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 桂さんが帰ってきたのは次の日の朝だった。

 人間ドック自体は一日で終わったのだが、せっかく特別室に入れてもらったのだから、一晩くらい泊っていくようにとお医者さんから勧められたらしい。本人はそう言っていた。

「どっか悪いところあるから、検査したんじゃないのかなあ」

 司が耳もとでささやいてやると、

「そうだなあ、司の面倒を見ているとさあ、ストレスたまっちまって胃に穴が空いたぜってことじゃねえのかねえ」

「けどさっき、胃の中はなんでもなかったって言ってたよ」

 肥満体型かつ高血圧の気はあるにせよ、胃と腸については問題なしとのことだった。

「だからこうやって、食いたくなるんだろうよ、司。さ、食うか食うか」

 母さんが作ってくれたお弁当を持って、桂さんと一緒に出かけたのは神乃世の奥に位置している小さな公園だった。朝から食欲のなかった司に母さんが、懸命に苦手な煮魚やにんじんのサラダを食べるよう叱りつけ、司もむくれ、結局は桂さんが機嫌直しに外へ連れ出してくれたようなものだった。

「お弁当、中、何かなあ」

「たぶん司の大っ嫌いな緑黄色野菜とかな、魚とかな、そんなもんだぞ」

「桂さん、おなか空いてるなら食べていい」

 咽がいがらっぽくて、せきをした。たんがからんだわけでもないのに、だんだん言葉に濁った音が混じってきたような気がした。外はこの三日間ほど、すっかり晴れ渡っていた。飛び石連休にも関わらずしっかり司は学校を休んでいる。ちょっとだけ後ろめたさを感じる。きっと、藤棚の前に立つあの人も、学校に来ているのだろう。また天羽にきついこと言われて泣いているのではないだろうか。三年に上がってから司は、あの人が悲しい顔をしているところしか見ていないような気がした。

「昨日、周平たちと、野球するつもりだったんだ」

 お弁当が予想した通り、朝のあまりものといちごジャムのサンドイッチセットだったことにえらく失望した。車の中でお弁当を広げ、司は窓を開けた。

「へえ、お前、ちゃんと打てたのか?」

「打たないよ。だって誰も投げなかったんだ」

 つい、口が尖ってしまう。

「だってさ、みんなが集まっているって思ったら、周平だけだったんだよ。みんなたまたま、用事があったとか具合悪かったとか、言い訳つけてたけどさ、結局、僕なんかに会いたくなんてなかったってことだよな!」

 さすがに周平の前でそんなことは言えない。素直に周平とキャッチボールして遊び、近所のゲームセンターに入った程度のことだった。いつもやっていることを周平としたに過ぎない。

「なにそう、ひがみっぽいこと言ってるんだよ、司。周平がお前のことひとりじめ!って思ってたのかもしれねえだろ。あ、なんだかあぶない言い方だなあ」

「桂さんなんもわかってないんだ!」

 わかってない。絶対、わかってない。前の日に周平は言っていたじゃないか。

「お前、社長になるんだろ」と。

そのことがばれたのが、先月の進路指導の時だったって言っていた。どういう話し合いの中で、司の父さんのこととか、司の将来とか、いろんなことが出てきたのかはまだ聞いていないからわからない。でも、周平がやたらと遠慮深いのはきっとそのせいに決まっている。他の友だちが誰も集まってこなかったのは、進路指導の時に意味不明なことを言って混乱させたらしい、女の先生に決まっている。

「おいおい、だからってむくれるなって。ほら、俺の分だ。食え」

 パンがやわらかくて、ちょうどほわっと口にとろけてくるようだった。中のジャムと冷たさが一緒だった。 「いやあ、奥さんが作るサンドイッチ、うめえよなあ」  桂さんに誉められるくらいなのだから、きっとおいしいのだろう。

 司は言われるがままに、ジャムのたっぷり挟まったサンドイッチを口にした。たぶん足りないから、煮魚とかサトイモの煮っ転がしとか、それも全部食べなくちゃいけないだろう。おやつ持ってきたかったと、つくづく思った。

