17
家に帰って置き手紙を桂さん宛に用意していくつもりだった。ついでに神乃世にいる母、あと修平にも。一応、学校を二時間さぼる形になるわけだから、狩野先生のお説教は覚悟だろうし、桂さんからはげんこつ三発くらいは食らうかもしれない。あとに残るのだ、桂さんの拳跡は。思い出して顔をしかめた。
──あ、見てる。
背中の方で西月さんが司の横顔を、かするような視線で見た。
「な、なんでもないよ」
聞かれる前に、答えておいた方がいいと判断したからなのだけど、西月さんは口をつぐんだままだった。
──ほんとはいやなのかな。
直接聞いた方がいいだろうか。
──言わないからいいか。
司の家までは歩けない距離ではなかった。でも、空気が薄い緑に染まったような林を抜け出したとたん、世界が暗転してしまいそうだった。やみの中、西月さんが黒に染まってしまいそうで怖かった。
「うちに電話、かけておくから」
うまく言えない。はっと目が醒めて西月さんが学校へ戻ると言うんではないだろうか。不安の葉陰を作るものがある。司は砂利道に立って、いつもならば桂さんの車が近づいてくる合図、タイヤの擦れる音を聞き取ろうとした。聞こえるわけもなく、司は西月さんを背に従えるように林を抜け出した。
──誘拐じゃない。
──だってこのままじゃ教室になんか戻れない。
狩野先生に報告すると泉州さんは言っていたっけ。たぶん西月さんを探しているだろう。先生はともかく、泉州お嬢にご許可をいただかなかったのはまずかったかもしれない。
──桂さん、怒ると怖いもんなあ。
あえて仲裁役に、と腹の中で計算したとたん、またぐうと鳴った。
「うちに帰ったら車呼ぶから」
もう一度振り返って西月さんと眼を合わせた。天羽とふたりで盛り上がっていた頃の西月さんは、奴が振り返って笑いかけるたび、えくぼを口元に深くこしらえていた。今、司にも同じことを要求するのは無理だとわかっているけれど。
──天羽になれたらな。
生気を失った西月さんにもう一度話しかけた。
「僕の責任だから、絶対怒られないようにするから」
砂利道を先頭で歩いていくのは、どこか息苦しかった。もう少しお天道さまから見えないところで歩いていたかった。
砂利道を抜け、司の通学路にたどり着いた。後を追う人影もない。ふうっと息を吐いた。すれ違うのは、青いスカートとベストでおそろいの格好をした女の人たち、またワイシャツ姿で、やたらと焼き肉臭いにおいのする男性たちばかりだった。ランチメニューの看板が通りに数多く並んでいた。また胃の方からがつがつとほしがる音が聞こえた。
──やっぱり、電話しよう。
薄緑の電話ボックスをやり過ごす寸前で司は立ち止まり、西月さんへうなずいて伝えた。
「今、家に電話するから」
よくわけのわからなさそうな顔をした西月さん。司と同じくお腹がぺこぺこなのだろう。
「すぐにお昼ご飯食べられるようにするから」
なにがいい?とはさすがに聞けなかった。司は電話ボックスに入った。前に入っていた人がきっと強い香水をつけていたに違いない。トイレの芳香剤を思い起こさせた。
「司、あんたこんな時間に」
母のお説教を聞かされるのはうんざりだけど、どっちにしろしゃべらなくてはならないのだ。司は、少しいらだった声の母へ無理に話を変えさせようとした。
「今から神乃世に帰るから」
「帰るっていったいなんで、またあんた変なことやらかしたんじゃないでしょうね」 「そんなことしてないよ」
きっと二年前のようなバカをやらかしたんではと思っているのかもしれない。心外だ。司はすぐに言い返した。
「母さん、困っている友達を助けたいんだ、それが悪いことかなあ」
うっと言葉につまる様子が伺えた。
当然だ。いつも母は「周ちゃんたちが困っているようだったら司、あんたのできることが何かよく考えなさい。自分で難しそうだったら周りの人に相談しなさい。友達が幸せでいてくれるだけで、司、あんたも幸せになれるんだよ」
と、言い聞かされていた。そりゃあもう、耳にタコができるくらい。
「青潟の人なんだけど、今、クラスの奴に怒られるかなんかして、教室に帰れないんだ。だから」
