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 修学旅行前だしなおさら忙しさにも拍車が掛かる。

 買物は桂さんと泉州さんが全部やってくれたし、なんだかんだ言って同じ班のクラスメートたちも、司に声を掛けてくれた。あまりしゃべったりはしないけれども全くの無視をこかれたまま過ごさなくてもよさそうだった。

「で、周平には連絡してくれたの」

「ああ、あいつびっくりしてたぞ!」

 本当は自分で周平へ電話しようと思っていたのだけれどもしそびれてしまった。桂さんが受けた伝言によると、

「絶対、眼開けて来いよってな」

 小学六年の修学旅行、司はずっと朝寝つづけていて、周平が揺らしてもなかなか眼が覚めなかった。あきれられた思い出がある。三年前のことなのに、みんな周平は知っている。

「あいつ元気だった?」

「元気もなにも、まだ一ヶ月も経ってねえだろ? 周平も色々悩みがあるみたいだぞ。司ももうちっと大人になってだな、周平の上下の悩みを聞いてやれよ」

「なんだよ上下の悩みって」

 ぐっと腹に笑いを留めるような顔で、桂さんは司の髪の毛をかしゃかしゃ混ぜた。

 ──大人になれったって、わかんないものはわかんないよ。

 ひとり、部屋で社会の参考書を開いた。

 修学旅行前に一通り、旅先の名産物や歴史について調べておくようにというのが、社会科担当菱本先生の宿題だった。確か、ほたるが飛ぶので有名だとか…… でも昼間見ると蛍ってゴキブリに似ている、と思ったりもした。学校に上がる前、父さんに連れられて蛍のたくさん飛ぶといわれる町へ行ったことがあるけれど、途中で眠くなって結局見損ねたという思い出しかない。

 ──ちゃんと起きてるって。周平も僕のこと、ずっとガキ扱いしてるしなあ。

 そのまま寝ようと思った。宿題なんて明日の朝早く起きればいい、いつもだったらそうしていた。でも、なぜか背中がびんと張って、寝させてくれなかった。あの日からずっと、司は勉強の神様に好かれてしまったみたいだった。桂さんに全部手伝ってもらって宿題を片付けていたのに、どうしても自分でやらないといけない、そういう切迫感に襲われる。桂さんにそんなこと言ったら、猛烈勉強マシーン化されるから言わないけれどもだ。

 ──勉強したら、少しは、大丈夫かなあ。

 司は参考書の赤字部分をそのままノートに書き抜きながら、音読した。

 ──天羽の代わりに、なれるだろうか。

 別に天羽はそれほど成績がいいわけではない。評議委員だからげれっぱってことはないけれども、それほど目立つ点数を稼いでいるわけではない。西月さんがこつこつ苦手なところを友だちから聞いて、一生懸命勉強して誉められているのとは違う。

 ──今ごろ、泉州さんに聞いているんだろうか。

 泉州さんは理系がばりばりに得意だから、大抵のテストはいい点数を取っている。

「今時の女はね、理系できる方がかっこいいのよ」

 と勘違いしたことを司に言うけれども、それは置いておいてもだ。

「けどさあ、片岡、あんただって英語できるじゃん。私もびっくりこいちゃったじゃんかあ。この前の小テスト、なんであんた二番なわけさ? あんなわけわかんない言葉どっさり出てきてさ、それも二枚くらい長文でさ、それをどうやってあんた答えだしたわけさ。あんな蟻の集団みたいなテスト用紙読んでいるくらいだったら、方程式百題の地獄を見た方がましだって」

 ──方程式は絶対やだって!

 誉められたら嬉しくて舞い上がりたくなる。

「ほら、一人頭の中が語学一色っていうのがD組にいるじゃん。あいつに負けるのはしょうがないよねえ。けど、その次だよあんた。語学馬鹿の次だよ。それに片岡、絵もいかしたもの描いてるじゃん。あんたってさあ、もっとそういうところを見せつけるチャンス作りなよ」

 ──だって、僕が二番取った時、あの人いなかったんだよ!

