逝こうとする夏を追いかけて
彼は、数年ぶりに「たぬきくん」と再会した。
たぬきくんは彼が物心つく頃に、彼の目の前に現れた。
タヌキのくせに2本足で立って歩いて、人の言葉を話した。
麦わら帽子にランニングシャツと短パンという出で立ちで、けれども冬は毛皮のコートを着てロシア人みたいな毛皮の帽子を被っていた。
つやつや、モフモフしたその毛皮は立派に生きて立派に死んだご先祖様のだとも言っていた。
一緒に遊んだり、彼が悲しいときには慰めたりしてくれた。
そう・・・彼にははっきりとたぬきくんの姿が見えたし、話もできた。
けれども大人は誰も信じてくれなかった。
たぬきくんのことを信じてもらおうとすればするほど大人たちは困惑したし、いつも酔っ払っていた父親はそんな彼のことをぶん殴ったりけ飛ばしたりもした。
たぬきくんは、山の薬草から作ったという血止めの薬や湿布で彼を介抱してくれた。
そして「信じようとしない連中に無理に信じさせることもないのさ」とも言った。
彼は、寂しい子供だった。
父親はたまに家にいるとおっかなかったし、母親は朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。
学校に行けば虐められたし、家に帰ってもおもちゃも漫画もなかった。
そんな彼の話し相手、遊び相手だったのが、たぬきくんだった。
けれども小学校の高学年から中学に入るころにかけて図書館の本と出会い、彼の味方になってくれる親友ができて、そして好きな子ができたころ、いつの間にかたぬきくんは現れなくなった。
それも、「いついなくなったのだろう」と思い返そうとしても思い返せないくらい、静かにひっそりと。
・・・
たぬきくんがいなくなってから、彼は図書館の本を読み込み、知識を貪るように勉強した。
彼にはグレて不良になるだけの度胸がなかったし、不良になった後のことを考えるとそれだけで怖くて震えるくらい心配性でもあったのだ。
彼が好きだった子は別の誰かの彼女となったけど、しばらくのつらい日々をやり過ごしたらまた別の子を好きになった。
結局その子とは進学先の高校が異なり、思いを告げる間もなく別々の世界へと進むことになったが。
高校に入ってからも相変わらず叶わぬ恋をしては落ち込んだ。
だが高校生活そのものは、全体的に楽しかったと彼は思う。
いや、「楽しかった」と言い表せる過去形ではない。
今も現に3年生として高校生活最後の日々を過ごしている。
当然のことながら、恋の悩みを抜きにしても「楽しい」ばかりの高校生活でもなかった。
いちばん大きかったことは今年のはじめ、依存症をこじらせて施設に入っていた父親が死んだことか。
彼にとって絶対的な「悪」として立ちはだかりすべてを圧迫していた父親は、あっけなく自滅した。
けっして開放されたという思いはなく、むしろ空虚さばかりが心の中を空洞のように占めた。
父親の死後、いろいろなことに整理をつけて、彼と母親は海辺にある母方の実家に引っ越した。
そのため、片道1時間あまりも電車通学しなければならなくなった。
しかし電車通学は決して苦になどならなかった。
それは、彼のような図書館の常連の同学年の子と、一緒に通学できるからだ。
しかし同じ電車で通学するようになるまでは、彼女はいつも図書館で見かける生徒たちの一人に過ぎなかった。
正直、異性としても意識していなかった。
彼がはっきりと彼女を意識しだしたのは、ほんの3か月ほど前。
梅雨のはしりの雨が降る夕方にちょっとした偶然で、電車の座席で隣り合わせになって会話した。
クラスが文系と理系という違いがあったし、好きな本の傾向も違うふたりだった。
それなのに会話は精巧な歯車のように噛み合い、ピンポンのラリーのように続いた。
それからふたりは、一緒に並んで通学するようになった。
彼にとっては彼女が、急速に大切で愛おしい存在に変化していくのをどうしようもできなかった。
しかし・・・LINEの交換もしないまま、梅雨が明けるか明けないかの頃に夏休みに入ってしまった。
夏休みの間じゅう、彼女は母親と弟とともにデンマークに駐在する父親のもとで過ごすのだと言っていた。
「デンマークって緯度が高いでしょう、だから夏は夜の8時を過ぎても9時を過ぎても、日が沈まないんだ」
ウキウキしながら、遠くを見ながら、彼女は教えてくれた。
どうしてその時に、せめてLINEの交換をしようと言い出せなかったのか・・・。
・・・いや、どうして彼女の方からLINEの交換をしようと言ってくれなかったのか。
彼にはその事実が、彼女にとっての彼の存在価値を如実に表しているようで、それを受け止めるのが怖かった。
・・・
父親の初盆の夏だったが、墓参りすらしなかった。
婚姻解消し、相続放棄もしていたから赤の他人だった・・・「相続」といっても、膨大な「借金」という負の遺産しかなかったから当たり前だが。
遺骨さえ父方の実家は引き取りを拒み、それからどうなったか彼は知らない。
酒と薬物に溺れ、息をするようにDVやモラハラを続けてきた男の末路だった。
しかし憐れみとか同情とか赦しとか、そんな気になれるのは一生を何べん繰り返しても彼には無理な話に思われた。
それに彼は、デンマークの遠い空の下に一時的とはいえ行ってしまった彼女のことを想うのでいっぱいだった。
受験まで残された時間は半年ほどだった。
しかし彼女のことを想い焦がれ、勉強が手につかないこともあった。
逆に彼女のことをいっときでも忘れようと、狂ったように勉強に集中することもあった。
とにかく、ひとりで思い悩み、心ではのたうち回っていた。
そうする間に、夏は静かに過ぎていった。
日暮れの時間が一日、一日と早くなり、薄暗くなった山からはツクツクホウシの鳴き声が海嘯のように残照の空を満たした。
ひたすら彼女のことを想い考え、それだけで高校生活最後の夏が終わろうとしている。
それを思うと、さらに胸は張り裂けそうになった。
もうあと数日で夏休みが終わるという日の夕方、彼はふと、彼女がいるというコペンハーゲンの日没の時刻をネットで調べてみた。
8月1日には21時36分だったのが9月1日になると20時17分と、たった1か月の間に1時間20分近くも早まっている。
いや、彼が住む海辺の漁村だって、夏休みに入る頃には7時を過ぎても太陽は水平線の上にあった。
今では7時すぎには夕映えを残して太陽は沈んでしまっているではないか。
夏は、逝こうとしている!
