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なんだかんだ文句を言いたくても、行き着けのラーメン屋で人目につかない場所を選んでくれるのが桂さんのいいとこだ。
「今日はこの格好だからなあ」
カーキ色の背広姿は、もちろん会社帰りのおっさんと思われなくもないけれども、桂さんには似合わないし、なによりも店の主人がいやな顔をしそうだ。
「おやじさんにも悪いしな、今日は個室とってもらうか」
駅前の駐車場で、桂さんはハンドルの脇から自動車電話を手に取った。慣れた手つきでプッシュする。
「あー、ええっと桂ですが、おかみさんっすか。今日、奥の部屋空いてるかなあ。いや、弟連れてくんだけど、制服だと買い食いだってばれて停学くらうかもしれねえから、悪いんだけど部屋空けてもらっていいかなあ」
愛想よくOKが出たらしい。にんまり笑って桂さんは親指を立てた。
「ほんじゃま、いくか、司。部屋に入るまではしゃべるんじゃねえぞ」
「わかってるって」
かばんを後方座席に投げ入れておき、ブレザーもついでに脱いだ。だいぶ気温も温かい。青大附中の制服は目立つから、かえってそれの方がよかった。 「ベルト、ひとつかふたつ、穴ずらしとけよ」
言われている意味がわからず、司は言う通りにした。
「腹膨れるからなあ。あそこのラーメン」
──桂さんみたいな出腹にはなりたくないよ。
外に出て、桂さんの後ろにくっついて歩いた。桂さんと暮らし始めて二年近く経つけれども、いわゆる「社長の息子」が連れて行かれる高級料亭なんて行ったことがない。周りの連中は司がそういうものしか食べないんだと思っているらしいが勘違いもいいとこだ。夜いやらしいお店が多いのに昼間はおいしいラーメンや焼き鳥、もつ煮料理、お好み焼き屋さんが並んでいる通りに連れて行かれることがほとんどだった。食べた結果、まずいと思ったことは一度もない。
ここのラーメン屋に入ったのは五回目くらいだった。
「よおっ! お久しぶりっす」
カウンターの向こうで麺をゆでているおやじさんに景気良く声をかけ、さっさと桂さんは店内に入って行った。昼の四時近くということもあり、中途半端な時間帯。学校帰りの高校生がカウンターで黙々とラーメンをすすっている程度だった。テーブル席にも誰もいなかった。
「ほら、黙って入っていきなって!」
客商売をしているとは思えない無愛想な態度で、白い調理服姿のおやじさんは、顎で店奥を指した。どうやらカーキ色の背広姿が営業妨害になると、すぐに感じたらしい。
「邪魔しませんで、申しわけないっす」
たいして気を悪くしたわけでもなく、桂さんは細い通路をカニ歩きしながらトイレマークのついた扉を開けた。実をいうと個室というのは、トイレを通っていかないと入れないつくりとなっている。裏を返すと、よっぽどの常連さんでないと存在を知らないのだ。「塩ラーメンにミルクと納豆とマヨネーズを入れた特製ラーメン」自体、この店のメニューには存在しない。注文することができる、そのことがすでに桂さんの立場を物語っている。
無事、トイレの奥の扉から、予約個室にたどり着いた。こぎれいな四畳半で、傷だらけのテーブルだけがぽつねんと置いてある。勝手に座布団をしいて座るだけ。
「ま、こんなこと客商売じゃあ通用しねえけどな。俺はそういうとこが好きだ」
誰も聞いていないのに、独り言を言う。
「司、何食う」
「ふつうのしょうゆラーメン」
「つまんねえなあ。まあいっか」
すぐに桂さんの分が運ばれてきた。脂が浮いていて、なにげなく納豆ねばねばな匂いがして、麺汁が妙に白い。桂さんの顔を見るとすぐにおやじさんが特製としてこしらえてくれるらしい。もってきてくれたおかみさんが、司ににっと笑みを向けた。
「弟くん、ずいぶん歳離れているねえ」
「そう、恥かきっ子なんだ。こいつお子ちゃまだからしょうゆラーメンな」
「はいはい」
大抵のところではそれで通用した。桂さんの、歳の離れた弟。司も何も言わずにそれを受け入れていたし、実際そうなのかもしれないと思う時があった。もしかしたら父は、母と結婚する前に桂さんをよその女の人と作ってしまったんじゃないかと。でもそんなわけもないしどうでもいい。腹の虫が鳴った。
「どうした司、やっぱり早く食いたいんだろ。少し食ってみろよ」
「いいよ、げてもの食いってやだよ」
「ほら、黙って食ってみろ」
箸でそのまま麺をつまみ差し出された。猛烈に腹がすいていたせいか、何でもよかったのだろう。ぱくりと加えて飲み込んだ。結構いける。麺の味が濃い。
「今度注文する時はストレートでこれにしてみろよ。今日のところはしょうゆでがまんだ」
