鬼姫と魚王子
「サクヤ姫……。私との婚約は、なかったことにしよう」
顔面蒼白で今にも倒れそうな顔色をした陰鬱な面持ちの男子が、見目麗しい黒髪の乙女にそう告げた。
見目麗しい乙女はさほど驚いた素振りもなく目を数度ゆっくりと瞬いては手元にあった茶器をテーブルへと戻す。
「まぁまぁ、そのような顔をなさって。誰かヴェゼル様にお顔を拭うものを渡しなさい」
「殿下こちらを」
「あ、ああ……。すまない」
侍女が素早く手渡した柔らかな布を受け取り、言われるがままその整った顔を拭えば濡れ光るその汗の色は黄緑。
病気などではない。彼の一族や国の人々にとってはこれが一般的な汗の色なのである。
ただ一般的といっても透明な汗ではない分、腹の探り合いを重要とする王族、貴族にとって己の動揺や気持ちが顔に出てしまうということは命取りだ。
そのため幼い頃から他国よりも更に厳しく感情を完全にコントロールできるようにとしつけられる。
しかし見ての通り、彼は今、動揺を隠せないあまりか白い布を汚すそれに気付いて彼がショックを受けたり主人が殊更にその出来の悪さをあげつらったというような思いをせぬようにと汗と同じような色合いの淡い黄緑色のものをわざわざ渡した理由すら察することのできない。
わざわざそこを指摘するほどの事でもないと彼女も目を瞑ったが常ならば直ぐに気付くはずだがと嘆息しそれでとまた口を開いた。
「婚約の解消の原因はヴェゼル殿下にあるものですか?それともわたくし?」
「あなたに過失や落ち度など。むしろ私には本当にもったいないほどできた方で」
「ならばなぜに婚約の解消などということを口にしたのです?わたくしの実家ほどの後ろ盾があれば、何も恐れることなどないでしょう?」
「それが嫌なんだ。私が不甲斐ないばかりにあなたに迷惑をかけ続けてしまう」
「だから、と?わたくしの献身がご負担であるならばそう言ってくださればもう少しやり方も変えられましたものを。あなた様を馬鹿にする無礼な輩を牽制したりするのも、実家との定期的なやりとりもひっそりこっそりもっと目に付かないようにともできました」
王妃が生んだ第一王子であれ、失敗作とも言われる彼は後ろ盾が弱い。彼の後続けて生まれた年子の弟が優秀であっただけにその差が彼を精神的に追い込んでいた。
姫の言葉にいや、しかしと顔を歪めて何とか姫に反論しようとして思わずと頭を掻き乱せばパラパラと粉のような白いフケが舞う。
汚らわしいと言うものもいるだろう。だが姫やお付きのものらはそれを見ても動じず表情を変えたり嫌悪を出したりなどもしない。
「無能と言われる方がいたとして、ヴェゼル様が努力していなかったわけでもないでしょうに。髪を染め、それによって肌をボロボロにしてまでも厳しい教育や心無い言葉に耐え続けるのは容易にできることではありません。そんな頑張りやさんなあなたを誰が見捨てられましょうや」
薄く白い髪をしていた王子だったが汗の色が直ぐに染みて悟られてしまうと無理矢理黒に染め、その染料の強さに頭皮や顔にただれやひび割れなどができウロコに見える。故に魚王子とも影で揶揄され嘲笑されているのも姫は知っていた。
知っていて尚、彼の忍耐強さや表をカバーできない分より知見を広く持とうと懸命にするその姿勢を気に入って彼との縁談を父に求め今ここにいるのだ。
そして言葉を尽くし婚約の解消は認めないとし続けるが、王子は立ち尽くしたままに途方に暮れたような体でしまいには口も閉ざしてしまったために、彼女は仕方ないと己の両手を自身の頭へと運んだ。
「感情を汗で悟られてしまうのも難儀ですが、わたくしの角もなかなかに面倒ですの。感情の起伏で形状や色味、長さも変わりますし……。お見苦しいといつもこの角隠しの帽子を被っておりましたが、ヴェゼル殿下はこれをどうお思いになります?口さがないものが言うように鬼婆のようだと、そう思われますか?」
