26
約束どおり泉州さんと待ち合わせた。どうやら全然司と歩くことを嫌がっていないらしい。現在にいたるまで、司を毛嫌いする女子たちの雰囲気は壊れることなんてないのにだ。司はただ、おずおずと生徒玄関で待ち、せいたかのっぽの泉州さんに従ってかさを差すだけだった。 「あれ、あの」 西月さんの姿がない。
「小春ちゃん?」
泉州さんは髪の毛をかき上げた。少し、脂臭い匂いがむっとする。
「ああ、小春ちゃんはね、一年の杉本さんが連れて行くって。それに直接裁判見るわけじゃないんだから、ゆっくり行こ行こ」
このどしゃぶりの中、自転車漕いで帰る男子もかなりいる。
「あらら、委員長様も自転車かい」
目の前を通り過ぎたのがどうやら、評議委員長らしい。
「あんたのライバルだよ。恋じゃなくて、英語の方でね」
やっぱり泉州さん、言っている意味がわからない。司は聞き流すことにした。
「直接裁判見るわけじゃないってどういうことだよ。なんのために行くかわかんないよ、僕だって困る」
「しょうがないねえ。坊やはだから困るってさ」
肩をすくめてみせ、泉州さんはバスの時刻を確認した。
「とりあえずさ、バスで行こ。歩くとしゃれになんないよ。それにあんた、今日はやたらと私の顔ばかり見てるねえ。結構いけてること気付いてくれた?」 「桂さんに気付いてもらわないとしょうがないだろ」
この機会だ、言うだけ言ってしまおう。
「今日、雨だからなおさら臭いんだけどさ、泉州さんはお風呂に入って髪の毛洗えばすっごいきれいになるって桂さんが言ってたよ」
「え、桂さまが?」
いきなり「さま」付けになる。
「僕なんかに見せる必要はないけどさ」
泉州さんは黙った。ため息を大きくついた。
「あのねえ片岡。そのくらい私に文句言えるんだったら、どうしてもう少し他の奴とうまくやらないのさ。見ててお母さんは涙が出てくるよ。せっかく同じ班になった奴と、もう少し打ち解けるとかさ、わかるよねえ」
「お母さんは二人もいらないんだ」
「あっそ」
また気まずくなった。この会話の中にどうやって、「片想い」を読み取ればいいのだろう。司はブレザーを羽織るとすぐバスに乗り込んだ。たまたま運転手後ろの席がいたのですぐ座ったら、頭を思いっきりはたかれた。
「あんた、後ろに年取った人が乗ってきてるよ」
──それはまずい!
条件反射でぴょこなんと立ち上がってしまい、席を譲ったおばあさんに大笑いされてしまった。
駅前で降り、泉州さんに従って会場のカラオケボックスに入った。自転車が二台ほど玄関先に着けてある。放課後、カラオケで盛り上がる奴がけっこういるのだろう。制服姿で入るのにちょっとだけ抵抗があったが、泉州さんが堂々と顧客名簿に名前を書くのを見てあきらめた。
「ふたり部屋でお願いします」
顔をしかめた司ににやりと、
「ちょっとエッチなこと考えてるんじゃないの、片岡も」
──そんなこと思ってるの泉州さんだけだよ! 司はむっときた。こうなったらしゃべってなんてやるもんか。
大して動揺するでもなく、泉州さんは一階のカラオケ室へ案内され入っていった。二人部屋だと密室、体臭がすさまじくなりそうだと懸念したのとは違って、結構広い六畳くらいのルームだった。ガラステーブルの上には曲選び用の本。電話帳かと思った。
「なんか歌う?」
「いいよ、だってそれが目的じゃないんだからさ」
「あっそう。そうだよねえ」
泉州さんは勝手にウーロン茶を二杯注文した。
「この店、一時間で500円だから、あとで割り勘だよ」
「わかってる」
それより早く聞きたいことを確かめたかった。
「あのさ、今日の弾劾裁判ってどういうことになってるのかを早く教えてよ。それとさ、なんで僕がここで待ってなくちゃいけないのかってことと、あと」
「小春ちゃんね。そうあせりなさんな。片岡、ちょっと待ってなよ」
薄暗い中にミラーボールがゆっくり光を細かくばらまきながら回っていた。よく父さん関係のパーティーとかで、こういう風な部屋を見ることが多い。
