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 西月さんだけ、いつもの砂利道で降ろし、桂さんが学校へと連れて行った。

 無言のまま、唇の端を少し上げる感じで微笑んでくれた。

「じゃあ司、お前はここで待っていろ」

 いつのまにか話はついていたらしい。桂さんと狩野先生との間に何が語られたのかはわからないけれども、とりあえず今日は学校に戻る必要がないのだということなのだろう。 ──また、とんでもないことしてしまった。

 涙はだいぶ止まったところだ。西月さんが泣かないでくれたから、司もふんばろうと思えた。桂さんが運転途中、くだらないしゃれをかましたとき、バックミラーにはかすかに笑みを浮かべた西月さんが映った。

 ──西月さん、怒られないといいな。

 自分のことはもう十分覚悟している。母に電話してしまったのが失敗だったのかもしれない。思ったらすぐ、タクシーを拾ってまっすぐ連れていけばよかったのだ。もう止められないってところまで連れていけばよかったのだ。馬鹿正直に大人へぺらぺらしゃべってしまった自分の脳天気ぶりがむかつく。司は桂さんが買ってくれた缶コーヒーを開けて飲んだ。西月さんが置いてくれたお菓子包みには手をつけなかった。袋のまま、動かしたくなかった。「司、おやじさんが指の関節ぽきぽき言わせて待っているぞ。覚悟しとけよ」

「わかってるよ」

 たぶん狩野先生から連絡がいったのだろう。桂さんも動いているということなんだから、司がいきなり女子を連れてエスケープしたことはばればれだ。遅刻したとか、試験の結果が悪いとか、その程度だったら父さんはそれほど文句を言わないけれども、今日はやはり別だということだろう。父に呼び出されるということは、鉄拳食らわされるのも覚悟の上だ。

 ──どうせ僕、父さんに嫌われてるからいいや。

 ふてくされて、司は膝の上のお菓子を撫でた。

「怒られる前に何か食べたいんだけど」

「昼から食ってねえのか?」

「うん。今、缶コーヒー飲んだだけ」

「腹にくるぞ、それじゃあ。少し落ち着いたらホルモン焼きのなんか、つまみ作るからな」 桂さんは妙に優しかった。エスケープしたことそのこと自体は認めてくれているのかもしれない。西月さんに対しても紳士だった。もちろん泉州お嬢の親友ということを聞いているから情報もたくさん持っているのだろう。

 ──泉州さんとは連絡取ったのかな?

 時計の文字は、まだ四時前だった。

「狩野先生は夜にうちへ来ると言っていたぞ。お前のこと、心配してたなあ。やはり社長は仕事が夜まで立てこんでいるから、それからゆっくり司のことを聞きたいんだそうだ。だから、今夜は午前様だぞ。覚悟しとけ」

 ──いいや、どうだって。

 司は少しごろごろとしたお腹をさすった。


 真っ白いマンションの最上階へと向かった。二ヶ月だけだがここに住んだことのある場所だった。父の会社はもちろん別の場所なのだけども、うちにはたくさんの人が出入りしていた。背広姿の人たちもいたし、スカートの短い女の人もいた。いつも司へふかぶかと礼をしていた。いつも司は部屋に篭り、テレビや漫画、スポーツ新聞を読んだりして遊んでいた。 あの部屋はまだ、手付かずのまま残っていると、この前父さんが話していた。

 泊ろうと思えば泊めてもらえるだろう。

 でも。

 ──桂さんも、泊るに決まってるよな。

 何発殴られるかは考えないことにした。司はブレザーを羽織り、膝に手を当てた。足ががくがく震えてくるけれども、それは武者震いだと思うことにした。

 桂さんが呼び鈴を鳴らした。インターフォンのところで話し掛けた。

「桂です、司くんを連れて参りました」

「よし、入れ。司をライブラリー室に連れていってくれ」

 父さんの声だった。インターフォンの格子ごしに、別の人たちがうろうろしているらしい気配を感じた。きっと仕事中なんだ。機嫌悪いだろう。

「ほら、きんたまに力いれてほら、行け」

 腰をぽんぽんと叩かれ、司は背筋を伸ばした。足と手が右・右、と出てしまった。白い大理石の玄関と、溶けない氷の中に埋められたような時計が静かに司を向かえてくれた。いつもと変わらなかった。