「ほら司、ほっぺた、ジャム、ジャム」

 ウエットティッシュを渡された。顔を慌ててぬぐった。見かねたのか桂さんがふき取ってくれた。

「ったく、ぶきっちょだなあ。司。お前ももうちょっと、大人になれ。彼女できねえぞ」

「そんなのいらないよ」

「ほらほら、赤くなる。あの可愛い女の子のことどうなんだ?」

 頭をまたぐりぐりされた。

「関係ないだろ」

「ないわけないだろ。お前も男なんだからすることしたいだろ?」

 司は車から降りた。深呼吸をした。目の前には巨大なくるみの木がそびえ、芝生が延々と続いていた。車を乗り付けてはいけない場所なのだろうが、諸般の事情によりこの辺にはあまり人が入ってこないようになっているという。パーマをかけたおばさん頭をした木々が、横並びに連なっていた。 むしょうに木登りしたかった。でもくるみの木によじ登る腕力はない。

 司は、おばさん頭の木の一本に目をつけ、駆け出した。途中木の股がちょうどいいくらいに広がっている安定性の高い木があるのだ。いつもそれに昇って下を見るのが好きなのだった。


 ──なんでだよ。

 みんなの前では言ってはいけない。だから黙っていた。

 黙っていることは青潟で過ごすために不可欠なこと。だから慣れていた。

 いつのまにか周平の前でも、黙ることが平気になってしまっていた。 自分でも信じられない話だ。

 ──ほんとのこと、周平なんも教えてくれないんだもんな。僕だって、周平以外の奴とも会いたかったしさ、それにいったいその女先生がどんなこと言ったのか聞きたかったんだよな。どうして、僕を避けるんだよ。そりゃ確かにうちの父さん、ものすごいお金持ちなんだってことはわかったよ。けど、僕はいつもおこづかい三千円なんだよ。桂さんにラーメンとかおごってもらってるんだよ。

 周平はどこまで本当のことを知っているのだろう。

 青潟で司が突きつけられた事実を、どこまで知っているのだろう。

 ──じいちゃんばあちゃんのことも、知っているんだよな。

 あれだけ地元新聞の三面記事にでかでかと載る事件だ。今まで司が知らないできた方がおかしい。むしろ司が疑問に感じたのはその点だった。なぜ司は、知らなかったのだろうか。

 青潟で「迷い路」が信じられないくらい有名で、司の父さんのことを知らない人はいないとまで言われているなんて、神乃世に住んでいた頃は想像していなかった。あんな酔っ払い父さんなのに。

 ──その女先生、何か、僕と父さんについての話、したのかな。

 司はしばらく考えた。すぐに止めた。ろくでもない想像しか膨らまなかったからだった。司のうちのことをものすごく嫌っているか、それとも青潟での噂を広めたかのどちらかだろう。


 よじ登り、小学一年くらいの子どもが横たわったような枝にまたがった。なんとなく、身体の中に今まで違った感覚が走った。ジーンズが木と擦れたせいだろうか。なんとなく腰のあたりがうずいてしまう。なんどか楽な格好に身体をずらしてみた。どうもおちつかなくて、木を抱きかかえるようにして顔を擦り付けてみた。こうすると少し、落ち着いてきた。桂さんがのんびりと車から降りてきて、ゆっくり司のいる方へ歩いてくるのが見えた。小さく手を振った。

 ──僕のこと、きっと嫌いなんだ。

 ──神乃世にいればよかったんだ。父さんなんかと一緒に住まなきゃよかったんだ。

 一年六月にやらかしたあの事件直後、父さんに張り倒され、自分の部屋に閉じ込められた日のことを思い出した。いやなことばかりだ。青潟も、父さんも。


「つかさー。降りて来いよ。そんなとこで一人、木馬に乗っててもむなしいだろ」

 ようやく腹の肉をTシャツの中で揺らしながらやってきた桂さん、片手にはポテトチップスの袋が覗いたスーパーの白いビニールをぶら下げている。どこで買ってきたんだろう。まだたくさん入っているようだ。ポテトチップスは大好物。すぐに身を起こそうとして、またはっとうつ伏せた。 同じ感覚が走った。

「ははん、降りられねえんだろ」

「違う、違うよ!」

   変なこと考えているわけじゃないのに、身体の中が勝手に反応してしまうだけだ。こんなままで降りていったら桂さんにさんざん笑われるに決まっている。

「ほらほら、笑わねえから降りてこいよ。そんな格好で木登りしてたら、男が立ってもしょうがねえだろ」

 ──なんで、そんなこと言うんだよ!

