21
約束通り西月さんはやってきた。
静かとは決していえない人だったのに、女子たちと顔を合わせてこっくり頷く姿は、確かにあどけなかった。西月さんが一気に五歳年下になったような気がした。司の精神年齢と、もしかしたらつりあっているのかもしれない。
「小春ちゃん、ねえ、口、利けるんでしょ」
「なんとか言ってよ」
「どうしたの、小春ちゃん!」
最初は軽く受け止めるつもりだった女子たちも、西月さんがかすかに頷き微笑むだけの顔を見るうちに不安げに手をぱたぱた言わせていた。
「だから言ったでしょ。小春ちゃん今疲れてて言葉が出ないんだってば」
相変わらず脂ぎった髪の毛の泉州さんがなだめる。西月さんが制するように片手を伸ばす。男子たちが目に入らないように、なにげなく女子集団に寄り添うように椅子を向ける。
天羽を背にするように、無意識に。
始業の鐘が鳴ると同時に西月さんは立ち上がった。どうやらかばんから教科書を出さずにいたらしい。すぐにかばんをかかえて囲んでいた女子たちに手を振り、廊下に出て行った。そういえば西月さんは今日からしばらくE組に行くはずだった。一階の元「教師研修室」といわれるところへだった。司もすっかり忘れていた。両手を膝において、司はぼんやり西月さんがいなくなるのを見送っていた。教室後ろの席だから、しゃべらないでもすむのはいい。
──本当は天羽の顔見たかったんだろ。
憎まれ口を叩いてみたい。
──天羽だけに、会いたかったんだろう。
──どうせ、僕なんか顔も見たくないんだろ。
嫌いになれたらどんなに楽か。気が付いたら西月さんの出て行った後を追おうとして腰を浮かしかけた自分がいた。狩野先生が入ってきたので慌てて座りなおす。西月さんがいなくなった後の席には、薔薇の花もなければかばんもなにもなかった。
「しばらく西月さんは別の教室で授業を受けます」
いきなり切り口がこれだった。朝の会で天羽の「起立・礼・着席」を聞いた後、狩野先生は青白い顔のままで告げた。
「西月さんは体調を崩して、少し言葉が出ずらくなっています。ほかには何も悪いところはないのですが、しばらくはクラスのみなさんたちとコミュニケーションを取るのが難しいかもしれません。身振り手振りと筆談が主になるでしょう。ですが、本人はいたって元気で、早くA組に戻ってみんなと授業を受けたいと思っているそうです。ですから、心配しないでください」
「先生」
と、泉州さんじゃない別の女子が手を挙げた。
「西月さん、修学旅行行けるんですか?」
「もちろん大丈夫です。西月さんはただ、一時的にものが言えなくなっただけですぐによくなるはずです。一緒に行動してくれる人たちが、さりげなく心を配ってくれるだけでもだいぶ違うでしょうね」
──どうせ女子の仕事だよみんな。
司は指を組み合わせて窓の外を眺めた。一階の教師研修室といえばめったに使われなくなった部屋として有名だった。誰かがよく「委員会の専用室にしてくれないかなあ」とつぶやいていたのを司はよく耳にしていた。見た目は普通の教室なのだけれども、語学用のヘッドフォンが設置されていたり、すぐにOHPを利用できたり、一部の机にはビデオやテレビが利用できるらしいとも聞いている。そこを噂の「E組」に回したということだったらきっと、西月さん最先端の教室で今、座っているってことだろう。
──あの子も一緒なんだろうなあ。
強烈な印象が忘れがたい彼女。杉本さん。
西月さんのことをあそこまで慕ってくれるんだから、きっといい子なんだろう。たぶん、そうなんだろう。男子にはとにかく、女子には、受けがいいんだろう。
──けど、二年と三年とだと、授業の内容も違うのになあ。テストどうするんだろう。