「ライブラリー室?」

「本でも読んでろ」

 ──読むものなんてないよ。

 読書なんて嫌いだ。このうちにいた頃、二度くらいしか入ったことがない。父さんは玄関すぐ側に、自分の蔵書を全部まとめた「ライブラリー室」というのをこしらえていた。早い話が図書室なのだ。いつ使うんだろうといつも不思議に思っていた。でもなによりも、司としては玄関に入りたい。怒鳴られる前に何か食わせてくれると信じたかった。

「じゃあ、ここにいろ。俺も先に挨拶してくるからな」

「なんか食べ物持ってきてほしいんだ」

「彼女のくれたもの、食えよ」

 司の手元を見て言った。

「今のうちに、覚悟を決めてろ」


 ライブラリー室は小さかった。大体六畳くらいだろうか。三面に作りつけられている本棚。ぎっしりと並んでいる本は、難しい英語の本とか、ビジネス関係の本とかそういうものばっかりだった。司の読みたいスポーツ関連の本は一冊もなかった。当然、漫画もない。灯りの入らない部屋ということもあり、昼間なのに蛍光灯をつけなくてはならないのがうざったかった。どっしりした切り倒したばかりの木、という感じのテ―ブルがでんと真ん中に置かれていた。司はどしんと座り込み、大きな木目の板に顔をつけた。にらみつけている「第三の眼」という感じがした。脇にお菓子の入った袋を置いて、しばらくまどろんだ。

 ──これからどうなるんだろう。

 桂さんはちゃんと話をつけてくれたと言うけれども、果たしてあの、白衣教師狩野先生は受け入れてくれたのだろうか。二年前の事件もそうだったけれども、狩野先生はあまり司や家の人たちと接点を持ちたがっていないように感じられた。桂さんも最初のうちは「あの先生、なんかとっつきにくいよなあ」と愚痴っていたっけ。

 ──何か、ラーメンとかおごったのかなあ。

 そういうことにしとこうと思った。なんとなく、身体が汗で冷えてくる。なんとなく眠くなる。なんとなく、甘いにおいが漂ってくる。

 ──西月さん、天羽と顔、合わせることになっちゃったのかなあ。

 物言わずにお菓子の包みを持たせてくれた、やわらかい指先を思い出し、司は身体が瞬間ほてってしまうのを覚えた。

 ──父さん、僕のこと怒りに来るんだろうなあ。

 もう、言い訳はするつもりなどなかった。

 ただ、神乃世へ連れて行けなかった自分が、みっともなかった。

 ──いくら怒られても、殴られても、嫌われたっていい。

 司は顔をテーブルに押し付け、両手を組み合わせて祈りのポーズを取った。

 ──西月さんがしゃべれるように、神さま、してください。

 

 鍵を掛けられたのに気がついたのは、司が入ってからちょうど一時間くらいたってからだった。待ちくたびれて寝てしまったから、もしかしたら桂さんが迎えに来たのも気付かなかったのかもしれない。何度かノブががちゃがちゃいっていたのは聞こえていた。たぶん桂さんが入ってきて、父さんのところへひっぱっていくのではないかと思っていた。たてつけが悪くて戸が壊れたから、何度もドアノブをいじっているんだろうとも想像していた。 ──早く、お腹すいたよ。

 そっと顔を上げてみた。誰かがそこにいることはわかるのだが、ただ、誰も入ってくる気配がない。絞られるのだったら早くしてほしい。いらただしく司は立ち上がり、ドアの前に立った。がちゃがちゃ音が最後、かちり、と留まった。いやな予感がばりばりとした。ノブをひねり、何度か動かした。がたがたドアが揺れるだけだった。

 戸の向こうには誰かがいる。玄関の靴箱を開ける耳障りな音が数回したのち、

「桂くんついてきてくれ」

と、指示を出す父の声だけが聞こえた。桂さんの返事はなかった。代わりにあわただしく玄関の戸締まり、最後に静けさが漂ってきた。この家、誰もいない時耳を澄ますと、細かいじりじりとした機械音が響く。すんでいた頃はその音が耳障りで眠れなかった。久々に聞こえた、蛍光灯の切れた後のような響き。司はわざと咳をしてみた。ドアノブを何度もねじり、呼びかけた。