間もなくしょうゆラーメンの到着だった。トイレを横切ってもってくるというのがなんだか気持ち悪いが、そんなこと言ったらはたかれる。司は黙々と麺をすすった。やっぱりおいしい。
「さっきの奴、どうしたんだ?」
「どうもしないよ」
麺が伸びないうちに食べつくし、ちりれんげで汁をすくいながら、桂さんが尋ねてきた。
「さっきの奴、って、なんだよ桂さん見てたんじゃないかよ。早く来なかったくせに」
「お取り込み中は野暮かなって思ったのになあ」
とぼけた口調でごまかす桂さん。天羽とのあまり見られたくないところを観察されていたのだったらなんかいやだった。会話の内容まで聞き取られているとは思いたくないが。司は桂さんのどんぶりから白い汁をすくい取った。なんとなく甘い。
「まあいいや。司、これからまっすぐ向こうに行くからな。今からだと着くのは五時くらいだから、今日は誰にも会えねえなあ」
「いいよ、明日連絡するから」
桂さんが言っているのは、神乃世町の友だちのことだろう。
「なんなら、車の中で連絡すっか?」
「いいよ」
いつもの自分だったら、ためらうことなく自動車で電話をかけていただろう。一週間とはいえ、友だち連中はみな都合があるだろう。できるだけ早く連絡つけて、バット振り回したりボール投げたりして遊びたかった。でも、自動車電話というのは、司の知っている限り誰も使っていなかった。もし使っていることが知れたら、どうなるだろう。
司の顔をじろっと見た後、桂さんは湯気で曇っためがねを拭いた。少々、目が顔全体の肉に包まれて見えなくなる。
「じゃあ忘れもんもないな。遊びものは一通りつんであるし、服はさっき一緒に運んだし、ああそうだ。これも持ってきているから、大丈夫だろ」
言っている意味がわからず、司は桂さんの膝をつっついた。
「これってなんだよ」
ポケットからがさがさと、取り出した包み紙を渡された。長方形で四角い、薄い。写真か絵葉書だろうか。
「宝物だろ?」
意味ありげにささやく口調がなんかいやらしい。取り出した。思わずつゆを噴きそうになった。
「桂さん!」
「なに焦ってるんだよ。ったくなあ。司。お前って分かりやすいところにいっつも置いてあるからなあ。この子、結構可愛いじゃん。お前のクラスメート?」
手が震えて慌てて袋にしまい、後ろポケットに押し込んだ。
「関係ないよ!」
「関係ないならなんで、机の上に飾ってるんだ?」
「桂さん勝手に僕の机いじるなよ!」
「いいじゃん、色気むんむんしちまうお年頃だ。好きな子ひとりかふたり居たっておかしくねえよ、な、司」
──この人なに考えてるんだよ!
全身暑くて死にそうなのは、熱いラーメンをすすった後だからではないと、司もわかっていた。いつも散らかったままの机だし、どうせ誰も気付かないと思っていたから黙って飾っていた。今まで誰かに何か言われたこともなかった。今年貰った年賀状の一枚に過ぎない。そうだ。たった一枚の年賀状で、たまたま家族写真つきだったからといって、それほど驚くことでもない。たまたま送ってくれたクラスメートが、薄桃色のかわいらしい晴れ着をまとっていたから目についたわけじゃないと、言い訳したい。でもできなかった。ズボンのポケットのあたりが熱くなってくるのは気のせいだろうか。
「けどいいよなあ。お前の歳で年賀状送ってくれる女子って、そういねえよ」
「桂さんは今でもいないんだろ!」
憎まれ口を利いてやる。
「残念ながらその通りだ。が、まあそれは関係ねえだろう。な、司、その子にはちゃんと告白したのか?」
いきなり何考えているんだろう。この人は。
「そんなの関係ないよ。どうして桂さんそうやって人のことつついてくるんだよ!」
「言わないと損だぜ。どうせ振られるならそれも運命だしなあ、相談に乗るからさ」
「そんなの関係ないだろ!」
歯と歯がかみ合わなくて泣きそうになる。そうだ。もし自分が今まで何もしでかしてなくて、ただのクラスメートだったとしたら、きっと行動を起こしていただろう。こんな机の上に年賀状を並べるだけで済ませるようなことなんてしていない。そうだ。男だったらそのくらい平気で行動していただろう。あんなことさえ、あんなことさえしていなければ。
さっきの天羽がささやいた言葉が耳に突き刺さる。
──お前西月に惚れてるだろ。西月、やるよ。
司はラーメンの汁を一気に飲み干した。口をぬぐい立ち上がった。
「おいおいどうしたんだよ」
「今日は帰る。桂さんとなんて帰らないから」
「おいおい、いきなりなあにむくれてるんだよ」
「人の机の上勝手にかき回すなんて最低だ!」
「じゃあなにか? お前、あの年賀状ないと、眠れないんじゃねえのか?」
──しつこいな!
