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行きずらい雰囲気ではあったけれど、もともと司はクラスメートとしゃべることが少なかったし、それはそれでいいと思った。泉州さんも今までは、多少クラスの女子たちに配慮して、あまりしゃべりかけることもなかったのに、今日からはずいぶんなれなれしい。小さい声で「小春ちゃんにやらしいことしたなんてことないよね」とささやいているのを聞くのは辛かった。誤解されてもしかたないことだとわかっているのだけれども、やはりしんどい。狩野先生も、結局夜の十時くらいまで付き合ってくれた。西月さんの家を出た後、なんと父のマンションへ泊りこんだらしい。今朝みた感じだと、明らかに寝不足そうだった。また父の演説に付き合わされたのだろうか。今度こそちゃんと、「牛もつ丼」ではない食べ物を食べることができたのだろうか。いろいろ考えているうちにめまいがしてきてならなかった。桂さんといつもの家へ戻り、風呂に入って眠り込んだ後、何が起こったのか司は知らない。はっきりしているのは、一日おいて二日後、西月さんは学校に戻ってくると約束してくれたことだけだった。
泉州さんは憤っていた。そりゃあもう、怖かった。
次の日の昼休み、女子たちの前でためらいもなく司は教室から引っ張り出され、体育器具室まで連れて行かれた。グラウンドの奥に立っている、私立青大附属中学の代物とは思えないほどのほったて小屋だ。
「ごめんなさい! 本当に、ごめん」
ひたすら司は頭を下げつづけるしかなかった。平手で後頭部をぽかんと叩かれる。手加減をされているし、女子の腕力だし、痛くはない。けれど、怒るのも無理はない。
「ったく、あんたって、ボケなのか天才なのかわかんないよね!」
「けど、大丈夫だから!」
──西月さんのことなら、ちゃんと狩野先生が手を打ってくれたから。
そう答えるつもりだった。
「ちゃんと、明日、学校に来るって!」
「そんなこととっくに聞いてるってば。それより問題はあんたよ、片岡」
「ごめん、嘘ついちゃったのはごめんなさい」
また、頭のてっぺんに手を置いて、ぐりぐりされた。誰かさんのやり方とそっくりだ。
「で、あんた、なにやってたわけ? 小春ちゃんと駅まで行ったんだって?」
──もうばれてるんだ。
司が西月さんを連れて駅まで連れて行き、神乃世までバスに乗って行こうと考えたこと。
ふたりだけの秘密にはならなかった。
「あんた、あまり言いたくないけどさ」
泉州さんはもう一度、髪の毛を引っ張った。抜けたらどうしよう、つるつるになったら。
「なんであんた、タクシー使わなかったわけ?」
言葉を発せず。司は凍った。泉州さんは温んだ笑顔で唇を曲げつつ続けた。
「私はさ、あんたらが仲良くなってくれればそれでいいと思うよ。小春ちゃんの事情については、黒幕がいるんだってこと、こっちだってわかってるからね。小春ちゃんがどう思っているかどうかはわからないけどさ。けど、あまりにもまぬけじゃないのさ。小春ちゃん、結局片岡じゃあ当てにならないと思ったんだろうねえ。学校に電話かけてきたんだよ」
──えっ?
初耳だった。顔を上げて泉州さんの顔を覗き込んだ。いつものように浅黒く、髪の毛ぼうぼうの泉州さん。口元にソースの跡が残っている。
「無理やり連れてってやればよかったんだよ。私が言うのもなんだけどさあ。あんたがあまりにももたもたしているから、小春ちゃん元評議委員の意識爆発させて、近くのお菓子屋さんから電話連絡してきたんだよ」
「けど、西月さん、口利けないんだよ!」
お菓子屋、と聞いて口の中に甘いカスタードクリームの味わいが広がった。つばを飲み込んだ。「知ってるよそんなこと。小春ちゃんのお母さんがうちの母さんにしゃべってたもん。あの家も妙にあっかるいからさ、その辺オープン」
「口利けない人がどうして学校に連絡なんてできるんだよ!」
お菓子屋さんから連絡、というのがよくわからない。第一、そんな暇なんて無かったはずだ。「ばっかだねえ、片岡。あんたと二人っきりで愛の逃避行していた時にさ、どっかのお菓子屋さんに寄らなかったわけ?」
「そういえば」
鈍すぎる。司は思いっきり自分の耳を引っ張った。自分なりのお仕置きだ。
「うん、寄ってった。けど、西月さんひとりだよ」
「あたりまえじゃん。一人に決まってるじゃん。あんたと一緒だったら、またややこしいことになるに決まってるじゃん」
じゃん、じゃん、とうるさいくらいだ。じめっとした空気の中、外の雨がぼたぼたと音を立てていた。
「小春ちゃんのお母さん大受けしてたよ。お菓子屋さんのカウンターに向かって、まず小春ちゃん、生徒手帳に『私は口が利けないので、今から書くことをここの番号にかけて伝えてください』って書いて、お店の人に渡したんだって」
「お店の人にって、シュークリーム買うんじゃなくって」
飢えた司のために、お菓子を買ってくれたのではなかったのか?
