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ところどころ聞き取れない部分が多すぎて、意味を掴むのが大変だった。英語専門ラジオ局の番組を聞いているような感覚だった。西月さんが黙って机の上を見つめているのを仕切り板越しに感じながら、司は目を閉じて集中した。
『俺のうちな、じっちゃんが書道の殴り書きで有名人だってのは話したことあるよな。俺書道なんて、墨汁で手が真っ黒くなるだけでどこがいいんだか理解不能だけど、そのおかげで青大附中に寄付金入学できたんだから、それはありがたいと思ってるんだ。けど、うちが寄付金どっさり包めたのは、じっちゃんがある宗教団体に関係しててそこで活動してたからなんだ。たぶん俺が入学した時、じっちゃんの名目でたくさん金を包んだんだと思う。俺の親じゃなくて、宗教団体の方が。今時の新興宗教。仏教とキリスト教とヒンズー教が全部交じり合ってる、今思えば変な宗教』
天羽がところどころ言葉を区切りながら話している。昨日、いきなりクラス全員の前でしゃべりまくった、家庭の事情のことだろう。宗教関連の裏口入学ということを自分から告白しただけでもすごいことだと思う。でもちゃんと、西月さんに前もって話していたのだろうか。
『俺も、じっちゃんの命令で去年まで、そこの宗教の少年団みたいなのに参加させられてたんだ。青潟じゃねくて、別のところに合宿させられてたんだ。一週間異常に規則正しい生活を送りながら、経典みたいなものを読まされて、自分の目標とか、教義とか、そんなのを二十四時間叩き込まれてたんだ。今思えば、ありゃ地獄だった。けど洗脳って本当にされちまうもんなんだなあ。俺、中学に入った時に本気で、自分の目標立てて守ろうって思ってた。『嫌いな奴を好きになるよう、努力しましょう』ってな。俺は小学校の頃から、結構好き嫌いの激しい性格だったんで、周りの先生連中から注意はされてた。卒業する時も、『露骨に好き嫌いを出さないようにするんだよ』とか言われてたしなあ。俺もそれはまずい、やな奴にはなりたくねえ、そう思って、春休みの教義合宿の時に目標にしたんだ。どんなに嫌いな奴がいても、人は人、相手は相手。できるだけ嫌いな人を好きになるよう、努力しようって決めたんだ。だから、青大附中に入ってからは、かなりむかつく奴がいても、それはそれ、これはこれって思えるように無理に思ってきた。大っ嫌いだと思う奴にこそ、親切にしてやって、友だちになるようにしてきた。中学二年まで。どれだけ大変だったか、想像つくか?』
誰かに質問されて一呼吸くらい間が空くこともあったけれども、天羽の語り口はいたって冷静だった。学校の先生みたいだった。相手は西月さんなのだとわかっている。いつも学校で「半径五メートル以内に近づくな!」と荒々しくおっぱらっている時とは違う。やはり天羽なりに西月さんを心配していたのかもしれない。ほんの少しだけ、静電気の走ったようなちくちく加減が走った。『けど、去年の夏、うちのじっちゃんとその宗教団体とが大喧嘩して、うちの家族と親戚全員脱退したんだ。ああ、もうその団体の出している広報誌みたいなのでは、俺たち『裏切り者ユダ』『地獄に落ちろ』『天誅が下る!』思いっきり叩かれてるぜ。『裏切りもの』とか罵られてるぜ。けどまあそれでよかったと俺は思ってる。あとは青大附高にコネなしで進学できるよう努力するしかねえなとは思ったけど、そのくらいっすな。合宿に追われないですむので俺としてはラッキー。それにな……。もう、無理に、好きでもない奴に好きなふりをしなくてもいいって、思えるようになったのもその時期からだったんだな、実は。俺、やっぱり、西月……さんに謝らねばなんないんだ。ごめん』
かすかに『天羽くん、いいの、私、そんなしかたないこと』と何か言う女子の声が混じっていた。か細く聞き取りづらかったけれども、確かに西月さんの声だった。さらに静電気が全身ちくちく攻撃してきたようだった。司は唇を噛みながらうつぶした。天羽の言葉を聞くまでこの格好のままでいた。
『俺は、出逢った時から』
意識が遠のきそうだった。身体がこわばった。天羽の良く通る声が、びんとテープに残っていた。聞き取れないふりなんて、絶対にできないことだった。
『西月さんのことが虫唾が走るくらい、大嫌いだったんだ』
──天羽、嘘だろ? おい、そんな嘘だろ?