「桂さん」

 返事はない。

「桂さーん」

 静かだった。

「戸、開けてよ」

 じりじり音だけ。

「お腹すいた。トイレ行きたい」

 最後の言葉は小さくつぶやいた。


  父も忙しいのだろう。司のしでかしたことにかまってられないのかもしれない。初めからわかっていた。二年前の事件の頃から父はよそよそしくなったし、このマンションから桂さんつきで追い出したのも、疎ましくなったからなのだろうと思っていた。また事件を引き起こした司になんか、もう会いたくないのだろう。また殴られ、怒鳴られ、もしかしたら勘当されるかもしれない。どういう制裁をされるかはわからないけれども、やるのだったらねばっこく引き伸ばさないで、さっさと叩きのめしてほしかった。

 ──けど、鍵開けてったってかまやしないだろ!

 腹がねじれるようにきゅうと締まる。西月さんのくれたお菓子はすでに食べ終えていた。甘い、小ぶりのシュークリームが二つ入っていた。甘かったけれども、一口サイズだったのでかえってお腹が空いてしまった。もっとがっちりしたものがほしくなるだけだった。桂さんが約束してくれた牛のレバー焼きでいいから食いたかった。

 ──桂さん、すぐ、もどってくるよな。

 閉じ込められたとばかりに大騒ぎはする気なんてなかった。だってここは自分のうちだったのだ。もし父さんと桂さんが自動車事故を起こしたとしたら話は別だけどふたりが帰ってこないなんてことは、まずない。夜になったら狩野先生も来るそうだし、それまでには父さんはともかく、桂さんはいるはずだ。せいぜい二時間くらいだろう。司はかばんに入れておいたスポーツ紙を取り出して隅から隅まで読み尽くした。野球、サッカー、競馬、芸能、お色気紙面。西月さんのことを考えたくなくて、ただひたすら文字を眼で追った。


 二時間が経った。事態急変。司の腹に空腹とは違うごろごろ感がやってきた。

 司は立ち上がった。片手をへそのところに置いてみた。もう限界まで空腹度数が上がっているのは重々承知だ。なんとかシュークリームで補っているから大丈夫だと思っていた。

 ──さっきの缶コーヒー、今ごろ効いてきちゃったよ。

 マンションに連れてこられる車の中で、司は桂さんのくれた缶コーヒーを飲み干した。もう、水分でもなんでもいい。口に入るものだったらなんでも欲しかった。桂さんがおいしいものを食べさせてくれると言っていたから、飲み物だけでいいやと思ったからだった。なのに、三時間以上も閉じ込められることになるなんて、想像もしていなかった。遅い、遅すぎる。自分の部屋で、出入り自由だったらひとりっきりでいられるのも悪くないけれども、今司が置かれている状態は、監禁もしくは軟禁だ。

 ──父さん、本当に僕がいること、気付かなかったんだろうな。

 ──桂さんも、急いでいたから気付かなかったんだろうな。

 そうとしか思えない。いくら司のことをどうでもいいと思っていた父さんであっても、まさか自分の息子を閉じ込めるなんて鬼畜な真似をするはずがない。

 ──きっと、気付かなかったんだ。だからなんだ。早く帰ってくれればいいのに。

 腹の音は今までの空腹を訴える遠慮深いものではない。

 下からぎゅうっと、搾り出そうとするような、マヨネーズの入れ物をひねるような感じだ。司の下っ腹を、巨大な手がぎゅうっと押している。男子にとっては一大事の、あれだ。

 ──昨日から、出なかったのになんで今ごろ出てくるんだよ!

 便秘でもともと、腹が張っていたのは確かだったけれども、いきなりこんな部屋で催してしまうなんて最悪もいいとこだ。本屋に立つとトイレに行きたくなるという話を聞いたことがあって、周平と「いつか実験しようぜ」と言い合っていたことがある。でも、実体験を予告もなしに行うのは神様、止めてほしかった。

 ──ちくしょう、早く、早く戻ってこいよ、桂さん。

 腰が落ち着かず、司はひとしきり尻の穴を締めることに専念した。なんとか波は収まった。またこのままだと便秘が三日目に突入するかもしれないけれど、こんなとこでするよりはましだ。必死に別のことへ集中した。西月さんの年賀状をまぶたの裏に焼き付け思い起こしてみた。しばらくにやつこうとした。約三十分くらいはそれで気もまぎれた。

