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 物音立てないように樹液の流れる音を聞いていた。すすり泣きの声が途切れてはまた始まり、の繰り返しで司も、動くのがためらわれた。かといっていつまでも蝉のように松の木へへばりついているわけにもいかない。むずむずする胸のあたりをそっと離し、顔を覗かせてみた。幸い気付いていないようすだった。


 ──西月さん、どうしたんだろう。

 

 目の前をよじ登っていく白い虫に話し掛けたって答えが出てくるわけがない。

 司に見えているのは、西月さんがどうしようもなく傷ついていることと、天羽がどうやら絡んでいるらしいという推測だけだ。西月さんを探しに行くように促したのは天羽だから、そのきっかけとなる出来事くらいは知っていたに違いない。でも、なんでだろう。なぜ司ひとり、授業さぼらせてまで行かせようとしたのだろう。司としては、いつものように天羽の思いやり舞台なのだと思い込んでいたが、ここまで西月さんが泣きじゃくっているのを見ると向こうには納得させられたものではないらしい。

 ──今、僕がいたら、まずいよな。

 なんとなくそんな気がした。天羽が側にいたら詳しい事情を聞き出すべく、胸倉つかんで引っ張り出していただろうけれども、校舎ははるか遠く。A組の教室に声はおろかテレパシーも届きやしない。司は足下の雑草が擦れて西月さんに気付かれないよう、そっと地べたに腰を下ろした。

 ──何かあったんだろうなあ。やはり。

 昨日、司が下着ドロについて告白したことがかなり響いている可能性はあるだろう。泉州お嬢にはその件に関する感想を聞いていないけれども、たぶん女子には顰蹙だったということくらい想像はついている。いや、実際すれ違った女子たちの態度は露骨に、「近寄るな、最低男」だった。二年前から変わっていないといえばそれまでだが。男子たちがうまくフォローしてくれたのと、写生の絵の先生大絶賛によって少しずつ、人間関係が動いてきているような気はする。

 ──他の人たちに、僕が、ってこと、知られたんだろうか。

 あまり考えたくないことだが、西月さんへの想いが他の女子たちにばれてしまったなんてことはないだろうか。昨日もできるだけ恋心を隠すよう努力はしたのだ。天羽や泉州さんにはばれてしまっているけれども、たぶん他の女子たちには、と思っていた。でも、もし昨日のことで「あの下着ドロに思われているかわいそうな西月さん」と言われていじめられてしまったとしたら……。変態に思われるなんてきっと、西月さんにとっては恥、以外の何ものでもないだろう。今、松の木の陰に隠れて、べたっと座り込んでいる司がその変態野郎だということを認めなくてはなるまい。司は髪の毛をかき回した。もちろん、音を立てないように指の腹で。

 ──どうすればいいんだよ!

 風がふくらみもって枝を揺らした。

 ──僕が、今、天羽だったら。

 がっちりした体格、いつも笑顔で西月さんに接していた頃の天羽を思い出した。

 きっと、今すぐ来て欲しいのは二年冬休み前までの天羽のはずだ。

 なのに、今いるのは、下着ドロ変態野郎の司だけだ。

 ──すぐに、走っていけるのに。

 歯噛みしてしばらくは動かないままでいるしかなかった。このまま黙っているのも限界だろう。西月さんが全く移動しようとしないから、司がこっそり抜け出すしかない。でも少し動くだけでも、風の方向が変わりそうだし、気配を勘付かれてしまいそうだ。四時間目のチャイムが鳴るまで司は、身体を小さくしてうずくまるだけだった。

 お腹がすいた。ぎゅっとみぞおちのあたりがへこむような感触あり。


「誰か、いるの」

 西月さんが初めて言葉を発した。

 ──まずい、気付かれた。

 ずっと物音させないようにしてきたのに。司はもう一度木の幹に耳を押し当て、木と一体化しようと試みた。カメレオン化したかった。でも西月さんの声はさらに続いた。

「見てるの?」

 涙声を押え、自然な風に聞こえるよう、気遣った感じだった。

 ──どうしよう、出れないよ。

 ちょうど司が隠れている松の木からは、西月さんの座り込んでいる姿が丸見えだった。視力のいい司だけに、スカートの裾を半分めくり上げた状態というのもわかる。目線に困る。一切乱れた格好を整えようとしない西月さんに、ふといらだちを覚えた。

 ──だから、あの、なんとかしてよな。

 なにをなんとかしてほしいというわけではなく、司は松の木を仰ぎ見た。まだ、たっぷりと揺れている。もし天羽の格好をした司だとしたら、ためらうことなく近づいていくことができるだろう。

 ──行けないよ、やっぱり。

 ゆっくりと身体を木から引き離した。両腕で幹を押さえつけるようにしてきちんと立った。 自分ではだめなのだという、結論だけが伝わっている。

 司は大きく息を吸い込んだ。肩に力を入れ、木の陰から一歩踏み出した。

 斜め前、西月さんの座り込んでいる木の側に二歩、近づいた。十分話し声の届くであろう位置まで近づいた。

「今から、天羽と泉州さん、呼んでくるから!」

 

 目の前の西月さんは両手を口に当てて目をひんむいていた。

 きっと想像していなかったに違いない。やはり顔を出さないで校舎に走ればよかったと、瞬間司は後悔した。あわあわと後ろずさりするのは、やはり司でなければよかったのにという想いだろうか。目の前で突きつけられるとやはり苦しい。スカートの裾に気がついたらしく、あわてて膝まで隠そうとした。

「かたおか、くん?」

 名前を呼ばれた。後ろを見ずに走り出した。

 これ以上真顔で、問われるのだけは避けたかった。

 

 ──天羽、いったいなんだよ!

