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 コンビニの中で、まずは野球週刊誌を立ち読みした。いつもだったらバッターのフォームとか、記録の更新とか、いろいろとチェックするところがあるのだけれども、さすがに頭には入ってこなかった。目の前に「立ち読みはご遠慮ください」との赤い文字がかかっている。無視して漫画雑誌をめくっているガクラン姿の高校生もいた。司もその人に近づいてまねをした。

 ──泉州さんちゃんと連れてきてくれるのかなあ。

 いったん忘れ物してかばんを後ろにくくりつけ、全速力で自転車を漕ぎ、降りるやいなやコンビニに飛び込んだ。驚いた顔していたっけ、店員さんも。よっぽど慌てて買いにきたのかと思ったことだろう。申しわけない、時間つぶしだなんて。つい、おなかがすいたこともあってキャラメルを一箱買ってしまった。店の中でこっそり開けて、口に放り込んだ。甘くて、だんだん落ち着いてくるのがわかる。

 ──けど、けんかごしになにかされたら、まずいよ。あの人、やりかねないし。

 立ち読みしている位置からガラスの向こうを眺めやる。小型車が三台停まっている。じゃまにならないよう、駐車場の隅に自転車を着けた。たぶん目の前だから盗まれないと思うのだけれども、過去の経験……三台盗難経験あり……を考えると油断してはいられない。

 雑誌のページを追うよりも、自転車の人影がちょろちょろしないかをチェックするのに忙しかった。

 背中の方で、店員さんがモップを持って床の掃除を始め出した。

 何を意味するのかはわかる。

 ──いかにも出て行けって感じだよなあ。

 隣りの高校生は全然気にしていない。無表情で荒っぽい絵の漫画を読みふけっている。

 ──外に出たほう、いいかなあ。

 立ち読み厳禁、目の前の文字にせっつかれ、結局司は自転車の脇で立つことにした。冬じゃなくてよかったと、それだけ思った。

 

 襟を直し、ネクタイをちゃんと締め直した。ブレザーを脱いで籠に入れた。もう一度反対側を眺めると、見慣れた制服姿の女子がひとり、こちらに向かってくるのが見えた。同時に後ろへちらつくふたりの影も。

 ──連れてきたんだ、やっぱり。

 なぜふたりもいるのか、その辺は泉州さんに聞いてみないと、わからないだろう。 司は背を伸ばした。大きく息を吸い込んだ。立ち止まり、泉州さんが手をぶるぶる振っていた。髪の毛は相変わらず素浪人風だった。近づくにつれて匂いが漂ってきた。司にほんの少しにやっと笑ってみせた後、泉州さんは顎で後ろのふたりを差してみせた。

 天羽と近江さんのふたりだった。少し髪の毛が伸びてきた近江さんは、泉州さんと違う意味でほそっこいモデルさんのようだった。ふたりとも外人さんだったらよかったのに、と関係ないことを思った。

「なんだよ、片岡かよ、なんか用か」

 身構え、ごくっと息を呑んだ。のどぼとけがびくんと動く。音、聞こえてなかったろうか。

 天羽は最初、泉州さんの背を唇ひんまげてにらんでいた。そのまんまの眼でどやされるのを覚悟した。いきなり呼び出して何考えているんだ、こいつというのが本音だろう。最初泉州さんに向けてにらみ返している時とは違って、天羽は穏やかに笑いかけてきた。


 ──ええっと、何言えばいいんだったっけ。ええっとええと。

 最初の一言は、とことん「お前なに考えてるんだよ!」のつもりだった。そのつもりでさっきまで心のリハーサルしていた。西月さんの横顔をすべて頭の中に広げて、天羽の吹き込んだ言葉をじっくり再生して、気合を高めていたはずだった。なのになんでだろう。天羽の顔を見ると、用意していた台詞がみんななんも意味の無いものに思えてくる。

 ──なんで、なんでだよ。あんなことお前言ったんだよ! 

 ──今なら間に合うよ、西月さんのとこに行けばいいんだ!

 ちらっと目の隅にかばんが目に入った。一度荷物を家に置いてきたのだけれども、途中、泉州さんから預かったものを入れっぱなしにしていたことを思い出し、慌ててかばんごと持ってきたのだ。桂さんに見咎められるのがいやだった。

 ──確か、この中にあったはずだよな。

 準備だ。じっと天羽の瞳を覗き込んだ。全然、表情に荒れがない。

 ──けど、これ聞いたら怒るだろうな。

 息をぐいっと止めた。後ろにくくりつけておいたかばんの紐を外し、手を入れて探してみた。

筆箱の中身が溢れてしまったせいかなかなか見つからない。

「片岡、あんたもとろいね。もっとてきぱきやんないと立派な社長さんになれないよ」

 ──余計なお世話だよ!

 肩に顎を乗せるような気配あり。ぎょっとした。

「見つかった?」

 次の台詞はきっと「探してあげよっか」だ。冗談じゃない。

「これ」

 念じたら、すぐに出てきた。手のひらから少しあまる程度のカセットテープ。

 天羽の顔をもう一度見た。

 近江さんも横から肘でつついている。どういう代物か、気付いているのだろうか。

 泉州さんも司の肩越しににらんでいる。

 天羽は唇をぐいと引いて、じっと司の手元を見下ろした。

「天羽、ここに録音されていたことは本当か?」

 指先で角をつまみ、差し出した。

「ああ本当だよ。俺のうちにもう一本、マイクロテープで同じものを持っているんだ」

 ──同じものって、なんだよそれって!