 時計を覗き込むと、もうそろそろ六時過ぎだと、デジタルの画面が訴えている。そろそろ桂さんたちも戻ってこないと、腹の下の爆発物が破裂してしまうかもしれない。こっそり、スラックスのボタンを一つだけ外し、ワイシャツを外に出した。

 ──桂さん、桂さん、早く戻ってこいよ。

 心の中でまだつぶやくだけだった呼びかけが、とうとう声になってしまったのはその二十分後だった。


 玄関のドアが開く気配を耳にした瞬間だった。ぴんと腰を立てることが出来ず、司は片手をズボンチャックの中につっこみ、片手を尻に当てるような格好で、ふらふらと目の前のドアに張り付いた。ただ叫ぶしかなかった。

「桂さん、桂さーん、早く開けてよ。早く、早く助けてよ!」

 手を離せない。身体でどしんどしんと何度もぶつかった。人が二人以上いるのは靴を脱ぐ気配でわかる。たぶん、父さんと桂さんだ。父さんの声で小さく、

「司か?」

 と尋ねる様子あり。やっぱり気付いていなかったのだろう。置きっぱなしにしていることを気付かなかったのだろう。馬鹿野郎だ。とにかく早く、一刻も早く脱出させてほしかった。

「早く、もう、早く出して、本当にもう、だめだ!」

 つま先で何度もドアを蹴った。慌てたような桂さんの呼びかけ。

「大丈夫か司、ずっと中にいたのか?」

「早く、もうだめ、早く早く」

「ちょっと待て。今鍵出すからな。社長、鍵はどちらに」

 父さんが持っているのだろう。司は足踏みを続けた。激しく腰をくねらせて爆弾の発火を必死に押えた。

「ありがとうございます。司、ごめんな。今開けるからな」

 ──開かないよ!

 鍵のノブをひねる音がお腹に響く。司はベルトを外し、すぐにズボンが脱げるような体勢に整えた。半分トランクスが出ているけど、見られるのは桂さんと父さんくらいだから平気だ。もう一刻、一秒を争う爆弾だ。

「桂さーん、早く」

「落ち着け、どうした」

「大と小、出そうなんだ! もう、穴から顔出しかけてるよ、助けてよお」

 桂さんがなかなか出てこなくて、司が何度も泣きそうになりながらトイレのドアをノックするのは日常茶飯事だ。いつものことだ。男だけだし、ズボンをずり下げて走りまくるのもいつものことだ。父さんだってそれくらいわかっているはずだ。お客さんがいるわけじゃないし。

 ──助けてよ、早く、もうだめだよお!

 限界の鬼に食われそうになったとあきらめそうになった刹那、ドアがばらんと開いた。目の前には背広姿の桂さんと父が唖然とした顔で司を見つめている。けどそんなの知ったことじゃない。危うく転びそうになりながら、司はズボンがずり下がるのもかまわずトイレに駆け込んだ。間一髪。ベルト外しておいてよかった。腹中の缶コーヒー特急を無事、トイレの中に走らせることができた。


 何も考えていなかった。とにかく、腹の中をすっきりさせたいだけだった。

 トイレから出て、ゆっくりスラックスをはき直した。

 ──あぶなかったよなあ。

 手を念入りに洗い、呼吸を整えて司はライブラリー室に戻った。たぶんこれからお説教が始まるに違いない。どうせ父さんと桂さんしかいないだろう。爆発物がなくなった今なら、何を言われてもかまわない、そんな気がした。

 ──僕が西月さんを神乃世へ連れて行こうと思った理由を話せばいい。

 ──けど、そうなると天羽のことも話さなくちゃいけないよな。

 ──天羽、一方的に悪者になってもいいなんて言ってたけど、そんなの無理だよな。

 廊下、男物の靴が三足並んでいた。黒いつややかな皮靴と、汚れた靴、また茶色の見慣れない靴。父のだろうか? 桂さんのだろうか? まさか、お客さんがいたのだろうか。

 ──まさか?