 目の前の桂さんはにやにやしつつ、下にビニールシートを敷いた。虹の色合いの、どはでなものだった。隠せない。司は上半身を起こし、できるだけ背中を見せるようにして木の幹にしがみついた。できれば桂さんの勘違いだったと思われるように、心の中で何度もおまじないを唱えた。

「ほら、じゃあまず、おかずだな。司、先にポテチへ手を出すんじゃねえよ。ったく、お前てば本当にガキだなあ」

 ちゃんとコーラ瓶も持ってきてくれていた。大嫌いな煮魚を桂さんが平らげてくれたのは助かった。ただ、にんじんの混じった野菜サラダだけは食うように命令された。膝を抱えたまま司は無理やり口に押し込んだ。誰もいない芝生の上で、司はちょぼちょぼと食べ、空に揺れる葉影を目で追った。

「あんなあ、司」

「まだ食べたらだめなのかなあ」

 手を伸ばそうとしたところを叩かれた。

「お前、周平とスケベ話したことあるのか?」

 片手で膝を割ってきた。さっき思いっきり幹と擦れたところにタッチしてきた。慌てて蹴飛ばした。外れて自分があお向けにひっくり返ってしまった。

「桂さんじゃないし、僕」

「またまたあ、好きなんだろ。ほんとは」

 今度は額を小突かれた。あぐらをかいたまま、桂さんは司に背を向け、さっさとポテトチップスの袋を開けた。

「周平だってそんな話、したがらないもん」

 司も足下に上がってくる蟻を見つめつつ答えた。

「あれ、あいつもそうなのか?」

「ガキの頃から、周平ってそういう奴だった」

 ──だから、言えないって。

 振り向いてみると、少しうつむき加減のまま、桂さんは肩を怒らせて、ため息をついていた。

「そっかあ。まだ周平、色気づいてねえのかあ」

「わかんない」

「あのまゆ毛がまずいのかねえ」

「知らないよ」

 小学校の頃からそうだった。周平はあまり女子に関心を持つ性格ではなかったし、女子たちも文句を言ってつっかかってきたりはするけれども、それ以上に行動したりはしなかったように思う。司も同じだった。男子たちと固まって遊び、牛乳瓶のキャップを集めてはメンコに燃え、暇さえあれば野球に鬼ごっこ、サッカーにバスケ。一日中走り回るだけ走り回っていた。

 今でも周平は、変わっていないはずだ。

 たぶん、司が毎日青大附中の教室で猛烈に感じていることを、周平は想像できないはずだ。

「なるほどなあ。ガキの頃から、一度もないのかあ」

「小学校の頃は、あったけど」

「最近の方が、一番爆発してもおかしくねえのにな」

 たぶん、司だけだろう。ちょっとしたことで女子にまつわる妙な想像をしてしまいそうになるのは。クラスの男子たちもそれなりに「お付き合い」はしているようだけど、司のようにどうしようもなく一人の女子のことばかり考えて、眠れなくなるなんてこともきっとないんだろう。あの天羽だって、西月さんをあっさりと振ったところをみると、司みたいな気持ちになったことがないのだろう。自分だけだ。司ひとりだけが勝手にいやらしい想像ばかりしてしまうのだろう。桂さんと同じように。きっとだ。 


