第百四十八話 戦場へ
第百四十八話 戦場へ
公爵領西部。『魔の森』と隣接しながら、開拓地としては不適格として選ばれなかった場所。
断崖絶壁が立ち並び、その下の谷底も荒れた岩だらけの土地だ。魔物でさえこの辺りには生息していない。
風で回転草が転がっていくのを見下ろしながら、『気球』の上で一人、空を眺める。
鞘による封印は、事前に弱めてある。龍は自分を探し、こちらに向かって飛んでいる所のはずだ。
ちらり、とガスバーナーを見る。動作に問題はない。『ボー』、と音をたてて、熱気球の上部……たしか、クラウンだったか。そこの空気を加熱して空を飛んでいる。
……不思議だ。
今から、とても恐ろしい怪物と戦うというのに。
今から、世界の命運をかけた戦いとやらをするのに。
今は、いつも背中を預けている人がいないのに。
とても、落ち着いている。
覚悟かあるから、戦う理由があるから、世界とか実感できないから。
現在自分がやけに落ち着いている理由を考えて、どうにもどれもしっくりこなかった。
───あの人に、思いを伝えると決めたから?
「………」
暗雲立ち込める空を見ながら、少しだけ笑ってしまいそうになった。
なんとも、自分という奴は……。
そこで、視界の端で照明弾が打ち上げられたのを捉える。どうやら、時間らしい。
柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜く。
黄金の柄頭と鍔。青色の柄は吸い付く様に手に馴染む。
鞘から抜かれた刃は白銀に輝いており、その中で金色の文様が躍っていた。
『龍殺しの剣』
随分と安直で、遊びの無い名前。きっと、最初にこれを作ってくれと依頼した人が名付けたのだろう。
何となく、あの人はそういう性格だろうから。
日の光が雲で随分と遮られたこの場所が、一気に明るくなった様な気がする。それほどの魔力と、存在感。右手にそれを携えたまま、じっ、と。空を眺めた。
───ォォォッ。
声が聞こえる。
───ォォォォォォッ!!
近づいている。
───ォォォォォォオオッ!!
来た。
『───オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッッ!!』
轟く咆哮。それは雷鳴よりも大きく、地鳴りよりも人の心を蝕むものだった。
黒い雲と比較してなお暗き闇の様な鱗を纏った怪物が、遂に視界の中へと入ってくる。
細長い蜥蜴の様な頭。深紅の瞳は煌々と輝き、この距離からでも何を見ているのかわかるほど。
強靭な四肢はどれもが太く大きくて、まるで塔の様である。堅牢な胸筋にしなやかで長く伸びた尾。背からは蝙蝠の様な翼が生えて、ゆっくりと羽ばたくだけであの巨体を飛ばしている。
ドラゴン。そう呼ぶに相応しい、圧倒的強者がそこにいた。
随分と大きい。目測だが、この距離であれだけのサイズに見えるという事は、尾を抜いた体長は五十メートル近くあるだろう。
なるほど、アリサさんが『勝てない』というわけだ。純粋な大きさもそうだが、感じられる魔力量すら、あれほど強大と思った亜竜でさえ足元にも及ばない。
深紅の瞳がこちらを真っすぐに捉え、翼が一際強く宙を打った。距離感のおかしくなりそうなサイズだが、それでも加速したのはわかる。
ガバリッ、と。龍の顎が開かれる。
せっかちな奴だ。それとも、この剣が発する魔力への警戒がそうさせているのか。
どちらにせよ変わらない。ドラゴン最強にして最大の攻撃が、放たれる。
集束した魔力が炎熱を帯び、一キロ以上離れた位置からでもその熱量を肌で感じる業火。
ブレスが、たった一騎の気球目掛けて放たれた。
───ィィィィィィンンッ!!