「泉州さんさあ、僕にかまおうとしたわけ、教えてよ」
できるだけ何気なく、ふと思いついた、そんな顔で司は尋ねることにした。
──まさか、変なこと考えてるなんて、言えないじゃないか。
「なによやぶからぼうに。そんなことよりもっと別のこと、知りたいんじゃないの」
「別のこと?」
ついついつられてしまうけれども、もしこれからのことだったとしたら聞いておかないとまずい。司は質問を飲み込んでおき、泉州さんの言葉を先に待った。
「今日、うちらがここに来ていること、小春ちゃんとあと、一年の杉本さんしか知らないんだわよ」
「え?」 思いっきり驚いた。 「だってさ、今日弾劾裁判だって言ってただろ?」
「なにもうちらふたりが顔出すわけないじゃんか。出してどうすんの。また天羽に言い負かされて尻尾巻いて帰るのがオチでしょうが。ったく、片岡、あんたってばさあ、ほんとよわっちいんだからさ」
──殴り合いになってうちのクラスの女子五人みたいに停学になって修学旅行行けないよかましだよ。あの人たち、いけることになったみたいだけど。
司個人の希望としては別に行きたくもなかったのだが、泉州さんのために、としておく。
「じゃあなんでここに集まってるんだよ」
「あせりなさんなよ、まあいいじゃんか。たまにはゆっくりふたりで密室ってのも」
にんまり笑う泉州さん。顔だけ見れば、ほんと外国のファッション雑誌でポーズとっているモデルさんそっくりなんだが。
「だって僕と密室だってことになったら、泉州さんの方が困ると思うよ。桂さんにばれたら」
「大丈夫。桂さんあんたをライバルだなんて思ってないからさ」
「じゃあさっきの質問だけど、なんで僕なんかに声かけてきたんだよ。桂さんから聞いたよ、クリスマスパーティーで」
無理やり引き戻すことに成功した。何か物言おうとしている泉州さんの表情が少し慌ててきたがそんなの無視する。
「僕のこと話して、桂さんと盛り上がったんだって聞いた。どうせ僕のことなんか、馬鹿にしてたんだろ。桂さんに近づきたくて僕にちょっかい出してきたんじゃないかって思ってたけど」
「まあね、それは当たってる」
ほっとしたのだろうか、泉州さんはブラウン管と向かい合う格好で座った。唄本を何度かめくり直した。
「友だちになるってことってさ、理屈じゃないじゃん」
「けど僕になんか声かけたら女子たちから嫌われるかもしれなかったんだよ!」
「いいじゃんそんなの。話合う奴としゃべりたいっていうのが本音だったら、男だろうが女だろうが関係ないじゃん。桂さんが食後のデザートとしてくっついてくるなんてもっと最高じゃん」
──桂さんはデザートじゃないよ。焼き鳥だよ。
あの体格だと、鳥よりも豚の方が近いかもしれない。
余計なことを考えてしまった。つい笑ってしまいそうになり、泉州さんに文句をいえなくなってしまいそうだった。
「片岡、あんたいいかげん、『僕なんか』って言うのやめな」
一呼吸おいて、泉州さんは司に背を向け、扉の方を見つめたまま言った。
「桂さんとも言ってたけどさ、あんた、自分をちっちゃくみせればいくらでもみんな許してくれると思い込んでるんじゃないの。あんたとしゃべっているとさ、肝心なところでびびって逃げようとしてるのがわかるんだよねえ」
「逃げてなんかないよ! 何が言いたいんだよ」
「黙んな」
穏やかだが、有無を言わせぬ口調で一喝されてしまった。言い返せないのがやっぱり悔しい。膝を抱えた。泉州さんはやはり背を向けたまま、今度はいきなりエビぞりした。頭をガラスのテーブルに載せた。
「そろそろ弾劾始まるころだと思うんだけどさ。この前近江さんがふざけたこと口走ってたじゃん。『私が丸く治めてあげる』みたいなことをさ。ふざけんな、って思ったけど、あの人の言うことも一理あるって思うんだわ」
──近江さんの言うことが?