 司の予感は当たっていた。

 ライブラリーに向かいノックしたとたん、そっと戸を開けてくれたのは、

「片岡くん、大丈夫ですか」

 ──狩野先生。

 薄い茶色のブレザーを羽織った見慣れない格好のめがね顔が迎えてくれた。

「あ、あの、僕」

「これから、ゆっくり話を聞かせてください」

 かすかに微笑みながら、狩野先生は父の隣りに腰掛けた。真っ正面、ドアを見据える位置に父さんが、左脇に桂さん、反対側に狩野先生。司は面接を受ける生徒のように三人の視線を一身に浴びることになりそうだ。初めて、足ががくがく震えた。桂さんの目が優しくて、狩野先生が穏やかで、さらに父さんの静かなまなざしに司は凍らされた。

「司、おいで」

 怒ってはいない。今すぐ殴られるようなことはなさそうだ。でも怖い。つま先で少しずつ、前の椅子に腰掛けた。周りから本の魂が司を見据えているようだった。

 父さんは隣りの狩野先生に椅子ごと向き直り、肩を軽く怒らせ、一礼した。

「狩野先生、本日は私の息子の件で、ご足労願いまして申しわけございません。今から三十分の間、父親として司に、教えておきたいことを話したいので、少しだけ待っていただけませんか」

「わかりました。よろしくお願いします」

「それと、桂くん」

 一拍置いて、桂さんに大きく一礼した。

「君が司を、この段階まで育ててくれたようなものだ。本当にありがとう」

 ──いきなり何、お礼してるんだよ。

 荒れる気配がない。だから怖かった。今までの父さんは、司がへまをやらかすと思いっきり張り倒したり、どなったりしたものだった。下着ドロ事件の時だってそうだった。今日も泣かされるだろうと覚悟していたのに、三人の大人たちの態度はみな、静かすぎた。

 ──気持ち悪い。

 膝に手を当てて、つまんでいたら桂さんにため息交じりで注意された。

「司、チャックチャック」

「な、なに?」

「社会の窓、それも丸見えだぞ」

 トランクスの青がチャックから露骨に覗いていた。慌ててしまい込むのを、三人の大人たちはまた穏やかに微笑みながら見つめていた。チャックのあたりからまた熱が出てきそうだった。

「司。ライブラリーに閉じ込められた間、お前は何を考えていた? 難しいことは言わなくていいぞ。なんでも言ってみろ」

 油が少し額に浮いた父の顔が目の前にある。歯ががたがた言った。

「閉じ込めたって、僕を閉じ込めたの?」

「怖い思いさせて悪かったな。頭が混乱している時にはなかなか思いつかないことでも、このライブラリーで一人篭っていると、不思議とすっきりしてくるものなんだ。父さんもよくここで、いろいろなことを考える。どうだった?」

 ──どうだったもこうだったもないよ!

 「間違えて閉じ込められたんだ」とずっと思い込んでいたのに。今度は別の意味で足が震えてきた。父の顔をにらみすえた。そこまで嫌われていたのだろうか。

「なんでもない」

「閉じ込められた時、最初にどう思った? どうして俺は閉じ込められるんだろう、どうしてなんだろうと思わなかったか?」

 ──親にいきなり閉じ込められるなんて、そんなこと想像するわけないじゃないか!

 でも言葉にはしない。

「わからないよ」

「そうか。なら、次だ。今さっき、大と小のピンチで戸を叩いていた間、お前は何を考えていた?」

 くだらないことを尋ねる父だ。当たり前じゃないか。考えることったらひとつに決まっている。

「トイレ」

 一言だけ確信たる答えをつぶやいた。狩野先生にまであの、「半ケツ状態股間握り」状態を見られたのは情けないったらないが、西月さんがいたわけではないのでその辺はあきらめる。「やっぱりそうか。ずっと、早くトイレに行かせろと、そればかり考えていたんだな」

 ──当たり前だろ。

 父さんは、神乃世にいた頃からこういう風に物事を話すことが多かった。直接説教するのではなく、少しずつ考えさせようと言う感じで情報を与えていくというのだろうか。司の言葉で、何かを説明させようとする。キャッチボールをする時も、かっこいい投げ方を教えるのではなく、まず司の届くところまでボールを投げさせてくれた。その後で色々とコツを教えてくれた。もしそれが、父さんの目的だとしたら、今の司には何がなんだかわからない。早く、核心に入ってほしかった。

「じゃあもう一つ質問だ。さっきの格好を見た限りだと、三十分くらいの間ずっと、トイレのことしか考えられなかったのでは、と推測したんだが、その時別のことを考えたりしなかったのかな。そうだな、今日一緒にデートした、彼女のこととかを」

 ──西月さん!

