06. イブニの秘密
一応警戒していたが、ギークの駅に男たちは現れなかった。
アームストロング号が出発し、勤務を終えた僕は仮眠室で新聞を広げた。
駅の二階の奥にある仮眠室は、二台の二段ベッドが押しこめられた手狭な部屋だ。アームストロング号の仕様上、夜勤が基本の職場に必要不可欠な部屋なのだけれど、蜂が巣を作っているせいで、誰も寄りつかない。
蜂は今日も左のベッドの上段で大いびきをかいているが、慣れてしまえば起きている時より無害だし、他に誰も来ないのが良い。少々都合の悪い物を置く場所としては最適だ。というわけで、僕は右のベッドの下段を占有し、本と新聞でできた僕専用の玉座に作り替えている。
もはや尻一つ分しかスペースのない玉座に腰かけ、新聞をめくる。月末に札束から指を離そうとない親方との激闘を制して手に入れる給金を、僕は主に新聞の購読料と貯金に充てている。
今日の一面は、「月の石」盗難の記事だった。遥かな昔、月からこの星に落ちてきた隕石が、展示されていたカリオペ州の博物館から盗み出された。「木星」騎士団は犯人と目される盗賊団を追跡中―――と。
僕に言わせれば、石ころごときに、何の価値があるのかさっぱりだ。生まれた場所がそんなに重要なのだろうか。月に住む宇宙人がいたら、この街の何てことない石ころに宝石より高い価値をつけるのか? くだらない。
くだらない、か。
ただの感想のはずの言葉が頭の中で強く瞬き、今朝の出来事に意識が飛んだ。
———肌の手入れなんてくだらないことしなくても、お前は十分に可愛い子だよ。そんなことより、道具の手入れの仕方を教えるから来なさい。
「あの……」
「——————!」
危うく叫びそうになった。いつの間にかドアが開き、誰かが部屋の入り口に立っている。物思いにふけっていたせいで、ドアが開く音に気づかなかった。
いや、この状況はまずい。親方は人の気配に非常に敏感で、寝ている時にうっかり近づこうものなら飛び起きて、「俺の眠りを邪魔しやがって!」と難癖をつけだす。僕が見逃されているのも、給金二か月カットで交渉したからに過ぎない。
だが、僕が忠告するより先に、人影———イブニが手にした紙片を見つめ、浮かない顔で口を開いた。
「あの、親方。今までずっと黙っていたんですけど、やっぱり俺には買い出しとか無理です。俺、本当は字が読めなくて……」
「え……」
うっかり声を漏らすと、イブニがはっとこちらを見た。本と新聞に埋もれた僕に気づいていなかったらしい。
ぐしゃりという音がした。イブニが手にしていた紙片を握り潰したのだ。気まずい沈黙が流れる。イブニは紙片と一緒に己も潰れたいとでも言いたげな顔で拳を震わせていた。
「俺、その、字が読めないんだ」
放り投げるように、イブニは言った。
「学校とか行ったことないんだ。行けなかったから」
「————————————」
一瞬、僕は言葉を失った。その間をどう捉えたのか、イブニのぐにゃぐにゃの唇が、「自嘲」の形をとろうとする。
見ていられない、と思った。僕はつかつかと歩み寄り、丸めた新聞紙でイブニの頭をはたいた。
「あーのーね。字が読めないから何だよ」
イブニがはっきりと顔を強張らせ、僕を見上げた。
「デュフーリ」での、ネリネとの奇妙なやり取りに得心がいった。ネリネは紙の中身を読み上げることで、文字の読めないイブニの買い物を手伝ってやっていたのだろう。
「お前には分からない! 普通に生きてきたお前には、文字を読めることがどんなに恵まれていて、幸せなことなのか!」
突然、イブニが爆発したように怒鳴った。
「その幸せを持っていないことが、どれだけ不幸で恥ずかしいか! だいたいてめえは———」
「うるさいぞ、アスターと……誰だ! 俺の眠りを邪魔しやがって!」
目を覚ました親方に怒鳴られ、イブニは我に返ったようだった。狼狽したように、僕と身を起こしてこちらを睨む親方を交互に見比べる。「すみません」と言いかけたイブニを、僕は手で制した。
「親方———。イブニが文字読めなくて困ってるんだって」
イブニが凍りついたのが分かった。のしのしと梯子を降りる親方が、はんっと鼻を鳴らす。
「カラルクめ。面倒なのを押し付けやがって! だが、お前が字の読めない無能なことくらい一日目から分かってたさ。少し話せば、天才の俺は見抜いて」
親方の言葉が止まる。親方の最低な自慢が終わる前に、イブニが走り去ってしまったのだ。
ドアが荒々しく閉まる音が、耳の奥で何度もこだまする。僕は親方を睨んだ。
「あーあ。あんたのせいだ」
「天才の俺が何であいつの心情を慮らなきゃならん」
「あんたはイブニの保護者でしょ。文字読めないの知ってたなら、何で声かけてやらないんだよ。あいつ、文字読めないの恥ずかしいって、不幸だって言ってたけど」
「俺があいつの保護者だと⁉ バカも大概にしろ。あいつが同じ家に住み着いているだけだ」
「屁理屈だっさ」
呆れてものも言えないとはこのことだ。親方だけでなく、親方の家をイブニの居候先に選んだカラルクもだ。なんてふがいない大人たちだろう。
「勉強の面倒の一つも見ないなら、何で引き取ったの」
僕が問うと、親方は口をへの字に曲げてそっぽを向いた。言いたくない、か。大人のくせに拗ねた子供みたいな態度を取るとかダサ。どす黒い感情がふつふつと湧き上がってくる。
「文字が読めないのを不幸だと嘆くなら、学べばいいだろ。自分でできることだ」
親方の言っていることは正しい。が、僕は堪忍袋の緒が切れた。
「言い出せないことだってあるだろ! やり方が分からないってこともあるだろ! 大人だったら察せよ!」
部屋が揺れるほどの大声が出た。ネズミが転がり出てきて、部屋の隅を駆け抜ける。
見損なった。今朝の件といい、やっぱり大人ってダメだ。
僕は荒々しくベッドの古新聞を掻き分け、一冊の本を引っ張り出した。表紙がよれ、ページの端が黒くなったそれを見つめる。
仮眠室の擦り減った蝋燭の火が翻るたび、シーツの上に散らかる本や古新聞の影が揺れた。
「……こっちにしろ」
にゅっと親方の腕が伸びてきて、僕の腕に別の本を積み上げた。
「置いておいてやったのに気づかん。察することもできないバカなのか?」
「…………」
僕は黙って自分の本をベッドに戻し、親方の横をすり抜けた。
その後駅中を探し回ったけれど、イブニは見つからなかった。
駅を出て、イブニがよく使う通勤路を辿ってもみたけれど、こちらも空振り。細い背中を見つけられないまま、街外れの二人の家に着いてしまった。家の窓に明かりは灯っていなくて、イブニが戻っているかは分からない。
夜更けにドアを叩くことは流石に躊躇われる。明日渡そう、と、僕は踵を返した。
紅茶に入れた角砂糖みたいに、月がやわやわと雲の中に溶けていく。微かな星明りを頼りに、僕は帰路についた。