「そりゃあさ、なんも買わないで頼むのはやっぱし、まずいと思ったんじゃないの。小春ちゃん、学校とうちにかけてもらって、かくかくしかじか片岡くんとふたりでいて、これから学校に戻りますってことを、お店の人に言ってもらったらしいんだよ。お母さんもびっくり仰天したらしくって、すぐ学校に迎えにきたって。ほら、あそこのうちって、お爺さんが一番えらいじゃん」 ──えらいのか?
昨夜、大人たちが熱く西月さんの今後について語り合い、最後は固い握手と友好的な雰囲気の中で幕引きとなったのは覚えている。ただ、肝心要の西月さんが静かに押し黙ったままだったのと、司が居場所見つからずに小さくなっていたのがなんともいえないところなのだが。司に理解できたのは、西月さんが今日のところは学校を休み、明日からいつも通り通うことになること。またもう一つ、授業を受ける場所が別になること、くらいだった。難しすぎて全く理解不能だったんだからしょうがない。泉州さんが言った通りあの白髪頭の人は、西月さんのお爺さんで、いわゆる「教授」らしい。お父さん以外には顔を合わせることになったけれども、なぜかみな、司には優しかった。下手したら「娘を傷ものにして!」と殴られることを覚悟していたのにだ。泉州さんはさすが、親友だけあって家庭事情には通じているらしい。
「お父さんがさあ、いろいろと影薄いんだよね。ほらほら、高校野球のピッチャーだった人なんだけどね。いろいろあるみたい。お父さんよりもお爺さんの方がOK出したら、あとはみな黙って従うんだってさ。あんた、お爺さんには殴られなかったんでしょ?」
「うん」
なでられはしたけれど。
「じゃあ気に入られたんだよ。あとはさ、時間の問題だね。小春ちゃんが気持ち落ち着いて、馬鹿天羽のことを忘れて、片岡のことを気に入ってくれればさ。あとは家族ぐるみでOKじゃん」 また、「じゃん」だ。つい口を尖らせて言い返したくなる。
「もう、とっくにそうだよ」
「は? 小春ちゃん、喜んでたの?」
「違うよ、『家族ぐるみ』ってとこだよ」
このあたり、話の途中で思いっきり船を漕いでしまい、桂さんにぶんなぐられて目を覚ましたので詳しいことはわからない。ただ気が付いたら父さんと西月教授が意気投合していて、『迷路道』の経営方針とか、人材の育て方とかについて熱く語っていたことくらいだ。そのうちにいきなり話が飛んで、「今度ぜひ、うちの学生たちにその話を聞かせてやってください」と西月教授が言い出し、何度目かの握手を交わしていたことくらいだろうか。とにかく、司のボケのせいでこれっきり西月さんに近づくな、ということはないみたいだった。
「家族ぐるみねえ。あの家、そういうの好きだからねえ」
しみじみとつぶやく泉州さん。雨なのにサッカー部がグラウンドを走りつつ「ファーイト!」と声をかけているのが聞こえる。へこんだサッカーボールを踏んづけつつ、泉州さんは腰に手を当てた。しょぼくれている司の立場っていったいなんなのか、とつい思ってしまう。
「うちの父さん母さんともそうだもんねえ。小春ちゃんのお爺さん、やたらと自分のゼミの学生さんに、社会人の話を聞かせたがるくせがあるんだよね。うちの父さんも警視になる前に、警察の仕事について話させられたって言ってたもん」
そういえば泉州さんのお父さんは警察の人だったのだ。
「とにかく、それであんたはお爺さんに『祝・小春ちゃんの彼氏』と思われたんだ」
「『祝』じゃないし、彼氏でもないよ!」
泉州さんはどうして、どんどん先に先にと話を持っていくのだろう。司が決して望んでいない、望んではいけない夢を、叶うもんだと決め付けて語っていく。そんなこと叶うわけがないのに。司と西月さんがずっと、押し黙ったままオレンジジュースを飲んでいたのがその証拠だ。父さんと西月教授はどう思っているかわからないけれども、司には決して手の届かない場所なのだ。
「大丈夫だって。あのお爺さん、小春ちゃんの彼氏についてはお父さん以上にチェックが厳しいと思うよ。天羽より片岡、あんたの方が上だって思われたみたいでよかったじゃないのさ」
言っている意味がわからず司はもう一度唇を突き出した。
「ほらほら、すねないでさ。今だから言えるけど、小春ちゃんは天羽と付き合っていた間、家族には一言も話さなかったってよ。いろいろ、事情があったんじゃないの?」
──天羽の方が僕なんかより上に決まってるのに!