あやうく口に出そうになったのをこらえた。ひたすらどんぶりの模様を目で追いながら無視しつづけた。
「俺もあまり言わなかったがな、今年の正月からずっと、その葉書定位置だったろ。机右上。なにげにお前、勉強している間もそっちばっかしちらちら見てるしなあ」
──大嘘つきやがって!
「それにさ、春休み帰った時も司、しっかりその葉書、持ち歩いてただろ」
ふざけるなと怒鳴りたくても言い返せないのは、桂さんの言うことが一言一句その通りだから。毎日顔をつき合わせ、一日三時間まともに勉強させられ……決してラーメンの作り方なんかではない、ちゃんとした学業だ……葉書一枚になんて関心持たないだろうと安易に思っていたのにだ。
「まあ、いいさ。大切にしろよ。ほらほら、ポケットから落ちそうだぞ」
手を当てて封筒を確認した。ない。目立たないようにそっとズボンのポケットを探る。やはりない。座布団から降りて、素早く畳みの上を手で滑らせる。目立たないようにこっそりと、桂さんにはばれないように。でも無駄だった。桂さんは口をぬぐって目配りを行った後、
「ほらほら、司、立てよ。ほら落ちてるぞ」
むっとした顔のまま、言われた通りにしたとたん、ぽとんと落ちた。桂さんが拾ってくれた。
「ったく、宝物なんだったら、早くしまっとけ」
今度は手のところに押し付けられた。腰が抜けた風にすとんと落ちたのが分かる。
「全くなあ、前から思っていたんだけどなあ、お前、ちゃんと言ったのか?」
「うるさい、うるせえってば」
「不毛だなあ、司も男だったらもう少ししゃきっとしろよ。惚れた子には全力かけてぶつかるとかな。振られる時は玉砕するとかな。いろいろしろよ」
「桂さんみたいに、夜のいやらしい店に行くようなことはしないから大丈夫だってば」
思いっきり頭を拳骨で殴られた。
「大人には大人の事情があるんだぞ。つべこべ言うな。食うだけ食ったら、さあ行くぞ。忘れものねえな」
しつこいくらい手元の封筒を覗き込むのはやめてほしかった。もう一度ポケットに封じ込めて、司はトイレに向かう戸を開けようとした。がすぐにひっこんだ。聞き覚えのある声が聞こえたからだった。
「ん、どうした」
司は一歩後ずさりし、桂さんへささやいた。
「知っている人かもしれない」
どらどら、と桂さんは司をどかして覗き込んだ。男子トイレのあたりに人影がある。 見覚えがあったらしい。やっぱり小声で答えた。
「あれ、学校の先生か」
「うん、D組の菱本先生だと思う」
司のクラス担任ではない。やたらと元気で明るい先生だ。いつも白衣を着て静かに語りかけてくるA組担任の狩野先生とは正反対だった。
「そっかそっか。俺とほとんど歳、変わんねえじゃん。あれ、青大附属の制服着ている奴もいるなあ。この店、結構青大附属比率高いのかねえ。俺としては穴場だったんだが」
明らかに勘違いした様子の桂さんは、甲高い声でおかみさんを呼んだ。勘定を済ませながら、そっとささやいた。
「悪いんだけどさ、うちの弟が行っている学校の先生が来てるみたいなんだ。見つかったら速攻、怒鳴られること請け合いなんで、裏口から出してもらえないかなあ」
さすが顔だ。司と桂さんは、反対側の入り口から居間を通って、裏口から出た。素早く靴を履きながら、もう一度尻ポケットのあたりを触れた。落としてはいなかった。
──やるよ、って言われたってなんて言えばいいんだよ。
腹持ちのいいしょうゆラーメンの味がまだ、口の中に残っていた。
