第八十九話 チェイス 前
第八十九話 チェイス 前
『■■■■………!!』
一際強く放たれた咆哮が、未だ大気を揺らしている。
何かはわからない。わからないが……あの声に、妙な悪寒を覚えた。
恐らくあれ程の怪物を前にした生物としての危機感だろう。そう結論付け、手に持った武器に一度だけ視線を向けた。
普段使っている剣では馬上での戦闘に適していないだろうと、氏族長から貸し与えられた曲刀。
刃渡り百二十センチ、柄の長さ九十センチ。前世で言うのなら『長巻』が一番近いだろう剣だ。両手剣としての『技能』で扱える。
牛獣人用故柄がやや太すぎるが、問題ない。反りのある刀身を担ぐようにしてサリフを走らせ始める。
狙うは亜竜。奴のブレスを吐かせ───。
『ォォオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛………!!』
咆哮の余韻だと思っていた音。それが、未だ亜竜の口から放たれている。
だが違った。アレはそんなものではない。新たに、この天地を揺るがす音が……否。『焦がす』音が響いている……!
「サリフ!!」
『ヒィィィン!!』
自分の声に応え全力疾走を始めるサリフ。それに乗る自分を、白黒の反転した瞳は逃さない。
開かれた亜竜の口腔が奥から溢れた魔力が集束し発光、丸太数本分もあろう太さの四肢は大地を踏みしめ衝撃に備えている。
疾走する自分達に、膨大な殺意の塊を放つために。
『■■■ァ……!!』
極光が、夜を斬り裂いた。
火炎放射などという生ぬるい物ではない。白熱し、青みさえ帯びた熱線がブレスとして放たれる。
「くぅ……!」
直撃は回避。だが、ブレスはそれだけで終わらない。横方向に全力でサリフを走らせる。同時に、視界の端で亜竜の首が動いた。
背後から感じる熱量に体表が徐々に炙られていくのがわかる。距離のおかげで火傷まではいかないが、追いつかれれば骨も残るまい……!!
灼熱の大鎌が、平原を焼野原に変えながらこの命を刈り取りにくる。
『ィィィンン!!』
蹄で地面を跳ねさせながら駆けるサリフ。その手綱を握りしめ、昼間の内に牛獣人達に準備してもらった場所へと走らせた。
そこは、小高い丘の裏。緑に覆われている故に起伏が遠目にはわかりづらいが、こうして近づけば自分を覆って余りある大きさであるとわかる。
更に奴側の丘表面には水を大量にかけてある。焼石に水かもしれないが、はたして。
丘に衝突した熱線が、先程までの空気を焦がす音とは別の音を出し始めた。
浴びせてあった水は一瞬で蒸発し、草は灰燼と化して土煙と共に吹き飛んでいく。温度の急激な変化か、あるいは別の理由か。衝撃波さえ周囲に振りまかれる。
丘を挟んで亜竜から距離をとろうと馬を走らせながら振り返れば、熱線を受け止めていた丘の端が次々と砕けているのが見えた。徐々に極光がこちらを捉えんと狭まっている。
だが、ブレスを吐き続けるにも限界はある。熱線は急速に勢いを失い、丘を貫通する事はなかった。
自分とは反対側の、ブレスを受け止めた丘表面がどうなっているのかは見たくもない。そして、そんな暇もありはしない。
『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォォォ!!』
熱線を吐き終えた口をバグリと音をたてて閉じたかと思えば、亜竜は咆哮を上げて疾走を開始した。
狙いは、当然の様に自分。両の瞳を爛々と輝かせ、強靭な四肢で大地を駆り追ってくる。
元より『釣り餌』として身を晒したが、この反応は予想外だ。己が天敵である白魔法の使い手だと、気配だけで分かったと言うのか?