 さすがに司はそこまで言えない。でも泉州さんは読み取ったように得心顔を見せた。「小春ちゃんは運動能力抜群な男子が好きみたいだけど、やっぱり成績もいいこと、越したことないよ。ま、今はあんたまだまだだけど、桂さまに頼んでどんどん尻叩いてもらいなよ。ある日小春ちゃんが気が付いたら、天羽なんか目じゃない王子様がすぐ側に、なんてことになってハッピーエンドだってあるかもよ」

 ──この人、いったい何考えてるんだろう。あんな難しい数学の問題解いてるのに。

 頭の痛くなる、青潟における唯一の「友だち」に思いを馳せ、司は宿題をしっかり片付けることにした。

 もちろん、泉州さんと意味ない話をして盛り上がっているのが、逃げだってことも意識していないわけではない。今までならば、司の方が心の準備をして、その上で薔薇の花なり神乃世逃避行をしたりと、いろいろやってきた。

 ──今度は違う。

 天羽と近江さんが甘ったるい恋人同士みたいなことをしているのを見せ付けられた段階で、西月さんにしてあげられることはたったひとつしかない、そう叩き込まれた。泉州さんも、また後で一緒に話を聞いてくれた……泉州さんが一方的に報告したという方が正しい……桂さんも、

「お前、お嬢の言う通りだ! お前きんたま縮こまらせてびくつくのもいいかげんにしろよ。司がやってねえことったら、そうだな、一つしかねえなあ」

 ──わかったよ。それしかないんだろ。

 司は唇を噛んだ。

 覚悟はしている。

 振られることがもう決定事項だとわかっている。  司の存在なんて、何にも心に残っていないことくらい。

 ──そうだよな。『下着ドロ』なんかと付き合ってくれるわけないよな。

 ──どんなに僕が成績良くなって、野球部のエースになってもだめなんだ。

   だけど何も、泉州さんだってそんなに早く、準備を整えなくたっていいだろうに。

 振られるなら早い方がいい、と、別の意味で応援してくれているんだろうか。

「片岡、ちょっと悪いけど来てよね」

「悪くてもよくてもいかないと怒るだろ」 「さっすが、私の性格を読めるようになってきたねえ」

「余計なお世話だ」  天羽との話し合いが終わりもう一週間が経った。表面上は天羽も近江さんといちゃついていたなんて思えない態度を取っていた。近江さんも天羽の腕に抱きしめられて顔をうずめていたなんて、想像できないようなクールさで日々過ごしていた。

 きっと、影ではいろいろあるんだろう。

 うらやましいとは、今のところ言ってはならない。  泉州さんはというと、それなりに西月さんの面倒を一生懸命見ていた。天羽が時折、真面目な顔をして西月さんの方へ近寄ろうとする時がある。すると、

「ちょっと天羽、あんた何様のつもりさ! これ以上小春ちゃんを傷つけるつもりかい」

 と噛み付いた。天羽は黙って頷き、素直に席に座る。でもまたその繰り返しで泉州さんに負ける。やはり、「近江さんには一切手を出さないでほしい」という条件を守る以上、西月さんをこれ以上不安定にしてしまう言葉を出せないのだろう。

 肝心要の西月さん。 実は最近、クラスの女子たちが五人も学校を休んでいて、そのおかげで教室がすかすか、おかげで西月さんがどういう風な顔をしているかとか、ちゃんと勉強しているか、泣いていないか、全部見えるのだった。修学旅行前に食中毒なんだろうか、それともいろいろまずいことをやらかしたのだろうか、と噂は飛び交っている。誰も本当のことはわからないらしく、たまに近江さんに尋ねてくる奴もいる。担任の妹だからその辺は詳しいのではないか、という読みらしいけれども、話しているのかどうかはわからない。少なくとも司は全く見当がつかない。


