大人嫌い
大人は嫌いだ。すぐ酒に頼るし情けないしそのくせ汚い手ばかり使う。弱虫の意気地なしだ。そう、大人は嫌いだ。特にこいつみたいなヘラヘラした大人は!
きっかけは小さい頃、謝る父の姿を見たことだった。お父さんは家ではとても厳しい人で、僕がお父さんに何か相談事をすると決まって「そんなくだらないことで悩んでいるのか」だった。嫌だったけど、お父さんはとても強かった。強かったから仕方ないと思った。自分にも他人にも妥協しない姿勢に、むしろ憧れすら抱いていた。家にでかい虫が出た時も雷が鳴った時も動じず強くて、すごく頼りになるお父さんだった。そんなお父さんが、家族で遊園地に遊びに来ていた時にお父さんの上司という人とその家族に遭遇した。
その時の父の腰の低さったらなかった、普段の厳格な父からは想像もつかないほど、全身から汗をかいて愛想笑いをしながらペコペコ頭を下げていた。
そしてその日の夜、お父さんはありえない量のお酒を飲んで、勢いで怒鳴り散らし、お母さんに暴力を振るった。なんて情けない、カッコ悪いんだろうと思った。子供の僕にもわかるぐらい、今まで大きかった父さんの背が急に小さく見えた。
もしかして、みんなどこかで顔色を窺って生きてるんじゃないかしら。そう思って以来、周りの大人も信用ならなくなっていった。ホゴシャの顔色を伺う先生、お父さんやお父さんの方のおばあちゃんの顔色を伺う母。みんな縛られてばかりだ。僕は嫌だ。誰の顔色も伺わずに、自由に生きてやる!そんで、酒を飲める年齢になる前に死んでやる!
イトコのお兄さんが僕の家に引っ越してきたのは、そう決意した矢先だった。
身内の不幸があり、次の家が見つかるまでしばらく僕の家に身を寄せるのだという。
お兄さんは、金髪の癖っ毛を無理やり束ねたような変な髪型をしていた。しかも失敗して、ところどころ癖っ毛がはみ出ている。そしてとにかくよく喋る人だった。喋ってないと死ぬのかと思うぐらい、ずーっと喋っていた。「やーおはようございます今日もいい天気ですねえおっニュースやっとるやん今日の天気は晴れですってよよかったなあゆうとくん」こんな具合だ。静かな環境で考え事を好む僕にとっては、天敵でしかなかった。ただえさえ大人は嫌いだというのに、加えて中身のないペラペラなその感じが、上司相手にヘラヘラしている父の姿を思い出させ不快だった。でも、僕の大嫌いな酒を飲んでいるのは見たことがなかった。
ある日、お兄さんと僕とで留守番をすることになった。一瞬気まずい沈黙が流れる。普段お兄さんの喋り相手はお母さんやお父さんで、僕は話すのを嫌っていつも部屋にひっこんでしまうからである。しかしそれも0コンマ数秒で、お兄さんは即座に「ゲームせえへん?」と言ってきた。
「ゲーム?」
「そー。スマブラでええ?」
そう言いながらお兄さんは返事も待たずスイッチの電源コードをいじり始める。やはりコードが絡まってるとか充電あるかなとかブツブツ言っている。コードを刺すときに頭が傾いて、親の仇かと思うほど開けられたピアスがよく見えた。スマブラは苦手だけど子供相手だから流石に手加減するだろうという僕の希望的観測はあっけなく打ち砕かれた。お兄さんは…僕をドンキーでボコボコにした。
「ちょっと、大人気なくない」
「あ、もしかして接待してほしいタイプ?ごめんなあ、勝負になるとつい真剣になるねん」
煽りで言ってない様子なので余計に血が上る。
「僕がイライラしてるのぐらいわかんないの」
「あー俺昔っから人が何考えてるかとか、読むの苦手やねん。せやから相手が考えてること全部喋ってくれるように、俺も伝わるように思ってることは全部喋るようにしとる」
僕より何トーンも高い声で、お兄さんは言った。ほんとに数十分のことであった。両親はすぐ帰ってきた。
ある日、ほんの些細なきっかけで、僕とお父さんが喧嘩になったことがあった。
と言っても、酒に酔ったお父さんに僕が怒鳴られてるだけで、もはや喧嘩と呼べるようなものですらない。僕がどう返したって、お父さんは理不尽に自分が言いたいことを言い続けるのだ。