いじめられた、というのとは、ニュアンスが違っているような気がした。天羽は決して西月さんをいじめた訳ではなさそうだから。
「帰れないってどういうことよ。司、もっと分かりやすく説明しなさい」
ぱたっと、母の口調が一度止まった。
「もしかして、いじめられている子をかばったの?」
──厳密には違うんだけど。
「それで、教室から連れ出してきた、というの?」
──母さん勘違いしてるけど。
司も黙った。半々、当たっているという言い方をすることができなかった。母はさらにたたみかけてきた。
「周ちゃんがよくやっていたよねえ。あんたも、そういうこと、したの?」
──当たってるけど、違う。
まだいるだろうか。画板を立てかけたそばに、西月さんは黙って立っていた。
「その人、女子だから」
たったひとつ、本当のことを言った。
「女の子なの? あんただから何がどうしたの」
「だから、今から神乃世に連れてく。だから、オムレツとからあげ、作っといて」
「司、だから何が言いたいの。ちょっと落ち着いて話をしなさいよ。どこからかけてるの?」
「公衆電話」
「うちからじゃないのね」
がおっと通り過ぎるトラックの騒音。
「だから、行くから」
「待ちなさい司、どうやって来るつもりなの」
──あ、そうだ。
司はもう一度言葉を飲み込んだ。もう一度西月さんの後姿を見つめてみた。やっぱり最初の案通りにしようと思った。
「タクシーで。桂さん今、仕事だし」
はああ、とため息をつく気配。
「そうよね、司のやらかすこと、桂さんやお父さんに許可えてやることないもんねえ」
ゆっくりと、母は告げた。
「司、今、電話ボックスの前に行列できてないわよね」
「ないよ」
いるのは西月さんだけだ。
「じゃあ、あんたの手元のテレホンカード、何枚くらいあるの」
使っていないから五枚くらいは余裕にある。
「そう、なら、その子を連れてきなさい。ただ条件があるわよ」
母の声はきっぱりしていた。
「青潟駅から出ている、神乃世直行のバスがあるから、そこのバス停で乗り込みなさい。タクシーなんて使ったら、もう馬鹿みたくお金がかかるんだから。わかっているわね。バスだったら少し遠回りだけどもわりとすぐに到着するから。わかったわね。約束よ」
──バスなんて使ったことないよ。
どきまきした。神乃世に帰る時はいつも桂さんの車以外使用したことがない。公共交通手段なんて、確か汽車が本数少ないながらもあることくらいしか知らなかった。
「司、いいわね。まずはバスの時刻を調べるために駅に行きなさい。そこでちゃんと切符を買ってあげて、それからにしなさいね」
「バスの時刻とかわからないの」
そういうのは大抵母がみな把握しているはずだ。だから当然聞いた。
「司、あんたそういうことも知らないの。バスの時刻っていうのはね、しょっちゅう変わるのよ。まずは見てきなさい。それと、何があったか知らないけれど、お父さんお母さんに会った時に、なんで学校を抜け出したのかその理由をちゃんと説明できるようにしときなさい。あんたへの宿題よ」
母はもう一度
「神乃世の直行バスは青潟駅のバスステーションから出ているんだからね」
と繰り返した。
「わかった。じゃあ食うもの作っといて」
受話器を置いた。遠慮なく腹の虫が鳴く。司は額の汗を拭った後、外に出た。西月さんは司を見上げるようにして、静かに唇を動かした。言葉は出てこないのがふしぎだった。
「うちの母さん、ぜひ連れてこいって言ってたからかまわないよ。あの、それで」
ほっぺたのえくぼを見せてくれないまま、西月さんはじっと司を見詰めた。
「うち、神乃世なんだけど、青潟からバスが出てるんだって。だから、それ乗って、来るなら来いって」
また唇を動かす気配あり。西月さんは数回ぱくぱく何かを言おうとして、口を押えた。
──僕が神乃世生まれだってこと、ほとんど知らないんだろうな。
きっとこの人も、司が「迷路道」の御曹司だってことくらいしか知らないのかもしれない。神乃世という町がいかに土田舎で、静かなとこかというのも、きっと話でしか聞いたことがないのだろう。