「泉州さん、それより、なんだよ話って」

「ほらほら、あの時聞いたでしょが。弾劾よ弾劾」

 ──弾劾裁判。

 クラスの男子一丸になって、司を責め立てた、一年の日の記憶。

 体がぴりりとした。

「あんたが受けるわけじゃあないんだからびびるんじゃないってさ。それより、弾劾裁判がねえ、修学旅行の前の日なんだわ。あんた、来る?」

「僕呼ばれてないからいけるわけないだろ」

「別に呼ばれなくたって、行ったっていいじゃん

」  泉州さんは身勝手にもおっそろしいことを言う

。 「それに弾劾裁判って、この前の土曜だったんじゃ」

「いやね、それが違うんだわ。あんたにだけ教えてあげるね」

 ──僕にだけって、いったいなんだよ。  泉州さんはかがみ込み、司にだけ聞こえる声でささやいた。今日はちゃんとシャンプーしてきたらしかった。

「一応、やったらしいのよ。弾劾」

 早口で言うから大体のニュアンスを掴むので精一杯だ。 「ただね、どうもその前に天羽が女子たちに締められたらしいんだ」

「締められた?」

   思わず口に出てしまい、泉州さんのでかい手にはたかれた。

「オフレコだよ。クラスの連中は知らないんだからさ。小春ちゃんがかわいそうだってことで女子たちが団結して、天羽を呼び出して、それで思いっきりぶん殴ったんだって!」

 ──ほんとかよ。

 天羽の方を横目でちらっと見た。体育の時もちゃんと走っていたし、別段変わったところな

んて見受けられなかった。

 でも、確かに月曜から女子たち五人はしっかり休んでしまっている。

「けど、それどうして

」 「ばかだねえ。私たちとおんなじこと考えたに決まってるでしょうが。小春ちゃんをもう少し人間らしく扱いなさいよ!ってさ。けど皮肉だねえ」

 皮肉だねえ、のところだけ、おじさん臭い言い方をした。

「なにがだよ」 「小春ちゃんさあ、一生懸命クラスのために尽くしてきた時はなかなかみんな協力してくれなかったのにさ」

 口を耳から離し、右肩越しに西月さんを見つめ、また戻した。

「評議委員の間は、小春ちゃんクラスをまとめよう、みんなに喜んでもらおうっていつも笑顔振りまいていたのにね。天羽に嫌われ、近江さんに評議取られ」

 ──言葉も取られちゃった。

   小さな声でつぶやいた。司を見て泉州さんは大きく頷いた。視線を逸らさなかった。

「小春ちゃん、本当はずっと目立たない子でいた方が、幸せだったのかもしれないねえ」

 司ももういちど西月さんの後姿を見た。

 別の女子友だちが机の前に来ていて、映画雑誌を広げて差し出しているのを、頷きながら指差ししている。

「天羽じゃないほうが、ずっといいのかもしれないねえ」

 ──またその話かよ!  むすっと無視したかった。向こうの方が上手だった。間髪入れずに次の言葉。

「ということで、明日、放課後まっすぐ、駅前のカラオケボックスに集合。桂さまにちゃんと道草の連絡しときなよ!」

「カラオケボックスっていったいなんだよ!」 「黙りな!」  ──なにが黙りなだよ! 泉州さんとぽんぽん軽口をやり取りしているうちはそれほどどでかいこととも感じなかった。でも、改めて思い起こすに、「天羽を女子たちがぶんなぐる」なんて想像を絶している。約一名、やらかしてもおかしくない女子がいるけれども、その人はちゃんと西月さんの側にいるのだから、関わっていないことは確かだ。

 それに天羽だって、女子に手を出さなくとも逃げるとか、何かできたんじゃないだろうか。その日は評議委員会主催の弾劾裁判だったというのだから。殴られたままだったんだろうか。それとも先生に女子たちのことを告げ口したんだろうか?