お腹がずきんと痛くなった。学校で見た天羽のおちゃらけた表情と、かつては仲良く甘えていた西月さんのふたりがかすんで浮かんだ。男女そろっている時はいつもあのふたりの姿があったし、憎憎しい会話なんて、今年に入るまで一度も耳にしたことがなかった。
──西月さんのこと、出逢った頃からなんて、そんな嘘つくなよ天羽!
もうテープが回っている時に戻ることはできない。消すこともできない。西月さんはこの言葉を聞いてしまったのか? 最初はよかったけれども飽きただけなのかもしれない、いやよんどころない事情があったのかもしれない。近江さんがたまらなく好きになっただけであって、西月さんをものすごく嫌ったわけではないのかもしれない。いろいろ司なりに想像はしていた。
最初から嫌い、なんて選択肢だけは考えていなかった。
深草少将になることを求められたとか、ビーズの指輪をねだられたとか、その前にか。
西月さんの、か細いけれどもちゃんと聞き取れる言葉が響いた。
『だって、だって、入学した時、最初に話し掛けてくれたの、天羽くんだったよ。ちゃんと私、席がわからないと言ったら、教えてくれたじゃない。それにそれに、一緒に評議に選ばれた時だって、笑顔で『一緒にがんばろうな、おねーさん』とか言ってくれたじゃない。給食の時も、私ひとりで盛り付けてたら、手伝ってくれたじゃない。評議合宿の時だって、私と一緒がいいんだって、バスの中二人で並んでくれたじゃない。私が、『好きな人から薔薇の花を、小野小町みたいに百日間連続で届けてもらいたいなあ』とか『告白される時は、ビーズの指環でいいから、私にプレゼントしてほしいな』って言ったら、『今度俺がやった時には怒るなよ』とか言ってくれたじゃない。冬休みだって『奇岩城』で、天羽くんがルパンになって、私がレイモンドに決まった時、思いっきり喜んでくれたじゃない。あれ、みんな演技だったの?』
泣きそうだったけれども、やはり言葉を話すことのできた頃の西月さんだ。いつも司のことをかばってくれた、あの西月さんが訴えている。隣りにいる、今の西月さんじゃない。評議委員だったころの彼女だ。司には手が届かない存在だと思っていたあの人がいる。
『だから、今言った通りなんだ。嫌いな相手ほど、好きになるよう努力しないと、死んだ後いい生活が出来ないって信じ込んでいたおめでたい俺は、一目見た時から虫の好かないタイプだなって思った西月さんをとことん好きになろうって決めてたんだ』
──一目見た時からって、入学式の時からかよ! そんなこと、そんなのないよ! 異常だよ! 次の言葉に司も息を呑んだ。
『今考えると異常としか思えねえ。なんでそんな無駄なことしたんだろうって思う。たまたま評議で一緒になった時、本音でうえっと思ったけど、そんなことしたらまず西月さんが傷つくだろうし、なにより俺が天国にいけねえしって思って。一年の頃はそれでも、西月さんも周りの奴も、みな仲良くなれるならば、俺がひとりがまんしてもいいしなって思ってた。クラスもまんざらじゃねえしさ。けど……』
少しだけ間があった。
『近江ちゃん見てから、なんか俺のしてること違うって思ったんだ。近江ちゃんは誰にも媚びようとしてないし、自分のやりたいことだけ好きなことだけしている。それでいて成績だっていつのまにかいいところ取ってるし、担任が兄貴だってのにぜんぜん裏切り行為なんてしやあしない。こいつ、いい奴って思ううちに二年の夏、そう、俺のうちの大スキャンダル大会が行われた頃と一緒でさ。なんで俺、好きでもないことに一生懸命だったんだろうって思ってさ。天国なんかに行くよりも、今この世で自分の本性に素直に生きるほうがいいんでないかって、ずっと考えてたんだ。近江ちゃんのようにクールに、女子が好きだとか平気で言っちゃって、他人の顔色なんて全然気にしないで生きられるってかっこいいって思って。それで』
──近江さんがクールだって言ったって、天羽のことかばってくれたわけじゃないだろ?
