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 牛もつ丼を食い終えてから、父は司に一言尋ねた。

「司、今、一番知りたいことは何かな」

 お腹が落ち着くと気持ちも穏やかになるのだろうか。司は片手で口の周りのたれを吹きながら少し考えた。手元に西月さんのくれたお菓子屋さんの紙袋が残っていた。ぐしゃっとしていた。両脇の桂さんと、半分食べ残したままの狩野先生を交互に見つめ、一緒に頷いた。

「西月さん、口きけたかどうか」

「そうか。そうだな」

 目と目で狩野先生と桂さんが頷きあっていた。

「やはり、そうなんですね」

「そりゃあそうでしょう」

 答えを口走ろうとしている桂さんを、父さんは制した。

「狩野先生から聞いたことと、お前が思い込んでいることとはかなり食い違いがあるだろう。それは仕方ないことだ。現場にいるとなかなか見えないものがたくさんあるのだから。だから、まずはお前の口から実際どうしてああいうことをしたのかを聞きたい。そしてだ」

「そして?」

 父さんは真っ正面からまた司に挑んだ。

「そのことをきちんと、これから、彼女のご家族に話に行きなさい」

 食ってお腹が温かかったのに、また凍りついた。

 ──話に行くって、どうやって。

 西月さんが今でも口利けなくなっているのか、それとも直ったのか、それすらわからないのにどうすればいいんだろうか。司は頼りたくなって桂さんへ目を向けた。困ったというような表情をしていたが割って入ってはくれなかった。次に狩野先生の方にじっと訴える視線を向けてみた。でもやはり、食べられなかったもつの肉をつつくだけで何も言わなかった。

「話って、どうやっていえば」

「そうだな、言い方の方法を少し練習した方がいいな。まずは、泣かないことだ」

 ひくりとする。唇を噛んで一文字にした。

「泣きたい気持ちはわかる。大好きな子が目の前で口きけなくなってしまった。しかもそれは自分のせいかもしれない。不安にはなるだろうな。だがな、それはひとつの事実であって、また時間を巻き戻せるものではないのも事実なんだ。司いいか。この事実から目をそらしてはならないんだよ」

「じゃあ、西月さんはどうなってるの」

 恐る恐る尋ねた。

「どうなっていると思う?」

「口利けないままなの?」

 沈黙。また電気だけのじいっとした音が響いた。

「やっぱり、そうなんだ」

 三人の大人たちは無言だった。

「やっぱり、僕が悪いんだ」

「司」

 また口走りたくなるのを父さんは厳しい口調で遮った。

「『僕が悪い』と思いたくなるのは今の状況ならばしかたないよ。でもな、司。『僕が悪い』という言葉は、どこかで『僕が悪くないと言ってくれ』という気持ちがあることも否定できないことなんだ。司はそう思っていないかもしれないし本気でそう思っているかもしれない。だが、聞いている相手にとってはそうではない。『責める人間が悪いんだ』と責められるように感じて、かえって人を憎んでしまうんだ。本当に自分が悪いと思っているんだったら、言葉はよじ登ってこないはずだよ」

 ──だって、どういえばいいかわからないよ。僕が悪くなかったら。

「司、まずは、起こったことだけをひとつずつ順を追って話してごらん。まずは事実だけを並べてみるんだ。どう思ったかとか、どう感じたかとか、そういうのは後回しでいい。それからあらためて、気持ちのことを考えよう。狩野先生、申しわけないのですがメモをとっていただけますか」

「わかりました」

 ──狩野先生、もつ嫌いだったんだ。

 司は、かばんからメモノートを取り出す狩野先生を観察しながら、半分しか手つかずのもつどんぶりに視線を向けた。あれくらいなら食べられる。気付いたのか司に狩野先生は。

「どうしたの」

と、尋ねてきた。

「先生、もつ、嫌いなんですか」

 いかにも苦手、という風にまるのまんま、つやつや残っている。

「食べ物残すの、よくないから、僕が食べましょうか」

 やはり先生に言うのはためらわれるものがある。でも司は子どもの頃から「食べ物は残さず食べること! 作ってくれた人、そして食べられる命の生き物たち、みんなに感謝してありがたくいただかないとだめだよ!」としつけられていた。といいつつも偏食気味なのはしょうもないことなのだけれども。もつなんて、内臓だからそれこそ「命」の塊だった肉だ。このまま捨ててしまうのは、罰が当たる。