 この辺については司も何がなんだかわからなかった。少なくとも天羽はひどい怪我をしているわけでないし、狩野先生も五人の欠席については取り立てて何も言わなかった。たぶん、たいしたことでなかったんだろう。泉州さんが大げさに取りすぎているだけだ。  それよりも、なんで泉州さんはあんなことを言ったのだろう?  ──カラオケボックスなんて、行ったことないよ。そんなとこいったら補導されるかもしれないのにさ。  全く見当のつかない場所だ。泉州さんが言うには「弾劾裁判」がそこで行われるらしいし、司もぜひ参加すべきだと言い募るわけだけれども、それもなんだか勝手過ぎる。裁判に掛けられるのは天羽だろう。西月さんも行くのだろうか。 

 ──泉州さんの言うことなんて、全然わかんないよ。

 次の授業は教室でビデオ鑑賞だった。社会科・菱本先生がよっこらしょとビデオデッキを抱え、放映幕を黒板の上から吊り下げた。しばらく寝ていられる。曇り空と蒸し暑さで汗がだらだら流れる。司は言われるままにカーテンを閉め、ビデオが再生されると同時に机へつっぷした。堂々と居眠りさせていただきます。


 ──お願い、私のこと、嫌いにならないで。

 ──天羽くんのいないところへ行きたい。  


 ──半径五メートル以内に近寄るんじゃねえ! 俺はな、お前みたいな偽善ぶる女が大っ嫌いだったんだ。最初からな。

 ──悪いけど、一生懸命ってのはね、求めてない人からしたら迷惑でしかないのよ。ばかじゃないの。

 ──何でもするから、お願い、天羽くんと近江さんを邪魔したりなんかしない。ちゃんとクラスのために何でもするから。お願い、私のことを嫌いにだけはならないで。


 ──じゃあ、近江ちゃんにだけは手を出すな。

 ──俺のことをとことん嫌いになってくれれば俺は最高に幸せなんだよ!


 画像は出てこない夢が、まぶたの奥に広がっていた。声だけがくっきり聞こえる。どんと聞こえると同時に眠りが途切れ、またうつむくとさらにまた声が響く。西月さんが泣きじゃくる声、天羽が怒鳴り散らす声、近江さんが冷たくせせらわらう声。

 たくさん交じり合っている。その声を司はずっと聴いていた。

 時折眼を覚ますと、何事もない風に天羽がやっぱり居眠りをこいている。近江さんが文庫本をめくっている。西月さんは背中しか見えない。ずっとうつむいてノートを取っている。

 暗幕ではない、白いカーテンのせいで光が百パーセント遮られたわけではない。ちょっとだけ影が濃くなった程度だった。居眠りしているのも丸見えだった。菱本先生と思わず眼があってしまい、どうしても上体を起こさねばならなくなってしまった。

 ──天羽、お前さ、偽善ぶる人が嫌いだって言ったよな。

 司はそっと眠りこけている天羽の方にテレパシーを送ってみた。もちろん超能力なんて持っていない。気持ちだけだ。

 ──大人の受け狙いで、僕のことをあのひとはかばったって言うこと、だったよな。

 もう一度、強く念じた。全然眼を覚まさない。やっぱりエスパーじゃない。

 ──僕のことなんて最初っからなんとも思ってない、それどころかやっぱり「下着ドロ」だって思ってて、僕があの人のことを嫌いになってくれるように無理やりテープ聴かせたことだって、僕わかってるよ。そんなに僕はガキじゃない。

 テレパシーが通じたのは西月さんの方だった。ビデオが地元の特色「蛍狩りツアー」の説明を流しているところで、ふっと振り向いた。司と眼が合った。そのまま一秒しっかり見つめ、また顔を戻した。表情のない、あの時のままだった。

 ──そう、わかってるよ。僕のことなんて最初っから、なんとも思ってないって。けどさ、天羽。けど二年間のことは本当なんだよ。 両手を握り締めた。膝の上に置いた。 ──嘘か本当かわからないけど、ずっと僕に声をかけてくれた人は、西月さんだけだったんだ。二年間、あのひとだけだったんだ。天羽が僕を心配して、いろいろ応援してくれたことはありがたいって思ってるよ。けど、あの頃、クラスで年賀状をくれたのは、二年間、あの人だけだったんだ。