──天羽、なんで西月さんの前でそんなに誉めるんだよ!
──西月さん、天羽のことしか考えてないんだぞ!
どれだけ司が西月さんの姿を目で追っても、どんなに神乃世へ連れて行こうとしても、何千本の薔薇の花を捧げても、西月さんは司の方を見ようとはしない。静かに微笑んではくれる。「ありがとう」とは言ってくれる。パンと牛乳を手渡してくれる。でもそれだけだ。一番ほしいものをくれるのは天羽なのだと分かっている。司がかき集めたものなんて、本当はほしくないのだ。せっぱつまった人のようにどうしようもなく欲しがっている西月さんの求めるもの、天羽の心ひとつだけなのにだ。それがわかっていてこんなこと言うのだろうか。
──天羽も一度、腹下りのクスリ飲んで閉じ込められるといいんだ。
胸がうっとむかついてくる。天羽の言葉は次に、西月さんへと向いた。
『人の受けばかり考えて、誰にでもいい顔して、好きでもない奴にまでおべっかつかって、クラスにいいことばかりしようとして実は自分が可愛くてしかたない、そんな女子と付き合っているんだろうって、まだ付き合ってもいないのに勝手に決め付けて、あれがほしいこうしてほしい薔薇をよこせリングをよこせなんてわめいている女子のどこがいいんだって、ほんとに思ったんだ。俺、ガキの頃から、うるさくてちょっとしたことで正義感ぶって立ち上がって、男子たちを傷つけて、都合の悪い時は泣いて周りの同情を引こうとする女子が、大嫌いだったんだ。結局泣いて周りが助けてくれて、俺が謝る羽目になる、もしくは無理やり悪いことにされる、そういう計算している女子の顔を見ると、ぴんときちまうんだ。そういう女子でもうまくやっていかないと、天国にいけないから頑張ったけど、もう限界だってそう思ったんだ』
──西月さんがいつ、そんな同情なんて引こうとしたんだよ! どれだけ天羽のために一生懸命だったかなんて、きっとあいつ気付かないふりしてただけだろ? な、そうだよな。僕なんかのためにあんなに一生懸命手伝ってくれたあの天羽が、なんで西月さんのことになるとそんな冷たいこと言えるんだよ! 嘘だよな。やっぱり嘘だよな。
細かく雑音が言葉を遮り、途中聞き取れなくなる部分が多々ある。このテープ、どうやって録音していたのだろう。がしゃがしゃと何度か電子音が割り込んでも、西月さんの涙声だけはちゃんとつかめた。三年に入ってから何度も聴いたあの言葉。
『私、悪いところあったら直すから。直せないって思ってるところもちゃんと絶対直すから!』
隣りの西月さんは身動き一つしない。司の方を見ようともしない。
『お願い、天羽くん、何でもします』
──本当に何でもするのかよ。
『もう周りにいい顔なんてしないから、おねだりなんてしないから』
──そんなこと、できるかよ。
『ちゃんとするから、私うるさくしない。近江さんとの付き合いも邪魔しないから』
──邪魔したいなら邪魔しろよ。
『お願い、嫌いにだけはならないで』
二度繰り返された言葉に、司はか細くうめいた。
──嫌いになんてならないよ。やめろよ。
『これ以上、お願い嫌いにだけはならないで』
──僕は嫌いになんか、ならないってば!