泉州さんの方を見た。待ってましたとばかりに司に向かって、ウインクした。妙に決まっている。やっぱり泉州さんは外人さんのモデルさんっぽいと改めて思った。
近江さんはいつも通りつまらなさそうに雑誌を読んでいた。時折天羽グループの男子連中と一緒に「上方漫才」の話で盛り上がっているのだが、司には外国語にしか思えない会話だった。ただ、どこかこくが足りないような気がした。ずぶとい声で「だからさあー近江ちゃーん」とおちゃらけた言葉をつぶやく奴がいなかった。
休み時間中、さりげなく天羽の姿を探してみた。すぐに廊下端で見つかった。他のクラスに遠征していたらしくて、いろいろと固い顔で話をしている。顔だけ知っているD組の男子とずいぶん無表情な顔で会話をつないでいるようすだった。
「だからさあー、俺のせいじゃあないって」
「だったら説明できるはずだろう」
「男には言えない事情ってもんもあるんだよん、わかってくれよな、立村ちゃん」
「ちゃんだなんて気持ち悪いこと言うなよ。それから、ごまかすな」
ワイシャツにネクタイ、ただ袖は長そで。丁寧に片方だけ三つ折りにしていた男子がいた。名前は思い出せないけれども、何度も全校朝礼とか学校祭とかで挨拶しているのを見たことがある。細い身体つきで唇の薄い、ちょっとなよっとした感じの奴だった。話の内容なんてどうでもよかったけれども、
「西月さんのことはどうするんだ」
といきなり、一番気になる名前が飛び出して耳をそばだててしまった。これも定めだ。 「だからそれは俺がなんとかするって。人のこと心配するよかお前、そろそろ経験準備したらどうなんどうなんどーなん?」
「だから話を逸らすなよ!」
かなり機嫌が悪げだった。前髪をかきあげるようなしぐさをすると、天羽に向かい噛み付くように、
「とにかく俺の方には女子たちから一方的な情報が入ってきているんだ。お前だって言い分あるだろ。とにかく聞かせろよ。今の俺がどれだけ誤解いっぱいの頭でいるか、想像つくのかよ」
「だあかあらあ、人の色恋沙汰に燃えるよかお前の」
言いかけたところでいきなり遮り、声を響かせずに怒鳴った。厳密に言うと「怒鳴る」ではないのだろうけれども、耳がちょっときりきりした。
「お前自覚してないだろ? 言葉が話せない状態ってどういうことだか想像できるか? 咽から言葉が出てこないんだぞ。叫びたくたって舌が回らないんだぞ? お前、今から一言もしゃべるなって言われて耐えられるか?」
「そりゃあ寝れば」
ポケットに拳固をつっこみ、方向をあさってにしようとしているのが見え見えな天羽だった。相手から身体をそらし四十五度位置を移動したとたん、司と目が合い、ばつ悪そうにうつむいた。すぐにしゃべっている相手の男子に肩を捕まれ、真っ正面からまたわめかれた。もちろん言葉は響かない。
「俺だって人のどうたらこうたらに首なんてつっこみたくないさ。天羽、このままだったらお前、最低ランクの男子に格付けされてしまうだろ。俺も天羽から詳しい話聞かない限り、お前が人間として最低のことをした奴だと認識するしかない」
「そんなあ、殺生なあ」
腰をくねくね振って、両手をインドの踊りのように頭天辺で合わせあやしく踊る天羽。みっともない。相手も同じく思ったのだろう。顔をしかめて背を向けた。
「いやに決まってるだろ。だから、あとでな。合同交流のことも一緒にだ」
よくわけのわからない言い方で、D組の痩せた男子は自分の教室へと戻っていった。残された天羽は通り過ぎる他生徒たちの視線を受けつつしばらく「いやあんいやあん」と意味不明な言葉で受けを取ろうとしていたが、果たせずとぼとぼA組に向かって歩き出した。司がそばにいることには気が付いたらしいが、声をかけるでもなかった。唇を尖らせて「ふう」と息を吐いた後、猫背のまま扉を開けた。
