11. 女神と旅
僕は親方の怒り虫を宥めるのを早々に諦めた。
別に怒った親方が怖いわけではない。親方という人は見かけが大人なだけで、中身は愛嬌がない赤ん坊である。要するに救いようがないわけだが、故に怖くはない。
しかし、駅で働く者たちは、この赤ん坊に仕事の振り分けを握られている。それは僕も例外ではないから、今日だけは親方の機嫌を損ねたくなかった。
「おや、アスター。しばらくぶりだね」
「ミザリーおばちゃん」
駅舎の一階に降りると、柱の前に佇んでいたミザリーおばちゃんに声をかけられた。
おばちゃんとは春の逃走劇ぶりだった。「あの時はありがとう」と礼を述べると、「いいけど、無事なら無事な顔くらい見せにきなよ」と小言が返ってきた。肩をすくめる。
「おばちゃんのその格好久しぶりに見たかも」
「まったく暑いったらないよ」
ぼやくおばちゃんの頭は、黒い球体ですっぽりと覆われている。声をかけられなかったら、おばちゃんだと分からなかっただろう。この謎の球体も、風船みたいなスカートが印象的な長袖のドレスも、夏の装いとしては不適格だ。
「私としては思い切って変えたいんだけど、うちは伝統にうるさくってね。この衣装も当分現役だろうね」
おばちゃんは街のチャクト・ベルで働く聖号者だ。女神さまを奉じるチャクト・ベルでは、街で生まれた赤子の改名の儀や死者の葬送の儀、発現した魔法の登録なんかをしている。
「おばちゃん、今夜の便に乗るの?」
「そうさ。ガンバラで祭事の手伝いを頼まれててね。まったく、いい時代になったものだよ。昔は旅に出るといったら、一生帰ってこれないかも、なんて行く側も送る側も思ったものさね。だけど、この列車のおかげで、旅に出るのに大げさな決意も勇気も必要なくなった。全ての人にとって旅が身近になったのさ。アームストロング号は、まさに女神のご意志の具現だね」
「親方そこまで考えてないと思うよ」
思わずそう言うと、「相変わらず素直じゃないねえ」と言われた。僕はいつでも素直に親方に呆れているんだけどな。
「女神さまも旅が好きなの?」
僕の質問に、おばちゃんはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに大きく頷いた。
「そもそも我らが女神さまは、いにしえの聖なる旅を守護したことで尊敬を集めたお方さね。よく呪文で我ら楽土求めたり、と唱えるだろう? この呪文は女神さまの祝福を一番もらえる言葉なんだ。女神さまは楽園を目指す人と、その人の旅を祝福してくださるお方なのさ」
「へえ、そうなんだね」
饒舌に語るおばちゃんに調子を合わせる。僕は旅と女神さまを結びつけてありがたがるつもりはないけれど、数時間後から始まる特別な一日に、女神さまが加護をくれるなら悪い気はしない。
今夜、僕は初めて正式に街の外に出る。
荷量が増えすぎて、ガンバラでの積み下ろしが定刻内に終わりそうにないから、応援要員として乗れと命じられた時といったら、飛び上がりそうなほど嬉しかった。両親は渋い顔をしたけれど、父親から手ほどきを受ける時間を作ることを条件に、何とか了承を取りつけた。
正式にと但し書きをつけたのは、春に無賃乗車をやらかしたからである。今回も無賃乗車仲間のイブニは一緒だ。僕らは明日お休みを貰って、一日マリルーネの街を観光する約束をしている。こちらも初めての体験で、非常に楽しみだった。
「ほら、ここにも女神様のお言葉が書いてあるだろう」
おばちゃんが柱に刻まれた文字を示した。駅の石柱やアーチには、駅賛成派の職人たちの手で旅の安全を祈る言葉が刻まれ、模様のようになっている。職人たちの力作は、触れるとご利益がある、と妙にありがたがられている。
「ボン・ヴォヤージュ。聖典の祈りの文句で、良い旅を、という意味さ」
「ボン・ヴォヤージュ……」
教えてもらった言葉を舌で転がす。いい言葉だな、と思った。
「おばちゃん、アームストロング号での旅を楽しんでね。ボン・ヴォヤージュ」
「おっ、発音もバッチリさね。ありがとう、アスター。あんたに女神の祝福があらんことを」
黒の球体に覆われて見えないおばちゃんの口元が、弧を描いた気がした。