──なんで、なんで天羽なんだよ!
途中何か擦れるような音が響いた。電話している時に受話器を落とされた時に耳が痛くなるくらい耳障りな音だった。西月さんが途中、言葉を詰まらせている。
──これ以上、お願い嫌いにだけはならないで。
隣りの静かな西月さんが、確かに発した言葉。
──嫌いになんか、なるもんか!
司だったら、とっくに叫んでいるのに。
天羽の口調はところどころ聞き取りづらい部分もあったけれど、だいだいは意味をつかめた。前もって教室で話を聞いたこととか、泉州さんから前もってもらった情報なども入り交じっていたからだろう。
『『奇岩城』の時に、同期の評議連中、俺たちをくっつけようとしてただろ』
──奇岩城?
確か、西月さんと天羽が委員会のビデオ演劇で主役の恋人同士になったというもののはずだ。 どんな話かは見当つかない。推理小説だと聴いてはいたが。
『さっさと知らんぷりして、近江ちゃんにアプローチしようと思ってたけど、奴らがありがた迷惑なことしてくれてさ』
だいたい話は聞いている。確か、西月さんは天羽の恋人役だったはずだ。なのにビデオの撮影が終わった段階でいきなり、天羽は怒鳴って西月さんを追っ払ったという。そのくらいの事情は知っている。
『一度は卒業まで化けの皮被ろうかと思ったさ。とことん西月さんを騙してしまおうかって思ったさ。けど、嫌いな相手を俺の勝手で拘束するのはよくないって思ったのと、俺、やっぱり嫌われることが怖かったんだ。それでずっと迷ってた。その時にはっきりと、今した話を西月さんにすればよかったんだ。ちゃんと。けど、そうする勇気がなくて、俺、こんなにひっぱってしまったんだ。最低だよな。人をへど出るくらい嫌ってるのに、どうしても自分が嫌われるのが怖くてさ」
何か西月さんが話し掛けている様子だった。言葉は聞き取れない。天羽だけが冷静なまま話しつづけている。
『『奇岩城』が出来上がるまではちゃんと今までの俺でいようと思ってた。クラスでは片岡もあんたのこと好きだってことが見え見えだったし』
──僕のこと? 天羽、あの、どういうこと。
自分の苗字が出てきたとたん、言葉はテープから流れる以上にクリアとなった。天羽の言葉にまじる「片岡」という言葉に、思わず身体をこわばらせていた。
『もし俺に露骨に嫌われたとしても、西月さんも片岡のことまんざら嫌いじゃないみたいだし、代わりに癒してくれるんじゃないかって思ってさ。俺なりに、一番いい時考えたつもりだった』 しゅるると回転する音が響くカセットデッキ。重たいヘッドホンで頭が砂にうずめられていくようだった。
『けどやっぱり片岡の過去を清算しねえと、あんたも付き合う覚悟できないだろうなって思ったんだ』
言葉に波がない。天羽はくっきりと一語一語発している。
『こんなに一途に思ってくれた相手を裏切るんだ。それも、ずたずたにしちゃうんだ。俺だってあんたが嫌いだとはいえ、不幸になって欲しくなかったんだ』
──不幸になってほしくないなんて、じゃあなんで、なんでだよ!
西月さんがどうしようもなくほしがっているものを、司は知っている。誰よりも知っている。 天羽だって十分知っているはずだ。なのに、取り上げている。渡すことができない。お腹がすいて飢え死にしそうな状態の西月さんに、本当にほしいご飯を与えようとしない。司は与えることすらできない。頭が混乱してきた。動けなかった。かすかに泣き声が途切れ途切れに入っている。きっと西月さんは、司が迎えにきた時と同じように泣いていたのだろう。木に寄りかかったまま、繋がれたまま捨てられた犬か猫のように。
『きっと片岡は、俺がおえっとくるあんたの性格を、あがめて奉ってくれると思ったし、あいつもそう白状してたんだ。何よりも、『下着ドロ』事件の後、かばってやったのは西月さん、あんただけだったよな。あれが、あいつ、めちゃくちゃ嬉しかったらしいぞ。死ぬほど嬉しくて、本当だったら転校するつもりだったのを、もう一度生まれ変わった気持ちでここにいるって決めたらしいんだ』
──余計なこと言うなよ、そんな嘘ばっかり言うなよ。なんでそんなくだらないことばかり言ってるんだよ!