そう思うといても立ってもいられなくなって、サンダルを突っかけて外へ飛び出した。
夕餉の支度をする匂いや蚊取り線香の煙がそこかしこから流れてくる路地を抜けて、海へ。
そろそろ海風が収まり、夕凪の刻を迎えようとしていた。
古いコンクリートの堤防を階段で越えて浜辺に降りて、砂浜を波打ち際の方へ進んでいった。
砂地に足を取られて仕方なくサンダルを脱いで、両手にひとつずつぶら下げて歩く。
大波が来てもぎりぎり届かないくらいのところまで来て、そこで足を止めた。
目の前には残照に彩られた積乱雲が湧き上がり、その向こうはるか遠くの水平線上にもボコボコと雲が湧いていて、雲の間には時おり雷光が走った。
「あの雲の下は、大雨かなぁ」
彼は独り言を呟いた。
逝こうとする夏のせめて裾でも掴もうと来た海辺には、他に人影はなかった。
「高い空には秋の冷たい空気が入り込んでいるからね、夏の熱い空気とぶつかって乱気流が発生して雷雲が湧くのさ」
聞き覚えるある声にハッとしてその方を見ると、たぬきくんがおもちゃのような双眼鏡で水平線を覗いていた。
(・・・ひさしぶり)・・・声に出そうとしても、あまりのことに声が出なかった。
「いわゆる、『大気の状態が不安定』ってやつさ。今のお前さんの心のようにね」
たぬきくんは、彼が子供の頃はいつだって彼の心の奥底まで見通していた。
そして今も・・・今までいなくなっていた間も彼のことを見守ってきたかのように。
「それにしても、子供のときはいつもひとりぼっちだったお前さんが、恋の悩みなんてなぁ」
たぬきくんは、歯をむき出しにしていかにも可笑しそうに「シシシ」と笑った。
彼は一瞬たぬきくんの麦わら帽子を取り上げ、またその小さい頭に被せ直した。
「バカにするなよ・・・久しぶりに会って言うことがそれか? だいたい僕は、真剣に悩んでるんだぞ」
「まぁまぁ・・・しかし連絡先を交換しなかったのは失敗だったな、お互いに」
「お互いに?」
「そうそう。あの子だって、どうして連絡先を交換しなかったんだって、外国の空の下で夏の間じゅう悩んでいたんじゃないかな」
「・・・分かるのか?」
「うんにゃ。そうだったらいいなって、当てずっぽう」
「なんだよ・・・! 他人事だと思って適当なこと言ったりなんかして」
「まぁでも、あの子とまた会うその時までそう思っていたほうが気が楽なんじゃね?」
彼は(そんな都合のいいこと思い込んでて、実際そうじゃないと分かったらショックは大きいだろ)と言いかけて、それを心の内に飲み込んだ。
実際そうだとも、そうじゃないとも言い切れない・・・くよくよ悩むくらいなら、都合のいい方に考えて期待していたら楽だったのかもしれない。
「まぁ、心配性で悲観的なお前さんがそんなことできっこないけどな」
やはりすべてを見通したかのように、たぬきくんは言った。
彼はムッともせずに、ただ苦笑いするしかなかった。
「どうせ朝、電車で再会したら夏の間のことなんかケロッと忘れて、またいつものふたりに戻るんじゃ? 今まで以上に近づくこともなく、といって離れるわけでもなく」
「・・・そうかもな。この僕のことだからな。でも・・・彼女と付き合ったら、今まで以上に毎日が楽しいだろうな」
「じゃ、告白してみるか?」
「・・・少しだけ、様子を見てからにする」
「あはは、お前さんらしいや。でも幸運を祈るぞ」
「ありがとうな」
彼とたぬきくんが話をする短い間にも、西の空の残照もそれを映した海面も輝きを急速に失っていった。
代わりに鋼のように青く澄んだ空には星が瞬きはじめ、水平線上の雲の中を走る雷光も明るさと鋭さを増してきた。
そしてふと横を見ると、たぬきくんの姿はなかった。
幻でも見たのかと思ったが、砂地の上には小さい足跡が残っていた。
しかしそれは、突然押し寄せてきたひときわ大きい波とともに消えてしまった。