立っているのが急に辛くなった。力がふよふよと足から抜けていき、しゃがみこんだ。もうひとつ転がっていた、つぶれたボールにまたがって座った。
「あんた、ほんとこうやって見ると、ガキだねえ」
「悪かったな」
だってそうでもしていないと情報が整理できなかった。
司はしばらく迷っていたが、話すことに決めた。
「西月さん、しばらくA組に戻ってこないよ」
「はあ? だってあんた、あさって小春ちゃんが学校に来るって話していたんじゃないのさ」
「それはそうだけど」
みんな見通しているように見えるけれども、知らないことだってあるのだと思えて、ひそかに嬉しかった。
「西月さん、しばらく『E組』に行くんだ」
「はあ?」
がしっと尻をボールにくっつけ直し、両腕を組んだまま司は見上げた。少し戸惑っている様子の泉州さんは、やっぱりモデルさんみたいだった。
「狩野先生が言ってたんだ。しばらく西月さん、A組から離れて、気持ちを落ち着けるための時間が必要なのではないかなって」
「そりゃあそうよ、口きけないくらいなんだから」
「だから、だよ」
頭の上から雨漏りしそうなくらいに雨音が鳴り響く。
「僕も知らなかったけど、西月さん『E組』の手伝いをしていたんだって」
「知らなかったの? ほら、一年の杉本さんの面倒見るために、小春ちゃんいろいろと駆けずり回ってたのよ」
「それだれ?」 答えず泉州さんは西月さんオンリーのことを話しつづけた。
「とにかく小春ちゃんは面倒見がいいから一年の女子からは好かれてるのよ。クラスで弾かれた子を図書室へ連れて行って、いろいろ話を聞いてあげたりとかしていたようだし。妹みたいな子が小春ちゃんにはいるのよ。E組って学年の掃き溜めって言う人もいるし、ある程度は当たってるかなと私は思うけど、まああそこだったら天羽は寄り付いてこないよねえ」
「たぶん、天羽も知らないと思うんだ」
狩野先生が説明していないとするならば、だ。男子たちも興味しんしんでいろいろかまをかけてきたけれども、司はうつむいて無言を通した。余計なことを言うと、自分はとにかく西月さんが大変なことになるかもしれないからだった。今の段階では、下着ドロの片岡司にいやらしいことをされたらしいという噂を流されたくなかった。自分が悪者になるのはかまわないけれども、西月さんが男子だけではなく女子の目からも汚れた存在にされてしまうのはいやだった。
「そうかあ。『E組』に非難かあ。そうだよねえ。今まで元気に面倒見のいいお姉さんしていた小春ちゃんが、今度は杉本さんにお世話してもらうことになるわけなんだあ。複雑」
──だから、その杉本さんって誰なんだよ。
「ま、あんたもわかるよね。小春ちゃんがいかにみんなに対して優しい子か。天羽の奴、いったい何言ったんだか。ほんっと頭くるよ。あいつ、人間として最低じゃないのって言いたいよね。あんた知ってる? ほら写生の時さ」
──西月さんに「好きになれない理由」を説明したってことか。
あの時天羽も、かなりいいかげんに話をはしょっていた。いったい何が原因なのか正直なところよくわからなかった。天羽なりにもいろいろ考えるところがあったのだろうし、どうしても伝えなくてはならないと思ったからああいう行動に出たのだろう。でも、もっとやり方があったのではと思う。四時間目まではなかなか、他の男子たちの視線もあって声を掛けられなかった。なんとなくだけれども、天羽と近江さんの二人に対して、女子たちが冷却態度を取っているのだけは見て取れた。司はただ、チャンスをうかがうしかなかった。何度か泉州さんが文句を近江さんにつけているのはちらりと見たけれども、あの近江さん、全くどこ吹く風。知らん顔で受け流していた。
「ほらほら、あんたが戻ってくる前、写生の後よ。小春ちゃんが戻ってこないからさ、変だなあと思って天羽にかまをかけてみたわけ。そしたら『カセットテープ』とか意味不明なことを口走ってたじゃないのさ。いやあな予感したから聞いてみたのよね。近江さんにも」
──カセットテープ?