 動揺したところを見せたくないのに。指先でテープをぶら下げた。震えているのをごまかした。

「予備にか」

 天羽の答えは落ち着いたままだった。少し上ずるような感じで軽く答えた。

「一言も嘘は言っちゃいない」

 もう一度確認しようとするよりも早く、泉州さんがいきなり隣りで叫んだ。鼓膜が破れそうだった。隣りにいるんじゃなかった。

「開き直るんじゃないよ! 小春ちゃん、口きけなくなっちゃったんだよ!」

「俺、その日のうちに狩野先生へマイクロテープバージョンを渡して聞いてもらったぜ。なんも問題ないって言われたんだ」

 ──天羽! お前、嘘だろ!

 隣りで吐き捨てる泉州さんを抑えることができなかった。体がこわばって動かないのが情けない。父のマンションに狩野先生が来てくれた時、すべてを耳にしたということなのだろうか。いや、そんなわけがない。西月さんだってそんなこと、夢にも思っていないはずだ。司にだって本当は見せたくなかっただろうに。二重の恥をかかせるなんて、まさか天羽がするわけない。思い込みたいのに、天羽は平然と言い放つ。泉州さんも言い返す。

「さすが近江さんのお兄さんだよね。最低な担任だよ」

 最初の決意がだんだん揺らいでくる。今の言葉が本当だとしたら、天羽はばれてもいい覚悟でもって、西月さんを罵ったことになる。そこまで、そんなにまで西月さんのことを嫌っていたのか。いやわからないわけではない。気付いていないわけではない。でもあまりにも、あんまりだ。 泉州さんと天羽とのやり取りが聞こえているのに、司ひとりだけが遠くに飛んでいきそうだった。激しく続いているのに。

「うっかり聞き間違えられたら近江ちゃんに被害が及ぶと思ってさ」

「近江さんに被害ってどういうことよ! 小春ちゃんが復讐しようとしているとでも思ったわけ。やっぱり後ろめたいって意識はあるわけね」

 ──まずい!

 初めて司は意識した。暴発注意報発令だ。周平も似たようなオーラを泉州さんみたいに出す時がある。大抵それは、喧嘩の時だとも。

 ──やめろよ! 

 遅すぎた。司をかわすようにして泉州さんの手は、天羽の頬をぶんなぐっていた。


「近江さんなんか今ごろ青潟川の中にどざえもんになっているかもしれないのに、小春ちゃん一生懸命『絶対しないでね』、って筆談で話してるんだよ!」

 声が震えている。泉州さんの眼は血走っていた。

「もし近江ちゃんに手出ししたら、って俺が口止めしておいたんだ」

「あんた、そこまで根性腐っているんだったら、それなりに覚悟はあるんだろうね」

 両手を握り締め、司をじゃまっけにするようにして前に出た。気迫のようなものだろうか。泉州さんからただよってくるのはいつもの汗臭い匂いだけではなかった。肩を怒らせて、髪を振り乱している。怒った時の父さんみたいだ、とまた思った。

 天羽は顔を逸らしたまま、唇を尖らすようにした。じっと司にやわらかくまなざしを向けた。 ──なんだよ、また変なこと言うのかよ。

 カセットテープが汗でつるつる滑りそうだった。ぎゅっと握り締めた。手から滑り落ちそうだ。その手も同じまなざしで射た後、天羽は尋ねてきた。

「片岡、まだ西月をくどききってないんだろ?」

 もうどうやっても、天羽に西月さんへの思いやりは感じられなかった。

 司へは信じられないくらいたっぷり、温かく訴えてくれるのに、西月さんにだけはもう容赦するところのないものばかり向けられていく。

 あの笑顔も天羽には、全く届かないものなのだろうか。涙ながらに訴えた西月さんの叫びすら、どうでもいいものだったのだろうか。声が震えてきた。咽にひっかかるたんのようなものが取れなかった。いつのまにか司は、自分の声が天羽に似た男声になっていることに気が付いた。

「最初、天羽、言ってたよな」

 やっと、これだけ言葉を継いだ。

「何をだよ」

「西月さんのためだと言っていただろう。そうじゃなかったのか。わざと冷たい行動を取って、西月さんが振ってもいいように演じて、決して傷つけないようにしたいからって言っていただろう? 違ったのか」

 「片岡には嘘ついちまったようで悪かったな」

「最初から西月さんを痛めつけるためだったのか」

「それだけは言いたくねかったけどな。普通のやり方じゃああきらめてくれねえからさ。最終兵器、使うしかなかったんだ。けど、これで西月もあきらめてくれるだろうなあ」 

 一度しゃがみ、腹を落ち着けた。立ち上がった。西月さんの声がそのまま詰まったテープを支えられない。つばを何度も飲み込んだ。確認するしかなかった。天羽の答えはあっさりしていた。「最初から嫌いだったって本当なのか」

「初対面からな」

「宗教の修行のためだったってのも、本当か?」

「自分の目標を少しずつ達成していけば、死んでから天国に入ることができるってガキの頃から叩き込まれていたんだ。今じゃあお笑いだけどな」

「近江さんが好きになったから、心変わりした、申しわけないけどって、僕には話してくれただろう」

「一番の理由だ、嘘はついちゃあいない」

「傷つけて平気だったのか。テープではあんなに泣いていたんだろう。天羽に嫌われないためだったらなんでもするって話していたのに、それでも嫌いになるしかできなかったのか」

 天羽の答えは顔にはっきり書かれていた。ちらりと近江さんに見せる笑み、それだけで司は勝負が終わったことを悟った。 

 ──もう一度、天羽が西月さんを選ぶなんてこと、あるわけない。

 最初からわかっていたはずなのに。

 司も、天羽が近江さんを連れてやってきた段階で翻すことができないんだと思わないわけではなかった。なんでこんなことしているんだか、自分でもわからない。ただ木の下で膝を抱えて泣きじゃくる西月さんの声が耳から離れないだけだった。 ──天羽くんのいないところに連れて行って。 天羽が死ぬほど自分を嫌っていることを西月さんは知っていたのだろう。どうしようもなく、この世で一番と言っていいくらい嫌いだっていうことを。だから、西月さんは司に訴えたのかもしれない。よくわからないけれども、天羽の眼の届かないところにいれば、きっと。と。