「お前この点数で受験どうするつもりだ。俺の時は通知表オール5なんて当たり前だったのに、なぜお前は取れないんだ?受験しないとなあ、いい大学に行けんし俺みたいにいい会社に就けんしいい暮らしができんぞ、お前には今のとこ何やらせても才能がないのだから、せめて勉強ぐらいは親孝行をだなあ」と言った調子だ。普段のお父さんは優しいんだから、これは酒のせいだ。やっぱり酒は嫌いだ。でもじっとしていたらいつか終わる……。いつもなら口を結んでやり過ごしていただろう。でもそこで突然、上司に頭を下げていた父親の姿を思い出した。こんな尊敬できない父親に怒られていることが納得できず、今日はつい思ったことを口にしてしまった。
「…別に、なりたないし」
「あ?」
急に父親の声が大きくなった。
「おい今何つった。」
まずいまずいまずいまずい、と思った。お父さんはバカにされるのが大嫌いだ。今の僕の一言で明らかに機嫌を損ねた。今までの経験上、これ以上言葉を続けたら僕かお母さんに暴力を振るうだろう。僕は何も言えなくなってしまった。長い沈黙が流れた。
「何つったって言ってんだよ。え、モッペン言ってみろ」
「おい、黙ってたって何も解決せんぞ」
すぐに謝ろう、と思った。今のは僕が機嫌を損ねることを言ったのが悪い。いつもそうしていた。今頭を下げたら僕も父親と同じになる。それは考えるだけで吐き気がするぐらい嫌なことだ。しかしやはり出てきたのはご機嫌を伺っている父の姿だ。そうだ。そもそも今までは尊敬してたから我慢できた。でも僕の「強くて尊敬できる」父親は死んでしまった。じゃあなぜ知らない人にこんな理不尽な目にあわなきゃいけない。悪いのは、僕に対する幻想を無情にも壊したこの人だ。僕は、復讐したかった。少しぐらい、日々思っている鬱憤を口に出してやりたかった。せめてもの反抗の意思で、自分が受けているストレスを伝えたかった。長年の癖のせいで、僕にとって言いたいことをいうのは天地がひっくり返るくらい勇気のいることだった。何度も何度も挑戦し、胃が煮え繰り返るような感覚を覚えながら、小さな声で、かろうじて絞り出した。
「お前も、ペコペコ頭下げとったくせに…」
言えた、という嬉しさで目から涙が溢れ出した。するとバチィン!と、目の前で大きい音が鳴った。僕の頬を打とうとした手を、別の手が止めていた。お兄さんの手だった。
「おじさん。それは、アカンですよ…」
お兄さんは、普段からは見たこともないような神妙な面持ちをしていた。
僕は次から次へと出てくる涙を堪えきれなかった。大粒の涙が頬をつたって、顎へと落ちていく。声を出さないよう頑張っていたけど、なぜかしゃくり声が出てくる。
「俺は他人やから、他人の家庭に口出しはできひんから、黙って見てたけど、手を挙げた瞬間それはもうアウトなんよ。一回落ち着いてください」
口の中がしょっぱくなった。僕は「余計なことすんなや!!!」と思った。いつもお父さんは、誰かに説教を止められるととりあえずその場は一旦止まる。でもその後誰もいない時に、止められたことまで僕のせいにしてもーーーーっと酷い言葉でずーーーーっと説教をするのだ。それをするから、お母さんもお父さんの説教を止めなくなったのだ。お兄さんが今したのは、僕の説教の時間を長くしただけだ。僕はそれに絶望して、泣いた。
でもお母さんとお兄さんが違うのは、ここからだった。
「すんません、ちょっとゆうとくん連れ出してええですか」
お母さんが小さく「え」といった。お父さんが「え?」という顔をした。僕も「え?」と思った。「行くで、ゆうとくん」と、お兄さんは僕の腕をぐいっと引っ張って、「1時間で戻ります!」と叫び玄関から出てってしまった。
冬に差し掛かった秋の夜空は、昼の秋晴れを引き継いでよく星が見えていた。
「よう星が見えるねえ」
住宅街を歩きながらお兄さんが言う。
僕は黙っていた。
