何事もなかったように話しかけてくる。
私には、好きな男の子がいた。
同じクラスの雄二くん。
雄二くんは足が速くて、体育の時間にはいつも一番だった。
走る姿が格好よくて、休み時間には男の子たちの中心にいた。
私が話しかけると笑ってくれる。
その笑顔を見るたびに胸がどきどきした。
私は雄二くんともっと話したかった。
できれば一緒に帰りたかった。
それなのに、私の隣にはいつも大介くんがいた。
「なっちゃん、今日も一緒に帰ろう」
帰りの会が終わると、大介くんは当然のように私の机の横へ来た。
私は急いでランドセルを背負った。
少し離れたところでは、雄二くんが友達と話している。
今なら声をかけられるかもしれない。
そう思ったのに、大介くんが私のランドセルの横に立った。
「ねえ、帰ろう」
「帰らないって言ってるでしょ」
「でも、なっちゃん、一人で帰るんでしょ?」
「一人で帰るからいいの」
「一人だと危ないよ」
「危なくない」
「僕が守るよ」
私は思わず大介くんを見た。
大介くんは、冗談を言っている顔ではなかった。
小学一年生の小さな男の子が、本気で私を守ろうとしていた。
けれど、当時の私は、その言葉を素直に受け取れなかった。
むしろ、雄二くんに聞かれていたらどうしようという恥ずかしさのほうが大きかった。
「大介くんに守ってもらわなくても平気」
「でも」
「私は雄二くんと帰りたいの」
口にしてから、しまったと思った。けれど、もう遅かった。
大介くんは私の視線を追い、雄二くんを見た。
「なっちゃん、雄二くんが好きなの?」
あまりにも真っすぐ聞かれ、顔が熱くなった。
「大介くんには関係ないでしょ」
「好きなの?」
「知らない」
「好きなんだ」
「うるさい!」
私は教室を飛び出した。後ろから大介くんが追いかけてくる。
「なっちゃん、待って!」
「ついてこないで!」
「でも、一緒に帰りたい」
「私は帰りたくない!」
靴を履き替え、校門を出ても、大介くんは後ろにいた。
私は早足で歩いた。大介くんも早足でついてくる。私が走れば、大介くんも走った。
けれど、大介くんは足があまり速くなかった。
やがて息を切らし、私との距離が開いていく。
それでも大介くんは、必死に私を追いかけていた。
「なっちゃん、待って……!」
私は一度だけ振り返った。
赤い顔で息を切らしながら、それでも私に追いつこうとしている。
どうして、そこまでしてついてくるのだろう。
私は大介くんに優しくしていない。
お友達にもなりたくないと言った。
一緒に帰りたくないとも、何度も伝えた。
それでも、彼は毎日私のところに来た。
「ついてこないでって言ったでしょ」
私が立ち止まると、大介くんはようやく追いついた。
膝に手をつき、苦しそうに息をしている。
「だって……なっちゃん、一人だから」
「一人で帰れるよ」
「でも、僕が一緒に帰りたい」
「どうして?」
大介くんは顔を上げた。
汗をかき、黄色い帽子はずれていた。
それでも、その目は真っすぐ私を見ていた。
「なっちゃんが、かわいいから」
「……それだけ?」
「あと、好きだから」
私の胸が一度だけ大きく跳ねた。けれど、それは恋ではなかった。
小学一年生の私には、どう答えればいいのか分からなかっただけだ。
私は大介くんの告白を受け止めることも、喜ぶこともできなかった。
ただ顔が熱くなり、逃げるように前を向いた。
「勝手についてくれば」
「いいの?」
「一緒に帰るんじゃないからね。大介くんが勝手についてくるだけだから」
「うん!」
大介くんはうれしそうに私の横へ並んだ。
私は少し歩く速度を上げた。
大介くんもついてくる。
速度を落とすと、大介くんもゆっくり歩く。
影が二つ、夕方の道に並んで伸びていた。
その日から、大介くんは毎日のように私と帰るようになった。
もちろん、私は認めていなかった。
一緒に帰っているのではない。
大介くんが勝手についてきているだけ。
ずっと、そう言い張っていた。
「ただいま」
玄関から聞こえた声で、私は我に返った。
時計を見ると、いつの間にかずいぶん時間が経っていた。
「おかえり、大介くん」
立ち上がって玄関へ向かうと、大介くんが鞄を置きながら私を見た。
「なっちゃん、何かいいことあった?」
「どうして?」
「すごくにやけてるから」
私は慌てて両手で頬を押さえた。
「にやけてないよ」
「指輪を見てた?」
「……少しだけ」
「また?」
「仕方ないでしょ。うれしいんだから」
私が左手を見せると、大介くんは照れくさそうに笑った。
小学一年生のとき、何度断っても私についてきた男の子。
かわいいね、何て名前――と、初対面の私に声をかけてきた男の子。
あの頃の私は、大介くんをうっとうしいと思っていた。
足が速くて格好いい雄二くんばかり見ていて、大介くんのことなんて少しも見ていなかった。
それなのに今は、大介くんが帰ってくるだけでうれしい。
彼の声を聞くだけで安心する。
この先もずっと、一緒に帰りたいと思っている。
「大介くん」
「ん?」
「これからも、一緒に帰ろうね」
突然そんなことを言った私に、大介くんは不思議そうな顔をした。
けれど、すぐに優しく笑った。
「うん。なっちゃんが嫌だって言っても、ついていくよ」
「もう嫌なんて言わないよ」
私は大介くんの胸に額をつけた。
小学一年生の私に教えてあげたい。
あなたがうっとうしいと思っているその男の子は、何年経ってもあなたの隣にいる。
そしていつか、あなたが世界で一番帰りを待ちたい人になる。
私の薬指にある指輪が、二人の間で静かに光っていた。