 ──僕がやっぱり、神乃世に連れて行けばよかったんだ! そうしたら。

 悔いても悔いてもしょうもないことばかりが湧いてくる。

 西月さんは、嫌われていてもそれでも、天羽の側にいたかったのだ。

 だから、先生たちが守ってくれるE組を抜けて、A組に戻ってきたのだ。

 司と一緒に神乃世へ行こうとした時だって、西月さんは結局、天羽を選んだ。司よりも天羽でなくてはどうしようもなかったのだ。どんなに憎まれていたとしても。

 おめでたく、天羽によりを戻してもらおうと考えた自分がみっともなかった。どんなに努力しても、天羽は西月さんを受け入れようとなんてしないとわかっていたくせに。それでもなんでこんなことをしてしまったのか司には自分がわからない。

。気が付いたのだろう。天羽は小さく笑った。

「言葉の綾だ。勘弁な」

「だったらなんで」

 涙が出そうだ。でも泣いてはいけない。必死にこらえた。言うことだけは言わなくては。

「一年だけだろ、それくらいどうして騙してやれなかったんだよ。二年の半ばって言ってただろう? 半年間がまんしてたんだったら、どうしてあと一年、夢を見させてあげられなかったんだよ。ひどすぎるよ」

 泉州さんがそっと司の肩を叩いた。何度も頷いた。どうして、頷いてくれる相手が天羽ではないのだろう。西月さんが求めているのは、たったひとり、天羽だけなのに。

 ──僕じゃ、だめなんだ。

 しばらく沈黙が続いた。近江さんが上目遣いで司たちをみやり、ついでに天羽へため息交じりに首を振った。早くして、うんざりって表情だ。天羽は黙ったままふと、司と目を合わせ、一瞬だけあったかく笑った。すぐに表情を消したけれど。次の言葉も温もりがまだ続いていた。


「片岡、お前もわかってないなあ。片岡、お前は二年間ずっと西月以外の女子に目なんてくれなかったよなあ。西月もずっと二年間、お前には毎朝挨拶をして手を振ってやってた。そんな中、好きでもねえ俺があいつと付き合うっていうこと自体、不自然なことだったんだぞ」

 ──そんな、わかってるよ天羽!

 うまく声が出ない。咽でひっかかっている。言葉が出ない。やっと搾り出したこの言葉。「西月さんに謝ってくれよ、天羽」

 ──西月さんは、天羽がほしくってなんないんだよ!

「僕みたいな奴が近づいたって、西月さんは嫌がるだけだ。天羽でなくちゃだめなんだ」

「俺の言ったことは嘘じゃない。死んだって認めねえよ」

「責任あるだろ! 口利けなくなったんだ!」

 もうこらえられなかった。天羽の乱れた襟元へ手を伸ばしていた。

 周平みたいに、思いっきり殴りたかった。襟を掴もうとして前につんのめり、天羽の胸に思いっきり飛び込みそうになった。男同士で抱き合ってどうする。腰が揺れた。

 泉州さんの怒鳴り声が聞こえる。

「片岡、あんたなに引いてるのよ。ばか」

 倒れなかったのは天羽が片手で司の腕を取ってくれたからだろうか。襟から手を引き、ぶらんとぶら下げた。肘のところを天羽はぽんぽんと叩き、全く変わらない表情で続けた。


「片岡、お前は偉えよ」

 ──どこがえらいんだよ! また話逸らそうってのかよ!

 ぐいと見つめ返す。でも天羽の穏やかな口調は変わらない。

「よく言ったな。嘘じゃねえよ。いろいろあったにせよ、俺あん時は感動した」

 白目一瞬出して口を尖らせている近江さんがいる。全く気が付かない風に天羽は微笑んだ。「自分のやらかしたことをきちんとけじめつけてから、西月を守りたいってことなんだよな。わかるぜ。お前、ほんとに本気だったんだなって思った」

 ──本気だって、けどできないものはできないんだよ!

「だったらそれでいいじゃねえか。俺にはあいつを嫌いになる権利があるけれどもいじめる権利はない。きちんと、筋は通したってことだ。あとはお前に任せて去るぜ」

 ──任せて去るぜなんて、むちゃだよ。出来たら僕だってやっているさ。けどできないから今こうしているんじゃないかよ! 

 咽からあふれんばかりの言葉が、どうして口の端に上るときはこうも説得力ない響きとなるのだろう。司にはじれったすぎた。

「それは勝手な言い分だろう。天羽しか西月さんは見てないんだって」

 自分がだんだん制御できなくなってくる。原動力がどこからきているのか、今の司にはやりきれないくらい根っこが見えていた。どんなに嫌われても、どんなに司が神乃世へ連れて行きたくても、きっと西月さんは天羽の側にいたいのだ。司が精一杯、西月さんの足下にひざまずいたとしても、その瞳はずっと天羽を向いている。首が痛くなるくらい見つめ続けているのに、どうして天羽は心動かされないのだろう。あの藤棚の下で微笑んでいる笑顔に。

 ──あんなに西月さん、ほしがっているのにどうして、天羽。

 吸い込む空気が圧縮されたみたく、濃く体に広がる。司は小さく首を振った。

「僕には何もできないんだよ。僕とそんなことになったら、西月さんはもう馬鹿にされてしまうって分かっているって、そのくらいわかっている。だから、だから」

 西月さんの笑顔を守るには、天羽が必要なのだ、だから。

「馬鹿野郎!」

 頭に衝撃。拳骨でぐりぐりと天羽が司を小突いてきた。油断していたせいか、ぐらっときた。「お前、西月のことを本気で惚れてるだろ!」

 さっきまでの穏やかな表情が嘘のようだった。科学反応を起こしたように、ばっと燃え広がった、怒りの図。司はもう動けなかった。天羽の言葉はバーベキューの金の串刺しだった。ぐぐっと突き刺され、尻の穴からのど元までぐいと貫かれた。