よくわからない。あの時は近江さんよりも、怒れる泉州さんを押しとどめるのが精一杯だった記憶のみ、残っている。
「今の小春ちゃん、きっと天羽に申しわけない、許してほしいって思っていろいろ努力していると思うんだ。女子の目から見ると、何もそこまでしなくたってってぐらい頑張ってるよ。二月くらいから今までずっとね。けど、そんなことさっさとやめればもっと楽になっただろうし、近江さんじゃないけど『天羽もクラスメートのひとりとして』お付き合いしてくれたかもしれないんだよね。あの子なんかしゃべってるとむかつくけど、言ってることは正しいよ」
──良く覚えてるなあ。
ガラスの上で少し司向けに、寝返り打つようなしぐさをした。妙に甘ったるくみえた。
「だから、近江さんが手出しする前に、私の方からひとつ、話しといたんだ」
「話って、なになに、僕わかんないって」
身を乗り出し、真ん前に顔を近づける。
「近江さんが言ってたの覚えてないわけ? あんたのことなのにさ」
わからない。ミラーボールを見上げ、散らばった光を羊の数数えるような気持ちで指差し、考えた。思い出せない。
「 ったく、だからあんた、一人じゃなんもできないってのよ。いいかげん大人になりな。ほら」
ため息をつきながら泉州さんはもう一度、テーブルにえびぞったまま、天井を見上げ、答えをつぶやいた。
「小春ちゃんが片岡と付き合いたくなるよう、私の方で説得してみたってわけ」
腰が抜けた。ってこのことだ。立ち上がれない。テーブルをぶん殴ろうとしたが、素早く泉州さんは起き上がり一歩後ろへ下がった。仰天すると声が出ないって本当だ。あ、あ、と咽仏が震えるだけだ。
──あ、あの、今なんて言った?
「なにぶったまげてるのさ。前々から匂わせておいたけどさ、小春ちゃんのことをクラスの粗大ゴミみたいに思われているやつらなんかに説得されたくないって思ったわけよ。近江さん、小春ちゃんに何か言ったみたいよ。今日の生理の話の時にさ」
──今日のって……?
あまりこだわることなく泉州さんは横座りしたまま髪の毛をかいた。
「小春ちゃん泣きそうになっていたから、きっと相当なことを言ったんだわ。いつもだったら私なりに文句言ってやるんだけど、違う視点から考えてやっぱり、そっちの方がいいと私も思ったわけよ」
「けど、けど、あの、それは違うよ!」
やっと声が出た。足が痺れて立ち上がれない。
「だって西月さんが好きなのは、天羽なんだし、僕じゃあだめなんだ」
「だからさっき言ったっしょうが。『僕なんかじゃ』って言うのはやめなって」
「だって、だってさ」
今まで何度も心によぎらせ、封じてきた言葉を言うしかなかった。壁にもたれながら司は立ち上がった。つま先だけ針山に足つっこんでいるような感覚で、膝ががくりときそうだった。
「僕は、僕は、女子のあれとかそれとか、盗んで現行犯で捕まっちゃった奴なんだって。そんな奴と付き合うとかしゃべるとかしたら、もう西月さん、クラスで居場所なくなっちゃうよ。あの時の僕みたいになっちゃうよ」
「あ、それは大丈夫。杉本さんもいるし、E組だってあるし、クラスで仲良しの子も結構いるし。あんたよかまし」
──そりゃそうだけどさ!