「片岡くん、食べかけだよ、それでもいいのですか」

「捨てるよりはましだから」

 たぶんOKだろう。司はそのまま手を伸ばし、狩野先生のどんぶりを引き寄せた。父と桂さんがあきれたように見ている。なあに、ふたりの「しつけ」の結果って奴だ。文句あるかと言いたい。

「司、おまえ、太るぞ」

「桂さんよりは痩せてるよ」

 父さんは狩野先生へ一言、「まったく、私たちのしつけの結果です」と笑いながらあやまっていた。「ほら司、ありがとうくらい言え。それでは、先に着替えて来い」


 司は頷いた。急いでまず、制服からきちんとした黒いスーツに着替えるため、前に使っていた部屋へ向かった。ほとんど机とかたんすとかしか残っていないけれども、ビニールにかかった真新しいスーツとシャツ、トランクス、靴下、ネクタイ、全部揃っていた。すっぱだかになって着替えをした後、髪の毛を指で撫でつけた。

 ──こんなにめかしこんだのあの時以来だ。

 西月さんが夕陽に染まり、茜色のままで微笑んでくれた、あの日以来。

 あの時は手元にばらを一輪、携えていた。

 今はただ、本当のことを捧げる言葉のみだった。

 ──何を言えばいいんだろう。

 少し腹が出てしまったみたいなウエスト周りをさする。

 ──事実を話せって言われたって、すべて話したらまずいだろう。

 狩野先生がメモを取るくらいなのだから、間違ったことを言うわけにはいかない。司はいったい今まで何をしてきたのかとか、三時間目から桂さんに発見される時までの間、ふたりでどうふらついてきたのかとか。もちろん言いたいことはたくさんあるのだけれども、自分と西月さん以外のことを話すとなると、他人を悪意もって巻き込んでしまう恐れありだ。天羽のことも難しい。 ──だって、きっかけは天羽だろう?

 殴られたとか小突かれたとか、そういうわけではなかったのかもしれない。司が西月さんを発見した時、かなり顔色が悪かったのと、服がどろだらけになっていたこと、腕のあたりにもどろがついていたこと。かなりじたばたしたことだけは想像できた。

 たぶん天羽と西月さん、そして近江さんを含めた三人の間で、何かきつい話し合いが行われたのかもしれない。天羽も司に「一発殴れ」と言い残したのだから、それなりの理由があるのだろう。でも、あくまでもこれは司の予測であって、父さんの言う「事実」の羅列には入らないような気がする。

 ──というか、絶対、僕の想像範疇を出ないよ。

 ──だから、言えない。

 取り捨て選択は必要だ。司はもう一度腹をひっこめて、ベルトの穴を一つずらした。

 ──本当のことは言う。けど、人を巻き込みたくないよ。


 ライブラリーに戻ると、父の姿が見えなくなっていた。桂さんがにやっと笑いつつ、

「司、ちゃんと今は、社会の窓閉まってるな」「さっきはたまたまだってば!」

「社長、今仕事の電話がかかってきたようで、話をしている最中だ。なにはともあれ、狩野先生、まずは司の言い分を聞いてやってください」

 どうぞ、とばかりに十五度程度、身体を傾けた。

 狩野先生も静かに一礼をした後、司に向いた。

「片岡くん、では始めましょうか」

「あの、何から話せばいいんですか」

 部屋の中で決めたはずなのに、言葉が詰まる。

「まず、どうして片岡くんは、教室から抜け出そうとしたのですか」

 ──天羽のこと言わないとまずいかなあ。

 唇を噛んでうつむいた。できるだけ天羽の存在を見せないように話を始めた。

「西月さんが戻ってこなかったから、変だって思ったから」

「そうですか。でも、授業を抜け出す人はたくさんいるでしょう。たまたまなぜ、西月さんだったのでしょうか?」

 困った。

 ──天羽が僕に教えてくれたから。

 本当のことは言えない。狩野先生が仮にすべてを天羽から聞いているのならば別だけれども、できれば巻き込みたくなかった。となると、言葉はどんどん絞り込まれるわけであり。