腹いっぱいになると桂さんも、あまり司をからかったりしなくなる。一応はこの人、司の家庭教師かつ教育係という名目で雇われているはずなのだ。二十四時間、「迷路道」後継者の身辺を守るために付き従っている、というのが建前だ。体型に似合わないとはいえ、仕事上スーツを着ることもあれば、黒めがねかけてで別の業界の方と勘違いされることもある。しかしほとんどはジーンズにトレーナーという、比較的女性にはもてそうにない……司曰く「夜のいやらしい店に行かないと相手にしてもらえない」……タイプの格好をしている。よく締め切り間際の漫画家が髪の毛を振り乱し、みかん箱を机代わりにして書きまくっている様子を読むことあるけれども、まさにそのまんま。桂さんは絵も上手だし、その気になれば「売れない漫画家」にはなれるんでないかと思ったりする。
司は気付かれないように、ポケットから封筒を取り出し、きちんとかばんにしまいこんだ。シートベルトをした後、目をつぶって眠くなった振りをした。
──年賀状来るなんて、思ってなかったよな。
もちろん、自分にだけきたとは思っていない。周りの男子たちが軽蔑紛らわしたような口調で言うところによると、西月さんはクラスの男子に全員出したのだという。いや、これは誤解を招くだろう。もちろん女子全員にも。クラス全員に年賀状を毎年出すというのは、そうそう簡単にできることではない。司も年賀状を返したのは、クラス内において一人、西月小春ひとりだけだった。
家族写真なのだろう。父、母、兄、弟、それに挟まれて西月さんが桃色の着物姿だった。お正月の記念撮影なのだろうか、と思ったが違った。背景が藤の花だった。紫がかったきれいな藤棚だった。青潟なんだろうか、それとも違うところなんだろうか。藤っていつ咲くんだろうか。
少しぽっちゃりした雰囲気で、決してスレンダーというわけではない。猫を一匹抱き上げて、おっちゃんこさせたという雰囲気の女子だった。おかっぱに髪の毛をまとめているが、前髪を上手にすくって、右端にヘアーピンで留めている。顔とか格好とかは好みがあるかもしれないけれども、写真の中にいる西月さんはめいっぱいの笑顔を振りまいていた。家族のみなさまがむっつりしている中、一人だけカメラを意識しているというのだろうか。
こういう表情を教室で見かけなくなり三ヶ月以上経つ。
無理に明るく振舞っているのはわかる。たぶん西月さんなりに気を遣っているのだろう。たとえ以前仲のよかった天羽に冷たくあしらわれても、たまに怒鳴られても、
「ごめんね、私、悪いこと言っちゃったみたいだね」
と顔を引きつらせるようにして笑い、すぐに廊下に駆け出していく。一度も文句を言ったところを聞いたことがない。西月さんがいなくなったあと、すっきりしたという顔でもって天羽は、別の女子に話し掛け、今度は大声で笑いこける。落差を教室で見せ付けられるたび、司は教室から飛び出したくなる。西月さんを別の場所に連れていきたくなる。こんなひどい扱いをされる場所じゃないところへ。今から司がいく、あの場所へ。
でも、そんなことをする権利がないのも分かっていた。
自分はただのクラスメートに過ぎない。 しかも、女子の周りには半径五メートル以内に近づいてはならない、最低な男子なのだから。
──桂さんは何にもわかってないんだよ。
ぼそっとつぶやいた。
「ああ? 俺の何がわかってないんだ?」
「なんでもない」
桂さんはそれ以上何もつっこんでこなかった。目を開けてもう一度、外を眺め司はもう一つ尋ねた。
「桂さん、この辺で、藤がいっぱい咲いているとこってどこかなあ」
「藤か? そうだなあ、あるとすれば、青潟市民公園あたりかな」
遠くで眺めている分にはどんな花かわからない。葡萄のように細くたわわに垂れ下がり、華やかに背後を飾っていたあの紫色の塊。年賀状にはにあっていた。
──本当にもらってもいいのか?
