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この世界には神殿と修道院が存在している。貴族の令嬢が修道院に入るとなったら、この乙女ゲームの世界の価値観では、色恋沙汰とサヨナラして、終生独身で通すのですね、ということになる。
対して神殿は、成就させたい願いのために、籠ることが許されていた。祈りを捧げる期間は、神に心を捧げる期間でもある。よってヒロインが登場したら、私は神殿に籠り、断罪を回避するつもりだった。
そして神殿に籠っている期間。男女の秘め事は許されない。
既婚者でも恋人がいても、神殿でお籠りはできる。ただ神殿に籠ると決めたら、男女の営みはダメですよーということだった。
その神殿に籠るだが、例えば私のような学校を卒業した令嬢。世間的には花嫁修業中ということで、時間に余裕がある。よって神殿に籠りやすい。でも私の場合は違う。何せ今は王太子妃教育があるからだ。ただ、私のようなパターンは多いと思う。日中は宮殿で事務官として職務を遂行する必要がある……なんてざらだ。そう言った人たちのニーズに応えたのが、神殿との誓約だった。
神殿に一度赴き、そこで祈りを捧げる。そして神に対して誓約を行うのだ。具体的に今日からいつまでを祈りの期間にします、その間は毎日祈りを捧げますと。祈りを捧げる場所は、どこでも構わない。神殿と誓約を交わしているのだから、大切なことは「毎日祈ること」と「清らかな体でいなさいよ」ということだ。
さらに神殿と誓約中であると分かるように、授けられるものがある。ゴールドの鎖に、神殿の装飾にも使われているラピスラズリがあしらわれているブレスレット。これをつけることで「あ、神殿と誓約されているのですね。未婚であれば、しばらく色恋沙汰は禁止。既婚であれば、旦那様とはプラトニックラブでしばし過ごすわけですね」と分かってくれるということ。
さらに言えば、神殿との誓約を守らなければ、当然だが、祈りはかなわない。さらにもし神殿との誓約を途中で破った場合。ここだけはこの乙女ゲームで唯一の怖い仕組みだと思うのだけど……。ブレスレットをつけている手首を剣で……落とされるのだ。
つまりそうならないように、それだけ真剣に向き合いなさいということ。
今、私の左手首には、そのブレスレットがある。言うまでもない。これは魔除けならぬ、ドルフ第一王子除けだ。さすがにドルフ第一王子も神殿と誓約のことは知っている。神出鬼没で現れた時。すぐにこのブレスレットに気が付き、その時の彼の顔は……。
申し訳ないと思う。
かつての推しであるドルフ第一王子が、あんな表情をしたのは、ゲームでも、この世界でも初めてのことだった。
血色のいい唇をきゅっと噛みしめ、湖のような碧い瞳を細め、頬をほんのりローズ色で染めたのだ。少しの羞恥。悔しさと怒り。なんとも名状しがたい表情だ。そしてその表情は、なぜかとても美しく感じてしまった。
あの時のドルフ第一王子は、その何とも言えない表情をした後、そのまま私の前から消えた。でも二週間後、また姿を見せる。もしや私の左手首が消えることを希望しているのかしら!?と思ってしまった。ただ、さすがにそれはないようだ。代わりに私を抱き寄せ、耳元でとんでもない一言を囁く。それを聞いた私に、ドルフ第一王子はどやされる……ということが繰り返されていた。
ちなみに私が神殿と誓約することになったきっかけは、まさに今から一年前に遡る。
一年前の私は、通っていた学園を卒業したばかりで、前日に誕生日を迎え、十八歳になっていた。十八歳になった私が思ったこと。それは、ヒロインの登場まで、あと二年しかない……だった。この時はまだ、ドルフ第一王子の恐るべき裏設定は表に出ていない。ゆえに婚約をしてから三年。推しを愛でた美しい思い出の三年でもあった。
ちなみにドルフ第一王子は二十歳で立太子し、王太子となることが決まっていた。私との結婚は彼が二十一歳になってからと決められている。ゆえに学園を卒業し、婚儀を挙げるまでの期間は、花嫁修業と王太子妃教育のために費やされることになっていた。
ドルフ第一王子は、子供の頃から王太子になるべくみっちり勉強をしていたようだが、婚約者は違う。まずは学校での勉強を修め、基礎を身に着ける。学校を卒業後、婚儀を挙げるまでの時間を使い、王室ならではのマナーや外交を学びましょうとなっていた。
ちなみに婚儀のための準備は侍従長を中心としたチームが組まれ、良きに計らってくれるので、当事者である私とドルフ第一王子は、婚儀の準備で忙しくなることはなかった。といっても、王太子、二十歳の時、『立太子の儀』の舞踏会でヒロインと運命的に出会い、そこから二人の仲は急速に深まる。そして悪役令嬢である私の断罪があるので、婚儀については……。
時々、ドレスに使うレースや刺繍の相談をされるが、私が着るものではないのにと思ったりしていた。
兎にも角にも王太子妃教育は、前世乙女ゲームの知識で過酷と思っていた。でも転生したこのゲームの世界は断罪も含め、婚儀の準備、王太子妃教育と、なんだか優し……いや、優しくない! だってドルフ第一王子の恐ろしい裏の顔設定が存在しているのだから!! ただこの時はまだ彼のその裏の顔は分からなかったので、王太子妃となるべく取り組むことに、少し寂しさ感じていたわけだ。
あと二年で、推しとお別れだわ、と。
だがこの乙女の甘い幻想は、呆気なく打ち砕かれることになる。