まだある、と理由を挙げた。
「それに、僕、面白いことしゃべれないし、天羽みたいに明るくなれないし」
「そのまんまのあんた十分面白いじゃん。キャラが立ってるよ。お笑いマニアの天羽にもちゃんと認定されたじゃん」
「それに、僕」
「あのさあ、片岡。あんた本当に小春ちゃんのこと、好きなの? イエスかノーか、はっきり言いな」
とうとう、司は理由を挙げることができなくなった。
言い訳できない、最強の理由。どんな理由も、気持ちに嘘はつけない。
──藤棚の前で微笑む、あの笑顔。
いつも机の上に飾って、想いを伝えたつもりでいた。
「イエス、なんだね」
司の頭を軽く片手で掴み、こくんと頷かせた。無理やりじゃなかった。自分で頷けなかっただけだった。泉州さんの顔を見た。ほんのわずかだけ唇が曲がっていたけれど、すぐに元通りに戻った。司の腕をつかんで、軽く振った。
「小春ちゃんしだいだからね、こればっかは。私が桂さんからしたら、ほんの小娘でしかないみたいなのと同じさ。ははっ、しょうがないよねえ。けどさ、片岡、これだけは忘れるんじゃないよ」
ゆっくりと座りなおした。ふたり、同じ位置、同じところだった。
「小春ちゃんにしてあげられることは、あんたがしてもらったことで十分じゃん。振られようが何しようが、あんたの方で明日から、小春ちゃんに挨拶してあげな」
「あいさつ?」
「あんたさ、人の顔みてまず『おはよう!』と声かける習慣、まずはつけな。男子連中も悪くないけど、まずは小春ちゃんから。だって小春ちゃん返事できないから、受取るしかないよ。他の女子たちなら無視するかもしれないけど、小春ちゃん、にっこりくらいはしてくれるよ」
──無視されるよ、絶対!
顔に出てしまったのだろう。泉州さんは司のおなかあたりにかるく平手チョップを食らわせた。急所は外れた。
「小春ちゃん、たぶん今ごろ、天羽と最後の別れ話しているはずだよ。考えているはずだよ。あんたのことも、天羽のことも、これからのことも。小春ちゃんがどういう結論だすかわかんないけどさ、私はとりあえず、あんたをいちおしってことで推しておいたってことよ。よその、いかにも大人しくなりましたって小春ちゃんを好きになってつきあいかけてる男子たちよか、ずっとあんたの方が本気だもんね」
時計を覗き込んだ。泉州さんの言う通り、最後の話し合いの真っ只中のはずだった。
「だからさ、まずは飲み物飲もうよ。悪いようにはしないって」
司はメニューを覗き込み、財布の中身を確認した後、「杏仁豆腐」を二人分注文することにした。泉州さん、たぶんこういうのが好きなはずだと、何度か食事を一緒にしていて感じたからだった。
しばらく何も歌わず杏仁豆腐をすくっていた。
舌に滑り込むつるりとした白いゼリー。
──僕のこと、好きになんてなってくれるわけないよ。
泉州さんがどのようなことを西月さんへ吹き込んだのかはわからない。きっとあの乗りで
「小春ちゃん、片岡の方がいいんじゃないの? もう天羽なんてあきらめな」
と声をかけたに違いない。さっき司が攻めまくられたように。きっと。言葉を返せない西月さんはどういう反応をしたんだろうか。露骨に「いやよあんな下着ドロ」と言う顔をしたのだろうか。薔薇を受取ってくれる程度だったらかまわないけれども、付き合うなんて、そんなこと許されるわけがない。
でも、泉州さんは、もう司が口に出す前に、準備を整えてしまったという。
近江さんに対する対抗意識、としか考えられない。
──なんでそんなこと、言ったんだよ!
もっと文句を言いたかった。でも、言おうとするたびに咽が詰まって言えなくなる。もうまな板の鯉だ。もうどうすればいいのか自分でもわからない。どくどく心臓が鳴り響き、涙が出そうになったり、一緒に西月さんと歩いた日のことを思い出したり、なぜか周平に会いたくなったり。頭の中はめいっぱい大洪水だった。
「あんた、なんか歌う?」
「こんな時に、良く歌えるよ」