「西月さん、心配、だったから、です」

 嘘じゃない。心配ではなかったけれども、何かがある、と心臓とくとくさせながら走った。

 狩野先生は静かに何かを書きとめた。

「わかりました。それでは次です。片岡くん、どうして西月さんを連れて、駅前に行こうとしたのですか」

 ──西月さんが、天羽に会いたくないって言ったからだよ。

 これも迷った。本当のことだけれども、西月さんはもしかしたら、この言葉を後悔しているのかもしれない。不安だった。結局西月さんは、大人しく家に帰っていってしまったのだ。司が引っ張り出したせいで言葉を話すことができなくなってしまったのだ。 

 しかたなく、司はもうひとつの真実を口にした。

「神乃世なら、西月さん喜ぶと思ったから」

 わざとらしいため息は桂さんからだ。背広姿で両腕を組んだ。

「だからってなあ司、頼むから神乃世行きのバス停くらい自分で見つけろよ。狩野先生、こいつですね、先ほど話した通りわざわざ神乃世の実家へ電話をかけたんですよ。食べ物用意してくれって。相当、腹が空いていたんでしょうな」

「ごもっともです」

 少し笑いをこらえるようにして、狩野先生はくくと、咽を鳴らした。

 ──なんで笑うんだよ!

 怒鳴られること殴られることは覚悟していたけれども、なぜそこまで言われなくてはならないのだろう。司は思いっきりむくれたかった。先生がいるから我慢した。

「では、神乃世へ行けば西月さんは喜ぶと思ったのですね。他の選択肢を考えたりはしなかったのですか?」

 ──考えるわけない。だって西月さんが。

 言葉を飲み込み、被りをふった。

「給食より、うちの母さんのからあげとオムライスの方がおいしいから」

 大人ふたりが少し、あきれはじめたことに、司はさすがに気付いた。不自然な答えだと自分でも思う。でも、へたしたら告げ口になってしまうかもしれないし、西月さんを傷つけてしまうかもしれない。ここまできたら、しかたない。

「確かに、司の母さんの料理はうまいからなあ」

 桂さんはさりげなく相槌を打つ。狩野先生はなんともいえない表情で、しばらく考え込んでいたがさらに質問を振った。

「片岡くん、それではどうして」

 言葉を切った。唇をゆがませるようにして、なにかをこらえるように、

「先に、僕のところに来てくれなかったのですか」

 さすがに桂さんも相槌を打ってくれなかった。司の目から見ても、狩野先生の表情はかなり苦しそうだった。牛もつ丼を食べられなかったから腹が空いているのでは、と司は思ったりもしたが、違うらしかった。

「最初に連絡してくれたのは、泉州さんでした。その時に、片岡くんが西月さんを発見して迎えに行ったと聞いたのですぐに戻ってくるだろうと思っていました。もちろん事情が事情ですからいきなり教室に連れて行くことは難しいかもしれませんが、直接職員室に避難させるとか、生徒指導室にかくまうとか、いろいろな方法は取ることができたはずです。もちろん片岡くんは西月さんのために良かれ、と思ってしてくれたことでしょう。ですが、その時にほんのわずかでも僕のことを思い出してもらえなかったことが、三年A組の担任としては非常に、残念です」

 ──だって、関心ないって顔しているし。

 司も黙るしかなかった。気まずい空気をなんとかしようと思ったのは狩野先生の方だったらしい。すぐに気を取り直してか、すぐに質問を続けた。

「西月さんはどうして、こんなに傷ついたのか、説明してくれましたか?」

 ──それはないよ。

 自信もって首を振った。

「何も、説明なしでですか?」

「泣いているってことは、傷ついてるってことだから」

「クラスの人たちとのいざこざ、だということですね」

「だって、僕は」

 司はしばらく曖昧に言葉を濁すしかなかった。狩野先生もすでに事情を知っているはずだという認識のもと、話を持って行ったのだけれども、ちょうど肝心要のところは話してくれなかった。本当だったら司も知りたいことがいくつかある。結局西月さんと天羽の間でどのような会話が交わされたのか。いったいどのあたりで傷ついたのか。あんなに涙を流してしまうくらい傷ついた西月さんをどうすれば、一番よかったのか。狩野先生の言うとおり、直接西月さんを職員室に連れて行けばよかったのだろうか。わからない。すべて本能のまま行動してしまったけれども、一番何を西月さんが望んでいたのかがよくわからない。