司も天羽の口から確かに聞いた。でまかせだろうと思って気にしていなかった。しかし泉州さんは「当然」と決め付けたまま話を進めた。
「どうやらさあ、あのふたり、小春ちゃんを呼び出して、話し合いをそのまんま録音しておいて、いざ小春ちゃんが食ってかかった時には証拠物件にするつもりだったらしいのよ。アホよね。そんなことしたら自分らが『リンチ』したってことになるのにさ。そういうとこ、あの評議コンビ、頭働いてないよねえ」
ぼりぼりと髪の毛を掻いている。かゆいんだろうか。司は半ば口をあけたまま見上げつづけた。でないと、聞いていられない。
「テープなんて、ちょっと変だよ。そんなのあるわけないよ」
司が首を振るのと同時に雷が落ちた。泉州さんと、外と。
「あるに決まってるじゃん。天羽の奴何考えたんだろうね。自分用にはマイクロテープ。小春ちゃんにはカセットテープ。同時録音して、一本を渡したんだってさ。そんな惨めな思いした時のテープ、ほしがるわけないのにさ。最低だよ。もしもだよ、小春ちゃんがその時の会話が元で何もしゃべれなくなっちゃったとしたら、その時は小春ちゃん家で告訴できるんじゃないの」
頭の中が整理しささらない。ただひとつ、分かっていることだけを告げた。
「たぶんなんだけど、泉州さん、西月さんは僕が迎えにいった時」
──テープのせいじゃないよ。たぶん、それは僕のせい。
どんなに牛もつ丼食べて満腹になっても、桂さんや父さん、狩野先生に支えられても、西月さんの家族に暖かく迎えられても。
「ちゃんと、口利いてくれたんだ。だからきっと、僕が連れていった、後なんだ」
これだけはきっちりと告げなくてはならない。天羽のためではなく、自分の責任のために。
「だから、テープのことわかんないけど、たぶん僕が、西月さんをしゃべれなくしたんだ。きっと」
体育器具室の床をじっと見下ろし、司は膝を突いた。腿の間につぶれたボールが入り込む格好となりまぬけだった。自分で笑ってやりたい。泉州さんも鼻で少しだけ笑いの息を漏らした。
「片岡、そんなに自分を責めるんじゃないよ」
休み時間はそろそろ終りに近づいている。いくら泉州さん相手とはいえ、ふたりきりで篭っているのはいろいろまずいかもしれない。A組の女子たちにばれたら、西月さんだけではなく泉州さんもひどい目にあうのではないだろうか。
「ま、私もさ、こういう騒ぎになるまでは、自分の立場ばっかり考えていたってのも否定できない事実だしねえ。もう少しおおっぴらにあんたのことかばってやれればよかったんだけど」
「かばう必要なんてないよ」
「まあまあ、私さ、あんたみたいな奴はまんざら嫌いじゃあないからね」
どきりとすることを泉州さんはさらりと言う。
「ただ、どちらにせよね、小春ちゃんがそのテープを持っていることは確かなんだってさ。放課後にでも小春ちゃんの家、行ってみるからさ。あんたも来る?」
司は首を振った。
「なんでさ。あんた一番心配してるくせにさ」
「西月さんは、僕なんかに来てほしいと思っていないんだ」
「まあねえ」
このあたり、あっさり同意してくれた。
「今の段階では、あんたもあまりでしゃばらない方がいいかもねえ。とにかく、小春ちゃんにはかわいそうだけど、例のテープを持っているのかどうか、確認してみるわ。持っていて、明らかに天羽たちが悪いということが判明したら、その時はこちらだって出かたがあるよ。このまま小春ちゃんがただの振られた哀れな子扱いされるのは、友だちとして許しがたいもんね。でしょう、片岡」
──けど、そんなこと、西月さん聞かれたくないんじゃ。
言いかけた言葉を泉州さんはすぐに遮った。