──西月さんは僕のこと、全然知らないんだ。
「神乃世、いい奴いっぱいいるから、もう、いじめられないですむと思うし。あの、だから、家に電話しておいたほうがいいかもしれないし」
西月さんが意思表示らしきしぐさをした。ゆっくり首を振った。
──て、ことは。
「いや、あのでも、やはりそれはまずいよ。あの、でも、家についてから電話する?」
うつろな瞳に意志がちらっと走った。大きく頷いた。
──あとでも先でも、きっと同じだよな。
乱れた前髪を一生懸命、指先で直そうとしている。
いつだったか天羽が、そっと西月さんの額をつついていた時の場面を思い出し、すぐにシャットアウトしたくなってしまった。
「じゃ、とりあえず、青潟駅に行くことにしよう」
司は背を向けてひとりで歩き出した。ほんとだったら、西月さんの荷物を全部持ってあげたい。でも、距離がないとまた天羽とのかかわりとが見えてきて、息苦しくなってしまう。
──とにかく、うちについたらすぐ、「誘拐じゃないんだ」ってこと、西月さんのうちの人と、あと桂さんに伝えておかないとだめだな。
十歩歩いたところで、そっと後ろを見る。
西月さんはうつむき加減で、画板と絵の具箱だけ持ち、司の真後ろまで近づいてきていた。五十センチも離れていない。背中に汗の地図が広がってしまいそうだった。
「急がなくても、大丈夫だから」
こういう時天羽だったらどういうことを言うのだろう?
司は青潟駅まで歩きながら、もっと国語の勉強をしておけばよかったとつくづく反省した。
自転車だとずっと早く着くのに、歩きだとかなり疲れる。
気が付くともう二時半くらいだった。本当はタクシーかバスに乗りたかったのだけど、そんなことするとかえってサボりだと思われ、怪しまれそうな気がした。西月さんは一言も言葉を発しないけれども、嫌がることもなく黙ってついてきてくれた。
──西月さんもお腹すいたんだろうなあ。
時折、司は肩越しに様子を見ながら、コンビニとラーメン屋、あと屋台のやきとり屋あたりに立ち寄るかどうか思案した。でも、表情に空腹の様子は見られない。ただうつむいているだけだった。
「何か、食べる?」
首を振る西月さん。眼はうつろだった。
「駅についたら、パン買ってくるから。それに、うちについたら母さん、絶対おいしいもの作っているから、お腹すかせておいたほうがいいと思うんだ」
またわけのわからないことを言ってしまった。オムレツでよかったろうか。西月さんは別のものがよかったのかもしれない。いろいろ考えながら司は、ようやくたどり着いた青潟駅のバスターミナルへと向かった。列車の出入りする駅構内と違って、バスターミナルはガラス張りの待合室が備え付けられていた。いわば、温室野菜になったような気分だ。先に司がバス待合室に入ると、かなり高齢と思われる人たち二人ががしっかと腰掛け、膝や首すじをこすっていた。座る場所はかなり空いていたけれども、やはり戸惑うものがあった。西月さんを先に通そうとしたけれども、立ち止まって戸を閉めようとした。いやならば入らない方がいい。司も頷いて、まずはそのままバスの時刻表を調べることにした。
──タクシーの方が絶対早いのに。
なんで母は「バスで」なんて条件をつけたのだろう。バスなんて時間がかかるし大変だと、よく周平が話していた。たまに青潟に用事がある時に、お母さんと一緒に出かけるのだそうだ。せっかく司が「父さんにたのんで車回してもらえばいいのに」と言うと、ちょっとだけ不機嫌になるからあまりいわないのだけれども。
──けど、桂さんにばれたら怒られるだろうなあ。
桂さんはいつも司を迎えにいくまでの間、父のマンションで書類関係の仕事をしている。たまに背広を着て運転したりもしているらしい。父がひとりで住んでいるマンションは、しょっちゅう会社の人が出入りしていて、なんか家と言う感じがしなかった。二ヶ月だけ司も暮らしていたけれども、学校の延長みたいな雰囲気だった。狩野先生みたいな顔をした、細面の人もいたし、周平みたいにまゆげのない男の人もいた。たまたまトイレで司と顔を合わせるとふかぶかと礼をされたりした。でも、その中にあの当時、桂さんはいなかったはずだ。一緒に暮らすようになってしばらくしてから聞いてみたけれど、父のマンションで仕事をするようになったのはつい最近らしいとのことだった。