流れる天羽の言葉に含まれた、司の想い。
そんなもの、これっぽっちも西月さんがほしがっているわけがないと分かっているのに、天羽はいやいや気に入らないえさばかり置いていこうとしている。
──僕じゃだめなんだよ。西月さんは。どうしようもなく。ほんとにどうしようもないんだ。
『片岡、女子が決め付けているよりも、いい男だぞ」
首を振り、司は机につばが落ちそうなほど近づき、小さくつぶやいた。
「僕じゃ、だめなんだよ、天羽」
目を閉じた。涙はこぼれなかった。代わりに咽までつまってくるもやもやしたもので息が苦しくなった。教科書は胸でつぶされたまま。西月さんは身動きひとつしなかった。
テープの中の西月さんが答えを出してくれた。
『嘘だよ、片岡くんのこと』
司の耳に入ってきたものは、確かに西月さんの言葉だった。少しかすれていたけれども、いつかこうやって話してくれたらいいな、と夢見てきたような言葉だった。ふたりっきりだったらきっとこうやって、なんでも。神乃世に連れていくまでの間、もしこうやって、打ち明けてくれていたならば。でもそれは無理なことだと、一言聞いただけですぐに勘付いた。
こらえた。自分で言いたいことは山のように溢れてくるのに、いえなくて泣けた。
『だって天羽くん、前言ってたよ。『片岡みたいな奴、好きになる女いたら俺軽蔑するなあ』とか言ってたじゃない!』
──やっぱりそうなんだ。
『そんな相手と私を、くっつけたいほど、私のことが嫌いだったの?』
──僕はやっぱり嫌われてたんだ。
『私のこと、そんなに嫌いだったの?』
──もう、だめなんだ。もうどうしようもないんだ。どうすればよかったんだよ!
林の中、ずっと座り込んで泣きじゃくっていた姿を見た時、司は勝手に自分のことを受け入れてくれるもんだと勘違いしていたのだろう。もしかしたら夢がかなうかもしれないと。自分が「下着ドロ」の過去を持つ最低野郎だということを、忘れられると思っていた。
──嫌わないでくれると、思い込んでいた僕が馬鹿だったんだ。
すすり泣く声に重なり、司も目からにじみ出るものを押えた。
──あの時受取ってくれた時も、おんなじこと、思ってたのか?
──『ありがとう』って言ってくれた時も?
ほとんどつづく天羽の言葉を聞いていたけれど、意味は取れなかった。どうでもよかった。
『あのさ、西月さん。まさかと思うんだけどな、西月さん、片岡のことをかばったのって、実はいい子ちゃんぶりたかったからなのか? 本当に片岡のことを信じてああいったんじゃなかったのか?本当は、あんな奴頭悪すぎ、とか思って他の女子たちと一緒に軽蔑していたけど、クラスのみんなからいい奴に思われたくて嘘言ってた、なんて言わないよな? 違うよな。もし、そうだったとしたら。俺、とことん西月さんのことを嫌うことになるけどな』
もう堪えられなかった。司は教科書、辞書、すべて閉じた。かばんの中にそっと入れた。隣りの西月さんの方を見なかった。身動きしていないようすだった。後ろに座っていた泉州さんが、
「片岡、あれ、どうしたのよ。あらま」
と声をかけてきた。
「先に帰る」
西月さんには一言もかけられないままだった。全く動じる気配もなく、西月さんは黙って司に背を向けたままだった。
──もう、僕じゃ、何もできないんだ。
教室を出る時に誰かとすれ違ったけれど、挨拶したら風船破裂してしまいそうだった。うつむいて唇を噛み、司は生徒玄関から飛び出した。黒光りした空が雨っぽい顔をして見下ろしていた。