「俺も二年間お前と西月を見てきて、きっとお似合いだろうって思ってた。ほんとのこと言うと、俺も去年の夏あたりから一刻も早く縁を切ってしまいたかったんだ。けど、俺がさんざん気を持たせてきた以上、責任持って西月が惨めにならない形で後釜用意しようと思ってた。片岡、お前だったらあいつの欲しがる薔薇も毎日持っていける、ビーズの指輪も作ってやれるさ。いつもひっついてつまらんぬいぐるみとか見て喜んでやれるさ。意味不明な言葉をぐちられても優しくしてやれる」

 ──そんなことない、西月さんは天羽のためだったらなんでもする、なんでも我慢するって言ってたじゃないか! それくらい一生懸命な人なんだよ!

 出かけた言葉を天羽はめっと、ひとにらみして押えた。

「なによりも、俺のしゃべったテープの内容と、西月の泣き喚いた様子を聴いても、全然気持ちを変えないでいられるのは、片岡、お前しかいない」

 本当に、もう、動けなかった。

 手元のテープをちらりと天羽は見つめ、もう一度司に口元を緩めてみせた。

 西月さんの訴えと涙がすべて保存されているこのテープ、最後の命綱だったはずなのに。

「嫌う奴なんて、いるのかよ」

 唇を噛んだ。

「あんなに精一杯お前のこと好きだって言われて、どうしてあんなひどい言い方できたんだよ。西月さんかわいそうすぎるよ」

「そうだよ、天羽、あんた血が通っていない冷血人間だよ!」

 またわめく人が一人。止める気力なんてなかった 。

 全く相手にしていない様子で、天羽は背を伸ばし、ぐいと司を見上げた。いち、に、さん、とラジオ体操風の深呼吸を、天見上げてした。

「いいか片岡、西月にお前、なに引け目感じてるんだよ。もうあいつは評議でもないし、E組送りの扱いをされている単なる女子だ。ちゃんとクラスの連中に頭を下げた片岡がびくつく必要なんてないんだ。レベルが合わないとか言って馬鹿にする女子連中の悪口なんて無視しろ。『世界でお前なんかを好きになれるのは俺だけだ』って、俺様気分で奪ってやれ」

 なにが「俺様気分」なのか。文句言いたくても、言えない。隣りの泉州さんだけが炎を燃え滾らせているのが感じられるだけだ。ここで一息、天羽が司をやわらかめに見た。

「はっきり言って俺は、西月なんかに片岡はもったいないと思っている」

 ──そんな、なんでそんな。

 泉州さんに前の日話した言葉は、間違っていなかった。

 少なくとも、天羽は司のことを、認めている。

 嘘じゃないって、それだけは伝わってくる。

 だから、司は天羽を憎めない。天羽は決して、大嫌いな元彼女を司に押し付けたんじゃない。みな、司を基準にして、司のために、してくれたことだから。

「片岡、お前は十分自信持っていい男なんだ。わかったか」

 ──どうすればいいんだよ! みんな悪いことしたくてしてるんじゃないのに、どうしてみなうまくいかないんだよ! 僕、どうしたらいいんだよ!

 「な」、と天羽はいい子いい子の視線を向け、にやっと笑った。


 泉州さんが激怒した。司を押しのけ、とうとう大接近天羽の真ん前に立ちふさがった。

「筋なんか通してないじゃないのよ! 小春ちゃん今でも、毎日、奇跡が起こるんじゃないかっておまじないしてるような子なんだよ。ペアリングの指輪ビーズでこしらえて待っているんだよ。そんな姿見ていたら、いくら片岡が小春ちゃんのこと好きだって、手を出しようないじゃないのさ。小春ちゃんあんたの写真ばっかり見ているんだよ。ほら、『奇岩城』の台本を」

 言いかけたのを天羽は軽く流した。

「あれ俺、生ごみと一緒に処分した」

 近江さんがハンカチを口に当てている。

「謝りなさいよ! 小春ちゃんの前で土下座して謝りなさいよ!」

 さっき司がやろうとしてできなかったことを、ぼさぼさ頭の泉州さんは瞬時にやってのけていた。襟首を掴み、車の陰へと思いっきり突き出した。後ろで誰か見てないだろうか? あわてて司は泉州さんの後ろに回り両腕を抱えた。変な匂いなんて気にしている余裕なんてない。泉州さんが司の背中をばしっと叩く時、はんぱでなく痛いのだ。この人が本気で人を殴ったら、けが人が出る。抵抗しない天羽をふたたびけりいれようとした泉州さん。いざとなったら司は泉州さんの腕に噛み付いてでも止めなくちゃ、と思った。

「片岡、なにしてるのよ! やめなよ。それくらいして当然じゃん。今の話聞いた? 天羽の奴、小春ちゃんをあれだけずたずたにして、それでも平気でいるんだよ。なあにが、片岡のためよ。片岡がいい男だって。そんなに小春ちゃんが嫌いだったら、もっと自分が悪者になって、小春ちゃんに一発殴らせてやって、それから別れなさいよ!」

 ──それをしていたんだって、泉州さんどうしてそれわからないんだよ!

