第十話「ひよこサブレは今日も届く」
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博多へ行った日のことを、ミナはノートに書いた。
几帳面な字で、丁寧に。
消えないように。
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約束の週末、二人は新幹線に乗った。
弥三郎からの手紙に、住所が書いてあった。マンションではなく、少し郊外の、小さな家だった。海が近い場所だった。
家の前に着いた時、ハルは立ち止まった。
小さな家だった。庭に、梅の木が一本あった。縁側が見えた。
縁側に、老人が座っていた。
白髪で、背筋が真っ直ぐだった。手元で何かをしていた。
縄を編んでいた。
「弥三郎さん」とハルは言った。声が出なかった。心の中で言った。
老人がこちらを向いた。
目が合った。
老人は縄を編む手を止めた。
立ち上がろうとした。ゆっくりと。
「そのままでいいです」とミナが言った。急いで。
老人は微笑んだ。深い皺の中に、温かいものがあった。
「来たか」と言った。
声が聞こえた瞬間、ハルは胸の中で何かが動くのを感じた。懐かしかった。会ったことのない声なのに、懐かしかった。
「来ました」とハルは言った。
「遠かっただろう」
「遠くなかった」とミナは言った。「来る前から、この場所を知っていた気がしたから」
老人はミナを見た。
「そうか」と言った。「覚えていてくれているか」
「覚えています」とミナは言った。「全部ではないけれど。大事なところは、覚えています」
老人は頷いた。深く、ゆっくりと。
「入れ」と言った。
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縁側から上がった。
古い家だったが、きれいだった。丁寧に使われている家の感触があった。
廊下を歩きながら、ハルは気づいた。
台所から、誰かがこちらを見ていた。
廊下の角から、顔が出ていた。
見た瞬間に、分かった。
分かった、というのは不思議な感覚だった。初めて見る顔だった。しかし知っている顔だった。どこで知っているか、説明できなかった。しかし知っていた。ずっと前から知っていた。
几帳面な字を書く人だ、とハルは思った。
「あなたが」とハルは言った。
廊下の角から出てきた人は、少し照れたように笑った。
「ミナだよ」と弥三郎が後ろから言った。
「ミナ?」
「今の巡りでそういう名前だ」
ハルはその人を見た。
ミナ、という名前が、その人に合っていた。几帳面な字を書く人が、ミナという名前を持っていることが、何か深いところで合点がいった。
隣のミナが、その人を見ていた。
「ミナ」とミナは言った。同じ名前を呼ぶように。
「同じ名前で申し訳ないけど」とその人は言った。「今の巡りでは、これが私の名前だから」
「同じ名前でいい」とミナは言った。「むしろ、そうかもしれないと思っていた」
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四人でテーブルを囲んだ。
弥三郎が茶を淹れた。几帳面な字のミナがひよごサブレを皿に並べた。
「直接渡せた」と弥三郎は言った。
「ありがとうございます」とミナは言った。
「毎月送り続けて、迷惑ではなかったか」と弥三郎は言った。
「迷惑じゃなかった」とハルは言った。「毎月、楽しみにしていた」
「楽しみに」と弥三郎は少し驚いたように言った。「そうか。楽しみにしてくれていたか」
「ひよごサブレが美味しいから」
「それは良かった」と弥三郎は言った。皺を深くして笑った。
几帳面な字のミナが言った。「ハルさんは、最初のメモで、普通の50円玉だって言っていたそうですね」
「弥三郎さんから聞いたんですか」
「聞いた」と弥三郎が言った。「あの子の手紙に書いてあった」
「あの子、というのは今のミナのことですか」とハルは言った。
「そうだ。ミナは手紙をよく書く。几帳面に」
几帳面な字のミナが少し笑った。
「前の巡りでも、書いていたと思う」とその人は言った。「書くことが好きで、消えないように書き留めることが好きで」
「今の巡りのミナも同じだ」とハルは言った。
隣のミナを見た。
ミナは少し赤くなった。「同じかどうかは分からない」
「同じだ」と几帳面な字のミナが言った。「会った瞬間に分かった。同じ人だと」
「同じ名前だから分かったんじゃないですか」とミナは言った。
「名前より前に分かった」とその人は言った。「廊下から顔を出した時に、分かった」
テーブルに、温かい茶があった。ひよごサブレがあった。四人がいた。
「一つだけ聞いてもいいですか」とミナは弥三郎に言った。
「何でも」
「なぜひよごサブレだったんですか」
弥三郎はひよごサブレを一枚手に取った。眺めた。
「初めてここへ来た年に、このお菓子を知った」と老人は言った。「食べた瞬間に、これだと思った」
「これだ、というのは」
「常火の味がした」と弥三郎は言った。「橙と金の、甘い味がした。だから、お前たちに届けるものは、これ以外にないと思った」
常火の味。
ハルはひよごサブレを口に入れた。
さくさくと。
甘かった。
甘くて、温かくて——言われてみれば、確かに橙と金の味がした。
「常火は」とハルは言った。「今でも燃えていますか」
弥三郎は頷いた。
「燃えている」と言った。「ここからは見えないが、燃えている。確かに燃えている」
「どうして分かるんですか」とミナは言った。
「消えたことがないから」と弥三郎は言った。「私が知っている限り、消えたことがない。だから、今も燃えていると思う」