「片岡、ほら、あんた行くよ!」
授業なんてほとんど聞いていなかった。幸い今日は誰にも当てられずにすみ、時折よだれをたらしたまま居眠りしたりして一日は過ぎていった。さすがに昼休み、泉州さんを追いかけて「E組」の教室へ向かうことはできなかったけれども、帰りの会が終わってからは掃除当番で箒の柄を握ったままずっと窓の外を眺めていた。思いっきり後頭部をぶんなぐられるまでは。
頭を押えて周囲を見渡した。誰もいなかった。
「とっくに掃除が終わってるってのにさ。片岡あんたずうっと外見てたんでしょうが。掃除当番の男子たちが気、遣ってあんたを放っておいてくれたんだよ。感謝しなよ感謝」
──そんなの知らないよ。
斜めに視線を降ろしていって、おそらく一番「E組」に近いであろう教室を眺めていただけのこと。ほんの数秒程度だったはず。
「はあ? あんた完全に時間の感覚狂ってるって知ってた? 十分くらいこうしてるんだよ。ほら、箒握り締めるのもうやめなよ」
言い終わる前に取り上げられた。いったんまたいで「ちょっと魔女ッ子気分」と意味不明のことを口走るのはやめてほしい。
「ほら、行かないの、行きたいんでしょ。わかってるって」
「泉州さんはさっき行ったんだろ」
「あんた知らないの? 『E組』ってさ、夜六時くらいまでやってることもあるんだってよ。ほら、大学のゼミに出る奴とかいるじゃない。D組の立村とか金沢みたいにさ」 「誰それ」
話になりません、という顔で泉州さんは額をかりかりかいた。光に混じってまたふけの雪が降る。
「とにかく大学の講義を受ける奴が相談に来たり、いろいろ予習やったりするのを手伝ったりすると、あれ、気が付いたらもう六時じゃんって感じなんだって。小春ちゃんが良く言ってたよ。あんた小春ちゃんがなんで『E組』手伝ってたか知っているよね」
──だから、あの、杉本さんって二年の子の面倒を見るためだろ。
返事するのも面倒で司は掃除箱にもたれた。
「あのねえ、あまりおっきい声じゃあ言えないけど、杉本さんって子ね、たぶん今の状態だと青大附属の高校には進学させてもらえないって噂なのよ。本人も承知しているらしいけどね」
「成績悪いの?」
言葉遣いが変だったから、国語の成績は悪そうに思えた。泉州さんは首を振った。
「とんでもない! 片岡、あんたほんっとに他人のこと興味ないんだねえ。あの子、青大附中一年の頃からトップ譲ったことないんだよ。ほら、二番がバスケ部キャプテンの新井林でさ、いつも二十点から三十点くらい差をつけてるんだよ。それこそだんとつだよ」
「頭いいんだ」
勉強しなくてもなんとか上位三十番以内にいられてほっとしている司には信じがたい。
「けどね、担任とけんかばかりして嫌われてしまって、病気だとか言われて結局、高校は別のところ行ってくださいって言われたんだって。それにクラスでもいじめの濡れ衣を着せられてしまって、評議委員の座も奪われてしまって、片岡なんて目じゃないくらいずたずたな状態なのよ。あんたも想像つくでしょうが」
──僕の方がもっと悲惨だよ。西月さん、あんなふうに側にいなかったし。
最後の一言は予測していない言葉だった。慌てて首を振って、泉州さんに怪しまれる視線を向けられた。
「だから、評議委員会の方でいろいろ手を打って、元評議委員の杉本さんを先輩女子たちが守ってあげようってことになったわけ。それで小春ちゃんが代表になって、あの子をとにかくかばったのよ。小春ちゃん優しいからねえ」
──そんなのとっくによくわかってる!
