08. ネリネという人間の生態
駅に着いた僕らを迎えたのは、疲れ切った先輩たちの顔だった。少し前にカラルクが来訪したために、親方蜂はご機嫌ななめらしい。
「そういうわけだから、ネリネちゃんには今日は帰りなって言ったんだけど、アームストロング号が見たいってホームに行っちまったよ。ちょうど、格納庫から出したところだったしな」
ソニアが微笑んで教えてくれたことへの礼を述べると、先輩はだらしなく相好を崩した。そいつ、猫かぶっているだけだよ。
ホームに向かうと、ネリネはベンチに座って、線路の上のアームストロング号をぼうっと眺めていた。時折俯いて手を動かしている。どうやらお下手の絵を描いているらしかった。
不意にその手が止まる。太い指がふらりと横に伸び、傍らのインク瓶をつまみあげた。そのまま、ネリネは瓶を口元に運び、おもむろに中身をあおった。
「ネリネさん!」
イブニが悲痛な声を上げた。ようやく僕らに気づいたネリネが振り返る。インクが涎のように唇の端から伝う顔が、何とも間抜けだった。
「イブニさんにお姉ちゃん……アスターお兄ちゃんまで⁉ どうしたのお⁉」
赤くなった頬に手をあて、わたわたしだすネリネは至っていつもの調子だ。呆気にとられた様子のイブニに、僕はちょっぴり愉快な気持ちになった。
「あれは初見ビビるよね」
ネリネの人差し指が、陽光を反射してきらりと光った。その先端からインクが滴っている。
ネリネ・デュフーリの魔法は、「万年筆」の再現魔法だ。人差し指の第二関節から先をペン先に変えることができる。しかし、肝心のインクは魔法で再現できず、インクを外部から補給しなければ、何も書くことができない。自他ともに認める、本物の万年筆を使った方が手っ取り早い魔法である。
だが、使い手と同じくちんちくりんな「万年筆」の魔法は、外部の魔法学者には物珍しく映ったようで、外の街で学校に通っていた頃は、弟子にならないかとよく声をかけられていたらしい。当の本人は「私、そんな大それた者では……」とか言って、こうした誘いを全て断ってしまい、魔法は趣味の絵を描く時にしか使わない。
「見本を一つ忘れていったでしょう。届けに来たの」
ソニアがバスケットからビスケットの入った小袋を取り出した。ネリネは目をぱちくりさせ、「あー……」と小袋を見る。
「せっかくあなたが考案したんだから見せないと」
「でも……でも」
「なあに?」
「下手かなあって……」
「デュフーリ」の跡取りとして修行中のネリネだが、成果は芳しくない。頼りなさすぎる跡取りに、ネリネの両親は「学者先生について行ってくれてたらねえ」と口では言いつつ、やはり娘が継いでくれるのは満更でもないのか、辛抱強くネリネの指導を続けている。娘の失敗作まで格安で売り出すものだから、親バカで商売人である。失敗作は大抵僕ら駅員の口に入り、胃とシフトに穴をあけていく。
「下手じゃないわ。花の形が可愛い」
「えっと…………」
「え?」
「二つ………。ハート二つがキスしてるの」
妹バカのソニアが珍しく言葉に詰まった。
「結婚式らしくていいと思うわ。さすが私の妹ね」
「ありがとお。お姉ちゃんの妹だったおかげだよ」
ネリネがにっこり笑うと、ソニアは感極まったように目を潤ませた。何かと美人の姉と比べられて嗤われているネリネだけれど、姉妹仲は大変に良い。
「ハート二つがキスしてるなんて、凄い発想だな」
「ありがとお」
僕の上辺だけの賛辞に、ネリネはたちまち赤くなった。
ウザい。
ネリネ・デュフーリ。ズレていて、のろまで、この街で最も侮られている女の子。僕は他の奴らのように、表立って彼女をバカにはしない。だけど、それは弱い者虐めをしていると思われたくないだけだ。永世独立花畑に生きている彼女のことが、本当はウザくてウザくて仕方ない。
ネリネの天道虫みたいに小さな目が、ずっと黙っているイブニを向いた。