あっさり泉州さんが歌本を置いたときだった。扉のガラス越しに、見覚えのある顔が走った。二度首を横に振り、司を見た。どこかひとつのところしか見えていない表情の、ちっとも笑っていないポニーテールの、あの子だった。
「あ、あの一年生」
「どれどれ、来たの」
自分の取り皿分、杏仁豆腐をすべて平らげた後、泉州さんは振り返った。大きく頷くと同時に、司の腕をひっぱって一緒に立たせた。まだ食べきっていないのに。ちりれんげを床に取り落とした。拾ってくれた。
「ほら、あんたの出番だよ」
「出番ってなんだよ、いったい」
背中を思いっきりはたかれた。
「お嬢さまにお連れしていただきな。ほら、ネクタイ曲がりまくってるよ。それと髪の毛、もっとちゃんとしな」
すぐに扉を開け、泉州さんは顔を合わせた一年の女子……あの杉本さんだ……に手を可愛く振ってみせた。水色のアンティックドール風ドレスを着ている。ということは、学校から来たということではないらしい。ふかぶかとお辞儀する杉本さん。司の方をいつもの固まった瞳で見据えると、
「西月先輩がお待ちです」
一言だけ告げた。
「ありがとね、杉本さん」
「西月先輩のためなら当然のことをするまでです」
抑揚のない言葉で返答した後、杉本さんは部屋から出た。もう一度司は泉州さんにひっぱられるまま一つ尋ねた。
「僕、なんで呼ばれたの」
「行けばわかるって!」
ピースサインをほっぺたの横でしてみせたとこみると、悪いことではないのだろう。
最後に耳もとで、
「ちゃんと、小春ちゃんを連れて帰ってくるんだよ。ここで待ってるからね」
まだガラスボールに杏仁豆腐はたっぷり残っていた。さくらんぼもかなり浮いている。それを食べたいんだろう。やっぱり好きなんだ。 「また戻るから、杏仁豆腐残しといて」
ささやかなお願いだけして、司は廊下に出た。だいぶ客が入ってきたらしく、がなり声がかなり響きまくっていた。どうやら部屋の中では防音が効いていたらしい。杉本さんの上品な洋服姿に、ほんの少し緊張した。西月さんがどうしているのか、天羽がどんな様子なのか、尋ねることすらできなかった。
──泣いてなければ、いいなあ。
あの時のような状態でなければ、大丈夫だ、そう信じたい。
二階に向かう階段を上がり、ドアが開けっ放しになっている部屋へ案内された。一階よりも部屋が広いのは道理か。一階に較べて人気がまだなかった。
杉本さんが黙って一度振り返った。またじいっとにらみ付け、
「西月先輩を、どうかお守りください」
古風な台詞を口にした。
──僕、疫病神かもしれないのに。
言えずうなづうだけだった。
先に杉本さんが入っていった。司は戸口のところから様子をうかがった。結構広い。十畳くらいの部屋だった。真ん中にテーブル、ソファーがしつらえられているのは、さっきいた部屋とそう変わらない。このくらいの広さだったら、さっきみたいに泉州さんに接近されたりしないだろう。背中を丸くしていた男子がひとり、司の方を振り返り、絶句した後、
「おい、片岡、お前」
大声で叫んだ。天羽だった。顔を見るまではわからなかった。入っていけない。入ってはいけない、そんな雰囲気だった。杉本さんが立ち上がるやいなや、素早く靴を脱ぎ、立ち上がった女子らしい人に寄り添った。黙って動かないでいるその人の手を引いた。奥に座っていた制服姿の男子が、側のかばんの柄を持ち、まず杉本さんに声をかけた。
下の階のがなり声が廊下で響く。部屋に広がるミラーボールの光だけが頼りで、誰が誰だかわからない。ただ、髪の毛を幼い雰囲気ですくって結んだ、あのひとが近づいてきていることだけは、ちゃんと見て取れた。 うるんだ瞳。結んだ唇。決して、司に来てほしいとは思っていない表情だ。
でも、司の方をまっすぐ見つめている。
あの日、司に給食のパンと牛乳を差し出した時と同じまなざしだった。
──僕、入ってっていいのかな。
──近づいて嫌がられないのか。