司はしばらく唇を何度か右、左と寄せて歯磨きをするような感じで頬を膨らませていた。なんだか想像がつく西月さんと杉本さんとの光景だけれども、なんとなくもやっとしてしまう感覚が残っていた。むずがゆいというのだろうか。まだ埃をはたいていない、というような。
「なになに片岡、あんた杉本さんに小春ちゃん取られたと思ってるんでしょうが。ったく、ガキよねえ」
「そんなんじゃない!」
こうやってにやにやしながらまた司を突っ込もうとする泉州さんがうざったい。司はポケットに手をつっこんで肩を怒らせた。きっと、天羽と話していたD組の男子みたく自分がなよっとしているように見えるんだろう。
「それで他の学校との交流会に参加してもらう人員として、評議から外れた小春ちゃんと杉本さんが活動しようという約束になってたんだって。小春ちゃん、天羽のことがあってからさ、めいっぱい落ち込んでいたけど、でも『私がしっかりしなくちゃ、杉本さんのこと守ってあげられないもんね! うん、がんばる! 交流会のメンバーとしてがんばるから!』って一生懸命だったんだよ」
──なんでそんなに、杉本さんって子にこだわるんだよ。
思わずむっとしてまた慌てて口を封じる。息ついただけで、泉州さんに思っていること見抜かれそうになる。
「ところがさあ、世の中ってうまくいかないよねえ」
この人、ちゃんと風呂に入っているんだろうか。香水ではない匂いが匂ってくる。しかも一歩ずつ近づいてくる。女子って感覚全くなし。
「いきなりさ、その交流会を解散させられちゃったってわけ。四月の終りにね」
風呂場で牛乳を飲んだ人のポーズ、片手を腰にやり、泉州さんは司の隣りに立った。一緒に西月さんのいる方向を見下ろした。
「駒方先生とうちの担任が組んで、学内のお勉強何でもありありのサークルをこしらえて、クラスであまされている杉本さんとその他一名を組み合わせて、面倒みましょうってプロジェクトが始まったらしいんだ。これも小春ちゃんから聞いたんだけどさ。結構うちの学校って大学の講義受けている奴いるじゃん。それに高校の部活にこっそり参加させてもらってる奴とかさ。そういうちょっとずれた授業を取っている奴たちを集めて、居心地いいとこにしまよって計画だったみたいなんだ。まあ、言ったらなんだけど要は杉本さんを押し込む場所作りだよね。かわいそう過ぎるよねえ」
──いったい杉本さんって、何をやったの?
全くわからない。泉州さんの言うことってなんなんだろう。
「それで、小春ちゃんはその事情を全部聞いて、『じゃあ私は、杉本さんが苦しまないようにするために一緒にいる!』って言って、それから毎日放課後、『E組』に通うようになったんだから。ただでさえ小春ちゃん、A組女子評議を近江さんに取られて、天羽にはあんなことされて、ほんと悔しかったと思うよ。けど私の前でも一言だって、天羽や近江さんの悪口言わなかったんだよ。そりゃ、最初のうちは『近江さん全然協力してくれないから困っちゃう!』とか言ってたけど、そうだねえ。天羽に振られてからだよねえ、小春ちゃん変わったよ。いい方にさ。あんまりわがまま言わなくなったし。だから」
いやな予感。司と目と目が合った。残念ながらロマンスの予感はしなかった。
「あんたががんばれば、天羽なんかよりずうっとレベル上の小春ちゃんが手に入るかもしれないんだからね。さ、後輩にジェラシー燃やすなんて不毛なことしている暇があったら、さっさと行きな!」
──自分が先に行けばいいのにさ。
泉州さんの手は手錠だった。なんのためらいもなく手首を握り締め、無理やり教室から引っ張り出された。他のクラスの女子たちが奇異な目で司たちを見つめている。そんなの知ったことかとばかりに泉州さんは司を引きずって階段を降りていこうとした。つんのめりそうになりつつも司はついていくしかなかった。自分の立場上、わめけない。
──そんなにじろじろ見るなよ! なんも僕、悪いことしてないって!