今無理して喋ったら何かが決壊しそうだった。
「星座は好き?ゆうとくん」
前からわかっていた。
お兄さんは、あえて親の話題を避けてくれている。
それでも、それでも僕は身の上を聞いて欲しかった。
こんな人にと思いながらも、今受けた、今まで受けてきた理不尽を誰でもいいから聞いて欲しかった。
「…大人は、嫌いや、酒のむし殴るし、自分より強いやつにすぐペコペコする」
散々泣き散らかして嗚咽を交えて時間をかけながらも、おおよそこのようなことを言った。
僕が全て言い終わるのを待ってから、お兄さんは口を開いた。
「ゆうとくんには、大人がそう見えるか」
「見える!!嫌いや、嫌いやもう、自分がいずれああなるのも嫌や。だから、死ぬんや。酒飲める年齢になる前、20歳になる前に、嫌いな自分になる前に死ぬんや」
ああ、大人には絶対に言わないって決めてたのに。友達にしか言ってなかったのに。僕の人生計画を教えてしまった。僕の人生全て教えてしまった。
もう僕の顔は涙でぐしょぐしょだろう。お兄さんの反応が怖くて顔を見れなかった。でも、お兄さんの反応は意外なものだった。
「そうか、それも一つの手やなあ」
僕はすごく驚いて思わずお兄さんの顔を見た。親も先生も教科書も、「自殺はいけないことだ」と言っていたから。大人は全員いけないことだと思っていて、大人になる前に「そう教育」されるのだと思っていた。
「でもなあ、かっこいい大人にもなれるで」
「そうなの?」続けて出たまた意外な言葉に、思わず聞いてしまった。
「そうや。別に酒飲まなくても大人にはなれるし、他人にペコペコ頭さげんでも生きられる。お父さんがそういう生き方を選んだってだけの話や。もしゆうとくんがそれが嫌やっていうんなら、別の道を選んだらええ」
お兄さんは僕の方を向いて困り眉でこういった。「大人、嫌いなんやね」僕は、お兄さんの顔をただ見つめていた。お兄さんは、変な人だ。スマブラで勝つと煽るし、デリカシーはないし、酒も飲まない。年は大人なはずなのに、子供なのか大人なのかわからない。ただ一つ言えることは、お兄さんは、他の大人と違うかもしれない。人の顔色を読まずに、言いたいことを言える「強い人」なのかもしれない。すぐ酒に逃げるような、汚い大人ではないのかもしれない。
僕とお兄さんはきっかり一時間で帰ってきた。父親が僕が寝ている寝室に来た。先ほどより少し落ち着いたらしい。落ち着いたトーンで、僕がいかにできない人間かを穏やかに語ってきた。
僕はお兄さんと話した内容をずっと反芻していた。お兄さんと話したことが僕のお守りとなって暖かかった。布団をかぶってぎゅっと目と耳を塞いで、静かに泣きながら寝た。
この事件から、僕はお兄さんのことが大好きになった。
「お兄さんが外に出る」と聞けば喜んで着いて行った。放課後になると家に帰り、友達との約束がなければお兄さんを誘った。お兄さんとは虫取りをしたり宿題をしたり鬼ごっこをしたりした。家に帰るとお話をしてもらった。お兄さんが東京に用事があれば、着いて行ってお菓子を買ってもらったこともあった。渋谷に行ったときは、街並みに見惚れて上を向きながら歩いていると、危うく道に落ちてたゲロを踏みそうになりお兄さんが必死に止めてくれた。
12月。僕の生活におけるお兄さんの存在が当たり前となってきた頃、夕飯を食べてゲームをしていたら母からリビングに呼ばれた。
お兄さんは最近、ほとんど外に出なくなっていた。出ても近所を少し歩くだけで、暗くなる前には必ず帰ってきた。そのお兄さんが、散歩に出たまま戻らないのだという。「寒いから念のため探してきて」と言っていたが、やけにお母さんの声が硬いのが気になった。怪しい。とりあえずその場で返事をしてリビングを出た。玄関に向かうフリをしてこっそりドアに聞き耳を立てていると、お母さんたちが話している声が聞こえてきた。やっぱりそれだけじゃないようだ。