 ──だって、天羽のいないとこったら、あそこしかないんだから。

「それでは片岡くん、今日のことをこれから西月さんのご家族に、どう説明するかを考えてみましょうか」

 司の曖昧な言葉遣いにさじを投げたのか、狩野先生は話の方向を替えた。

「西月さんは今、お家にいます。ただ何も口を利いてくれないので、いったい何が起こったのかがわからないままなのだそうですよ。当然、一緒にいた片岡くんから、どういう状況だったのか、どういうことが起こったのかを聞きたいとご家族は思っています。言葉が出なくなるほどの衝撃となると、女子の場合いろいろな事件が絡んできている恐れもあります。だから、まずは西月さんとご家族に会いに行って、何が起こったのか、何で片岡くんがそういう行動をしたのか、それを説明してあげてほしいのです。今の話で片岡くんが純粋に西月さんを心配してくれたことを、僕は疑っていません。だから君なりの言葉をそのまま誠実に続けてくれれば、必ず伝わるものがあるはずです」

 西月さんの、別れ際の表情が浮かんだ。舌に蘇る甘いシュークリームの味。両手で差し出してくれたパンと牛乳。黙ってさび付いた停留所を指差した姿。涙いっぱいで司に訴えた言葉。──どこかに連れて行って。

 連れて行くことができなかった。

 それどころか言葉をなくしたまま、連れ帰ってしまった。

 ──僕に、あんなにたくさん、くれた人なのに。

 ──僕はなんにも、なんにもしてあげられなかった。

 うつむくとまた泣きそうになるが、こらえた。泣いたら父さんの言う通り、同情を求めてしまうだけだ。

「連れてってください」

 両手を握り締め、桂さんと狩野先生に、頭を下げた。よく父さんが物を頼む時にするしぐさだった。


 父さんは仕事をある程度片付けたらしく、さっそくきちんとした黒の背広を着て車を出すよう桂さんに指示をした。その後で、

「司、わかっているな」

と確認するよう、顎を人差し指で上げた。

「うん」

「うんじゃなくてはい、だろう。大丈夫なのか」

 怒ってはいないけれど、少し不安そうだった。心配を打ち消す方法なんて見つからなくて、司は黙ってうつむいたまま車の助手席に座った。後ろに桂さんと狩野先生。特段何も言わなかった。「夜遅くまでお付き合いさせてしまい申しわけありません」

「いえ、教師としては当然のことです」

 静かな返答あり。後ろの座席はきっと桂さんのお尻で窮屈だろう。司は外を眺めた。車をそろりと発進させた父の握ったハンドルを見て、

 ──父さん、運転免許ないわけじゃなかったんだよなあ。

と、二年前のことを思い出した。

「司くんは大丈夫です。さっき、話をしてみてわかりました」

 沈黙が続く中、狩野先生はいきなり言葉を発した。ぎょっとする。しゃっくりしたみたいに肩が思いっきりこわばってしまった。運転する父さんは唇で少しだけ笑い、

「そうですか。相変わらず子どもじみたことを話していたことでしょう。この子は通常の中学生よりも四つくらい精神年齢が低いようです」

「いえ、そんなにたくさん話をしたわけではないのですが、人のことを思い遣るようなことを話してくれました。大丈夫です。僕は、司くんを信じます」

 ──別に、信じるとか信じないとか、そういう話、僕したっけ?

 大人三人が和やかに、「そろそろ修学旅行ですけれどもいろいろご準備大変でしょうねえ」「やはり長丁場ですのでね」「子ども達のことを考えるといろいろ胃も痛いことでしょう」と、全く関係のない話をし始めていた。司は取り残されつつ、さっき父に渡された菓子折りの包みの重さにため息をついた。

 ──僕は何を話せばいいんだろう。

 狩野先生は過剰に信じてくれているようだ。司も覚悟がある。西月さんの家族に殴られて怒鳴られて、「娘を傷物にされて」……どういうことが傷物なのかよくわからないが……とののしられるのも覚悟の上だ。でも、自分の中で決して言ってはいけないことだけははっきりした。

 まず、西月さんと天羽とのやりとり。

 もちろん司はその状況を見たわけではないし、天羽を通じてしかわからないのだから、説明の仕様が無い。でも家族の方からしたら一番知りたいことかもしれない。狩野先生はどこまで知っているのかわからない。もしかまわないのだったら、そこんところは飛ばして行こう。