桂さんはきっと待ちかねていたことだろう。いつもの待ち合わせ場所、林の裏へ向かった。 思い出したくない場面をいやおうなしに蘇らせる路が続いていた。たまに蚊がまとわりついて、手の裏をちくりとさす。痒くてかきむしり、血がほんの少しにじむ。
松の大木前で立ち止まった。
幹に手をかけてみた。しめっぽい冷たさが指先に染みた。
風は西月さんを連れて出て行ったあの日よりも冷たく、分厚かった。
「どうしてだよ」
言葉が自然とこぼれた。
「どうして、僕じゃだめなんだよ」
天羽が話していることも、西月さんが泣きじゃくりながら訴えた言葉も、すべて司の想いなんて無視してぶつかり合っていた。写生会の時なら、もう司が薔薇の花を捧げた張本人だと分かっていたはずなのだから、ほんの少しでも司のことを思っていてくれてもよかったのじゃないだろうか。西月さんはなぜ、一瞬たりとも司のことを思い出してくれなかったのだろうか。
「わかってるよ。僕なんて、だめなんだ」
天羽が懸命に司をかばい、なんとか西月さんと仲良くさせようとしていることは伝わってきた。何度も、司のことを「いい奴だ」と繰り返していたことも。西月さんのことを最初から嫌いだったのだとわかっていても、精一杯良くしよう、うまくやろうと努力していたことも。司は男子として気持ちがわかる。それが、天羽なりの精一杯なんだと。宗教関係の問題も、あまり詳しいこと知らないけれど、無理して西月さんを好きにならなくてはならない理由がきっとあったのだろう。天羽もきっと、孤独だったのかもしれない、と勘では感じる。
でもだ。
西月さんの気持ちはどうなんだろう。
どんなに司が神乃世へ連れて行こうとしても、結局幕を下ろしたのは西月さんだった。
──天羽くんのいないところへ、行きたい。
そう言ったから、司は連れ出そうとした。
でも、西月さんは、天羽のいるこの学校を選んだ。
自分から、お菓子屋さんを通して連絡を入れた。
今までは、司のことを心配して、だからと思っていた。
──違う。違うんだ。
腰砕けになる、周りには誰もいない。かすかに雀が跳ねる声のみ。
「僕じゃあなんでだめなんだよ!」
わかっている。「下着ドロ」の張本人で、クラスからは浮いていて、友だちもいない、嫌われもの。女子の敵。汚い奴。金で事件を隠蔽した金持ちの息子。ありとあらゆる罵詈暴言を聞いてきた。西月さんだけは暖かい声をかけてくれたから、きっとそう思っていないんだと、信じ込もうとしてきた。でも、そんなわけがなかったのだと改めて気付いた。司は顔を幹に押し付けた。じりじりと空気の混じるような音が幹から聞こえた。顔を擦り付けて声を上げた。
──神乃世にも連れていけない。天羽のいないところへ行きたくないんだ。
──僕はどうすればいいんだろう。
──どんなに僕のこと嫌われてたって、もうもどれやしない。
裏切られて憎いと思えればよかったのだろう。頬が痒くなった。木の粉のようなものが頬にくっついていた。幹を両手で引き離すようにして、司は立った。
目を閉じている間何度も、藤棚の前で佇む少女の姿を思い浮かべた。たったひとり、自分の前で微笑んでくれたあのひとのことを、二年間ずっとなぞってきた。薔薇を受取ってくれた時の、茜色に染まった柔らかい笑顔。手に入れられるのだったら、一生嫌われてもかまわないと思っていた。
本当に嫌われているとわかっていても。
本当にただの、どうでもいい存在とわかっていても。