 ひたすら「泉州さん、だめだよ、ここで殴ったら店員さんに捕まるよ」とささやくしかなかった。まだ手をぶるんぶるんと振り回す泉州さんの動きが止まったのは、近江さんの台詞だった。「聞きたいんだけど」

 けだるそうに、ポケットに手をつっこんだまま、近江さんは泉州さんに話し掛けた。ちらりと司の方も見たようだけれども、すぐに目をそらされた。

「結局天羽くんは何をすればいいわけ? 話聞いている限りだと、片岡くんが言うには西月さんとよりを戻してもらいたいみたいだし。泉州さんは天羽くんに土下座してもらいたいみたいだし。今の見ていたら、ただ単に天羽くんをどつきまわしたいだけみたいだし。支離滅裂で何がなんだかわかんないのよね」

「近江ちゃん」  

 「ちゃん」付けで呼ぶ天羽の声が、不安げだ。ちらっと横目でにらむようにして、近江さんが続ける。かすかに馬鹿にした風な笑いを浮かべている。

「結局どうしたいかがわからないから、こちらとしても対処のしようがないのよ。天羽くんの言い分は、片岡くんをA組の人間として受け入れてあげたいってことでしょう。西月さんが好きだったらフリーにしてあげて堂々と口説きなさい、ってアドバイスしてあげただけよ。もちろん西月さんはまだ天羽くんに未練あるみたいだからそう簡単にはいかないけど、泉州さん、本当は、西月さんと片岡くんを応援していたんじゃないの? 写生の授業が終わってから二人で探しに行ったんじゃないの。だって天羽くん、このテープに録音されているように、もともと西月さんのことが大嫌いで、これ以上嫌いにならないよう努力している真っ最中なんだから、親友だったらそんな相手と一緒にいて欲しくないでしょう」

 ゆっくりと、聞き取りやすく、めんどう臭そうに話す姿は、西月さんの叫びとは正反対だった。こんなに近江さんを観察したことはなかった。狩野先生の義妹で、クラスの女子たちとは離れているけれども天羽たちのグループ男子とは仲良しだ、という程度の認識しかない人だった。どうして西月さんよりもこういう怖い女子が天羽は好きなのか、不思議だった。でも、側で天羽が泣きそうな顔で何度も口を動かしているところ見ると、きっとそうしたくなるなにかがあるのだろう。向ける視線が全然、違う。

「ふざけないでよ! あんた、人の彼氏取っておいて」

「彼氏だと思い込んでいたのは西月さんひとりだけでしょ。天羽くんだって人間だから、どんなに努力したって嫌いって気持ちがあふれ出たこと多いと思うのよ。私、その辺はよくわからないけれど、嫌がられているって気持ちを感じられないほど鈍い西月さんに一番の問題があると思うんだけどどうかしら。西月さんがもし、早い段階で天羽くんのことを見限っているか、同じ評議仲間としてだけ割り切って付き合えればきっと、細く長いお付き合いができたし、天羽くんももしかしたらクラスメートのひとりとして受け入れてあげたかもしれないわよ」

「口先だけで言うんじゃない! 小春ちゃん一生懸命だったのに。天羽のこと一筋に考えて必死に尽くしてきて、それで」

 辛くて、泉州さんのように言い返すことができなかった。こぶしを作り振るわせるだけ。

 ──だから、だめだったんだよ、天羽は好きになれなかったんだよ。

 近江さんがあっさりと答えを出してくれた。

「悪いけど、尽くすとか一生懸命とか、嫌いな相手にとっては拷問なのよ」

 司をちらりと見て、「ね、そうでしょ」とばかりにかすかな笑み。

「でも、西月さんの鈍感さを責めたってどうしようもないわね。それより目的はもう決まっているでしょ。一本に絞ったらいいんじゃないの。天羽くんは西月さんと縁を切りたい、片岡くんは西月さんのことが大好き、ってことは簡単よ。西月さんが片岡くんと付き合う気になるよう、説得すればいいのよ。できるよね、泉州さん」

 泉州さんを押える手に再び力が入った。振り払われた。「片岡、いいかげん離しなさいよ! ばか!」と力いっぱい押されて尻餅つく寸前。慌ててさらに背中に飛びついた。なんとか暴力行為は押えられたかのように見えた。近江さんは全く微動だにせず。

「あんた何様のつもりよ! たかが担任の妹だからって。あんただって所詮コネのくせに!」

「恥ずかしいこと? 天羽くんも話していたでしょ。A組は縁故入学のクラスだって。泉州さん、もしかしてとっくに試してみたの? 西月さん、説得できなかったの?」

 ここで一息ついた。また、自信ありげに口元を緩めてものいいたげに笑ってみせた。

「私なら簡単に説得する自信、あるわ。ためしてみる? 修学旅行までにはちゃんと答えを出してあげる」

 

 女子たちの考えていることが司にはわからない。エキサイト状態の泉州さんはともかくとして、近江さんも西月さんを天羽から引き離したくてならないようだ。それはそうだろう。今の彼女は近江さんなのだから当然だ。しかし、どういうことだ? 「私なら簡単に説得する自信、あるわ」って。西月さんが司と付き合う気にさせるなんて、できるわけがない。いや、してもらおうなんて思ったこともない。それに近江さんは司のことをとことん軽蔑しきっている。近江さんに限らず、他の女子たちすべてに言えることだ。それを責める気にはなれないけれども、どうしていきなりそんなことを言い出すのだろう? 

 ──西月さんが僕と、なんてそんなこと、ないよ、絶対ないよ。

 ──泉州さんも僕にすっごくよくしてくれたけど、できるわけないよ。だって僕は。

 薔薇の花。藤棚の花。茜色に染まった教室の微笑み。決して手にしてはいけない、傷つけてはいけない。

 ──僕は「下着ドロ」野郎なんだから。

 

 司と天羽を完全に無視して、女子ふたりは言い合いを続けていた。言い合い、というよりも泉州さん一人のまくし立てだろうか。また抑えなくてはならないだろうか。司は背後霊の気持ちで泉州さんの後ろにひっついた。

「あんた、小春ちゃんをここまで馬鹿にして楽しいわけなの?」

「あきれてはいるけれど、楽しくはないわ。でも、できれば修学旅行の前にけりをつけたいのよ。天羽くんもそうだし、片岡くんも、私も、ほら、泉州さんだって本当はそうしたいんでしょ。担任の妹としても、やる気なしなしの評議委員としても、やはりこの状況は心苦しいものがあるもの。まかせてもらえる? 決して悪いようにはしないわ」