 ──だから、あんなこと、きっとしちゃったんだろうな。

 他人事のように思う。いつも、あの事件を思い起こすたび、自分がしでかしたことの重大さに震え上がると同時に、あの頃の気持ちが思い出せずいわゆる新聞の三面記事を読んだような気持ちになる。今の自分がじいちゃんばあちゃんを眺めていても、でくのぼうのように転がっていると感じているように。どこか心の枝みたいなものが、何かの拍子にぽきんと折れてしまったのかもしれない。わからなかった。

 ──周平にばれてたら、僕はきっと。

 もう親友だとは言ってもらえないだろう。いや、それ以前に、あの葉書を毎日眺めて夢を見ている自分を思ったら、もう友情なんて終わってしまうだろう。

「隠し事するなんて周平が知ったら、いやあ、きっと、あいつ泣くぞ」

「別にそんなことしてないよ!」

「でもなあ、司。あいつがな、『親友の証』ってくさい台詞言ったのは、たぶんその辺じゃないのかねえ」

 一度も匂わせたことがなかったのに、桂さんは、ずっと司の頭の中で繰り返している言葉を持ち出した。腹ばいになり顔を隠した。

「うまく言えねえよ。俺も。世の中不思議なもんでな、隠し事をしている時ってどうしても、こっちの方が落ち着かなくなってしまうもんなんだよ。なんでだろうな。特にお互い、いい奴だなって思える相手ほど、そうなんだぞ」

 ──いい奴だから言えないことだってあるんじゃないかよ。

 司は言い返したかった。少し大きめの蟻が白い粒を加えてシートの上を歩いていった。

「お前がどこまで知ってるかわからねえよ。みんな教える必要はねえだろうな。でもな、司がもし、ほんの少しでも周平に、秘密を教えてやったとしたら、きっとあいつは安心するんじゃねえか」

 ──秘密ってなんだよ。

 もごもごとつぶやいた。

「なんだかんだ言ったって、お前が片岡社長の息子なんだってことには変わりねえだろ? この前お前言ってただろ。小学校の時は運動会で『親子でやりましょ二人三脚』に社長来てくれたことあったってな」

 なぜか父さんは、学校関係の行事に燃える人だった。毎年、よほどのことが無い限り運動会や学芸会には来てくれたし、頭を桂さんのような感じで何度もなでなでしてくれた。

「だろ? それも、片岡社長が司の父ちゃんだから、してくれたことだろ? みんな同じなんだぞ。みんなが肩書きがどうの、金持ちがどうのって言うけどな、結局のところ、お前の父ちゃんなんだってことが一番大切なんじゃないか? それに周平も、お前の父ちゃんのこと、大好きだって言ってただろ」

 ──けど、僕の父さんだからであって、もし本当のこと。

「何言ってるんだ。司、いいか。よく聞けよ」

 鼻の前にいきなりポテトチップスの袋を突き出された。漂う油っぽい匂いに誘われて、司は手を突っ込みまとめてつかんだ。座り込んでかみ締めた。

「お前が思っているほど、周平も他の奴も気にしちゃあいねえよ。そりゃあな、神乃世町にお前の父ちゃんほど金持ちはいないかもしれない。お前のうちみたいに、でっかいうちに住んでいる奴はいないかもしれない。でも、司は司だろ。周平はお前の親友だろ。だったら、そう言ってやればいいんだよ。そうさな、あいつも少々すねちまうところあるからな。例えばだ。こう言ってやったらどうだ?」

 ──こう言ってやったらってなんだよ。

 次に桂さんは、一言。

「俺には好きな子がいるんだ!って叫んでみろよ。司、こればっかりは、本当のことだもんなあ」

 思いっきり司は、ポテトチップスの袋をまかしてしまった。慌てて広いながら、口に放り込んだ。

「やんや、きったねえなあ。落ちたもん拾うな」

 結局司は、桂さんが片付けてくれるのを黙って見下ろしているだけだった。


 外にいると、まだ五月の風は冷たい。部屋の中だとそうでもないのだけれども、Tシャツとベストだけでピクニックを楽しむのも限界があった。 「さあてと、じゃあ行くぞ」  途中まで片付けを手伝ったけれども、司のぶきっちょさにあきれた桂さんが全部やってくれた。 「もう帰るの」 「寄るとこあるからな」  荷物くらいはさすがに司も持っていった。食べ残した弁当とシートを抱えただけだった。