だが好都合ではある。焦げた空気を吹き飛ばす様にサリフの疾走でできた風が体を撫でていくのに、火照ってしょうがない。
戦闘の高揚ではない、未だ残るブレスの熱。丘越しだったと言うのに未だ息のしづらさを覚えながらも意識して肺を動かし、天に剣を掲げてみせる。
「追ってこい……!」
挑発する様に月光で刀身を瞬かせ、亜竜を振り返る。
はたして、効果は。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛───!!!』
大なり。理由はやはり不明ながら、奴は随分と自分に執心な様子だ。
一層速度を増し追いかけてくる亜竜が一直線にこちら追走する。
歩幅は圧倒的に向こうが勝っており、純粋な速度では勝ち目がない。それ程までに奴の四肢は力強いという事だ。
前足を無造作に振るっただけで人馬諸共に肉塊へと変えられるのは必至。しかしだからこそ、自分は手綱を引いてサリフの向かう先を変える。
その、強力無比な怪物の足元へと。
「『チャージ』、『アクセル』……!」
急カーブをする様に軌道を変え、自分の後を追う亜竜の側面へ。全力で馬を走らせながら、長巻を振りかぶる。
「『付与魔法:コンセクレーション』……!」
刀身に白魔法を纏わせ、馬の加速も乗せて亜竜の左後ろ足へと叩き込んだ。
騎兵が振るう刃は歩兵を盾諸共にただの肉塊へと変える。それが牛獣人達の育て上げた強壮なる馬に乗って放たれれば、その威力は尋常な生物が受けきれるものではない。
ずぐりと、白銀に輝く剣が鱗を裂いて肉に届く。
「おおおおっ!!」
気合の咆哮をあげながら、一閃。亜竜の腹の下を走り抜けながら、刃を振り抜いた。
『ガア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!?』
絶叫が後ろから響き、刀身にこびりついた紫色の血が風に流れていく。
しかし……『浅い』。
確かに鱗を裂き肉にまで届いた。だが、それだけ。骨はおろか、重要な血管を斬った感触すらない。
首だけ背後を振り返れば、亜竜の左後ろ足にはかすり傷が一つついているだけだった。
『オ゛オ゛オ゛オ゛……!!』
だが怒りを更に増す事はできたらしい。白黒の反転した瞳が、憎悪の炎を燃やしている。
後ろ足を庇う様子もなく四肢で地面を踏みしめ、大口を開く亜竜。もう次のブレスがくる……!
「サリフ!」
『ブルゥ……!』
甲高くも腹に響く声で返し、この勇敢な馬は草原を駆けてくれる。
熱線が放たれる寸前で、丘の陰に入る事に成功した。それでも足を止めれば余波だけで丸焦げになると、サリフは足を動かせる。
瞬間、轟音が響く。ジェットエンジンを間近で聞いてもこれほどの音が鳴るかと思うほどの熱線が、平原の丘を穿ったのだ。
周囲の草にまで燃え移りながらも、しかし熱線は十秒ほどで止まる。
背後でブレスが終了したと見るや、進路を変更。また亜竜を挑発する為に刃を掲げながら接近する。
『■■■■■■■■!!!』
馬鹿にされていると思ったか、あるいは未だ殺せない獲物に苛立ちを覚えたか。何にせよ、亜竜は咆哮をあげてこちらを再度追走する。
歩幅の差もあり瞬く間に追いつかれ、その右前脚が振りかぶられた。
「はっ!」
手綱を振るい繰り出された薙ぎ払いを回避。大鎌を連想させる爪が大地を抉り、土が小規模な噴火でもあった様にまき上げられる。
頭から土砂を被りながら、しかし気にしている余裕などない。柄ごと右手で手綱を握りながら、左手で取り出した物から挿してあるピンを歯で挟んで引き抜いた。
勢いよく引いた摩擦で導火線に着火。手に持ったそれを振り返り様に亜竜の頭へと投擲する。
見事命中。放物線を描いたそれは右前脚を振り抜いた奴の頭の上に落ち、壺が割れ中の油が燃え広がった。
なんて事はない、ただの油壷。亜竜は頭の上で火の手が上がろうと、気にした様子はない。
当たり前だ。奴にとっては何の意味もない攻撃である。アレでは火傷一つ負わないし、万一あっても瞬く間に治ってしまうだろう。