 用心していたのは正しかった。道路沿いに追い詰めるようにして、泉州さんが近江さんを追い詰めた。一気に手を振り上げ、あっという間に襟元を掴んだ。天羽にやったように手加減はしていないようすだった。さすがに近江さんも顔をしかめた。横を向くようにして気持ち悪げに首を振った。とたん、様子をうかがっていた天羽が飛び出した。

「やめろ! 近江ちゃんに手を出すな!」

 泉州さんの手を強引に引き離し、後ろ足でけりを入れようとした。すかしたけれど。近江さんの姿が一瞬見えなくなった。

 ──あ、あれ。

 とにかく司も、泉州さんにこれ以上暴力沙汰を犯させるわけにはいかない。もう一度飛びついて、肩をつかんで振りまくった。

「だめだよ、暴力はよくない、泉州さん」

「るっさいわねえ、あんたも男のくせに、どうしてそうも女々しいのよ! あんたそれでも、小春ちゃんのこと本気で好きなわけ? ここまであんたの大好きな小春ちゃんを罵られて悔しくないの? いくらあの子がそれなりのことしたからったって、そこまでされる筋合い、ないよ!」 泉州さんの目には涙がかすかに浮かんでいた。

「だめだよ、そんなことしたって、だめなんだよ!」

 司にはそれしか言ってあげることができなかった。


 ふと、目の前のふたりを見た。泉州さんも凍りついた。

 ──天羽、お前。

 天羽は両腕でもって、近江さんを抱きしめていた。映画やドラマでしか出てこないような、かっこいい雰囲気をかもし出し、きりりと口を引き締めるようにして、近江さんの頭ごと、胸に引き寄せていた。コンビニに入っていく人たちが、「あれ、中学生のくせに、ませすぎー」とか言いながらからかい口調のささやきを残していく。野次馬も若干いるようす。全く動じることなく天羽は、がっちりと近江さんの顔をしっかと胸に納め、うつむき加減に見つめていた。

「近江ちゃん、もういい、いいよ」

 何かを近江さんが言おうとして、顔を上げようとした。さっきの馬鹿にしきった冷たい表情ではない、どこか、西月さんが木の下で泣きじゃくりながら顔を向けた時に似ていた。すぐに押えるようにして、また天羽はシャツに近江さんの顔を隠した。

「わかった。西月には俺の方からきちんと謝る。けど、ひとつだけ頼むな」

「また条件つけるわけね」

 冷静な声で泉州さんがつぶやく。天羽は両腕をまた強く引き締めるようにして、近江さんを支えた。きっぱりと一言だけ。

「近江ちゃんにだけは一切、手を出さないでくれ」


 押えようとしてもと

まらない、司はただ泉州さんの腕を押え直すだけだった。腕をさらに突き出し、指差しをしながら泉州さんはさらにわめいた。そちらの方にもギャラリーが着目しているようすなのに、このままだったら大変だ。

「だめだよ、ここでけんかしたらおまわりさん来るよ」

「どうせうちの父さんに竹刀で殴られるだけよ。そんなの怖くないよ。それよりあんたいいかげん腕、離しな!」

 泉州さんは涙の溜まりそうな瞳でもってまくし立てていた。

「天羽、そりゃそうだよ、あんたにとって近江さんが一番大切な相手なんだってのはよーくわかるよ。わからなかった小春ちゃんが馬鹿なんだよね。そーだよ。私もそれは賛成してやるよ。けど、なによ。嘘つきたくないから小春ちゃんを突き放すって許されるわけ? ああ、そうだよ。私だってあんたみたいな冷血馬鹿男よりも、片岡みたいにアホでまぬけで、単純で純情で、ほんとにこいつが大社長になってしまうのか信じられない奴の方がずっといいと思ってるよ。近江さん、あんたが言う通り、私もあんたの言う通り、小春ちゃんが馬鹿だったと思うよ。だから片岡の方に気持ち逸らしてやりたいよ。そうだよ、ほんとにそうしてやりたいよ。けどさ、あんたそんな簡単にできるわけ? 小春ちゃんをたっぷり傷つけて、しゃべれなくして、それでもあんた「嘘」をつかないことが正しいって言えるわけ? せめてさ、片岡が言ったみたいに、ほんの半年間だけでも、付き合った振りしてあげるとかさ、どうせ馬鹿な子だったら馬鹿な子用にやさしくすれば小春ちゃんは舞い上がるから、そうしてあげるとかさ。あんたみたいに頭よかったらそれくらい考えつくんじゃないの。近江さんもなにさ、いきなりしおらしくなって天羽相手にラブシーンしてさ。小春ちゃんがどれだけあんたのために、一生懸命努力してきたかも考えたこと、ないんでしょ。小春ちゃんは……そうよ、あんたが言う通り鈍感で馬鹿だよ。早く見切りをつけられないで、いまだに天羽のことしか考えられなくて、せっかく片岡が命賭けて王子様になろうとしてるのに、それすら受取ろうとしないんだよ。片岡みたいに金持ちのぼんぼんだったら、多少ブラやパンツ触られたってかまわないって、そう割り切れる頭いい子じゃないからね。けどさ、あんたたちよりはましだよ。あんたもじゃあ、試してみればいいよ。小春ちゃんが片岡を選ぶかどうか。決めるのは小春ちゃんだよ。あれだけ傷ついた小春ちゃんが、簡単に天羽のこと忘れられるわけ、ないじゃないのさ! 片岡だって、あれだけやってて出来ないのにさ!」