 帰りの車の中、司は窓を閉めた。入ってくる風よりもクーラーの適度に聞いた環境の方が気持ちよかった。窓から眺めると、年配の女性たちが花見をしてなにやらひとりが踊っているのが見受けられた。また別の場所では、小学校の野外授業なのだろうか、ぞろぞろ男子女子それぞれ二列になって歩いている姿も見かけた。

 ──周平にそんなこと、言えるかよ。

 自分なりにずっと考えてきた「証」とはなんなのか。

 隣りで黙って運転している桂さんに見られないように、司は顔を窓に向けた。

 あいつが欲しがっているであろう時計をやろうとした時に、なぜあれだけ激怒したのか分からず戸惑い、かといって自分なりにどう答えていいかわからなかった。桂さんの言うとおり、自分の隠してきた秘密というものをさらけ出せばいいのだろうか。なにか、気持ち悪くなりそうだった。

 ──僕は、二年前に、女子の更衣室に入って、女子の着ているものをもって、外に出ました。

 ──手提げの中に入れていて、歩いていたら。

 ──ずっと一人で歩いていたら、いつのまにか、外に出ていたので、そのまま歩きました。

 ──その時、白い木がたくさん、こんな風に並んでいる、林を見つけて入っていきました。

 何をしたかは覚えている。

 でもなぜあんなことをしたのだろうか。

 やっちゃいけないことだということくらいは、今ならはっきりと言える。

 今なら絶対にやらない。

 でも、あの時の記憶だけは紙の上に書いただけの、平べったい状態だった。

 だから、何もいえなかった。先生に呼び止められて、振り返って、いきなり学校の個室に閉じ込められ尋問された時も、「なぜそんなことをしたの」という狩野先生の言葉にも、反応することができなかった。天羽たちが直後に司を教室に呼び出し、「なぜ、そういう紛らわしい行動をとったのか」と問われても何も言えなかった。

 司の目の前に広がる景色は、神乃世で初めてふくらみ広がっていく。


 ──なんで犯人だって決め付けるわけ? 天羽くんもひどいよ。みんな、同じクラスメートでしょ。もっとクラスメートを信じなくちゃだめよ!

 男子のひとりが、「お前、女子のパンツを触った感想は?」といやらしげにささやいた時だった。今までは意識なんてしたことなかった。ただ同じクラスにいる同じ顔の女子と同じだと思っていた人が立ち上がって、司の前に立ちふさがった。女子たちのざわめきが生ぬるく広がった。

「いい? 第一、どこで片岡くんがそういうことをしたという証拠があるの? 実際、見たの? ほら、天羽くんにも聞いてるのよ。見てもいないのに勝手に決め付けるなんて、ひどいじゃない」

 少し甘えた感じの早口言葉。最初、何を言っているのか聞き取れなかった。

 ただ表情だけは嘘じゃないとわかった。司の顔を何度もあどけなく見やりながら、悪口を言った奴だけではなく、自分の側で腕組みしていた天羽にも同じように声をかけていた。びんびんと響き渡る声が教室中を静まり返らせ、同時にどろどろしたゼリーのような空気にとろかしていた。

 ──だって、犯人って一人しかいないじゃない。

 ──そうだよ、片岡くんしかいないって。

 ──小春ちゃん、なんでいきなりそんなこと言うわけなんだろうね。

 あの時、一番「なんで」とつぶやきたかった自分がいた。

 目の前の女子が、クラスの評議委員を勤めている西月小春だという名を知ったのは、その次の授業からだった。同じ顔の男子、女子。誰一人見分けることができず黙りつづけていた司が、初めてしっかりと別格、と思うことのできた人だった。おかっぱ髪に前髪をつまむようにして斜めに結び、ころころと笑う、あの人のことをいつしか目で追うくせがついていた。

 ──嘘だと言いたかった。

 あの人が言う通り、全くの濡れ衣だって言い切ることができればどんなによかっただろう。

 司が初めて、自分のしたことを悔いて泣いたのは、帰ってひとりぼっちになってからだった。

 今まで、こういう時に思い出す相手は周平だけだった。悔しくて泣きたくて壊れてしまいそうな時、語りたいと思うのは周平たったひとりだった。

 ──周平、聞いてくれよ!