そのくせしっかり前に歩いていくんだから、世話ないもんだ。自分で自分を罵った。
泉州さんに引きずられた犬状態で連れていかれた教師研修室。
それほどざわめきは感じられず、かといって静かと言う風でもない。後ろの扉から泉州さんが入っていくのにつられて、司も一歩足を踏み入れた。もちろんとっくに腕は自由になっている。前の二列目真ん中の席に、おかっぱ頭の後姿が見えた。隣りでいそいそと動き回っているポニーテールの女子にまず目が留まった。まだ向こうは気付いていない。後ろ半分の窓にだけ、暗幕がかかっていた。ドラキュラのマントさながらに赤色がちらついていた。
「せんせ、入っていいですか」
泉州さんが誰かに声をかけた。
「おお、よし恵か? おいでおいで」
間の抜けたやわらかい声が迎えてくれた。どこから出てきたのかと思ったら、右手側一番後ろの席で一生懸命、カセットレコーダーをいじっている白髪頭を発見した。ピンクのポロシャツというのがあまりにも似合わない。白く脱色されたジーンズ姿の駒方先生が、振り返り司に笑いかけた。
「司も、最近よくがんばってるんだってなあ。えらいぞ」
──一度も僕の絵誉めてくれなかったくせに。
二年間、駒方先生は美術の担任だった。退職するまで何枚も司、渾身の作を観てくれたはずなのに、どうも納得してくれなくて結局成績は五段階中四のままだった。あれは結構プライド、傷ついていたのだ。
「ほらほら、好きなところ座れ。そうだなあ、小春が前にいるからそこに行けばどうだ? 梨南が一生懸命、小春の侍女になっているぞ」
──じじょ?
聞きなれない言葉に目をぱちくりさせる。この先生の口癖はひとえに、生徒のことをみな名前で呼ぶところだろう。たぶん神乃世の仲間と家族、あと桂さんを除いて司は自分のことを「つかさ」と呼ばれたことがない。第一、泉州さんのことを「よし恵」だなんて、女の子らしい名前がついているなんて想像もしたことなかったのだから。別に名前で呼ばれることに抵抗はないけれども、西月さんのことをそう呼ぶと、ついなにかを思い出してしまう。
「へえ、杉本さん小春ちゃんの手伝いしてるんだあ。二年の男子連中が見たら絶句する光景ですよねえ」
敬語を使う泉州さん。一応、礼儀は司以外にはわきまえているらしい。
「一時間目からすごいぞ。教科書からノートから、わざわざ小春のために図書館で三年用の教科書とビデオを引っ張り出してきて、一生懸命読んでいるんだ。梨南はそういうの頭に入れるの得意だからなあ。ちゃんとノート作って、シャープ渡したりなんなりしてなあ。休み時間には露草とか摘んできてコップに入れて持ってきたりとかなあ。いい嫁さんになれるぞ。梨南は」
「似合わなさ過ぎ!」
声がでかすぎて、噂の主、杉本さんが振り返った。泉州さんに向かってまず九十度近く腰を曲げてお辞儀をした。司にちらりと目をやり、一切挨拶せず。背を向けたままの西月さんにかがみこみ、耳もとで何かを話し掛けた。ふたり、こくこくと頷き合っている。そのままにらみすえるようなまなざしを替えることなく、司たちのもとに歩みよった。駒方先生の真ん前に立ち、見上げるようにした。目つきはやっぱり鋭かった。
「先生、おふたりをお連れしてよろしいですか?」
「いいよ。小春も待っていただろうしなあ。少し三年生同士にしてやったほうがいいぞ。そろそろ上総も帰ってくるころだから、今度はこっちを手伝ってあげなさい」
好々爺。という風情だった。いつも色とりどりの絵の具で染まった手しか記憶に残っていなかったけれども、今は浅黒くしわが寄っていた。杉本さんの方をにこやかに眺めて、時計を見た。
「ほら、今、上総が大学の授業で勉強している本の英語朗読テープがあるから、それを聞いてみるか? 梨南も手伝ってくれるだろう?」
「先輩は英語しか出来ない頭の持ち主ですから」
──て、ことは、先輩なんだ。三年なんだ。
司の疑問に答えることなく杉本さんは続けた。
「どうせこれから先輩は、小学校五年生レベルの問題を勉強するんでしょう。私がきちんと勉強しておかないとお手伝いできません」
「その点、梨南は賢いもんなあ。ほら、テープもセットしたから、早くヘッドホンかぶってごらん」
かなり「先輩」にあたる相手に対して、失礼極まりない発言をしているように感じたのは司だけだろうか。と思いきや、杉本さんは司の前に立ちはだかった。かなり接近してきた。これ以上進むと、その、あの、胸の先がネクタイに触れそうな程。
「片岡先輩は先ほどまで私が座っていた席に、必ずお座りください」
頷くと、泉州さんがにやりと笑った。
「杉本さん、ずうっと小春ちゃんの隣りだったんだもんねえ。片岡、覚悟しなよ」
振り返ってくれない西月さんの側に近づいていった。泉州さんはついてこなかった。
──普通女子の方が隣りに座るだろ?