「それにこの機会にはっきりさせておいたほうがいいって。片岡、あんたはこれからゆっくり、小春ちゃんを攻略していくんだからさ。ここんところで愛情サービスをとことんしときな。事実を確認するのがやっぱり、何事にも大切だってうちの父さん言ってるからねえ。小春ちゃんも、天羽から言われたことを頭に叩き込めば、もう脈がないんだってことがわかるだろうし、それさえわかればあとは、みっともないくらい天羽を追っかけることないだろうしさ」
鐘が鳴るのが聞こえた。教室に戻ろうとしたところで、A組の女子たち数人とすれ違った。完全に密談していたことがばれてしまっているらしい。司は身を小さくして廊下を走った。かすかに聞こえる「あの下着ドロがさあ」を耳ふさぐこともせずに。
五、六時間目は何事もなく終わった。とてもだけれども気持ちが集中できる状態ではない。狩野先生が白衣姿で教室に戻ってきて、帰りの会を行おうとした時だった。
「先生、ちょっとだけいいっすか」
聞きなれた、軽い調子の言葉遣い。
天羽が右手を上げて、返事を待たずに立ち上がった。女子たちからは「ぶー」とその名通りのブーイングが上がった。早く帰りたいのだろうし、修学旅行関係の準備などで委員会関係者は忙しいはずだ。
「早く終わらせろよなあ、天羽」
「何やってるんだよ」
男子たちもかなりいらだっている。天羽に対してどう、というのは男子グループにはあまり感じられなかった。
狩野先生はめがねを少し押し上げるようにして、小さく頷いた。
教壇にそそくさと上がり、天羽はいつもの評議委員スタイルで、両手をとんと教卓についた。少し見下ろした格好になるその顔は、険しかった。司の方は全く見ず、その代わりに真っ正面の写生画をずっと見据えるような格好だった。数日前に司が同じことをしたかのように。
「今から、ちょっとまじで聞いてほしいんだ。いいか」
「早く終わらせろー」
男子たちの軽い茶化しを無視して天羽は、握りこぶしを軽く下ろした。
「修学旅行を前にしてってことなんで、これから俺たち評議委員も修学旅行準備でパニック状態なんだが、んなことどうだっていいわな。けど、今のところA組の状態は一年時と全く代わってねえだろ。それを考えると俺としてはとってもだが、たまったもんじゃあねえ。みなさん、わっかるかなあ」
軽い問いかけも一切女子には無視されている。女子たちのおしゃべりで、天羽の声は届かない。
「おめえら少し黙れ!」
いきなりの腹から出た怒号に、一瞬だけ教室は静まり返った。が、すぐに「天羽なに格好つけてるんだろうねえ」「さんざん人痛めつけてきたくせにさ」「ばっかみたい」「気取るんじゃないよ」と女子たちの反発が返って来た。見かねたのか狩野先生が、
「女子のみなさん、少しだけ天羽くんの話を聞いてあげてください」
と静かに告げた。意外とそちらは効果があったようだった。なんとか聞き取ることのできる程度には空気が落ち着いた。
「先生すまないっす。じゃあ単刀直入にいくわな。うちのクラスはA組だ。A組だから、ちょっと特殊な事情があるんだってことも、ここにいるみんなわかってると思うんだな。俺もそうだしさ」
いきなり女子たちが近江さんの短い髪の毛をじっと見つめて集中し始めた。「こっちみてプリーズって。あのつまりですな、俺たちはずっと三年もの間、他のクラス連中からは『コネ組A組』とかさんざん悪口言われてきたってわけっすよ。一度や二度じゃあ、ねえよなあ」
反応はない。それでも天羽は続けた。
「はっきり言っちまうと、それは本当のことだって、みんな知っているだろ」
初めて、純粋に言葉のない静けさが訪れた。
A組には珍しい、しんとした空気が。
「先生、悪いけど俺なりに言いたいことあるから黙っててくれよな」
「言葉には気を付けてくださいね」
どうやら、狩野先生にも了解済みの芝居らしかった。父さんのコネとたぶん寄付金の関係で青大附中に入学したであろう、自分自身を省みつつ、司は肩をつぼめてうつむいた。