お兄さんが家出したのは、最近お兄さんの身に起こったことが原因で、それでお兄さんは辛くて家出したんじゃないかとのことだ。内容は難しくてよくわからなかったが、とにかくお兄さんの身に何か悲しいことが起こったようだ。
僕に黙ってたなんて、やっぱり大人は信用ならない!信じられるのは、友達とお兄さんだけだ。早く迎えにいってあげよう。
僕の家を出て、左に曲がり、大きな木の前で右に曲がり、まっすぐ進んで料理屋さんとバレエ教室の前を通り過ぎ、信号を越えると公園が見える。クリスマスも目前という季節で、非常に冷え込んで寒い。上を見上げると、満天の星空とは行かないまでも、オリオン座が綺麗に見えた。お兄さんを見つけたら話しながら歩こう。時間があったら新しい星座を作ってもらおう。あとは何を話そうかな…。門限を過ぎた外出ということもあり、僕はいやにワクワクしていた。早まる足に合わせて白い息がはっ、はっと漏れ出る。公園に着くと、ベンチにお兄さんの姿を見つけた。暗がりでよく見えない。お兄さんを見つけたことが嬉しくて、僕はお兄さんの元へ駆け寄った。「お兄…」
お兄さんは、酔い潰れていた。街灯一本残してあとは真っ暗な公園のベンチに、大量の缶ビールとビニール袋を散乱させ、酔い潰れていた。全身を脱力させ頭は下を向き、じっと動かない。
「お兄さん…!」
ぱっと見生きてるかわからないその様態に慌てて駆け寄り、様子を確認する。肩を上下させているから、生きてはいた。ほっとするとともに、時間差で「お兄さんがお酒を飲んだ」と言う事実が僕に襲いかかった。いつから?僕に内緒で?それとも今日が初めて?お父さんとは飲んだの?視界が揺れる。吸っていたはずの息が急に冷たく喉を通り過ぎるように感じられた。動悸が早まる。なんで僕は苦しいんだろうか。側から見たら取るにたりないことなのに。自分で自分の感情をうまく処理できなくなってきた。これ以上この場にいると涙が出そうだ。
…あのとき、お兄さんはほんとはどう思ってたの?
もう帰ろう。そう思って踵を返した瞬間、声をかけられた。
「…お〜〜〜い….」
無視しよう、と思った。なんだか今日はお兄さんとうまく会話できる気がしない。
けれど、冷静に考えた。この寒空の下の酔っぱらいである。人は酔っていると判断力が低下し動きが鈍る危ない状態になるという。このままお兄さんを放置して、あとで犯罪にあったとか凍え死んだとかで死体になって見つかったらどうしよう。しかも、お兄さんを探しに出かけたのに、親になんて報告すればいい?「いなかったよ」なんて大嘘ついて後日お兄さんが死体で見つかったり、いわんや「声をかけたけど、無視された」とかあとで言われたら大目玉どころでは済まない。戻りたくはないけど、戻る必要はあった。
「…」
僕はなるべくムッとした顔をしてお兄さんの元に歩み寄った。
「ぁあ…ゆうとくん。ちょうどいい、悪いけどお母さんに今日はもう帰れないって伝えてくれないかな…。」
今までのお兄さんからは想像もできないほど低い声だった。
なんで僕が門限をとっくに過ぎた時間に外にいるのか、なんでお兄さんの元にいるのか、怪しまないほどお兄さんは酔っているようだった。近くに寄ったお兄さんは、暗がりでもわかるぐらい耳まで真っ赤で、金魚のような姿をしていた。虚な目が、闇の奥深くを覗きこまされるようで余計魚のようだった。僕は返事をしたくなくて、沈黙で返した。
「…自分で、お昼までには帰るからさ…」
かろうじて、怨嗟のような一言を絞り出した。
「…なんで、酒、なんて、飲んでるの。」
話が噛み合わないと感じたのか、お兄さんはポカンとした目で僕を見た。
全力で、僕の考えていることを読もうとしてるようだった。
「ゆうとくん…君が今、何を考えてるかわからないけど…」
お兄さんが姿勢を変えて、髪がだらりと下がった。
「俺の予想が合ってたら、それは…勘違い…だよ…」
よりによって、考えていることを読まれた上に一番言われたくないことを言おうとしていることがわかった。
待ってくれ。聞きたくない。嫌だ。嫌だ。
「待って」
「俺は、大人だよ…」