「信じているんですね」
「信じている」と老人は言った。「それだけでいい」
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夕方まで、四人で話した。
常瀬の里のことを、弥三郎が少し話してくれた。
田畑のこと。川のこと。山のこと。奥宮のこと。
二人が聞きながら、少しずつ思い出すものがあった。全部ではなかった。しかし欠片のように、記憶が返ってきた。
ミナがノートを取り出した。
「書いていいですか」と弥三郎に聞いた。
「書け」と老人は言った。「書いておかなければ、なかったことになってしまう」
ミナは手を止めた。
「その言葉を」とミナは言った。「私も知っています」
「知っているだろう」と弥三郎は言った。「お前が言い続けてきた言葉だ」
几帳面な字のミナが言った。「前の巡りでも、その言葉を言っていたよ。いつも」
「そうですか」とミナは言った。
「変わらないね」とその人は言った。温かく。
ミナは几帳面な字で、書いた。
弥三郎が話してくれたことを。四人がテーブルを囲んでいることを。常火の味がするひよごサブレのことを。
書きながら、ミナは少し泣いていた。
泣きながら、書いていた。
前の巡りでも、泣きながら書いていたことがある気がした。
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夜の新幹線で帰った。
車内で、二人は並んで座った。
窓の外に、夜の景色が流れていた。
「良かった」とハルは言った。
「良かった」とミナは言った。
「弥三郎さんに会えて」
「会えて」
「もう一人のミナにも」
「もう一人のミナにも」とミナは言った。「あの人、几帳面だった」
「字の通りだった」
「字の通りだった」とミナは笑った。「顔を見た瞬間に分かった。この人が書いていた字だ、と」
「俺も分かった。廊下から顔を出した瞬間に」
「前の巡りで知っていた人だったから」
「前の巡りで知っていた人だったから」とハルは言った。
窓の外を、夜の景色が流れた。
「ミナ」とハルは言った。
「何」
「俺たちは、次の巡りでも会えると思う」
「思う」とミナは言った。
「今の巡りで選び続けているから」
「選び続けているから」とミナは言った。「毎日選んでいる。今日も選んでいる」
「俺も」
「うん」
「来月もひよごサブレが届くと思う」とハルは言った。
「届く」とミナは言った。「今度は弥三郎さんから直接もらってきたから、手元にある。でも来月のが届くことも、楽しみだ」
「楽しみだ」
「ひよごサブレが届くたびに」とミナは言った。「思い出すことがある。一枚食べるたびに、少し近づく気がする。前の巡りに。常火に」
「常火の味がするから」
「常火の味がするから」とミナは言った。
二人は並んで、窓の外を見た。
夜の景色が、流れていった。
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家に帰った。
テーブルの上の50円玉を、ハルが手に取った。
穴を覗いた。
見えた。
川だった。
月明かりを映した川だった。川沿いの土手が見えた。二人の人影が、並んで座っていた。
「ミナ」とハルは言った。
「何」
「川が見える」
ミナは50円玉を受け取った。
穴を覗いた。
「見える」とミナは言った。声が少し揺れた。「川が見える。土手に二人がいる」
「俺たちだ」とハルは言った。
「俺たちだ」とミナは言った。「前の巡りの」
「並んで座っている」
「水の流れを見ている」
二人はしばらく、代わる代わる穴を覗いた。
見えている間は、川があった。
月明かりがあった。
土手に二人がいた。
何を話しているか、聞こえなかった。
しかし話していた。
並んで、川の流れを見ながら、何かを話していた。
「何を話していると思う?」とミナは言った。
ハルは穴を覗いたまま、考えた。
「好きだ、と言っている気がする」とハルは言った。
ミナは50円玉を置いた。
ハルを見た。
「ハル」
「何」
「今の巡りの話も、していいですか」
「聞いている」
「好きだ、と言っていい?」
ハルはミナを見た。
「言っていい」と言った。「俺も言う」
「どちらが先に言う?」
「同時に言おう」
「同時に」
「うん」
「じゃあ」とミナは言った。
「じゃあ」とハルは言った。
「せーの」
「好きだ」と二人は言った。
同時に。
声が重なった。
50円玉が、テーブルの上で、かすかに光った気がした。
気のせいかもしれなかった。
しかし気のせいではないような気もした。
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それから、ひよごサブレは今日も届く。
月に一度、博多から。
差出人は弥三郎・H。
底のメモには、今月は何も書いていなかった。
白紙だった。
しかし二人には分かった。
白紙に書いてあることが。
書いていなくても、書いてあることが。
ミナはその白紙をノートに挟んだ。
几帳面な字で、ノートの端に一言書き添えた。
『何も書いていないけれど、全部書いてある。』
50円玉は今日もテーブルの端にある。
穴を上にして。
向こう側には、向こう側がある。
常火は今日も燃えている。
橙と金で、どこかで。
川は今日も流れている。
月明かりを映して、どこかで。
そしてひよごサブレは、今日も甘い。
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ひよごサブレからの通信 完
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