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19. 悪夢

 翌朝、駅に出勤した僕を待ち構えていたのは、朝日を浴びて燦然と輝くアームストロング号だった。目を丸くして列車を見上げる先輩たちの中にイブニの姿を見つける。イブニも僕に気づいて、興奮気味に駆け寄ってきた。


「やっぱり親方は良い人だな」

「お前の良い人判定緩すぎ。あの人、ギリギリまで僕らを手伝わなかったじゃん。親方判定は受ける前に失格」


 イブニがふっと笑った。


「アスター、嬉しそうだな?」

「親方がようやく仕事したからね。アームストロング号の評判が落ちるかとひやひやしたよ。で、元凶は何してんの?」

「疲れたから昼まで寝るそうだ。俺のせいで朝までベッドに戻れなかったと大層怒っていてな。今日は俺の方が家に入れてもらえないかもしれない」

「やっぱあの人ダメだわ。今度から親方じゃなくて、不精髭ネズミって呼ばなきゃ」


 こらえきれなかったように、イブニが吹きだした。


「不精髭ネズミは親方に合わなくなるだろうな。今朝、剃刀をどこにやったか聞かれたんだ。あと、アイロンかけとけってシャツを渡された」

「やらなくていいからね。自分でやれって投げ返しなよ」

「アイロンはくらいかける。いつもお世話になっているからな」

「良い奴すぎ。僕はお前の将来が心配だよ」

「心配してくれてありがとう」



「僕はお前の将来が心配だよ……」


 メルポメネ家から派遣されてきた、当日の準備を担当する召使たちを手伝った後、僕らは一旦家に帰り、礼服に着替えた。そして、時計台のある広場で合流し、一緒に駅へ行く予定だったのだが……。

 僕より早く来ていたイブニを一目見た僕の感想がこれである。


「朝も同じことを言われたな。心配してくれてありがとう」

「お礼言ってる場合じゃないよ! ちゃんとした服買えって言ったじゃん!」


 イブニの本日のファッションを紹介しよう。汗で黄ばんだ夏服の上下に、親方からのおさがりらしき服としての寿命を終えて死に体のジャケット。ダメ押しは「どこか変か?」という無垢な疑問を貼りつけた顔。デートの待ち合わせ場所で、この格好の恋人を見つけたら、僕なら問答無用で帰る。


 結婚式でネリネと二人きりになれと焚きつけただけに、僕は頭を抱えた。この格好の男と連れたって行動するとか、流石にネリネが哀れだ。


「たしかに僕らは高給取りじゃないけどさ、新しいシャツの一枚も買えないほど金に困ってもないでしょ。何で買ってないの」


 きつめに詰問すると、イブニは頑なな顔になってそっぽを向いた。嫌なひらめき。


「お前、物乞いたちに給金ばら撒いたでしょ」


 無言の腹の探り合い。親方相手に経験を積んだ僕に敗北などなく、押し負けたイブニが渋々と口を開いた。


「…………欲しいと言われたらしょうがないだろ。金に執着したら不幸になる」

「必要なものを買うための金に執着するのは当たり前でしょ。お前、仮にネリネと結婚できたとして、ネリネが服を買う金も、見ず知らずの奴らにあげるわけ? いくらあいつでも愛想つかすよ」


 きっぱりと言ってやると、イブニは「それは」と言ったきり黙りこんだ。


「とにかく、その服でエスコートなんてしようものなら、ソニアは二度とお前と妹を近づけないだろうね。……僕の服を貸すから、ウチ来て」


 僕はイブニを急きたてて、出たばかりの家に戻った。「行くのはやめたのかい」と出迎えてきた父親は無視。部屋に飛びこんで、クローゼットを漁り、次々と服をイブニにあてがう。グレーのシャツに、細めのタイ、カーキのジャケット。


「うーん、これもぶかぶかだね……」


 問題はパンツだった。僕もスタイルは良いと自負しているが、イブニは僕に輪をかけて痩せていて、何を着せても腰からずり落ちる。親方はこいつにちゃんと食べさせているんだろうか。


「これを使うといい」

 顔を上げると、いつの間にか父親が部屋に入ってきていた。


 両親にノックを求めるのはとうに諦めているけれど、自分の領域に無断で入られるのはやはり不快だ。顔をしかめる僕をよそに、父親はしっとりと光沢を放つ革のベルトをイブニに手渡した。


「うん、よく似合っている。流石、アスターはセンスがいい」


 無事にパンツがずり落ちなくなったイブニを眺め、父親は上機嫌に笑った。

 結婚式に行くなと言っていた人間と同一人物とは思えない姿に、僕は大いに驚いていた。


「貸してくれていいの? このベルト、お気に入りだよね」

「いいさ。愛息子が珍しく同性の友達を作ったんだから、大事にしないとな」


 父がさらりと言った言葉に、心臓が跳ねる。「イブニ君」と父が呼びかけた。


「アスターは同性の友達がなかなかできなくてね。親として心配していたんだ。これからも仲良くしてやってほしい」


 僕は呆気に取られた。同世代の男から受けが悪くて友達がいないのは事実だけど、父親に把握されているとは思ってもいなかった。僕は急に、父親の顔をまともに見れなくなった。


「ありがとうございます」


 礼を言うイブニが、父親の格好に目を留めた。父親の本日のファッションはタンクトップに半ズボン。家限定の礼服である。


「アスターのお父さんは結婚式に行かないんですか?」

「行かないよ」


 父親の口元が引き攣った。愛息子の珍しい同性の友達に大人げない。不可思議な高揚感はあっさりと弾け、いつもの諦観が胸を覆うのが分かった。


「それは駅が嫌いだからですか?」

「それもあるけれど、君には関係ない。さっさと行っておいで」


 笑顔を保ってはいるが、父親の声には苛立ちが滲み始めている。対するイブニはと言えば、妙に澄んだワインレッドの瞳で、僕ら親子を交互に見比べている。


 こいつにこのまま喋らせて大丈夫なのか?


 僕がそう思ったのは、恥を晒すであろう父親ではなく、イブニに対してだった。

 そして、嫌な予感はすぐに現実のものとなる。


「あの、結婚式に来てくれませんか。カラルクさんは俺の恩人なんです。それに」

「やめて」


 僕の言葉は届かず、イブニは勢いごんでさらに言い募る。


「それに、アスターが大切にしているものを見てくれませんか。俺はこの街に来たばかりで、皆さんの事情は全然知りません。だけど、アスターがあの列車と駅を好きなことは知っています。どうか、俺たちが働く駅を、アームストロング号を見てくれませんか。きっと良さを分かっていただけると思います」


 ――――――アスター、無事で本当に良かった。


 あの夢、どくん、どくんと跳ねる心臓に内から圧迫される悪夢が蘇る。あの夢と同じように、心臓が膨張する。両手が汗でぬるぬるだ。父親が振り返る。カマキリの卵みたいな、皺が奇妙に引きのばされた顔。


「そうなのか。アスター」


 卵が破れ、無機質な目が現れる。カマキリの鎌が、迂闊だった僕の首に振り上げられる。


「駅で働いてるのは、親方さんへの恩を返すために仕方なく、ではないのか」


 白い糸みたいな唾液を引いて、ゆっくりと尋ねる父親を前に、僕は立ちすくんでいた。

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