──天羽にかなわないとしても。
今までずっと司は、最初から西月さんの気持ちなんて手に入らないものだと思っていた。いや、そう思い込むようにしていた。恐れ多くも手に触れる権利なんて、下着ドロな自分には許されないと思い込んでいた。だから薔薇を受取ってもらえただけで幸せだったし、天羽に「付き合いかけたのか?」といわれても「付き合う気なんてないよ」と答えられたのだ。
──違う、そんなんじゃない。
自分の中で必死に否定したかった。そんな贅沢、許されないことなんだとわかっているつもりだった。でも、側にいて司は、本当にほしいものが手に入りそうになった時、何を思っていただろう。西月さんの家族に温かく迎えられ、やっと隣りの席に座ることを許された時、夢見つづけてきたものが両腕に入るのだと、思い込んではいなかっただろうか。
──ほしいよ、ほしいよ。ほしくないわけなんてないよ。
──だから、こんなに、悔しいなんてさ。
父の言葉が蘇った。
──どうしようもない、欲望、か。
天羽のことなんて全部ぶっちぎってやりたい。本当だったらあの場で西月さんを無理やりこっちむかせて、「あんなひどいこと言う奴、早く忘れろよ!」と怒鳴りたかった。無理に笑顔で、周りをいやな気持ちにさせないよう努力しているあの人を、あんな傷つけるなんて最低野郎だと怒鳴ってやりたかった。でも西月さんは天羽でないと、想いをつなげることができないのだ。どんなに嫌われても、どんなに軽蔑されても、天羽でないとだめなのだ。
神乃世に連れていくことでもなければ、司が身代わりの王子様を目指すことでもない。
たったひとつだけ。司ができることは、本当にたったひとつだけだ。
──天羽くん、私のこと、お願いだから嫌いにならないで。
「どうして、あんなことしたんだよ!」
司は、幹に自分の頭を打ち付けた。
時計を見ると四時半を回るところだった。司は埃だらけのシャツを払った。
もう自分を責めたって、罵ったってしょうがない。
──西月さん。
涙に濡れていたあのひとが座っていた場所をもう一度、曇る目に焼き付けた。
司は頬をもう一度ぬぐって、方向転換し校舎の方へ向かった。もう少しで雨が降りそうだった。教室に置きっぱなしの置き傘を取りに行くつもりだった。上靴に履き替えず、そのまま一階の教師研修室へ向かった。
西月さんもまだいるのだろうか。扉の影から覗き込んだら、後ろの席でひとり誰かが立ち上がった。
見覚えのある、色の白いおとなしそうな男子だった。司の顔を見るや軽く頷き、
「西月さんはいるよ」
いきなり口を切った。
──こいつ、何でそんな余計なこと言うんだ?
顔を思いっきりしかめそうになってしまった。黙るしかない司に、目を一瞬きょとんとさせ、たたみかけるように、
「けど、違う人の方がいいか?」
──違う人って誰だよ?
妙につぼを心得た言い方をする奴だった。細い扉の隙間から会話を交わすのが、そいつの気遣いなのだろうか。さっき西月さんを無視するかっこうで教室から出たのを気が付いていたのだろうか。さらに黙ったまま立ちすくんでいると、次は、
「泉州さん呼ぼうか?」
ジャストフィットな言葉を繰り出した。
思わず頷いていた。そいつがぴったりと扉を閉め約十秒。誰も来やしないと思っていたら、背中からいきなり目かくしする奴がいる。匂いで分かるなんて、言えやしない。司は息を止めたまま硬直した。向こう側の扉から回ってきたのだろうか。
「だーれだ?」
──こんな冗談やっている気分じゃないよ!