前に真っ直ぐに伸びた、今は小さな親指の先程の真朱色の角が姫の額より二本生えている。パッと見た感じではそれが角であるのかまたは額冠の類いにも見えわからない。醜いというものより姫の整った美しい顔立ちもあり可愛らしい印象を与えるそれを初めてまともに見た王子は驚いて目を見開き食い入るようにその角を見つめては問いかけを思い出して慌てて言葉を探し紡いだ。
「あなたもそんな変化を耐えていただなんて、知りもしませんでした。角については……初めて鬼人族の方の角を拝見しましたので、何という言葉が正しいのかわかりませんが、ええと……とても、愛らしく、色艶も美しいと思います。まるで神々の愛した宝石のようだ」
「ふふっ、お上手ですわ。我らの角は硬さや色艶が容姿を左右させるポイントですのでそれを褒めるということはとても誉れ高いのです。特に想い人である方に褒められるのは女性にとってとてもとても喜ばしいことなのです」
頬を染め、普段は隠しきってしまう表情もあらわにして姫が頬を染めて喜ぶと確かに角は少しだけ伸び、春先の生命の息吹を思わせるような立派な枝ぶりのものになる。
色合いも真朱から僅かに揺らいで他の僅かに違う色味の赤や薄紅とが入り交じり、珊瑚や桜貝のような愛らしい柔らかなものとなり彼女の言葉に偽りはないのだと物語った。
「角隠しの被り布や帽子は感情を隠すためのものであれ、大きな感情の揺らぎまではやはり隠せません。故にわたくしもヴェゼル様と同じく厳しい教育を施されてきました。それは一重に国や民のためだけではなく自身を守るためであったと今は思えます。しかし幼い頃はどうしてこのように辛く苦しい行いを強いられねばならぬのかと幾度も思いましたわ」
「……そう、なのか」
「ええ。だからこそあなた様のことを耳に入れた時、どのような人だろうと思いましたの。その時には自分よりも大変な思いをしているというあなたに共感や同情を覚えていたのかもしれません。わたくしの手で少しでも同じ思いを分かち合い軽くできるなればと。けれどあなたと出会い、そしてその志や考えを直接聞いてその必要はないのだと気付きました。あなたはあなたが考えているよりも強く、しっかりと己が足で立ち道を切り開いていける気高き人。生まれついての尊き人です」
眩しいものを見るように、しかし母のような姉のような温かみのある眼差しで王子を捉えて微笑んでは姫はだからと言葉を続ける。
「婚約の解消を受け入れることはできません。わたくしは今日、あなた様から何も聞かなかったことにいたします故、どうかヴェゼル様も今一度ご再考下さいませ。あなたとともに険しい道を助けあって歩むことを夢見、故郷を離れ、この地にやってきたわたくしの心を踏みにじらないで下さいまし」
突然の愛の告白にすっかり気が動転した王子はそのまままともな返事などできずに姫付きのものに促されて部屋を後にしていく。
その後ろ姿をじっと見送った後、姫はそれまで纏っていた雰囲気を一変させ国より連れてきた供を呼ぶ。
音もなく気配もなく天井に寄るそれを確実に捉えては命を下した。
「わたくしの愛しいあの方に余計なことを吹き込んだ不届き者に制裁を加えてきなさい。そして我が意に背くのであればわたくしも親兄弟とともに国をあげてお相手いたしますと」
押し殺された感情に角は先程までの美しさが嘘のように先端はまっ黒くなり、根本は血のような赤さとなって今にも姫が人でも食いそうな悍ましい姿へと変貌を遂げた。
それでもまだ抑えられている方なのだ。目をギラギラと燃やし己を侮辱し彼を傷付けこうまでさせた敵の姿を思い浮かべてはギリッと歯を鳴らし姫は猟犬を放ち、角隠しの帽子を手にするとそれを被り直し息を吐き出すのであった。