 口に出さないから素直に言える言葉。頭の中で数珠繋ぎで転がっていく。

 ──あのひとがいたから、僕は、死なないですんだんだ。  車の行き来する道路に飛び出して立ち止まってやろうとか思ったこともある。

 父さんの住んでいるマンションから飛び降りてやろうと思ったこともある。

 一度は窓から片足出そうと父さんにしこたま殴られ、それきり口を利いてもらえなくなった。桂さんに預けられたのはその後だった。

 桂さんを信用して、何でも話ができるようになったのは、ずっとずっと後のことだ。それまでは部屋に篭ってずっと天井を見上げていただけだった。学校の行き帰り、噂をばら撒かれて否定できなくて帰り道泣いたこともある。

 あの時、話し掛けてくれたのは、ぽちゃぽちゃしたほっぺたに前髪をちょっと古くさげにつまんだ感じの女子ひとりだけだった。笑顔で「片岡くん、おはよっ!」と声をかけてくれた女子。天羽に「決まってないのに決めつけるなんてひどいじゃない!」と食ってかかってくれた女子。本当にやらかしたことなのに、ぎりぎりまで信じてくれていた女子。

 たったひとりだった。

 いまさら偽善だと言われたって、もう受け止めてしまった言葉は離せない。  

空中に舞ってコンクリートに叩きつけられることなく生きてきた司が、ここにいる。

   天羽がふうっと頭を上げ、天井に向かって大きくあくびをした。

 近江さんが退屈そうに時計を見て、なにか小さな声で話し掛けていた。

 どうも菱本先生は名産品よりも「ほたる」の商業関係についての話題に持っていきたいらしく、その後少しだけ話が続いた。誰も関心なんて持っちゃいないってわかっているのにだ。たぶん誰も、「授業」の一環なんて思っちゃいない。司はもう一度西月さんの方へ自分なりのテレパシーを送ってみた。ほんの少しだけ、背中がぴくっとしている様子だった。もしかしたら伝わっているのかもしれない。西月さん限定だったら、かまわない。

   せっかくの修学旅行前日だっていうのに、とうとう恐れていた事態が発生してしまった。大雨だ。めったに梅雨なんてこない青潟の気候なのに、今年に限って局地的大洪水の恐れありやとのことだった。母からも心配そうに電話がかかってきた。

「司、あんた大丈夫なの? 船に乗るんでしょ。しけたら酔ってしまうわよ」

 ──だって行くしかないだろ。行くしか! 本当のことを言えば、楽しみなんて気持ちさらさらない。それどころか早く終わってほしいと祈っている。どんなに人間関係が改善されつつあったとしても、真夜中に周平たちを相手にしたような「親友の証を見せろ」とか、意味不明な話題をかわすとは思えなかった。

「そんなしけた面しやがって、司どうしたんだあ?」

 全部、桂さんが明日の準備をしてくれた。リュックというにしては大人っぽい皮の肩掛けかばん。一本で肩にかけるもよし、たっぷり物を詰め込むのならばリュックにしてもよし。泉州さんと二人で選んだものだ。

「桂さん、もし僕が船に乗ってて沈んで帰ってこなかったら、きっと泣くよね」

「おいおい、お前もしかして、船が嫌いなのか? 将来の夢は船長さんって玉じゃないよな」

「そんなんじゃないよ、ただなんとなくさ」

 お菓子だけはたくさん買ってきた。泉州さん曰く

「社交辞令としてお菓子を配るってのはね、女子が良くやる手なんだよ。野郎はあまりやりたがたないけれどもね。あんたの好きなお菓子を少し仕入れておいて、『なんか食う?』と声をかけてみなよ。人生、そういうとこでうまくいくもんなんだよ」とまた意味不明なことを話していた。

 桂さんはしばらくにやにやしていたが、いきなり真顔に戻った。

「今日の夕方なんだけど、ちょっと泉州さんに修学旅行のことで、教えてもらうことがあるから、遅くなるね」

「旅行前に風邪引いちまったらしゃれになんねえぞ。早く戻って来い。迎えに行って乗ってくるのがいやなのか?」 「そんなんじゃないよ」

 弾劾裁判を見る以上、司はどんなことがあっても帰るわけにはいかなかった。  泉州さんからさらに最新情報が届いたというのもある。

「あのさあ、桂さん、前から僕わからなかったんだけどさあ」  話を逸らすというのが半分、前から知りたいと思っていたのがまた半分。司はリュックを抱きかかえたままあんざした。