大気の焼ける音。高熱過ぎる故か、それとも龍の魔力が影響したのか。その音はガラスでも擦り合わせたかのように不協和音となって耳に届く。
ブレスの予兆を感じた段階で、自分は気球から身を投げていた。
落下しながら、上空で先ほどまで乗っていた気球が跡形もなく消滅するのを見上げる。
青白い熱線はそこから振り下ろされる事もなく、ただ気球を焼いただけで終わった。地上と繋がっていた固定用のワイヤーが、自分のすぐ傍を落ちていく。
もしかしたら、あいつなりの挨拶だったのかもしれない。
……いいや、違うな。あの目は、その様な『遊び』のある目ではない。これは、『様子見』だ。
「『ウイング・ブーツ』」
両足に魔力で編んだ翼を展開し、空中に留まる。
足先を地面に向け、ゆっくりと見せつける様に剣を構えた。それだけで龍の瞳が己に釘付けなのだとわかる。
深呼吸を一回。高度がそれなりにあるせいか、空気が冷たい。先ほど超高熱のブレスが上を通り過ぎたが、そんな事は関係ない様だ。
「行くぞ」
『ギィァオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォォォ……───ッッ!!』
まるで返事の様に轟く雄叫び。それに合わせ、剣を担ぐように吶喊する。
正面から互いに距離を詰めながら、加速。魔力感知も用いて、可能な限り正確な相手の位置と動きを把握していく。
開幕のブレスに続く攻撃は、接近しての噛みつき。シンプルなそれは、しかし必殺を超えた『必壊』と呼んでいい一撃だった。
ずらり、と並んだ牙の一つ一つが樹齢数百年の大樹と見紛う大きさと魔力を有している。口の中に入ろうものなら、砕かれずとも牙が発する魔力の残滓だけで人体など焼け焦げてしまうだろう。
それを、寸での所で回避。顎が閉じられる衝撃波で体が押されるも、それをバレルロールで受け流し、龍の巨体を這うように飛行。逆鱗の位置を確認しながら、目の前の首筋に軽く刃をたてた。
硬い。今まで斬ってきた、どんなものよりも頑強な感触が返ってくる。この鱗一枚で、帝城の城壁数枚分の硬度があるのではないか。
だが。
『ォォォオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!』
斬れた。鱗の一枚が割れる。刃渡りゆえに、そのまま振るっても下の肉には届かないまでも、相手に刃が触れた事は伝わったらしい。
すぐ近くを巨体が通った事で発生した風に乗り、奴との距離を取る。直後、自分が真っすぐ飛んでいたら通っていたであろう空間に龍の爪が振るわれていた。
ぐるり、と。黒の巨躯は宙で身を捻る様に方向転換。再びこちらに狙いを定める。
向けられる瞳に怒りはない。敵意も、憎しみも。
あるのはただ、殺意。まるで入力された感情だけを表出させたような無機物感。そう言えば、こいつは悪魔の端末であったな。
有機的な体と雄叫び。しかしその実これは悪魔がこの世界にやってくる為の目印であり、扉でしかないのだ。
元よりそんなものは抱いていないが、罪悪感を覚える必要はない。
肩に担ぐように剣を構えなおし、再び龍へと接近する。相手もまた、巨大な翼を広げこちらに正面から突撃をしてきた。
如何に切れ味の良い剣であろうとも、やはり自分一人では分が悪い。大きいというのは、それだけで強いのだから。魔力で刃を伸ばすのも、この剣に慣れるまではあまりやりたくない。一つの隙がそのまま死に繋がるのだから。
───故に、一騎打ちなどと最初から思っていない。
卑怯などと、言ってくれるなよ?