 口の中に、甘いシュークリームの味が蘇り、また腹の虫が鳴った。早く食いたい。

「お腹、空いたからずっと食べ物のことばかり考えてた」

 投げやりに答えた。桂さんが立ち上がり、戸口に出ようとしたが父さんに片手で制された。穏やかに、ゆっくりと。

「そうか、司はずっと食べ物と、トイレのことで頭が一杯だったんだな。そうだろう」

 ──当たり前だよ!

 司は答えず。唇をかみ締めた。いぶかしげに狩野先生がお茶の茶碗を持ち上げる。桂さんもあまりぴんとこない顔をしている。そして、父は大きく頷いている。大人たちが何を考えているか、司には全くわからない。

「これだけ必死になって戸を叩いたのは、何年ぶりだ?」

「だって、出そうだったから」

 ──誰だって、あそこまでピンチだったらそうするに決まってるよ。

 なにせ、穴からこんにちは状態だったら誰だってそうだろう。

 父さんはゆっくりと立ち上がった。

「あの時の感情を、司、今日のうちによく、身体に叩き込んで置きなさい」

 ──は?

 ただでさえ腹が空いて干からびそうだったのに、お腹を下してピンチ。この世の終りとまではいかなくても、かなりのしんどさが身体に染み付いている。そんなものを、なんで叩き込まなくてはならないのだろう。司は唇を曲げて父を見た。狩野先生の前だからこれ以上口答えはしたくなかった。


「いいかい司。人間には三つの欲望があると言われるのは知っているね」

 意地でもこたえる気は無かった。父は困った顔で微笑んだ。

「性欲・食欲・排泄欲。人間の欠かせない欲望だ。どんな素晴らしい人であっても、この三つの欲望から逃れられる人はいない。この三時間で司は、『食欲』と『排泄欲』この欲望が満たされない時、どれだけ自分をさらけ出さずにはいられないかを経験したはずだよ。もし、あの時桂さんがずっと戸を開けてくれなかったら。もし、このまま閉じ込められていたらどうなっているか、司は想像できるだろう?」

 ──したくない!

 いざとなったらスポーツ新聞を丸めておむつを作ろうとまで思っていたことは、内緒だ。「これから司は、十五、十六、十七と少しずつ大人になっていく。そして少しずつもうひとつの欲望『性欲』の扱い方を覚えなくてはならなくなる。さらに言うならその欲望がどれだけ強烈かを知ることになるはずだ。これは司だけではない、司の周りにいるたくさんの人たち、友だち、家族、誰でもそうだよ。もう一度考えてごらん。部屋に閉じ込められていたあの間、司は何を考えていた?」

 真剣だった。最初、意味不明といった顔をしていた狩野先生もじっと父さんを見つめていたし、桂さんも頷いていた。

「食べたい、ってことと、あと、トイレ」

「そうだな。正直だな、司は」

 嘘のない笑顔で少しだけ司はほっとした。

「さっき私が、司に今の感情を覚えていてほしいと言ったのは、これから先、人の欲望がどういうエネルギーで出来ているかを忘れないでほしいからなんだよ。司。お前は将来どういう道を選ぶかわからない。まだいろいろ路はある。それこそうちの名前じゃないが『迷路道』かもしれない。だがな、周りの人たちはみな、司がトイレに行きたくなったり、食事をしたくなった時の欲望でもって、いろいろなことを求めているんだ。うちの服を買うお客様だってそうだ。洋服に関心なんて司、なさそうだからぴんとこないだろう? なんでうちの服にあれだけお客様は大金をはたいてくれるのかな」

「ほしいから」

「そうだ。まさにその通りだ。単純に言えば、ほしいんだ。これが『欲望』なんだ」

 父は言葉を切った。司が意味を飲み込むのを待っているかのようだった。

「洋服を選ぶのに関心のない司には、あまりぴんとこないかもしれない。それは父さんも同じだ。母さんが選んでくれる服を着ていれば問題ないというのが本音だよ。でもな。うちの仕事はお客様の『欲望』を満たしてあげることが大切なことなんだ。それも、半端な満たし方ではなく、とことんすっきりした、気持ちよくなった、そう思えるくらいにね」

 にやりと笑った父。少し額にしわが増えていた。

「せっかくトイレに行かせてもらえてもだ。もし、アサガオしかトイレにおいてなかったとしたらどうする? 本当に切羽詰っているのは『大』の方なのにと思うだろう。中途半端な欲望の満たし方では、お客さまは満足しないんだ」