「なんで、桂さん泉州さんと仲いいの。中学生と付き合うって犯罪になるよ。父さんに怒られるよ。怒られたら、やめさせられちゃうよ」

 今のところ、桂さんは泉州さんの熱烈なアプローチにそれなりの扱いをしてやっているようだった。どうしてかはわからないけれども、「お嬢」と呼び、司がいる時には家に呼んでくれたりしている。いちぞやはふたりきりで部屋にいたではないか。男子感覚で話すならそれ以上のことは求めないけれども、桂さんはやはり成人した男だ。たまに夜、ネオン街で悪いことしてくるはずだ。そんなことも泉州さんは知らないんだろう。知らせないままで、こんなにいちゃいちゃしてていいのだろうか。

「ほお、妬いてるのか? 司」

「妬いてないよ。妬きたくもないもん」

 どういう感情が「妬く」のかわからないけれども、司は首を振った。

「ま、今だったらお前にも話しておいたほういいかもなあ」

 桂さんは朝から暑苦しい焼き鳥レバーにぱくつきながら、泉州さんとの関係を一言で言い表した。 「十五年前の事件な、お嬢の父さんが担当してたんだ」  

──お嬢の父さん、って、泉州さんのお父さん?

 ──お父さんって、事件って?  ただでさえ目覚めていない頭がさらに混乱してくる。髪をかきむしった。 「つまりだな、司のじいちゃんばあちゃんをずうっと眠れる国の美男美女にした事件、あるだろ。あの時に一生懸命やってくれたのが、泉州刑事だったんだ」

 そうだった。泉州さんのお父さんは、警察のお偉いさんだった。

 まだ完璧に回線が繋がらない司に、桂さんは自分の分のトマトを一つ、丸のまま渡してくれた。それを食え、ってことだろう。皮もむかずにか。

「お前がもうちっとでかくなってから、この事件についてはもっと詳しく話すことができると思うけどな。朝早い時間にこんな辛気臭い話してどうするって気もするからこの辺にしとく。けどな、司。泉州刑事……じゃあないんだな、警部だったか警部補だったか。とにかくお嬢の父さんが一生懸命に尽くしてくれたんで、社長は非常に、感激したんだそうだ」

「人が生きるか死ぬかなのに、一生懸命でないわけないよ」

「俺もその場を見ていたわけじゃあねえからなあ。俺もまだまだ小学か中学のガキだったし覚えてねえよなあ。ただな、それ以来泉州刑事、つまりお嬢の家と司の父さんとは仲良くなったってことなんだ。お前が生まれる前から、なんかわからねえけれども付き合いが増えて、お得意様感謝祭をやるときにはちゃんとご招待したり、パーティーには呼んだり、いろいろしてたんだ。知らなかったよなあ。俺もまさかなあって思ったよ」

 ──だって誰もなんも言わないじゃないか!

 文句を言いたいけれど、かぶりついたトマトの汁がズボンについてしまい慌ててティッシュで拭いていた。その間も桂さんはしゃべりつづけた。

「とにかくだ。たまたま去年のクリスマスパーティーの時に、仕事で俺が手伝いにいった時、やたらごついタイプのお姉さんがいると思ったわけだ。俺は泉州刑事のことは前からいろいろ聞かされていたけれど、お嬢のことはその時まで全く知らんかった。その時に、どうやら惚れられたらしいがその辺はわからねえよ。もっとも惚れたわけじゃあなくてな、お前のことが心配だったんじゃねえかって気もするけどなあ」

 ──僕のことが心配?  去年の十二月といえば、相変わらずクラスの女子たちからは総すかん、西月さんの「おはよ!」しかコミュニケーションの取れていない時期のはずだ。

「いろんな意味でお前、注目されてるんだよ。お嬢が青大附属だと聞いた時に、俺としては義務として司のことを聞いてみたんだ。クラスでうまくやってるかなあとか、また悪さしてねえかなとかだ。大抵はあれだけどでかいことやらかしたんだから、黙っているかごまかすかだろ? ところがな、お嬢はなんと言ったと思う?」