「俺は、三年前、うちのじいちゃんのコネで、青大附中に入った、もろ『縁故入学者』なんだ」 もう、誰も話をする奴はいなかった。
「周りから『コネ組』とか言われたり、『他のクラスよりもA組は異常なほど成績が悪い』とかさんざん言われていたけどさ、俺もそれは本当だなあって思っていた。実際試験を受けた時、俺じゃあ太刀打ちできねえよって内容ばっかりだったしさあ。あとで他のクラスの奴に聞いてみたら、そりゃあもうすげえできるできるって、すごい状態だったんだ。うちの学校、入試の後の成績しか教えてくれねえし、面接の方を最優先していたからさ、それは当然だと思うんだわあ」 言葉を切り、唇をぴんと張った。
「俺の場合、じいちゃんが書道の先生というか結構その世界では有名だったけど、青大附中に入ることのできるくらい寄付金納められたわけじゃあねえよ。その点、もしかしたらお前たちと違うかもしれないんだけどな。うちの場合、すげえ昔から、ある宗教に凝っていてつい最近まで活動したりしていたんだ。たぶん知ってると思う。いろいろ新聞沙汰になった宗教団体なんだ」 ひそひそ、女子たちがまた肩をつつきあう。司の頭はだんだん麻痺し始めた。
「信者を集めて、いろいろ合宿したり、勉強会を開いたり、その他自分たちの悪いとこをいっぱいつつきあって最後に抱き合って泣き出すみたいなことを、いっぱいしているとこだったんだ。俺も子どもの頃からそういうところに入り浸ってたんで、世の中そういうもんなんだなって思ってたんだ。そこの宗教の教えの中に『自分の我を捨てて人に尽くせ』ってのがあるんだけど、ほんっとこれ、しつこいくらい叩き込まれたなあ。自分のやりたいことをもし、親や目上の人から邪魔されたら、その時は運命だってことであきらめて、やりたくないことを一生懸命やれっていうのか。あと、『自分の好きになれない相手を好きになりなさい』ってのもな。別に教えとしたらごくごく普通のもんだけど、そこの宗教の場合、自分の嫌いな相手をイメージさせて、無理やり『この人はいい人です、この人のことを僕は好きになります』みたいなことを言わせるんだ。お仲間信者のいる部屋の、ど真ん中で」
──宗教団体? あの、それって変なことなのか?
司にはわからなかった。『自分の我を捨てて人に尽くせ』というのも『自分の好きになれない相手を好きになりなさい』というのも、別に宗教とは関係ない話じゃないだろうか。父さんもよく似たようなことを話していた。大嫌いだった先生がいた時は、いいところを見つけて付き合いなさいよと良く言われていた。ごくごく普通のことじゃないだろうか。自分の我、かどうかはわからないけれども、神乃世の仲間たちには母さんが「やりたくなくても、相手が喜んでくれるとやる気がでるでしょ!」と話していたし。
天羽の受取り方がなんとなく極端に思えてならなかった。
「俺もはっきり言って、単純馬鹿だったからそのあたりのことを真剣に信じ込んでいたんだ。俺も情けねえ、とか思うんだけどさ。懸命にどうやったら好かれるかとか、どうやったら嫌いな奴を好きになれるかとか。かなり悩んだ」
──だから僕に親切にしてくれたんだ。
クラスの顰蹙ものだった司へ、西月さんへの橋渡しをしてくれたのはその宗教から来る教えだったのかもしれない。そう考えれば納得する。
「けどな、中学二年の時、なんかが違うって思えてならなくなっちまったんだ。その宗教団体からは俺、青大附中に入学するために、すげえ金出してもらっていたのもわかっていたしな。ここで寝返るのはやばいとは思っていたんだ。けど、これ以上俺も耐え切れねえって気持ちがあって、とうとううちの親、じいちゃんと相談して、脱退したんだ」
──宗教団体から金?