自然と片手を差し出していた。一歩だけ、前に出ようとした。西月さんは動かずに部屋の中へ視線をさまよわせた。すぐ側で唖然としている様子の天羽に何か言いたそうな顔でもって、見つめた。また背中を丸める天羽の姿。側に近づいてきたのは他のクラスの男子だった。かばんを差し出した。西月さんは受取った。もう一度、天羽にテレパシーを飛ばしたそうな顔をした後、靴を履いて廊下へ出た。扉を閉めて、明るいところで西月さんを隅から隅まで見つめた時、やはり泣いているのだと気が付いた。
「下に、泉州さんいるから。僕、持っていく」
司は西月さんのかばんに手を伸ばした。西月さんは拒絶しなかった。両手で司にそれを渡した。無表情のままだった。
沈黙に守られたまま、泉州さんの待つ部屋へ案内した。西月さんは気力なさげにうなだれたままだった。それでも司にはかばんをもってくれたお礼なのだろう、かすかに微笑んでくれた。最近は、年賀状の上でしか見られないやわらかい笑みだった。
「小春ちゃん、終わったんだね」
こっくり、頷いた。やはり親友に接する態度とは違うのだと、ちょっと落ち込みたくなった。先に西月さんを部屋に通した。狭い部屋なので、ずいぶんと動きずらい。杏仁豆腐もまだ残っていた。泉州さんが自分の入れ物にもう一杯すくい取り、西月さんに渡した。
「私の使ったもんだけどさ。まずは食おうよ」
素直に西月さんはソファーに座り、ちりれんげをそのまま口に入れた。味なんてどうでもいい、ただ加えている、そんな感じだった。黙ってその様子を眺めていた泉州さんは、西月さんの隣りに座り、大股を開いたまままたエビぞりをした。司はおずおずと、もといた壁際の席に正座した。もちろん足をくずして。
「小春ちゃん、考えてくれた? さっきのことなんだけどさあ」
「いいよ、泉州さん、僕はあの」
西月さんの視線に思わず黙った。してやったりと笑うのは泉州さんひとり。
「近江さんにもまた言われたんでしょが。むかつくよねえあの女」
むかついているとは思えない静かな口調で、
「けどさ、言ってることは、当たってるんだよ、悔しいけどさ」
司をぐいと見た。黙ってな、との合図だ。もうひとさじ、西月さんはうつむいたまま、口に含んだ。
「もうどんなことしたって、天羽は小春ちゃんのこと、好きになってくれないんだよ。このままだと、嫌われる一方だよ。もう、あきらめなよ。小春ちゃんみたいに尽くす子が天羽は大嫌いだっただけなんだよ」
かすかに首を振った。泉州さんの舌は止まらなかった。
「小春ちゃん、そんなに天羽に何かしてやりたいんだったらさ、とことんあいつに嫌われてやりなよ。だってそうしてほしいんだってあいつが言ってるんじゃん。小春ちゃんができる最後の思いやりって、それだけだと思うんだ。思う存分嫌われるだけ嫌ってもらって、あとは何も言わない。そうしてくれれば天羽は満足なんだよ」
──泉州さん、いったい、何言ってるんだよ!
女子同士の会話は理解不能だ。あとで桂さんに聞いてみたってわかりっこない。
「私は小春ちゃんがなんでも一生懸命がんばる子だって知ってるよ。クラスのことだってなんだって努力すればなんでもよくなるって信じてるんだって。今だってそうだよね。あんなひどいことされてもさ、近江さんにクラスのことで協力してやってるじゃん。私も、ほら、小春ちゃんの代わりに天羽を成敗したあの子たちだって、みんな小春ちゃんを応援してるんだよ。私とか他の子だったら、いくらでも努力が通じるよ。けど、天羽はどうしようもないよ。努力したって、いくらおまじないしたって、嫌いなものは嫌いなんだよ」 身動きしない。膝の上の杏仁豆腐は全然減っていない。司は息を殺した。
──嫌いなものは、嫌いなんだよ。
──どんなに努力したって、だめなんだ。
うつむいた西月さんの瞳がまた揺れ始めた。泉州さんが容赦する気配はない。
「だから、もう努力するのをやめなよ」
わざと明るく、さらりと。
「その代わりさ、さっきも言ったけどさ」
司を射る。やな予感ありありだ。西月さんならともかく、泉州さんの視線は怖い。つられて西月さんも司を見つめ、また手元の杏仁豆腐に眼を落とした。
「片岡を利用しなよ」
思いっきり司はテーブルに頭をぶつけそうになった。
──あの、おい、泉州さん!