すぐに手を離し、司の真横に立った。ぼさぼさ頭をかきながら、泉州さんはふうっとため息をついた。
「お気持ち、お察ししますってとこかな。片岡、どうする」
──どうするって。
「テープ、聴いたんだよね。小春ちゃんから聞いた」
肩をくい、くいとぐるぐる回しながら、泉州さんは堅い表情に戻った。
「泉州さんも聴いたの」
「無理やりね」
小さい声でささやくと、司を無理やり玄関までひっぱっていった。すのこの上には誰もいなかった。奥から吹奏楽部の合奏が聞こえてくる程度で、人気はほとんどなかった。
「ったく、小春ちゃん、何考えてるんだか」
舌打ちをし、もう一度肩をぐるんと回した。筋肉質の指をぽきぽき鳴らした。
「あんたの立場、ないよなあ。ほんっと、あの内容だとさ。悪いけど今回の件、小春ちゃんが全面的に悪いよ。今まで私も小春ちゃんと片岡をくっつけようとしてきたけどさ、もしあんたがこれで愛想尽かししたんだったら、私はなんも言わないよ」
無理に笑みを浮かべようとしていた。嘘のつけない人なのだろう。顔が引きつっている。
「さっき、E組で言いたいことは言ってきたからさ。あんたも遠慮なく、言っちまいな」
「言いたいことって、まさか、西月さんとけんかしたのか!」
声が荒立つ。まあまあと泉州さんが肩を押えてくる。 「けんかになるわけないじゃないのさ。相手は口利けないじゃん」
「泣かせたりしなかったよな」
「泣かないよ。小春ちゃん、覚悟はしていたみたいだし」
そのまま泉州さんは何も言わずに靴を脱いだ。司はそのまますのこから降りた。
「私も女子だから、小春ちゃんの気持ちがわからないわけじゃないんだ。たださ、片岡、あんたに聞かせるべきことじゃあないよ。私はこれからも小春ちゃんの友だちだけど、あんたはあんなことされた以上、すっぱり縁切ったって誰も文句言わないよ」
──あんなこと、されたって?
──この人、何言いたいんだ?
泉州さんひとりが燃え上がっている。司は黙って林の方へ歩き出した。肌寒い。
「今日は桂さんと会っていく?」
「いい、すんごいやな顔、今の私していると思うからさあ」
しばらくふたりとも黙ったまま、雑草を踏みしめ林の中に潜っていった。不審者が出てきておかしくないような薄暗さだった。泉州さんが桂さんと会う気ないのだったら、今日は入り口のところで別れたほうがいい。これから司のしたいことを、伝えた方がいい。
「泉州さん、お願いがあるんだ」
林前の細い砂利路の真ん中で立ち止まり司は切り出した。
「天羽ともう一度、きちんと話をしたいんだ。立会人になってほしいんだ」
「何の話をさ」
黙り続けていたせいか、言葉がぶっきらぼうだった。
迷った。せっかく今まで応援してくれていた泉州さんを裏切ることになりそうだった。罪悪感がひりひりする。学校と林の往復をしている間も決意は変わらなかったのだから、しかたない。
「いままで、ありがとう。けど」
──これが西月さんの、本当にほしいものなんだから。
「天羽に、もう一度西月さんのこと、仲良くしてやってくれないかって、頼むつもりなんだ」
三発、四発、五発くらい殴られるかもしれない。頭をかばうように押えて一歩引いた。覚悟と痛さとはやっぱり違う。
「一対一だと、僕、何するかわからないから、だから、立会人」
言葉が震える。
泉州さんは動揺したところを見せずに両腕を組んだ。白いブラウスのボタンがひとつ、外れていた。かなり際どいラインがもろ見えだったが気にしていない様子だった。
「大丈夫、桂さんのことは、別の意味で、応援するから。協力する」
どもってしまう自分にいらだった。
「片岡、あのさあ」
首を右、左と傾け、考えている泉州さん。ぎろっと目を光らせた。
「そうだね、あんたのためには、それの方がいいかもな」
言っている意味が司にはわからなかった。素直に受け入れられたのが意外だった。
「わかった。私に任せとき」
──お願い、私のこと、嫌いにだけはならないで。
溢れそうになる嗚咽をこらえた。
泣いてしまうなんてことは、したくない。
──天羽にこれ以上、あなたを嫌いにさせるようなこと、僕がさせないから。
自分だけに向けられた藤棚の微笑みが、葉書の上に残っている。
──僕は、それだけでいいんだ。
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