 二年間、言いたくても言えなかった。小学校の頃ならば、毎日周平の家に駆けていってしゃべりつづけることが、今の司には出来なかった。  

 今、言わないと、もう二度と周平に話すことはできないかもしれない。どんどん、他の友だちと同じように遠くへ逃げてしまうかもしれない。どんなに司が周平を追いかけても、追いつけないかもしれない。

 車窓から流れる山々と、満開の桜、こぼれそうに大きなたんぽぽ。 景色が遠のいていくにつれ、司は突然、怖くなった。


「桂さん、あのさ、まっすぐこれから周平のうちに行ってほしいんだ」

「おい、いきなりどうしたんだあ?」

「とにかく、早く、早く」

 司はわめいた。脇のハンドブレーキに触れそうになり怒鳴られた。

「じゃがっしい、なにほざいてるんだよ。わあったよ。行く行く。周平とこな」

 目一杯の神乃世の景色が続いていた。時折、「ほら、信号なんか無視しちゃえ」と騒いでは叱られた。  


 周平は目をまんまるくして玄関から出てきた。こざっぱりした町営住宅の一棟。神乃世町ではアパートのような集合住宅が少なく、ほとんどの人たちが一戸建てで暮らしていた。周平もその一人だった。お母さんとふたりで、きれいな花のいっぱいおがった庭のついた家に住んでいた。

「どした、司」

「あの、あのさ」

 降ろしてもらった後、先に桂さんには帰ってもらった。

「今日おばさん、いないよな」

「いるわけねえだろ、母ちゃん仕事だ」

「ちょっといいかな」

 黙って顎をしゃくる周平。前の日よりはなんとなく、他人行儀なところが残っているようだった。たぶん、司の感じていたことすべてかもしれない。顔の汗が張り付いて臭い。司は何度か鼻の下をこすった。奥の四畳半に入り、足の踏み場のないくらい漫画本と洋服が散らばった場所で、自分の座るところだけ片付けた。ぬぎっぱなしの下着や靴下が散乱していた。いつものことだ。窓を開けて周平は、椅子にまたがって座り、膝を抱えた司を見下ろした。ジーンズの膝が白っぽくなっているのに気付いて、なんどか指先で丸く話を書いてみた。

「あのさ、周平」

 司は切り出した。咽が詰まりそうで、声が出なかった。

「今から僕が話すこと、まずは何にも言わないで、全部聞いてくれるか」

「はあ?」

 身を乗り出すようにして、椅子を前に傾けバランスをとる周平。

「絶対に、何にも文句言わないで、ただ黙ってしゃべってるの、聞いてほしいんだ」

「何改まってるんだよ」

 ──周平にだけは、分かってほしい。

 桂さんが教えてくれたように、まずは一言ずつ区切りながら、言葉にした。

「僕、今、好きな女子が、いるんだ」

「司、おい、今なんて言った!」

「だから黙って聞いてくれっていっただろ!」

 ぐわっと涙が出そうになった。こらえた。司は膝を抱え直し、もう一度つぶやいた。

「その人に、今度、ちゃんと話そうって、思ってる」

「ちゃんと話すってなんだよ!」

「だから黙れよ!」

 軽蔑しないでくれ、とは言いたくても言えない。司はもう一度深く息を吸うと、言葉を吐き出した。周平に割り込ませないように、ひたすら早口に叫びながら、途中息継ぎをしながらずっと話し続けた。