「利用って、なんだよ!」
「片岡、少し黙ってな。あんただっていきなり、小春ちゃんが恋人づきあいしてくれるなんて期待してないんでしょ。どうせ僕は下着ドロだから、どうせ僕なんか、どうせどうせっていじけてるんでしょ。今の今になってこの状態ってのも、なっさけない話だよねえ。けどさ考え方によっちゃあ、ここまで小春ちゃんに都合のよい彼氏ってのもなかなかいないよ。無理に付き合うなんてことしなくたっていい、って片岡言ってるよ。小春ちゃんがばれてほしくないようだったら絶対他の人には言わないよってさっきもちらっと言ってたよねえ。それにさ、こいつ曲がりなりにも超お金持ちじゃん。本人全然その意識なさそうだけどさ。今日のカラオケボックス代結構気にしてるしさ。なんか言ったんだって? こいつのうちに連れていってくれるって。神乃世だって? 話聞いたらさ、片岡のうち、大きなお寺を作り変えたようなとこなんだってさ。小春ちゃんついていけば、一生忘れられない豪遊できたんじゃないの。まあそれは冗談だけどさ。とにかくしばらく、天羽なんかどうだっていい、って思えるまでの間だけでもいいからだ、片岡を利用させてもらいなよ。ね、それでいいんでしょ。いいっていいな!」
怖い、逆らえない。けどいやだ。 「泉州さん、僕、そりゃあ、言ったけど、けど利用だなんて、あの」
西月さんも目を真ん丸くして、司をそれなりの表情浮かべて見つめていた。今までの無表情とは違う動きに、司は思わずどきまきした。「だってやなんでしょ? 普通の付き合いじゃあ。あんたの方が本当は堂々と言うべきだったんだろうけどさ、それができないんだったらまずは、利用してもらうのが一番でしょうが。まあ、あんたのやったことを考えれば、小春ちゃんの立場も心配ではあるけどさ。でも、もし片岡と付き合ったとして、他の連中や天羽から馬鹿にされた時は、私や他の女子たち、あと片岡だって黙っちゃあいないよ。大丈夫だよ。小春ちゃん。いきなりこののほほん坊やと付き合えなんて言わないよ。たださ、天羽以外の野郎と、気分転換するのもいいことだよ」
──泉州さん、気分転換っていったい!
司があわあわと口を動かしている間、泉州さんは「黙ってな」の合図を送ってきた。
──僕を利用するって、ばかにしてるよな。いくらなんでもそんな、そんなのないよ。
──利用されるんじゃなくて、僕はただ。
しばらく言いたい放題、「片岡司の有意義な使い方」についての説明が続いていた。司はしばらく黙り込んだが、とうとう我慢できなくなった。
「泉州さん」
と割り込んだ。
「今の話、ひどすぎるよ!」
困りきった顔できょとんとしている西月さんと目が合った。こんな顔を向けられるのも初めてだ。
「そりゃあ、僕じゃだめだって、確かに言ったけど、でも、利用だなんて」
「なにあせってるのさ。利用されるのがいやならどうしたいわけ」
面白がるように、泉州さんは首を一度、二度両方に曲げた。
「利用って言わなくても、僕、頼まれたらするよ。それに」 今度は西月さんに向かって言った。決して怒りの篭らない口調になるように。 「してほしいこと、これかなって思ってするだけだよ!」
瞳大きく、口を尖らせ、片手のちりれんげを取り落としそうになっている西月さん。
隣りで笑いをこらえて、またソファーでえびぞっている泉州さん。腹が立ってきた。
「してほしくなかったら、僕は絶対しない。けど、してほしいことだったら、僕は、やり方覚えてなんでもやるから。この前は神乃世行かなかったけど、夏休み、行きたいって言ってくれるなら、ちゃんと連れて行くから。泉州さんもおまけで連れてくよ」
そういうとこで「きゃあ、ラッキー」と喜ぶ泉州さんを冷たく見つめた。
「けど、もし僕がいて、じゃまだったら、ちゃんと視界に入らないようにするよ。もし僕がいて、西月さんが嫌われることになるなんてそんなことやだから。だから、迷惑なんてかけない。けど、してほしいって言ってくれたら、ちゃんと、僕するよ」
語尾が震えた。もう一度、唱えた。
「してほしかったらちゃんとする。しないほうよかったら、しないから」
「結局私の言ってることと同じじゃん」
泉州さんのまぜっかえしで、結局西月さんは何も意思表示しなかった。
「要は、片岡にものを頼む時、『利用したいんだけどいいですか』って頼まないでやればいいってことでしょが。ったく、男はおだてりゃ木に登るよねえ」
西月さんはもう一口、さくらんぼを流し込んでいた。大きな瞳はそのままに、
「ねえ、どうしよう、どうしよう?」
と友だちに声をかけたそうなしぐさだった。能面ではなかった。