 言いたいことを全てわめき尽くしたのだろう。脱力するように、泉州さんは肩を落としてしゃがみこみ、すぐに立った。司の方にもう一度涙目で、

「そうだよ、やってもらおうじゃん。そんなこと、できるかどうかさ」

 ──なに、この人言ってるんだよ。

 何度も思うこの感慨。たぶん、誉められているのだろうけれども、泉州さんから出る言葉だと、どうもみな貶し文句にしか聞こえないのがもったいない。司は黙って天羽と近江さんを見つめた。 ──天羽、そうなんだ。

 穏やかさ、ひょうきんさ、生真面目さ、今まで見てきた天羽の表情ライブラリーの中に、近江さんを見つめている時の覚悟した表情は含まれていなかった。たったひとり、近江さんのためだけにとっておいたであろう、決意の瞳。

 西月さんが咽から手が出るほどほしくてならなかった、想いの表情。

 どんなに手を伸ばしても届かない。写真に向かって手を伸ばそうとしている自分に似ていた。 どんなに司が天羽に頼み込んだとしても、決して西月さんへあの瞳を向けることはないだろう。 ──ごめん、やっぱり僕には何も出来ない。

 藤棚の笑顔を取り戻すことは、もうできない。

 

 天羽はそのまま近江さんを抱いたまま、

「実言うと、今度の土曜にな。評議委員会の『弾劾裁判』受けることになってるんだ」

 いきなり告げた。さっぱりとした口調だった。

「弾劾?」

 ──評議委員会の『弾劾裁判』?

 司も一年A組男子から「弾劾」を受けたことはある。あの時のような乗りなのか? 背筋がぞっとした。隣りの泉州さんも一緒に声を上げた。頷く天羽。

「そ。弾劾なんだ。うちの委員長から呼び出しくらった。おまえさんたちが聞いたこのテープ、聞かせて事情を説明したんだけどな。うちの委員長そういうところ潔癖な奴だから、『弾劾』に回すってすげえ激怒しやがったんだ。俺も最初は頭来たけど、そうだよな。当然だよ。俺、西月を人間としてやっちゃいけないところまで傷つけてしまったんだ。どういう結論になるかわかんねえけど、俺は俺なりにきちんとけじめをつける。いつか、西月がふつうにしゃべることができるようになるまで、とことん償いたいと思ってる。許してもらいたいなんて思ってねえよ。お前らも殴りたいとか、文句言いたいっていうならそのまま受けるから」

  腕の中の近江さんが驚いたように顔を上げ、「弾劾?」と小さくつぶやいた。

「ふうん、『弾劾』ね。そんなんで一発殴られて、それで終りなんてことなんて甘いこと考えるんじゃないよ。そんなことで小春ちゃんが許してくれるなんて、勝手な言い分だよ」

「許してくれなんて言わねえよ」

 司はそっと泉州さんの腕をひっぱった。もうここにいる必要はないと思えてならなかった。

「行こうよ」

 ささやき、天羽にまた呆れ顔された。烈火状態の泉州さんは、少しだけ黙った後、天羽と近江さんに向かった。天羽に向けているけれども、言葉は近江さんあてといった風に。

「じゃあ、今言ったこと、天羽、覚えときなよ。忘れたとは言わせないからね!」

「ああ、約束する」

 再び顔を胸に押し当てるように、近江さんの頭を抱きながら、天羽は自信ありげな笑みを浮かべて答えを返した。あしらわれてむかっときたんだろう。顎でしゃくるように泉州さんは司へ合図した。頷き返し、自転車のカギをポケットから探した。すぐに出てきた。まだいちゃいちゃしているふたりを背にしたとたん、何か言い忘れたことがあるように思えてならなくなった。「泉州さん、ちょっと先に行ってて」

「はあ?」

 返事を待たず、天羽にだけ聞こえるように……必然的に腕の中にいる近江さんにも聞こえてしまうのだけれども……司は尋ねることにした。もう割り込むことができないとわかっていたから、言わずにはいられなかった。

「一度でも、西月さんに、あの、そうしてやったこと、あったのか」

 天羽は天を見上げた。気持ちよさげにははっと笑った。

「今度お前がしてやることだろう」

 何度言われたかわからない、最後の言葉。

「がんばれよ、片岡」

 司は受取った。そのまま背を向けて、泉州さんを追った。


 自転車を押しながら泉州さんと歩いた。 最初興奮冷め遣らぬ様子だったけれども、司と歩いているうちに落ち着いてきた様子だった。肩で息をしていたのがだんだん普通になる。やっぱり横顔を見ると、かっこいい外人のモデルさんっぽい。

「私、後ろに乗りたいんだけどさあ、あんたいい?」

「冗談じゃない。かばんがつぶれる」

「でさ、今日、桂さんのところに連れてってほしいなあと思うんだけど」

「だったら少し風呂に入りなおしてからにしろよ」

「ああら、じゃあ今日、お風呂貸してくれる?」

 信じがたいくらい脳天気な会話を交した。さっきまで涙をためて抗議していた泉州さんなのに、司と歩き始めるや否や、いきなりこうだ。せっかく、「さっきは、良く言ってくれてありがとう」と言おうかと思っていたのにだ。調子が狂う。司は横を向いた。

「桂さんには思いっきり嘘言ってきたんだよ。泉州さんと一緒に修学旅行の準備するからってさ」

「ふうん、だから今回はお付きの人がこなかったってわけなんだあ」

「どうだか、どっかで見張ってるかもしれないけど」

 思いっきりぶっきらぼうに答えた。泉州さんは立ち止まり、腕時計を覗き込んだ。驚くなかれ、男物のデジタルウオッチである。

「じゃあそっか、裏付けが必要だもんねえ。じゃあさ、コンビニなんて高いところで買物するよかさ、もっとやすいスーパーに行こうか。あんた全部桂さんに買いものとかやってもらってるんでしょ。これからはもっと庶民感覚を身に付けないとまずいよ。それにさ」