 次に、西月さんと天羽との繋がり。

 短い間だけれども、このあたりも考えた。家族に西月さんは、天羽との付き合いを話したのだろうか。自分だったらもし西月さんに告白されたとして、すぐには打ち明けないだろう。桂さんにはいつのまにか白状させられるかもしれないけれどもだ。そして例の騒ぎ……二週間で交際解消および絶交状態……も気付かれているのだろうか。司だったらたぶん、言えない。言えるとしたら周平くらいだろう。司にとっての周平は、西月さんにとっての泉州さんだろうし。だからこのあたりも内緒にしておいたほうがいいような気がした。

 となると、司が話すべき内容と言うのは、自分のしでかしたことを逐一説明するだけなんじゃないだろうか。嘘偽りなく、ただ天羽の話だけは全部ぶつんと切って、なぜ神乃世へ連れて行きたいとおもったかを語ってしまうしかないのではないだろうか。いきつくところはひとつ。

 ──僕は、西月さんを、神乃世へ連れていきたかった。

 これだけだろう。

 狩野先生もそのあたりの事情については理解してくれたとは思えない。どこかに連れていかないで、先生のところへ連れていって何とかした方がきっとよかったのだろう。でも、司は西月さんの想いを精一杯、叶えたかった。言葉を失ってしまうなんてことさえなければ、きっと後悔しなかったはずだ。

 娘の沈黙が、誰によってもたらされたものなのか。司が勝手に引っ張り出してしまったからだろうか。その辺も司には言うべき言葉がある。そうです。その通りです、と。

 ──言い訳はしないよ。父さん。 

 ──僕は、西月さんを、神乃世へ連れていきたかったんだ。

 ──周平に会わせたかったんだ。

 ──天羽のいないところに連れていきたかったんだ。だから。

「この辺か? 西月教授のお宅は」

 父が振り返って桂さんに尋ねている。目の前の真四角な二階建て。煉瓦で玄関まで階段が用意されている。水色の少し派手に見えるうちだった。玄関のライトはついていた。

「そうですね、駐車するところはありそうですか。無いようでしたら探してきますが」

「そうだな、少し時間かかるだろうからな」

 桂さんだけが大急ぎで降りていった。おそらく水色の家が西月さんの自宅なのだろう。このあたりはあまりよく分からないけれども、西月さんが大学教授の孫娘だということだけは知っていた。たぶん学校関係の人が多いのだろう。

「司も降りなさい。狩野先生、どうかよろしくお願いします」

「こちらこそありがとうございます」

 シートベルトを外し、司は大急ぎで降り、狩野先生の座っている席側の扉を開けた。

「ありがとう」

 ──これでいいのかな。

 司はそっと狩野先生のの表情を伺った。先生は頼ってほしかったようなことを言ったけれども、司からしたらどうやって頼ればいいか全く見当がつかない。狩野先生はめがねをそっと上げて、司にゆっくりと頷いた。すぐに出てきた桂さんが、駐車できそうなスペースに「オーライ、オーライ」と手旗信号のようなことをやりはじめたのを眺めていると、狩野先生は斜め上から司に声をかけた。

「片岡くん、さっき僕がお父さんに話したことは、本当のことです。君は安心して、言いたいことを話してきてください。午後にできなかった分のことは、ここできちんとしますからね」

 ──やっぱり、よくわからないや。

 でも、司のことを心から心配してくれているんだ、ということくらいは見当がついた。

「ごめんなさい」

 ──言いたいこと、言うよ。西月さんのために。


 無事車の置き場所が落ち着いて、父と桂さん、そして狩野先生、司の順で煉瓦の階段を昇った。ずいぶん玄関まで長い。西月さんは毎朝ここから通っているのか、と思うと司も足が震えてくる。玄関の向こうには、制服を着ていない西月さんがいる、そう考えるだけでもどきどきしてくる。「片岡くん、入りましょう」

 先に父と桂さんが入って行き、少しだけ待たされた。一度閉まった戸がまた細く開き、桂さんが手招きした。狩野先生に背を押された。全身、いきなりぴんと張ってしまいうまく歩けなかった。玄関マットの上では、真っ白な髪の毛の、やはりきちんと背広を着こなしたお爺さんが立ったまま何度も挨拶をしていた。怒っている様子はなかった。むしろ、穏やかに微笑みを絶やさずに、という感じだった。玄関はほとんどがピンク尽くめの少女めいた小物類でいっぱいだった。カーネーションの花がたっぷりとあちらこちらに生けられていた。香水のにおいで埋め尽くされた空間だった。

「先ほど、お電話させていただきました通り、今日はうちの息子を連れてまいりました。息子の粗相は父親の不始末でもあります。どうか、お詫びさせてください」

 玄関の前でふかぶかと頭を下げる父。桂さんも同じく九十度こっきりに腰を曲げている。側で狩野先生が大体四十五度くらい下げている。

 ──ど、どうしよう。僕、どうしたらいい?