「今、まだ言う勇気ないんだけど、僕は青潟で取り返しのつかないしくじりをやっちゃったんだ。なんであんなことをしてしまったのか、僕もまだわかんないんだ。けど、いつか必ず周平には話す。僕のやらかしたとんでもないことを、クラスの中でひとりだけかばってくれた人がいて、それが、今言った僕の好きな女子なんだ。証拠もないのにそんなことしたなんて決め付けるのは変だとかいって、僕に悪口言う奴へ文句言ってくれたり、帰り、誰も僕に挨拶なんかしてくれないのに、その人だけがにっこり笑ってくれるんだ。ほんとだよ、その子だけなんだ。僕に年賀状くれたクラスの人ってその子だけなんだ。優しい子なんだなって最初は思ってた。うちの小学校の女子みたくおっかなくないなってそう思ってただけなんだ。けど、その子が今、仲の良かった男子に嫌われて、すっごく辛い思いしているのを今、見てるんだ。どうしてそんなに嫌うのかわかんない。僕の場合はやったことがことだから、当然卒業までシカトされてもしょうがないんだって思うんだ。それはあきらめてる。けど、その子は僕の見た限り、全く悪いことなんてしてないって思うんだ。クラスのことも一生懸命だしさ。本当だったら僕なんて絶対に手の届かない人なんだって思っていたけど、その男子から言われてるんだ。僕が本当にその子好きだったら、譲るって」

「おい、ちょっと黙れ! 司、お前変だぞ!」

 周平が本と靴下の上にぺたんと座り、怒鳴りつけた。

「周平、お前、女子のこと好きだなんていう奴、嫌いだよな。僕もその子のこと知るまでは女子を好きになる奴がどうしてそう思うのかわかんなかった。けど、今ならわかるんだ。嫌われてもしかたないってわかってるのに、ひとりでも優しくしてくれたら、どうしても好きになっちゃうよ。僕だけじゃないかもしれないけど、それでも、嫌われてる僕のことをふつうに接してくれる人なんて、いないんだ。桂さんだけなんだよ。今、僕と話してくれてる青潟の人って。だから、僕はもう決めたんだ。僕さ、周平」

 言葉が溢れた。言うつもりのない言葉ばかりだった。周平はあきらめたように、下から見上げるようにして司を見つめた。

「その子がどんなことをしてたとしても、どんなに嫌われるようなことしていたとしても、僕だけは、その子の味方でいようって決めたんだ。僕にしてくれたことを、そのまんま、その子に返そうって思ったんだ。きっと僕がその子に好きだって言ったら、嫌がられるってわかっている。嫌われても当然だって思っている。好きになってくれなんて思わない。ただ、僕は、その子のことを味方なんだって思いたいんだ。僕考えていること、間違ってるか?」

「ちっ、結局お前も、女かよ」

 吐き出すように周平が横を向いてつぶやいた。

「周平、僕だって、たぶん周平だったらそう思ってる。ずっと女子なんて好きにならないって思っていたんだ。けどやっぱり、どうしようもないよ。夜になったら変なこと考えたりしちゃうんだ。青潟のストリップ劇場のポスター見ていると自然と鼻血が出るし。きっと周平はそんなこと考えないよなって思ってたし、絶対そんなこと、言わないでおきたかったんだ。けどさ、周平、欲しがってただろ」

「何をだよ」

 少しあきれた風の言葉に、司は泣きたくなった。

「親友の『証』をさ」

 もう溢れる涙がどうしようもなく流れた。しゃべり疲れたのと、息が上がったのと、すべてで頭の中が朦朧としていた。

「周平にしか、こんなこと言えないよ。僕みたいにいやらしいことばっかり考えてるなんて、変だろ。絶対変だろ。けど、しょうがないんだ。もう、どうしようもなくて、言えない」


 周平は立ち上がった。目をそらしたまま、机の引出しを開いた。部屋と同じくごちゃごちゃした状態。実用に適していない。かき回した後、ぽんと一冊、投げてよこした。

「これ、なんだよ」

 おちち、という感じの胸を両腕で隠した高校生くらいの女子が、表紙からじっと司をにらんでいた。写真集だった。めくってみると、どの写真もみな際どかった。足をゆるめて寝ている姿が印象的だった。ほとんど、布を身につけていなかった。

「そういうことだ」

 一言だけつぶやき、周平は司が涙をぬぐい切るまで黙っていた。

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