だが生憎と、それは『攻撃』ではない。『目印』であり、『合図』だ。夜の闇の中では、あの炎はよく目立つ。
「オオオオオオオッッ!!」
自分でも、亜竜でもない咆哮。それも一つではない、三十人もの戦士達の声。
平原に点在する大小様々な丘の一つ。そこから姿を現した、牛獣人達の騎馬集団。彼らはバトバヤルさんを先頭にし、愛馬を走らせながら弓に矢をつがえた。
「放てぇ!!」
次々と繰り出される矢。それが亜竜の右目へと殺到する。
銀でもなければ白魔法が付与されているわけでもない鏃。それでは角膜に傷をつける事も叶わずとも、視界を覆う事はできる。
『ガ、ァァ……!』
煩わし気に奴の意識が右側に向いた瞬間、自分とサリフが反転。亜竜の左前脚に斬りかかる。
先とは違い無言での斬撃。白銀の刀身が爪の付け根を引き裂いた。
『ギャア゛ア゛ア゛!!』
痛覚はあるのだろう?ならば。さぞや痛いだろう、これは。
亜竜がギロリとこちらを睨みつければ、自分はすぐさま距離を取ろうと馬を走らせる。同時に、バトバヤルさん達が矢を亜竜の目に放った。
左右に離れる自分達に、亜竜が瞳を血走らせる。絶対強者たる己を弄ぶ様な人間どもの動きに業を煮やしたか。
『■■■■■■■■───ッ!!』
天に向かって放たれた咆哮と共に、奴の口が発光し始める。
「丘へ走れぇ!!」
バトバヤルさんの号令で彼らも出てきた丘へと退避。直後、薙ぎ払う様な熱線が周囲を焼き尽くす。
自分と彼らが壁にした丘には双方とも水が撒いてあった。何なら、これより自分が向かう先の丘もそうである。
生活魔法で生み出した水や、彼らが普段から使っている生活用水も含めてばら撒いたのだ。量は問題なかった。
薙ぎ払われたブレスも防ぎ切り、丘から身を出すなり左手でピックを引き抜く。
「『付与魔法:コンセクレーション』」
人差し指から薬指までの三本を使って、同時に放った二本のピック。それらが白銀の軌跡を描きながら、亜竜の左目へと吸い込まれた。
魔法で強化された膂力で放たれたそれは、ライフルにも匹敵する威力を叩きだす。そこに奴にとっての弱点である白魔法を付与したならば。
『ギィ、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛───!?』
眼球に、ピックが突き刺さった。
これまでで一番大きな悲鳴が響く。長い尾を別個の生き物の様にのたうたせ、痛みに堪える様に大地を強く踏みしめ体を数秒だけ丸ませる亜竜。
遠くから牛獣人達の喝采が聞こえる中、しかし自分は奴から目を逸らす事ができなかった。
ずっと、胸中を謎の違和感が渦巻いている。
サリフを走らせながら、顔をあげた亜竜の瞳を見た。
『■■■ァァ……!!』
憎悪に燃える眼光。それが、自分を射貫く。
「───……ッ!?」
『ガア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』
見覚えのあったそれに目を見開くこちらをよそに、亜竜は己の爪で左目を抉った。
ぐちりと音をたてて捨てられた、潰れた眼球。そして新たに内側から肉が盛り上がり、それが目玉へと変わる。
そんな乱暴な再生阻害への回答を、気にしている余裕などない。
自分は知っている。あの瞳を知っている。
『■■■ァァァ……!!』
最も信頼する鍛冶師に見たものと同じ瞳。開拓村で時折見たものと、同一のそれ。
人が、家族を殺された者が、仇へと向ける瞳だった。
ざわざわと、背筋を何かが撫で上げていく。
───亜竜は、産まれながらの竜ではない。
亜竜は、人が怪物に堕ちた姿。黒魔法か、はたまた龍の呪いかはわからない。だが、アレは元人間ではないのか?
追ってくる。亜竜が、自分の殺した者が残した誰かが追いかけてくる。
これは正当な復讐だと、怨嗟の声をあげながら。
ようやく、気がついた。
この胸中を渦巻く不安は、生物としての根源的な恐怖心ではない。
───『人間』としての、罪悪感だ。
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