学校で司がなにかやらかした場合、まず連絡は父のマンションへ行くことになっているらしい。おそらく父も死ぬほど忙しいだろうということで、結局桂さんが迎えにくる。謝ることになるだろう。例の事件以外で司はそれほど悪さをしていないから、そういうことはないけれども、もしかしたらもう桂さん、司が学校をサボったことを報告受けているかもしれない。そうしたら必然、父にもばれるだろう。できたら桂さんに見つからないうちに、神乃世へ移動したいところだ。そちらで西月さんを落ち着かせ、とにかくたくさん食べてもらい、元気になってもらってその後で怒られるのならば、それはそれでいいのだが。
──とにかく早く行きたいんだけどなあ。
でも、いくら探しても神乃世行きのバス停が見つからない。細長いプラスチックのバス停留所柱を全部見て歩いたのだが母の言った通りのものは一本もなかった。 「青大行き」とか、「修道院前」とか近場の停留所はたくさん見受けられるのだが、司の探している「神乃世」の名前はほとんどみつからなかった。くさくさしてきた。西月さんの前でわからないなんて、本当は言いたくない。口笛吹けばばれないだろうか。心臓がまたどくどく言っている。右、左、とバス切符売り場を探した。ない。運の悪いことにバスチケット売り場には誰もいないときた。思わず「母さんのうそつき」とつぶやいてしまった。 ──あれ、西月さん?
ふと、背中の気配が薄くなった。通りに向かう横断歩道をひとりで走って渡っている西月さんの姿を司は見た。
頭の中が真っ白くなる。やっぱり天を仰いでたいしたことないって思わせておけばよかった。西月さんはひとりすたすた駅前商店街の方まで歩いていく。先日通った、「佐川書店」の近くまで背を向けたままだ。小さくなってどんな顔をしているかは見えないけれども、途中で立ち止まり、向かいの道路をじっと見据えた。
──追っかけて逃げられたらどうしよう。
足をカニ歩きで横、反対側に横、と動かした。同時に足下のかばんと一緒に何かが地面を滑った。平たい板だった。ダンボールに似たものだった。
──画板だ。
西月さんが写生の時に使っていて、ずっと抱えたままのものだった。
──忘れたのか?
拾って、首からかける紐ごとぶら下げ揺らし、もう一度バス停へ立てかけた。同時に西月さんがまた、司の方をじっと見て、横断歩道を渡ってくるのを黙って迎えた。笑みはないのだけれども、しっかりした表情だった。天羽に振られる前の自信ありげな口元だった。ちょっと怖くて司はあとずさった。
「ど、どこ行ってたの」
それしか言えない。西月さんは一度、司をじっと見て、小さく首を振った。言葉は出さなかった。さっき立ち止まっていた「佐川書店」近くの方向を指差した。口を小さく開け、こほんと咳をした。今立てかけたばかりの画板をかかえ、もう一度司に何か訴えたさそうな眼を向けた。
「あの、どうしたいのかがわからないんだけど」
西月さんは二歩、さっき歩いてきた方向まで進んで司を振り返り、片手をひらひらさせた。「おいでおいで」のしぐさだった。
──行っていいのかな。
かばんをかかえて司もついていった。「おいでおいで」ならば、ついていってかまわないってことだ。一メートル程度はなれたまま西月さんを追う。さっき通った道を西月さんはそのままなぞっていき、やはり横断歩道を渡った。駅前の喫茶店や「佐川書店」を通り過ぎた後、赤茶けた丸い直立物の前で立ち止まった。黙って、司を見てもう一度人差し指を立てた。 ──これってもしかして。
眼を凝らし、司は赤錆の下に「急行・神乃世ゆき」と書かれた文字を読み取った。バスターミナル内のものとはかなり違っていた。さらに西月さんは赤錆バス停の時刻表らしきところに直接触れて、司へまた「おいでおいで」をした。肩と肩が触れ合うくらいになり、見る。読む。そして指でなぞった。
──母さんのうそつき!