生臭い言葉が出てくると、なぜかみな、せっけんの匂いで消そうとする。女子たちがささやく言葉「最低よねえ」「お金なんてねえ」「いやらしいよねえ」天羽は外人さんのように肩をすくめた。
「今、俺が『金』と言った時、ほとんどの奴は最低だなあって思ったはずだ。俺もずっと脱退するまでの二年間、ずっと他の連中から『コネ組A組』といわれてそれを否定することにすっげえエネルギーを使ってきたんだ。ま、厳密にいやあ今の今までは内緒にしてたしな。けど、もう大嘘ついてごまかして、心にもないことを続けるのだけは耐えられなかったんだ。俺ばかに見えるだろ? ほんと馬鹿もいいとこだろ? けど、今の俺はさ、本当のことを全部しゃべったことですっきりさわやか便秘の後のさわやかお通じって気持ちなんだ。もう二度と、あの宗教団体には戻らないし、あの教義も一切捨てる。自分の気持ちを偽りつづけることってのが、どれだけしんどかったか、ほんとこれは経験した奴でないとわからねえと思うんだ」
ちらりと、今度は司の方を見た。
「今、うちでは宗教団体の方に俺への寄付金を返すために一生懸命なんかやってる。けど、インチキ宗教関連の裁判が進んでいるんでこれ以上お金返さねえでもいいかな、ってところには来ているんだ。それに俺も、『コネ組A組』として扱われてしまった以上、いつコネを取り上げられて青大附中から追い出されねえとも限らねえ。成績なんてなかなか上がらねえけど、せめて評価がこれ以上下がらないようにしないとなって気持ちもあるんだ。うんにゃ、それよりもだなあ、みんな」
いきなり呼びかけられて司はぴくっと反応した。
「つまりだな、この気持ち、わかってくれるのはたぶん、同じ『縁故入学者』たる、お前らじゃあないかって気がしてなんねえんだ」
──この気持ちって。
胸のあたりを司は何度かなぞってみた。
「俺、A組はまとまりないって言われているけれど、俺みたいに秘密を抱えていてどうしても何もいえない、ってとこがあったんじゃねえかなって思うんだ。ろくに試験はいいかげんに通って、受かってみたらやたらとみんな頭切れる奴ばっかり、俺の立場っていったいなんだよ状態。けど学校側はずっと『コネなんてない』と言い張ってる。けどけど、自分たちはすでにコネのありかを知っている。このジレンマってあるよなあ。卑屈になったり、嘘ついたりするのに、俺は疲れちまった。だからこれからは平気のへいざで『俺はコネ組A組でーす』って言っていくつもりなんだ。だからといって手抜きするってんじゃねえんだ。なにかの縁だよな、こうやってA組に集まることができたのはさ。もし、なにかの表紙で俺たちが『コネ組』だとばれてしまっても、俺たちは誇りをうしなわねえで歩いて行こうって、それだけ言いたかったんだ。他の試験バリバリ組とは確かに違うかもしれないけどさ、ただ、その惨めさとか、ジレンマとか、そういう経験だけはたっぷりしている。だから、相手のことも思い遣れるかもしれない。少なくともA組にいる間は、そんなことで傷つけたりなんかはしないから、平気でそのこと言っていい。無理に隠そう、隠そうとするから息苦しくなるんだ。俺が評議でいるうちは、決してそんな無理くり苦しめるようなことはしない。俺は今日、それだけ言いたかった。ご清聴、あっりがとうござんした!」 最後はお茶らけてごまかしている。でも天羽の顔が紅潮していて、自分の言葉に酔い始めているのは一番窓際の司からもよく見て取れた。なんだかわからないけれども、言葉の端々から伝わってくる、「本当」さが自分にも届いているような気がした。言っていることの半分はよくわからない。とにかく『A組はコネ組』だ。だけど『プライド持っていこう』ということを訴えたかったのかもしれない。もしそうだとしたら、天羽は一世一代の大勝負をかけたわけだ。
──宗教団体から、寄付金だなんて、ふつう、まずいよそんなの。
席に戻る天羽を目で追いながら、司は周囲の女子たちがさらにヒートアップして、
「天羽ってば最低よねえ。クラス全員がコネなんかじゃないのにさ!」
と悪口言い合っているのを聞き流していた。たぶん、女子たちが『コネ入学者』として認めるのは、狩野先生の義妹である近江さんだけなのかもしれない。当事者たる近江さんも頬杖をついたまま、廊下側を黙って眺めていた。ちょこっとだけ天羽が近江さんに笑顔を向けていたが、無視しているようすだった。
──僕だって、絶対、コネ入学者だよ。けど、天羽、そんなことばらしたらクラスにいられなくなっちゃうよ。
泉州さんと目が合った。「けっ」と軽蔑しきった表情だった。
──ああ、泉州さんも天羽のこと、大嫌いになっちゃったじゃないか。
狩野先生は静かに立ち上がり、教卓に出席簿を置いた。