──なんだよ、そのにやつきぶり!
他にも三名くらい、男子がそれぞれの席に座って何かに没頭していた。そのうち一人はひたすらクレヨンを握り締めて、一心不乱に何かを画用紙に描いていた。もうひとりはひたすら本を読むのに没頭していた……よく見るとそれは国語辞典だったのだが……全く誰も司に関心を示さなかったのが気味悪いくらいだった。A組だったら絶対にありえないシュチュエーション。司は西月さんの隣りに一度立ち、見下ろした。ゆっくり、司の顔を見上げる西月さん。そこに笑顔や喜び、そういうものは一切なかった。何ひとつ、ふたりきりで歩いた時以上のものは見当たらなかった。
ただ、嫌がっていないらしいということは、こっくりとした後に西月さんが椅子を引いて司へ指差したところから推測できた。そう思いたかった。
──僕でも、いいんだ。
「隣りに行って、いい?」
一応、第三者に対する確認だけして、司は隣りの席に回った。語学用カセットテープ再生デッキだけが組み込まれた机だった。プラスチックの薄い板で仕切られていた。尻を浮かすようにして少しずつ椅子に腰掛けていくと、不意に西月さんの手が司の膝に伸びた。あぶなく、微妙な位置に触れそうになり、ちょっと腰を引いた。
──な、何するつもりなんだ?
司が勘違いをする間もなく、その手は司の机の上に着地した。長方形のカセットケース、題名も何も書いていない、ただ撮りっぱなしというだけのものだった。すぐに西月さんは手をひっこめ、背中を丸めて何かを机の上でしていた。
──カセットテープ?
音を立てないようにそっと触れてみた。少し汗ばんでいたように感じたのは気のせいかスケベな気持ちからかわからない。膝に司は手を置いた。同時にまた、膝に伸びる手。今度はちゃんと、司の膝もとに小さなメモが着地した。
──このテープを聞いてください。
西月さんは司の顔をまた、見つめた。
シュークリームを渡してくれた時と同じ目だった。
「じゃあ、英語やってる振りするから」
司は教科書をかばんから取り出した。ついでに辞書も取り出した。ある一人の女子を特定できるかぐわしい匂いが漂ってきたところをみると、きっと後ろにいるんだろう。司は英語リーダーの教科書を開き、予習をする顔でカセットテープをデッキに入れた。スイッチを押した瞬間、があがあと流れる雑音に耳が埋め尽くされた。かすかに人の声がする。でも誰かわからない。頭の中が凍った。
「これってなに」
ヘッドホンを外して西月さんに尋ねてみた。
メモがすぐに膝に帰って来た。
──写生の時。
風のざわめきと、スカートを乱したまま泣きじゃくる声。差し伸べる手。
流しっぱなしのテープにはしばらくがさごそ音だけ。そのうち、男子特有ののドラ声がかすかに聞こえた。
──あのな、西月……さん。
──なあに?
──今から話すこと、全部聞いたら、俺のことをとことん憎め。
──まさか!
天羽の声だ。西月さんとの会話だ。
教科書を反対側に置いたのも忘れ、司はつっぷした。顔をデッキに近づけた。ただひたすら、雑音の中から湧き上がるふたりの会話に耳を済ませた。