数度目の交差の後、断崖絶壁が並ぶ地面へと急降下していく。
それを追うように龍もまた高度を下げるのを魔力で感じ取りながら、加速。不幸中の幸いと言っていいのか、こちらがどれだけ速度を出そうと振り切ってしまう事はなさそうだ。
さて……この世界の人類の力、とくと味わってもらおうか。
* * *
サイド なし
公爵邸の、とある一室。
通路を幾人もの兵士達が警備するそこで、小さなうめき声と共に目を覚ます少女がいた。
「ぅ……んん……」
「アリサちゃん!」
薄っすらと瞳をあけた友に、リリーシャが慌てた様子で声をかける。
その声につられ、傍にいたゲレルも早足でベッドに近寄った。
「ここ……そうか、私……」
「しっかりしてアリサちゃん。今シュミット達がドラゴンと戦っているところだから、呪いなんて、すぐに消えちゃうからね!」
無事な右手を握りそう言ってくるリリーシャに、アリサの瞳に力が宿った。
「今……シュミット君が戦っているの……?」
「ええ。現在、公爵領西部にて」
その問いに答えたのは、ゲレルだった。
彼女ら、シュミットと縁の深い女性はアリサが眠るこの部屋に集められていた。公爵軍主力がいない今、乾坤一擲をかけて『どこかの勢力』が公爵邸を襲うかもしれないという危惧からである。
だが、公爵の本音としては友人や知人達に孫娘の傍にいてほしかったからでもあった。
「ここまで流れ弾の類が来る事はありませんが、油断はできません。いざとなれば、私が貴女をお連れして逃げる手筈となっております」
「……ゲレルさん。貴女の、馬は……」
「無論、公爵邸の庭に」
「そっか……なら、お願いがあるんです」
左腕が白魔法を刻んだ包帯に覆われたまま、アリサが右腕で上体を起こす。
「私を、連れて行って。相棒の所に」
「……拒否します」
ゲレルがその金色の瞳を細め、キッパリと拒絶する。
「ご自分の状態をお考え下さい。貴女はとても動ける様な体ではないのです。最悪、いつ亜竜と成り果てるかもわかりません。そうなれば、助けどころか作戦の失敗を招きます」
「……ごめん。でも、行きたいんだ」
「なりません。今作戦は公爵家だけではなく、世界そのものの存亡をかけたものと聞いております。貴女個人の意思で、行動が許されるものではありません」
両者の言葉は、圧倒的にゲレルが正しい。
亜竜は強大な怪物である。ドラゴンと比較すれば矮小な存在に見えるかもしれないが、それは嵐と大嵐を比べるようなもの。
万が一暴走してしまえば、作戦の失敗は確定するだろう。
それでも、アリサは視線を逸らさずゲレルを見つめている。
「わかってる。でも、お願い」
「……貴女は休むべきです、アリサ殿。恩人にこの様な事は言いたくありませんが、行っても邪魔になるだけです。ここでお休みください」
「それでも、私は……!」
「アリサちゃん」
そっと、リリーシャがアリサの頬に手を添えて視線を己へと向けさせる。
「自棄になって言っているの?」
「……わからない」
「なら、自分なら大丈夫って思っているの?」
「……それも、わからない」
「それでも、行きたいんだね」
「うん。絶対に、私は行くよ」
「そっか」
呆れた様な、あるいは諦めた様なため息。
そして、リリーシャはゲレルへと視線を向けた。
「ごめん、ゲレルちゃん。私からも、お願いしていい?」
「なっ」
この話の流れでどうしてその様な結論になるのか。
眼を一瞬見開いた後、ゲレルは視線を鋭くする。
「いったいどの様なお考えなのですか、リリーシャ様」
「単純にさ。この子、こうなると止まってくれないんだ。それに、私個人としても行かせてあげたいんだよ」
「何故です。戦力として」
「戦力の問題じゃないんだ」
リリーシャがゲレルの言葉に被せる。
「きっと、そうした方が良い。そう思ったから」
「……それは、神託の様なものですか?」
「ううん。ただの勘!」
ニッコリと笑みを浮かべて告げるリリーシャに、ゲレルは言葉が詰まってしまった。
一瞬、彼女の頭の中でこれは何かを誤魔化しているのかとよぎるも、筆頭巫女として磨いてきた眼が他意などない事を察してしまう。
だからこそ、余計にわからない。それがゲレルの脳を混乱させる。