「今、天羽くんが話したことのすべては正しくないかもしれません。それはみなさんと、おうちのご両親と一緒に考えてみてください。しかし、天羽くんはA組のみなさんがいろいろなところでいろいろな誤解をされていることを気にして言ってくれたのでしょう。修学旅行まであと二週間くらいですが、これもなにかの機会です。ゆっくりと考えてみてください」
思いっきり玉虫色のお言葉だった。要は『縁故入学者』であることを認めたくないのだろう。
廊下を出て、いつものように生徒玄関に向かおうとした時、どこかで見覚えのある女子生徒がものすごい勢いで突進してきた。司ターゲットらしい。二歩くらい置いたところで立ち止まった。真っ正面からじっとにらみすえるようにして見つめる。
ポニーテールで、全体的にほっそりしているのに胸だけがどんと突き出ている。
──メロン二個入れているみたいだ。
思わず目が生徒手帳を入れているポケットに向かい、慌てて逸らした。一緒に思い出した。あの子だった。胸章には「二B」「杉本」とだけ記入されていた。
──杉本さん、ってあの子か。
泉州さんが昼休みに話していた、西月さんの妹扱いされていた下級生らしい。
「片岡先輩、ですか」
──胸章見れば分かるだろ。
こくりと頷いた。
「西月先輩のことでお願いがあります」
──なんだよ、この子。
向けられる視線がどこか、尋常じゃないという気がした。背は司よりも低いので、自然と見下ろす形となるのだが、瞬きをほとんどせずに、唇を無理にひっぱるような感じで、今にも噛みつかれそうだった。司の返事を待たずに杉本さんは続けた。
「明日から西月先輩をE組にお連れします。西月先輩は人間としていい人です。馬鹿男子たちが行った馬鹿な行為によって傷つけられたというのでしたら、私がお守りします」
言葉に抑揚がない。一本調子だった。語調が強いだけに、教科書を音読しているような口調には違和感を感じる。それになんだろう、『お守りします』って。かすかなむかつきがよじ登る。「ただ、私も二年生ですので、三年の授業にもぐりこんでノートを取るわけにはいきません。他の先輩も他のクラスなのでお手伝いできません。そこで、唯一まともな男子が片岡先輩であると伺いましたのでお手伝いをお願いします」
──この二年生の人、変だよ。
「あの、けどなんで僕がまともな男子だってことに」
尋ねかけると杉本さんはまくしたてた。
「まず、ばらの花を毎日お届けしておられたということ、それからきちんと過去の悪いことを告白されたということ、他の人たちからいじめられてもきちんと人間らしく対処されておられたということ、さらに言うならば、昨日西月先輩をお守りして、ご自宅までお連れしたということ、すべて伺っております。よその馬鹿な男子たちは片岡先輩のことを馬鹿にしているようですが、下着蒐集の趣味が問題あったというだけであとは人間的に問題ない方と感じましたし、その趣味も今は行っておられないということなので、全く責めるところは見つかりません。大丈夫です。もし二年たちが失礼なことを申し上げましたら、その時は私が叩きのめしますのでご安心ください」
──絶対、この人、変だよ!
顔が引きつっていくのがわかる。きっと誉めてくれているのだろうということはわかるのだが、しかし、『下着蒐集』なんて、そんな恥ずかしい言葉、よく言えるものだ。よその馬鹿な男子、というけれども、いったいこの人はどこで、西月さんの事情を聞きつけてきたのだろうか。もちろん西月さんのことを慕っているというのはよくわかるけれどもだ。
「とにかく、明日、西月先輩がいらっしゃいましたら、休み時間ごとに教師研修室へいらしてくださいませ。あそこは現在、駒方先生専用の個人教室となっておりますので、いつ誰が入っても大丈夫です。それではよろしくお願いします」
毒を飲まされた、としか言いようがない。きちんと一礼して、長いポニーテールが胸にくっつきそうなほど近づけられた。
──西月さんって、こういう子の面倒見ていたんだ。
「どうしたのさ、片岡」
様子を面白そうにうかがっていたらしい泉州さん。現れた。
「見てたのかよ」
悪ぶって言葉を返してしまった。
「杉本さんにびびってたんだよねえ。だろうねえ」
にやつくのはやめてほしい。ふいと向いた。
「あの子はいろいろ問題起こしている子だけど、小春ちゃんが一生懸命かばっていたんだよ。あんたのことをかばうのも当然だよねえ。ま、頼まれた以上はちゃんとやんなよ。明日から!」
──もしかして泉州さんがたくらんだのか?
わからない。司は頭を抱えたいのをこらえた。雨はやんだ。泉州さんが、他の女子たちの視線を無視して司の頭をがしがしとなでた。