バスの時刻表には、朝五時台に一本、夜の十一時台に一本のみ。いくら錆ついていてもそれ以外の時間帯に走っていないことは十分すかして見ることができた。
「どうしよう……」
とうとう、言葉がもれてしまった。司は手からかばんを取り落とし、うずくまった。もう限界だった。足に力が入らなくて、もう倒れる寸前だ。あと一歩、バスに乗ればあとはしめたもんだと思っていたのにだ。神乃世へ行けば。あと神乃世へ行けばあとはどうにでもなると思っていたのに。おいしいご飯も食べられるはずだったのに。ああ、そうだ、お腹が空いていたんだ。
立とうとした。立てなかった。膝を突いたまま司はしゃがみこんだままだった。ただ何も食べていないだけなのに、どうして足がふら付くのだろう。どうして言葉が出ないのだろう。 ──最低だよ、もうやだよ。なんでこんなことしてるんだろう。
ふらふらとめまいがした。ベンチに片手を置いて、なんとか中腰にはなったけれども、座るので限界だった。腹痛とめまいとでもうこらえきれず、司は歯を食いしばりうつむいた。
そっと目の前に差し出されたものを見た。
とっくの昔に食べたはずなのに、と思っていた。
両方の手から差し出されていたのは、司が学校で持ち出した牛乳パックとビニールに入ったままのコッペパンだった。
「西月さん、あのこれは」
首を静かに振り、やはり無表情なまま手を伸ばしていた。西月さんの眼には、ほんの少しだけ優しい微笑みが浮かんでいるようだった。えくぼが片っぽにだけ、へこんでいるのが見えた。
「これ、僕があげたんだよ。だから、だめだから」
もう一度、西月さんは首を振った。司の膝にそっとふたつのものを置いた。緑色の牛乳パックは冷たくなかった。パンはだいぶつぶれていた。でも、今なら一気に食べられる。また、お腹がぎゅうと鳴った。
──匂ってる。
かすかにパンらしい、甘いにおいが漂っていた。ふたりを眺めながら通り過ぎる人の中には、ハンバーガー屋の包みを持って歩く人もいた。スパゲティーのソースがふと匂ったりもした。つばがたまって、また胃がおかしくなりそうだ。必死につばを飲み込み、司は西月さんにつき返した。
「だめ、だめだから。僕は、西月さんにあげたんだから」
──情けない奴だ。僕は。
ここで泣いてしまったらもっとどうしようもない馬鹿になってしまう。それだけはこらえたかった。司は歯を食いしばった。
「僕、できること、これしかないんだ。ほんとはちゃんと、連れていってあげたかったのに。僕、こんなことしかできない」
あとは言葉にならない。司は奥歯をしっかとかみ締めて、西月さんに無理やり持たせた。「僕は大丈夫だから。あの、バスがないなら、タクシーか汽車で行けばいいから。だから西月さん」
西月さんはしばらく司を、優しげな瞳で見守るようにしていた。立ったまま、見下ろすような感じだったけれども、威圧感はなかった。受取ってくれたものの、司の脇へそっと置いた。自分の絵の具箱と画板を一緒に置いた。ブレザーの胸ポケットから生徒手帳を取り出した。一緒に差しておいたのだろう、赤いシャープペンシルで何かをさらっと書いて、司に背を向けた。通りがかる人をじっと見極めている様子だった。
──どうしたの、西月さん。
聞きたいけれどもちょっと動くだけでまた腹がきゅうと鳴る。
じっと西月さんは立ち止まったままだった。バス停の前には小さな洋菓子屋さんが建っている。ほとんど人の出入りはなさそうだった。肩越しに西月さんは振り返り、じっと司を真面目な顔で見据え、次の瞬間駆け足で店に飛び込んだ。
──ケーキ食べたいのかもしれない。
──買ってあげればよかった。お小遣い、まだあったんだ。
そういう肝心要なところが抜けている自分。結局空腹に負けてしまった自分。司は頭を拳固でかるく小突いた。
クラクションが鳴った。聞き覚えのある音だった。近くの人たちが顰蹙顔で音の方向をにらんでいた。司も同じく、腹を押えたままにらんだ。誰が来たのかは、情けないくらいに分かる。
──なんでだよ。いつもそうだよ。いつも、いつもだよ。
西月さんがいないのは幸いだった。司は身動きしないで黙って座っていた。
どうせ見つけられるのだったら、とことんみっともないところを見せてからの方がいい。
クラクションの主が後ろから近づいてくるのを待ち構えた。怒鳴られるのも、拳骨も覚悟の上だ。
「どうせ、僕のこと、つけてたんだろ」
近づいてくる汗臭い体臭でわかる。