 頭を下げなくちゃいけない。それはわかっている。でも、みんな、司の代わりに頭を下げている。父さんなんて関係ないのに。桂さんなんてもっと関係ないのに。狩野先生なんて、もっと関係ないのに。

 目の前のお爺さんが何者なのか、それすらわからない。そっと優しい目で司を見つめるその人と、目が合った。足ががたがた震えた。さっきまで平気な顔していろいろ考えていたくせに、お爺さんの髪の毛状態で頭が真っ白になった。「あ、あ」と口を開けたままどもった。

 ──どうしたらいい?

 次の瞬間、司は白い大理石のたたきの上にぺたっと座っていた。茶色の細い割れ目が光っていた。お尻も膝も冷たい。四人の大人たちが司を見下ろしている。

「司、どうした。腰抜かしたか」

 桂さんが手を差し伸べてくれた。父は黙って様子をうかがっている。狩野先生がかがみこもうとした。違う、言わなくては。どんどことお腹の中からあばれる声がする。

「も、申しわけございませんでした!」

 両手をつき、司はふかぶかと頭を下げた。足の甲の触れたところが、靴下薄いせいでじんと沁みてくる。お爺さんがどういう顔をしているのかまで見る勇気なんてなかった。もうあとは、本能でしゃべるしかなかった。忘れないうちに、ただ、伝えるために。


「あの、あの、今日のことなんですけど、僕がすべて悪いんです」

 声が震えてしまい、咽のところが妙にひっかかる。でも続ける。

「学校で、あの、いろいろあったんですけど、決して叩いたとか、殴ったとかそういうことじゃないです。でも西月さんがつらそうだったし、あの、そういう時うちだったら、ちゃんと神乃世のうちに連れて行って、うちの母さんのオムライス食べさせてあげると、すぐに元気になるってこと多かったから、そうしようと思ったんです」

 嘘ではない。返事がないのでとにかく話続けるしかない。

「もちろん、本当だったらすぐに、狩野先生のとこに連れて行ってあげるのがよかったんだと思うし、その前にちゃんと電話かけて連絡すればよかったし、その前に学校終わってからの方がよかったんじゃないかって思ったんですけど、けど、やっぱり、すぐの方がいいと思ってそれでです。だから西月さんが悪いわけじゃあないんです!」

 手がさらに冷えてきた。泣くことだけは絶対に許されない。事実だけ、丁寧に。

「けど、僕、神乃世に行く時いつも、車でしか行ったことなかったから、どうやって行けばいいかわからなくてうちに電話かけたんです。そしたらうちの母さんが、バスで行けばいいって教えてくれたから、駅前に行ったんです。西月さん、僕が乗り方わからないのを見て、全部どこのバス停で乗ればいいか調べてくれました。けど、やはり、僕の早とちりで、行くべきじゃあないんだってこと、西月さんが教えてくれました。僕、お腹すいてて、もう動けなくて、どうしていいかわからなくなってたら、西月さん、僕にシュークリーム持ってきてくれたんです。おいしかったんです。だから、きっと西月さん、僕がひとりで神乃世へ行きたがっていたのを見て、かわいそうがって付き合ってくれただけなんです。まさか、あの、西月さんが口きけなくなってるなんて思わなかったし、ごめんなさい!」

 顔を上げて驚愕した。お爺さんの笑顔、その後ろに西月さんが立っていた。ピンクのトレーナーとタイトスカート姿で、無表情に司を見下ろしていた。今にも泣きそうだった。また後ろの方にはだいぶ背の高い男子高校生っぽい人がひとり、さらに赤いエプロンをつけた、おそらくお母さんであろう人がひとり。

 ──みんな、なんで見ているんだよ!