 いきなり風が吹いた。スカートがめくれそうになるのをそのままあぶない格好のままにして、泉州さんは真面目な口調で言った。

「もうあんたもわかったよね。もう二度と、馬鹿なこと考えるんじゃないよ」

「なんだよ、いきなりまたお説教かよ。お説教なら桂さんと父さんで十分だよ」

 まぜっかえしたかった。

「小春ちゃんを天羽にくっつけようだなんて、非常識なこともう二度と、言うじゃないよ」

 ──な、なんだよ。僕、あの、そんなつもりじゃない。

「修学旅行前かあ。弾劾がどういうことになるかなんてこっちの知ったことじゃない。けどね、片岡。あんた、まだ肝心のことしてないじゃん。小春ちゃんのことばっか考えているって言ってるけど、肝心要の『行動』ってやつ全然じゃん」

 また、「じゃん」だ。「じゃんじゃんじゃん」ってうるさい。耳を覆う真似をした。すぐにはがされた。

「いい、片岡、天羽はもう二度と、小春ちゃんのこと近寄らせたくないって言ってるわけよ。近江さんにいたってはあの女何者? あんたとくっつけようだなんて勘違いしたこと言い放ってるわけよ。そりゃあそれがベストだと私も思うさね。でも、近江さんなんかに無理やりお膳立てされるくらいならば、あんた、もっとやるべきこと、あるんじゃないの?」

 ──やるべきことってなんだよ!

 睨み返そうとして、じっと見つめ返されたらどきまきする以外、何もできない。

「小春ちゃんに言うことさ。『僕と付き合ってください』ってさ。あんたたくさんチャンスあったくせに、結局それだけは言えなかったんだねえ。あ、パンツドロのことは言いっこなし。何はともあれそれを言わないでただ、テープ聴かされてパニックになるよりさ。私も一応小春ちゃんの親友だし、本当だったらあんたが愛想尽かしして逃げるのが当然だとも思うけどさ。でも、本気で小春ちゃんのこと、今でも好きなんだったら、それしか方法ないじゃん」

「できるわけないよ、だってさ」

 ──西月さんは今でも天羽のことしか。

 出かけた言葉を飲み込むしかない。

「あんた、振られたくないんでしょが。自分は小春ちゃんのナイトでいいとか思っているけど、本当は小春ちゃんに「あんたほんとは下着ドロだと思っていたのよ」みたいなこと言われたくないんだよねえ。けどさ、天羽もさっきはちょっとだけまっとうなこと言ってたじゃん。『そんなお前を好きになれるのは俺だけだ』って俺様気分で奪ってやれってさ。奪ってやんなよ。今、小春ちゃんが振り向いてくれなかったんだったら、次は振り向かせるため、もっと次なる手を考えなよ。もちろん私だって、桂さまだって応援してるじゃん」

 ──だから、桂「さま」ってのはやめろよな!

「いい、小春ちゃんの親友たる私が言うのもなんだけどさ、あんた以上に小春ちゃんのこと思って、小春ちゃんのためにだけ動いている男子、いないよ。西月教授やお兄さん、お母さんからもあんた、ちゃんと太鼓判押されてるってよ。あとは小春ちゃんだけだよ。あんたのことを小春ちゃんは、まだ全然知らないんだよ。私とか天羽がバックアップしたいって思える理由を、あんたなりに一生懸命アピールしてやればいいじゃん。振られるかどうかは別として、まずはあんた、いいなよ、『付き合ってくれ』ってさ」

 ──できるわけないよ。だって僕は。

「いくら天羽や私がお膳立てしたってさ、あんたが本気にならなくちゃ、どうしようもないんだよ!」 

 西月さんが咽から出るほどほしがっていた天羽の瞳。それはもう届かないものなのだと気付かされた。もう天羽は振り向こうとはしないだろう。近江さんのためにならばなんでもするだろうけれど、西月さんが苦しんでも泣いても、あの瞳を向けることはないだろう。

 だったらどうすれば、藤棚で微笑むあの笑顔を取り戻せるのだろう。

 言葉を失っても天羽の側にいたがっている、あの人に司はなにができるのだろう。

 泉州さんの言うとおりなのかもしれない。司はあえて西月さんの求めている形でもって、恩返しがしたかった。想いを伝えるだけでいいと思い込んでいた。近くにいさせてくれるだけでいいと思っていた。神乃世へ連れて行ければそれでいい、そう思いこんでいた。

 でも、泉州さん、天羽が交互に突き刺した串が、司をぐりぐりにつっついている。

 今まで目を背けてきた、司の本当にほしいものが、今の司には確かに見える。

 テープを聴いて、あの人の気持ちが司には一切向いていないことを知った時流れた涙の感触。 ──ほしい、ほしいよ。どうしてなんだよ!

 手に入るわけがない、そう思い込んでいた。でも泉州さんも天羽も、司の切迫するくらいほしいものが、簡単に手に入るはずだと断言している。そんなわけないのに。なぜそんなこと言うんだろう。夢見ちゃいけない、って自分に言い聞かせたはずなのに、つぶしたはずの「ほしいもの」が意識の奥から浮かび上がってきてしまうではないか。

 ──そうだよ、言いたいよ。


「桂さん、おたくの大切なお坊ちゃま、現在スーパーにてお預かりしてまーす! 身代金はラーメン一杯! よろしく!」

 公衆電話でいつのまにか桂さんを呼び出している泉州さん。結局はこれが目的だったのだろう。相手は「桂さま」なんだから。見繕われてパジャマやらゲームとかいろいろ買物させられた司は、スーパーの休憩所で腰を下ろした。

 ──天羽はどうしても、西月さんだったらだめなんだって。

 ──だから、僕でよかったら、代わりでよかったら。

 

 今まで迂回してきた、この言葉。

 ──西月さん、僕と、付き合ってください。

 唇に乗せてみる。

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