 ──洋式トイレでよかった。

 今のたとえ話に、司は震え上がった。もちろんそうは見せない。

「もちろん、司にいきなり顧客満足について話しても、すぐに理解できるとは思わないし、しろとも言わない。だが、今日司は、自分なりに、ひとりの人へ、一つの『顧客サービス』をしようとしたんだ。それはわかるね」

 狩野先生が司に視線を注いだ。うなだれるしかなかった。

「理由は、先生と桂さんから聞いている。結果がどういうものだったにしても、司は精一杯その人の『欲望』を満たそうと思ったんだなと、そう感じたよ」

 ──どこまで知っているんだか。

 用心した。身体をこわばらせた。

「だが、その人の本当の望みはなんだったんだろう? お前の抱えている事情についてはよくわからないが、彼女が本当にしてほしかったことは、果たして神乃世へ連れていくことだったのだろうか? と一度よく考えてごらん。もし、仮にだ。司がバスに乗って彼女を神乃世へ連れていって、母さんのおいしいからあげとオムライスをご馳走してあげたとしても、本当に彼女の切羽詰ったものを満たすことができただろうか、ということだよ」

 ──だって、西月さんは、天羽のいないところへ行きたいって。

 不本意だ。あれだって司の精一杯だったのだ。

「お前が今、腹ペコで今すぐ何かを食べたいと思っているのはわかる。三時間閉じ込められて、腹を壊してパニックになったのもわかる。その時、そういう状態から逃れたいと感じたこと、それを忘れないようにしてほしい。周りの友だちも、今司が感じた『欲望』と同じものを、別のものでたくさん感じているんだということも、忘れないでくれ。自分に理解できない『欲望』であっても、その人にとっては腹を下した人のように今すぐトイレに行きたい、と感じるような切羽詰ったものだってことをだ」

 ──腹を下した人と同じくらいの『欲望』

 司は頷いた。なんとなくだけど、羽根で頭をかすられたような感覚がある。

「その『欲望』をどうすれば、満たすことができるのか。それを少しずつでいいから考えてほしい。もちろんそれを満たすことが正しいとは限らないけれどもな。まず、困ったら先に、人がどのくらいのエネルギーで行動しようとしているのかを考えてほしい。父さんの言いたいことは以上だ。あとは、桂さん、狩野先生と一緒に、彼女にとって一番いい方法を探って行こうな。もちろん、父さんも協力するよ」

 父さんの特別講義は終わった。生徒は司だけではない。狩野先生、桂さんもそうだった。丁寧に二人、立ち上がり礼をした。司も慌てて真似をした。


「片岡さん、良いお話をありがとうございます。ただ、一言だけ言わせてください」

 狩野先生が父に、静かながらも断固とした口調で意見した。

「司くんはこの三時間、非常に恐ろしい思いをしたはずです。全く想像もしていない状態でさぞや不安になったことではないでしょうか。僕はその点に関してのみ、どうしても賛同できません」

「司を閉じ込めたことをですか」

 全く悪意のない会話だった。和やかに続いた。桂さんも大きく頷いた。

「社長、俺もそれはそう思います。司の性格からして、へたしたら一生のトラウマになるかもしれません。閉所恐怖症になるかもしれないですしなあ」

 大声で父さんは笑い出した。司を眺めて、また膝を打った。

「いや、それは一本取られた! 司、悪かった。じゃあこれからゆっくり、ここに食事をもってこようか。桂くん、例のもの、運んできてくれ」

「かしこまりました!」

 行き際に桂さんは、司の頭をぐりぐりと撫でていった。狩野先生だけが静かながらも不安そうに部屋の中を眺め、ため息をついていた。司に聞こえないようなひそひそ話を始めた父と狩野先生をよそに、司はぼんやりと両膝をもんでみた。

 ──西月さんが、本当にしてほしいこと?

 ──中途半端じゃなく、満たすこと?

 ──僕が神乃世へ連れて行く以外で、できることなんて、ないよ。

 ──たったひとつしかないよ。出来ないことだよ。


 狩野先生から状況説明の前に、桂さんが用意してくれた牛もつ丼を司はひたすら食いまくった。腹の『欲望』は満たされた。顔をしかめている狩野先生を横目に、司は西月さんの渇望がどこにあるのかを、心のうちに認めた。


 ──天羽に、もういちど好きになってもらうことだけだよ。    


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