「イブニさん、元気ない? どうしたのお?」
ああ、ウザい……。
いつもは空気読めないくせに、何なら自分がバカにされていることすら気づいていないくせに、どうして付き合いの浅いイブニが落ちこんでいることは見抜くんだ。
「ネリネさん……」
ホームのガラスドームから強烈な陽の光が入ってくる。イブニは夏が似合わない男だ。眩しい光の下に引き出されると、青い空に蒸発してしまいそう。落ちこんで萎れていたらなおさら。
「その……」
イブニはぼそぼそと、道中で聞いた噂話について話した。
「…………」
話を聞き終えたネリネはしばらく黙っていた。こいつは人の話を飲みこむのに、いちいち時間がかかる。
「……ついてなかったねえ、イブニさん」
数分後、ネリネは穏やかに笑ってそう言った。
「ついてない?」
「うん」
ネリネはスケッチブックをめくり、人差し指をまっさらな紙に滑らせた。
「あの道をね、今頃、駅から引き返したカラルクさんが通っているのお」
金色のペン先に変じた指が、二本の線を引く。その中央に三角形を背負った棒人間が出現した。カラルクさん、と棒人間の上にネリネが書く。この三角形はマントか。
「おばさまたちに気づいたらね、こんにちは、いい天気ですねって、きっと声をかける。おばさまたちは、カラルクさんの爽やかな笑顔に見とれて、いいもの見たなって思って、お店に帰ろうとするの」
道らしき二本の線の傍らに、直立不動の棒人間が増殖する。
「ありうるわね。あの人たち、顔の良い男にすぐころっといくんだもの」
貸して、とソニアがスケッチブックを取り上げ、どこからか取り出したペンで、棒人間たちの頭の上に大量のハートを描いた。
「それでねえ、カラルクさんは結婚式来てくださいね、って言うの。おばさまたちはもちろんよ、って返すの。それで結婚式の日、おばさまたちは、幸せそうなカラルクさんを見てね、お幸せにって言ってあげるの」
ソニアからスケッチブックを返してもらい、ネリネはまたページをめくった。ミミズがのたうち回ったような線でアームストロング号が描かれている。何だこれは。さっきまで描いていたものだろうか。本物のカッコよさを一割も表現できていないじゃないか。
ネリネがまた人差し指を走らせる。棒人間集団が、描きかけの列車の周りに出現する。
「今日はあれだったけど、結婚式の日は素敵なおばさまたちが見れるよ、きっと」
明日はきっと晴れるよ、くらいの気楽さで、ネリネは言った。
僕は苛立ちを必死に顔に出さないようにしていた。こいつは本当に僕と同じ街で生まれ育ったのか? この街の大人たちを見て、どうしてそんなお花畑な結論に至るんだ?
大人たちが天気くらい簡単に変わってくれるなら、どんなに楽だろう。
「そうはならないと思うが……」
流石のイブニも反応に困っているようだった。
「……そお?」
ネリネはうーんと唸り、唐突に言い放った。
「私は、カラルクさん好きだよ」
……僕はダンゴムシにならんとしたイブニを必死に支えた。ソニアが目を剥く。
「ね、ネリネ……。カラルクはもうすぐ結婚するのよ」
「奥さんを大切にしていそうなところ、素敵だなって……」
僕らの反応を前にしても、ネリネはいつもの調子を崩さず、「だからねえ、イブニさん」と、どんどん身体が丸まるイブニに呼びかける。
「大丈夫。カラルクさんを好きな人はここにいるよお。もし、おばさまたちが言わなくても、私たちがお幸せにって言ってあげようねえ」
イブニがはっと顔を上げた。
「安心できたかなあ?」
蝉の合唱がわーんと僕らを取り囲む。眩しい光が滑る線路を背に、ネリネは慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。吸い寄せられるように、イブニが背筋を伸ばす。
「ネリネさん」
夏の熱に憑りつかれたように、イブニは蝉に負けじと声を張り上げた。
「ネリネさん、俺は君が好きだ」