──本当に、本当に取っちゃってもいいのか? 天羽。
二年前の自分だったら。あの事件を起こす前の自分だったら。
きっとためらうことなく、西月さんに会いに行っただろう。桂さんにつつかれる前に。とっくの昔に。二ヶ月前、天羽に西月さんが冷たくされて、毎日廊下で泣いているのを見ていた時にすぐに。言うべきことをちゃんと言っただろう。どういえばいいかくらい、司は知らないわけではなかった。二年間抱えていた想いをぶつけて、天羽の代わりになるからって何度口にしたかったことだろう。
でも、できなかった。
してはいけないことだった。
「司、やっぱしお前、電話しとけ。周平とこさ」
桂さんに起こされたのは三十分くらいたった頃だった。五時近い。到着まであとそれほどでもないのだけれども。
「え、でも、いいよ」
「もう学校終わってるだろ。あいつらもな。ほらほらかけろよ」
自動車内の取り外しができる、受話器にボタンのくっついた電話を渡された。
「周平も待ってるぞ。司と早く会ってしゃべりてえなあって、春休みもそう言ってただろ?」
強引な口調に少々むっときたけれども、なんだか一瞬素直になって、司は受話器を取った。目の前には見慣れた背の低い町並が続き、真横と真上には緑色の叢が広がっていた。すっかり緑色に染まった中に、茎のふといたんぽぽが一面咲き誇っていた。この場所はたんぽぽをはじめとして、花が咲くのが遅い。奥には桜が満開、藤は見えなかった。
──ここには藤、咲いていないんだな。
むしょうに周平と話がしたくなった。あいつのことだ。今ごろ野球の練習を終わらせて家に帰っている頃だ。わざとむくれっつらのまま、司は暗記している電話番号をそのまま押した。電波が不安定なのか、じいじいと文句を言う。その後で、かちりと人の声に切り替わった。
「ええっと、周平?僕だよ、司だよ」
──司か? 今、来るとこなんか? おめえ、どっからかけてるんだよ。
「え、今? 今青潟から帰るとこ、途中のガソリンスタンドから。うん」
答えられなかった。嘘ついてしまった。自動車電話なんて、知らない人の方がきっと多いだろうし、周平も車の中で電話をかけることができるなんて、想像すらしていないだろう。口ごもり素早く別の話に切り替えた。周平の声は明るかった。かなりがさついていた。
──じゃあ、司、あとどんくらいでこっちに着くんだ? 今からおめえのうち行ったら遅すぎるかなあ。
「今から遊びに来るか? うん、来いよ!」
──じゃあ今から行っからな! おばさんも知ってるんだろ。
ハンドルを握っている桂さんに目で尋ねた。受話器に響くよう、大声で答えてくれた。
「ああ大丈夫だぞ。周平、司のおっかさん、周平たちのためにな、でっけえケーキ買ってきたってな。来い来い。他の奴も誘って来いって言ってたぞ!」
真田周平は二ヶ月前、春休みに帰った時と同じく司を待っててくれそうだった。
──わあった。じゃあ、今から行くからな! はえく来いよ!
ずっと変わらない声となまり。青潟へ移り住んでから、誰もがこういう言葉を使うものではないのだと知って、司が封印してきた言葉だった。青潟の言葉とは違う抑揚は、司が意識して青潟の街で消してきたものだった。季節の流れもずれた町。司は受話器を置いて、桂さんに頼んだ。
「あのさ桂さん。途中で俺、歩いて家に帰るから。降ろしてもらえないかな」
「お前もなあに、こそこそしてるんだよ」
窓から入る風にかき消されながら桂さんが怒鳴った。
「どっちにしろばれることだろ。お前が自動車から電話かけたってことくらいなんだってんだ」
「やだよ。それに、こんな格好で帰ったら」
桂さんには似合わなすぎる、かっちりした格好。しかもよりによって真っ黒い車。たぶん父さんの仕事用の車をそのまま流したんだと思う。見られたら、たぶん、周平にも他の奴にもばれてしまいそうだ。
「しゃあねえなあ。わかった。次の角のとこで降ろすからな。周平待たせるんじゃねえぞ。お前の分のケーキ、食えなくなるからな」
桜の花が満開の四つ角で、桂さんは車を止めた。司はかばんだけをぶらさげると、すぐに家に向かい走り出した。生まれてから十二年間暮らした、日本のお寺を大きくしたような家。お客さんや友だちがたくさん来ても困らない、どんなに真夜中枕投げしたりプロレスしても怒られない、大きな家が自慢だった。きっと母さんも、一緒に住んでいたおじさん、おばさんたちもみんな待っててくれている。一番大きな皿に乗っかるようなケーキをきっと用意してくれている。
周平も待っている。眉の薄い、こめかみあたりに少し剃りを入れた、けどちっともワルっぽくないあいつに会いたかった。