 わかるわけがない。トマトを飲み下すので精一杯。

「『あの子、しゃべらせれば絶対面白い奴だと思うんですけどねえ』だぜ。しばらくお前のことで盛り上がってな。あ、怒るなよ司。ナイフ持つな、危険だ」

 バターナイフくらいでびびるなと言いたい。

「じゃあ、どうすれば面白くなるかなということを話しているとだ。その辺は今回飛ばすけどな。『やっぱ、彼女ができるかどうかってことじゃあないですか? やっぱりお坊ちゃまだから彼女をこしらえるって大変かもしれないけど、でも一人でも味方がいたら、結構世の中なんとかなるもんだと思いますけどねえ』と、なんか大変なんだなってことをしゃべってたよ。お前と同い年なのにこんなに悟ってていいのか、お前って言いたくなっちまったよ」

「僕だって言いたいよ」  ゆっくりと、桂さんはやわらかなまなざしで司を見つめ、そっとリュックサックを取り返した。「あくまでも俺の想像なんだがな。お嬢はかなり、お前のことをお気に入りだったんじゃないかな。だから、俺が『もしよかったらアタックしてやってくれないか』って言った時に『もう少し様子見てから、チャレンジですね!』って言ったのかもしれないなあ」

 ──え、待てよ。桂さん、意味わけわかんない。

 簡単に答えを出してくれない。司は苛立ち何度も腰を揺らした。

「ま、これは過程だわな。結局司は、まんまる顔のあの子にほの字、いろいろ大変なことあったにしても、なんとかいい線行ったってことだな。あとはどのくらい迫るかだが、こればかりは小春ちゃんの気持ち最優先だから無理すんな。けどな、これだけはよっく覚えておけよ」

 立ち上がり、司に学校用のかばんを手渡した。

「お前が小春ちゃんのことをずっと追いかけている間、もしかしたらお前のことを好きでなんないでいる奴がいたかもしれないってことをだな。全然お前、そんな気なかったとしても、相手の気持ちが本物だったら少し思い遣ってやれってことを、少しこの回で勉強しとけ」

 慌てて食い終わった。口を手の甲で拭い、慌てて洗面所でゆすいだ。半分以上が意味不明の言葉の羅列だった。何が「勉強しとけ」だろう。今の話が本当だとすると、泉州さんは十二月前から、司のことをチェックしていて、隙あらばアタックするする予定だったと言うことになってしまう。そんなことあるわけない。あんないきなり背中をばしんと叩いて

、「使用済みのパンツ売っちゃおうか」

なんて言う人が、司に片想いしているなんて、そんなわけ、絶対にない。

「じゃあな、今のことはお嬢には内緒だぞ」  

──言うわけないよ。言ったら「なあに思い上がってるの、この馬鹿」って殴られるに決まってるよ。


 修学旅行一日前の指導、ということで、男子だけ視聴覚教室に集められ、ホラー映画を見させられたくらいだった。女子が体育館で「保健体育」の話を聞かされていたらしいとは周りの噂で気がついたけれども、相変わらず西月さんがうつむき加減なことと、天羽と近江さんが無口なのが眼につくくらいで、あとはそれほどのこともなかった。

「泉州さん、本当に今日やるのかなあ」

 さすがに「弾劾裁判」が教師連中には内緒なのだということは承知している。小さい声で聞いた。泉州さんは唇を一文字にして、

「やる。絶対にやる。大丈夫、あんた、私に任せときな。絶対、悪いようにはしないさ」

 ──何やるかわかんないのに、呼ばれてないのに、本当に行っていいのか?

 司としては突込みどころが満載だったのだが、なんとなく黙っておくことにした。

 どう見ても、「かつて司に片想い」していた過去を持っているとは思えない。桂さんもたまには人を判断し誤ることがあるものなのだ。少し自信になった。


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