 言葉が絡まり、舌がもつれる。歯ががたがたいう。お爺さんを除いてみな、表情が硬い。

「いいよ、坊や、もっと話してごらん」

 こくっと返事代わりに頷いた。

「あの、僕、決して悪いことを、しようとか思ったことないんです。言い訳かもしれないし、さっき父さんにも『そういうことするつもりじゃなかった』って言うと、そういう下心があるってことを説明するようなものだって言われたんですけど、ほんと、ものすごく悪いことをするつもり、ありませんでした。それから、僕が一緒に駅まで行く間、なんも悪い人が襲ってきたりしませんでした。それだけは大丈夫です。あと、僕、あの」

 ──僕が恥ずかしがってどうするんだよ! 西月さんはたった一人で僕をかばってくれたんだ! 藤棚の笑顔を取り戻したい。涙が出そうになるのをこらえた。絶対に、泣くものか。「僕は西月さんのこと、大好きです。でも、僕は前に悪いこと、したことあるから、あの学校で付き合うとか、男女交際とか、いやらしいこととか、そういうことはできません。だって、西月さんがそうしたら困ることになります。いじめられます。だけど、僕、西月さんがいじめられそうになったり悪口言われそうになったら、どんなことあっても、守ります。だから、だから、あの、その、うまくいえないんですけど、今日みたいにいきなり連れて行くことはしないけど、ただ、あの、いじめた人とかに文句は言うようにします。すみません、今日、やり方、間違えました。ごめんなさい。あの、それと」

 西月さんの顔がかすかに震えているように見えた。後ろの二人もだ。白髪頭のお爺さんだけがうんうんと相槌を打ってくれている。

「そうかいそうかい、坊やは小春のことが大好きなんだ」

「め、女神さまみたいな、人です」

 完全に、自分の理性は吹っ飛んでいた。とたん、とうとう後ろのふたりの顔が思いっきり崩れていった。まさに崩壊だった。塔が崩れていくかのようにふたり身体をくねらしながらしゃがみこんでしまった。同時にけたたましい男女それぞれの笑い声。西月さんだけが限りなく無表情に近い表情で立ち尽くしていた。何で笑われているのか、わからない。司はただ、西月さんに何かを言わなくてはならないのだということしか、わからなかった。

「西月さん、あの、今日の美術なんだけど、ほとんど写生、できなかったと思うんだけど」

 いきなり振られてきょとっとした目を向ける西月さん。こっくり頷いた。

「僕、あの、絵、得意だから今スケッチブック貸してくれたら、スケッチだけすぐ描くから。それに色つければたぶん、美術、大丈夫だと思うから」

 慌てると自分でも何を口走っているのかわからなくなってきた。肩をとんとん叩くのは桂さんで、

「ほらもうそろそろ、落ち着けよ。お前、今舞い上がってるだろ」

 笑い声が響く中、でももっと言わねばならないことがある。振り払った。

「で、今度、夏休み、もしよかったらなんだけど、今度こそ、神乃世に来てください。もちろん一人じゃまた悪いことだと思われるかもしれないから、泉州さんもセットで、いやもっとたくさんきてもいいと思うから。うち、すっごく広いから、男女わけて部屋用意できるし、そしたらうちの母さんのオムライス出せるし。だから」

 目の前の白髪のおじさんはさっきから司に向かってしゃがみこんでいた。やたらと「坊や」を連発するのは止めてほしかった。がしっと頭を撫でてくれた。犬の気持ちだった。

「司くん、狩野先生のおっしゃる通り、君には悪いことはできないねえ」

 ひとり、無表情で佇む西月さんに振り返り笑顔のまま、

「この男の子がついてきてくれて、よかったね、小春は自分の部屋に行っておいで」

 大爆笑大会で大受けしているお母さんとお兄さんらしき人には、

「まずは一番の心配事項が片付いたね。さてこれからだよ」

 それぞれにそれぞれの言葉をかけた後、司を保護する三人衆……父さん、桂さん、狩野先生へ呼びかけた。

「なにはともあれ、まず上がってください。小春を守ってくれた小さなナイトにもお礼をしなくてはね」

 ──ナイト、だなんて、そんな、僕、あのどうしたら。

 笑い納めたお母さんは涙を軽く拭くようなしぐさをした後、西月さんと同じようなまあるい笑顔を司に見せ、奥に引っ込んでいった。お兄さんも続いた。

「司、ほら、膝どろだらけだっての、払えよ」

 桂さんに頭を小突かれつつ、それでも柔らかい空気の中司は入っていった。

 

 玄関に立ち尽くしている脇をすり抜ける際、司はじっと西月さんの瞳を捕らえた。

 大人たちには聞こえないようにささやいた。

「天羽のこと、絶対言わないから、安心して」

 初めて西月さんは、小さく笑った。

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