「君の言っている事は、全くもって正しいよ。そのうえで貧乏くじを引かせる事になっちゃうのは、心苦しく思う。でも、私の馬じゃ今から行っても間に合わないからさ」
「……正気ですか、リリーシャ様」
「どうだろう。恋は盲目って言うからなぁ」
困った様な笑みを浮かべるエルフの姫に、ゲレルは眉間に皺を寄せる。
「……そこまでおっしゃるのであれば、公爵閣下に確認を取りましょう。この屋敷は彼のものであり、アリサ殿は閣下の親族です。決定権はそちらにあるはずですから」
ここであまり否定の立場に居続けるのも、ドラゴンに勝利した後の『家庭内』で不利になるかもしれない。
そう考え、ゲレルは公爵に判断を委ねる事にした。冷静に考えればアリサの意見が通るはずがないので、当然である。
その時、ノックと同時に部屋の扉が開かれた。あまりにもマナーのなっていないそれに、緊急事態かとゲレルは瞬時に入口を見る。
だが、そこにはむすっとした顔の女性ドワーフがいた。ハンナである。
「ハンナさん……」
「なんだ、眼が覚めていたのか」
成熟した女性をそのまま小柄にした様な彼女は、ずかずかと室内に入るなり、アリサに何かを投げ渡した。
それを右手でどうにかキャッチして、アリサは少しだけ驚いた様に眼を大きくする。
「アタシの専門外だったが、多少の整備はしておいた。本来の職人が怒るだろうから、そっちの説明はお前がしろ」
「……ありがとう。ハンナさん」
「ふん」
小さく鼻を鳴らして、ハンナは部屋の隅にある椅子に腰かける。
眼鏡まで取り出して、新聞を読み始めてしまった。その姿と今しがた投げ渡された物に、ゲレルは眼を白黒とさせる。
「ゲレルさん」
体をゆっくりと動かし、ベッドから出した両足を床につけたアリサが彼女を見上げる。
その右手で、ハンナが届けてくれた『ガンベルト』を強く握りながら。
「お願いします。時間が、ないんです」
「……シュミット様が、貴女を『お馬鹿様』と呼ぶ気持ちがわかりました」
大きなため息をついた後、ゲレルは部屋にあったクローゼットを開ける。
「リリーシャ様。メイドの方々を呼んでください。ハンナさんは私の馬を準備する様に、馬小屋の方へ連絡を」
「はーい!」
「ちっ」
元気よく返事をするリリーシャに、舌打ちをして新聞を閉じるハンナ。
二人が部屋から出るのを横目に、ゲレルは普段アリサが『冒険者として』使っているだろう服をクローゼットから探しだした。
「牛獣人の巫女として、覚悟を決めた戦士を止める事などできません。せいぜい後で怒られてください、お馬鹿様」
「あはは……ゲレルさんにもそう呼ばれちゃうか」
「当たり前です」
苦笑を浮かべながら、アリサは右手を差し出す。
それを、ゲレルが握り立ち上がらせた。
「まったく……まさか、本当に『白馬に乗った騎士様』にならないといけないとは」
「……?」
「こちらの話です。さ、メイドの方々が来たらすぐに着替えてもらいますから、しゃんとしてください」
「はいはーい」
「『はい』は一回です」
「はーい」
ゲレルの言い分は正しい。
それでもアリサが我を通したのは、やはり。
───恋は盲目って言うから。
ずっと、蓋をしてきた思い。恋なんてしないと決めていた彼女。
特別な理由なんてなく、ただ、強いて言うのなら。
イチイバルの街で出会った時、彼の『絶対に生きる』のだという瞳に。
彼女がかつて抱き、しかし消えてしまった思いを抱いた瞳に。
もしかしたら、心を奪われてしまったのかもしれない。
「一目惚れに、理屈なんてつけようがないよねぇ……」
「何か言いましたか、アリサ様。やはりやめるという言葉でしたら、何時でも受け付けますが」
「うんうん。絶対に私は行くよ」
「そうですか。困った方ですね、お馬鹿様」
「はは、よく言われる」
───特に、彼には。
そう胸の内で呟きながら、アリサは自分の足でしっかりと立つ。亜竜の呪いが増した左腕をぶら下げながらも、チェシャ猫の様な笑みまで浮かべて。
「さて。私を抜きで龍退治なんて、そうはさせないんだからな。相棒っ!」
読んでいただきありがとうございます。
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