「どうせ、最初から、バスなんてないんだってこと、知ってたんだろ」
後ろの影は答えない。
「どうせ、神乃世なんかに行くなって言いたかったんだろ」
両肩に手が置かれた。ブレザーの上から、じわっと重くのしかかってきた。温かい体温。「司、あのな」
頭の上から落ちてくる言葉は穏やかだった。
「まずは、順番、考えようや。神乃世にあの子を連れて行く前に、いろいろしなくちゃいけないことがあるだろ。段取りつけるのも大事だぞ」
──やっぱり、母さんから連絡入ってたんだ。
ベンチを回ってきて、桂さんはしばらく赤錆のバス停を見上げた。黒い背広姿だった。シングルの背広だから、腹が突き出したままだった。
「一緒に学校に戻ってからだな。司、まずはそれからゆっくり、段取り立てような」
頷くのもいやで、司は膝のほつれたところをいじり続けていた。
「狩野先生の方は、ちゃんと話がついている。とにかく今日は、ふたりとも元気な顔して学校に戻ってくれば、ちょっと道草しただけだってまあるく納めてくれると話していたぞ。あの先生も話、わかるなあ。見た目とは違うなあ」
──みんな知ってるくせに。
膝の裏をいきなりくすぐろうとした。桂さんがよく風呂上りにやる手だ。
「ま、エスケープの一度や二度は誰もが経験することだし、ということでだ。うまく先生も話をあわせてくれるということだから、お前の彼女にもそのことちゃんと話しておかねばな」 ──桂さん、怒っていないんだ。
恐る恐る下から様子をうかがう。どこまで話を知っているのかは見当がつかないが、とりあえず拳骨だけは食らわないですみそうだ。頭がこれ以上でこぼこにならないですみそうだ。「昼間から、ふたりっきりでデートしたんだ。多少学校で怒られても、がまんしろよ。おいおい真っ赤になっちまったなあ」
耳たぶを引っ張られた。横目で見ると桂さんの目は、本当の笑みでいっぱいだった。
西月さんが自動ドアの向こうに立っていた。すぐにドアが開いた。片手には紙包み。じっと桂さんの方に視線を向け、丁寧にお辞儀をした。生徒手帳を胸ポケットにしまいこんだ。桂さんは笑顔を向けたまま、そっと西月さんへ近づいた。「うちの司がお世話になっていると聞いたんで、今日は飛んできたんだけどなあ。泉州お嬢から、西月さんの噂はかねがねうかがってますよ。聞いてるかなあ」
──話していないかもしれないじゃないか!
無神経な桂さんの言動に、またかっとなりそうになる。が動けない。空腹が憎い。
「今日のことは狩野先生もみな、わかっているということだったから、今日のところは安心して学校に戻ったほうがいい。教室には入らないでもいいからと許可も貰っている。うちの馬鹿司が、今回は全部やらかしたことだってことになっているから。せっかくだし、今日は司に騎士道を貫かせてやってくだせえよ」
最後の言葉だけ少しギャグっぽく聞かせた。かすかに西月さんはえくぼを作った。頷いた。「でも、辛かったよなあ。俺がその場にいたら、相手殴ってやるぞ。ほんと、こんないい子をなあ」
──桂さん、何であっという間にそこまで聞いているんだよ。
桂さんがどうして、見透かしたかのように現れたのか、その辺は経験上見当がつく。影のように司へ寄り添っている桂さんのことだ。たぶんブレザーかかばんかどこかに盗聴器でも隠しているんじゃないだろうか。
──いやそれはないと思うけど。
そこまでしなくても、桂さんは司の行きそうなところをしらみつぶしに探して、見つけることくらいお茶の子さいさいだ。どんなに司が巻こうとしてもうまくいかない。必ず見つかってしまう。今回だって同じだ。結局司は、桂さんの監視下から離れられないというわけだ。騎士道、なんていうけれど、他人に手伝ってもらった騎士道なんて何にもならない。
──西月さん、連れていきたかったよ。
やたらと生唾が出てくるのを、司は必死にこらえた。ゆっくり司に近づいてきた西月さんは、もう一度生徒手帳を取り出し、さささっと何かを書いた。桂さんへ渡した。
「え、なになに? ラブレターかなあ? 司うらやましいだろ」
軽口を叩く桂さんに、西月さんははっきりと否定の首を振った。そのまま司を指差し、渡した。
「……そっか、腹が空いているのかあ。司。だから動けないのかあ」
にやにやしてまた小突くのはやめてほしかった。
「わかったわかった。じゃあまず、その辺のラーメン屋にでもよるか。けど、こいつに気を遣ってやらないでもいいぞ。なあ司、別に筆談じゃあなくても、いいよなあ」
──筆談?
そういえばさっきから、西月さんは手帳に何かを書き込んで、桂さんへと見せていた。何をしたいのかがよくわからなかったけれども、わざと気にしない振りをしていた。それに一度も、言葉を発しなかった。
──どこへ連れて行くの?
──うん、僕の家。到着したらうちから電話かけて、連絡しておけば怒られないよきっと。
空腹の痛みが消えた。司は立ち上がり、そっと手帳を西月さんの手から取り上げた。はっとした様子だが、西月さんは抵抗しなかった。
「おい、女性に対してそれは失礼だぞ、司!」
怒っているのは桂さんだけ。そんなのどうでもいい。司は真っ正面に立ち、一言だけ尋ねた。
「しゃべること、できる?」
えくぼが消えた。桂さん相手にほんの少し笑顔を見せていたあの表情が消えた。
「しゃべれなくなったの?」
当てずっぽだ。こういう状態をどう表現するのか、国語の勉強を全然していない司にはわからない。ただ、西月さんがなぜ生徒手帳を使って、筆談しているのかくらいは想像がついた。いつも元気におしゃべりしているあの西月さんが、二時間何も言わなかったそのわけがわからない。
「しゃべれないん、だよね」
「な、どういうことだ? 司、先走りすぎるなよ」
「桂さんは黙ってろよ!」
腹から声が出た。通行人がぎょっとして司を見た。かまうもんか。
「しゃべれるなら、一言でいいから、『あ』、とか、『い』とか言ってほしいんだ」
西月さんは逃げなかった。唇を開き、「あ」に近い口の形をした。英語の発音のような口真似をした。息を吐くような感じの音が聞こえただけだった。咽を片手で押えるようにして、今度は口を横にひろげるような形を作った。でもやはり「いひ」というような息が洩れただけだった。そっと上目遣いに司を見つめ、眼を逸らした。背中がかすかにさざめいた。
──やっぱり、そうなんだ。
──どうして。
無理やり自分の腰掛けていたベンチに西月さんを座らせた。もう抵抗することなく西月さんは、司のなすがままになっていた。素直すぎるほどだった。今まで見ていた西月さんとは別人だった。
「西月さん、いつから、しゃべれなくなったの。あの、僕と一緒にいたから?」
うつむいたままだった。桂さんもこれ以上は何も言わなかった。
「僕が連れまわしたから? 僕が神乃世へ連れてくって言ったから? 天羽を連れてこれなかったから?」
もう限界だった。西月さんが顔を上げて、頭を振ってくれたらと祈った。けれど、ただうつむいたままの西月さんは何も意思表示してくれなかった。ただ。袋に入った菓子包みを、下むいたまま握り締めているだけだった。
「僕の、せいなんだね」
うめき声のようなものが、自分の咽から洩れた。司は歯をぎりぎりまでかみ締めた。桂さんに無理やり車の中へ押し込められるまでの間、しゃくりあげる声を止めることができなかった。うつむいたまま西月さんの生徒手帳を握り締めていたら、そっとお菓子の入った袋にすりかえられていた。甘いカスタードクリームの匂いがした。助手席に司、後部座席に西月さんを乗せたまま、司は同じ言葉を繰り返していた。
──取り返しのつかないことを、してしまったんだ。僕は。