 腹が立っているのに腹が空く。猛烈に食いたくてならない。生徒玄関から流れてくるのはたぶんカレールーのはず。いつものように腹に流し込みたい。また胃のあたりがくうとつぼまった。さっきまで緑の色に染まっていた視界は、静かに薄黄色に戻っていった。  ──四時間目。社会だ。

 腕時計を目に近づけた。デジタルに光る数字が太陽のまたたきで揺れて見えなかった。

 ──天羽を呼ぶか。

 西月さんには言い残してきたけれど、天羽を連れていった方がいいのだろうか。口で呼吸してしばし一考。却下することができない。

 ──とにかく聞くしかない。

 司はうつむきながら玄関のすのこに乗った。

 先生たちには気づかれずにすんだ。早めに給食を取りに行く他クラスの男子たちが廊下を走っていくのが見えた程度だった。もう一度腕時計を見た。ちょうど四時間目終了の鐘がなった。まだクラスの連中は通っていない。天羽が給食当番だったら捕まえて話を聞くのだか。司はひとり、ふるえた。武者震いなのかもしれないと、ちょこっとだけ思った。A組の女子たちが数人横切ったが、司はあえて隠れることにした。泉州さん以外の人にはまだ、近づかない方がよさそうだった。

 しかし、天羽も泉州さんも通らなかった。

 ──どうしてだよ!

 西月さんがあれだけ動揺しているというのに、原因をおそらく作ったであろう天羽は、心配にならないのだろうか。たとえただの「元彼女」であろうともだ。それに泉州さんも「親友」である以上それなりに気になったりしないのだろうか。

 ──誰か早く気付けよ!

 ひとり罵るものの、全く気配がなかった。ずっと靴箱の近くで上履きのまま出たり隠れたりしているうちに身体が冷えて、寒くなってきた。思ったよりも汗をかいていたらしい。各教室ではおいしそうなにおいが漂いはじめている。あまり学校のカレーは好きではない。桂さんの連れて行ってくれる屋台のおいしい店を知っているから。でも、味よりも腹の虫の方が猛烈に訴え強く働きかけてきていた。きっと西月さんもお腹すかせているのだろう。たったひとり、あの林にいるのならば。

 しばらく司は腹をさすり、つばを飲み込んでいた。給食時間は二十分間。その後はダッシュでみな体育館へ向かう。男子たちはみな体育館でバスケかバレーボールをやるからだった。司はほとんど混じったことがないけれども。腹ごなしにはちょうどいい。

 空腹最高潮に達した段階で司は階段へと足を向けることにした。カレーの付け合せはきっと、果物のヨーグルト和えだ。食べたい。食いたい。そして、話したい。

 ちょうど給食当番が食器や給食バケツの空をぶら下げて廊下に出てきたのとすれ違った。女子が帰りは持っていくらしい。司をちらっと、まるで食べ終わった食事のあとを眺めるみたいに、ねめつけて去った。ということはまだ、天羽もいるのだろう。泉州さんもいるのだろう。順番間違えるとごちゃごちゃになるのは目に見えているので、まずは天羽を探した。反対側の階段を狩野先生が降りていくのを待って、ゆっくりと司は扉の影に立った。覗き込んだところ、勢いよく何人かの男子たちが駆け下りていった。司にちらりと目をやった。何も言わなかった。一、二時間目の美術の授業で「すげーすげー」と連呼してくれた場面などとっくの昔に忘れているかのようだった。

 そんなのはどうでもいい、まずは天羽だ。のっそりと現れたところを、司は物言わずに二の腕をつかんだ。芝居がかった風にびくん、と背をのけぞらせた。ひとりで出てきたのは幸いだ。

「天羽、ちょっと来い」

「会ったのか」

 ──やはりこいつ、わかっているんだよ。

 いやな予感と、まだ信じたい気持ち。交差してまた胃のところがちくちくした。

「聞きたいことあるんだ」

「わあった、来い」

 司としては精一杯虚勢をはったつもりなのだが、天羽は全く動じていなかった。

 たぶん、西月さんの涙の原因は天羽なのだ、と確信した。

 ──西月さんの前に連れていった方、いいのかな。

 やめたほうよさそうだ。司はすぐに結論を出した。つかんでいた自分の手はすぐに解かれ、その代わり天羽が先頭切って窓辺に立った。ポケットから手を出して、窓縁へ手をかけた。軽く外へぶら下げた。

「片岡、お前の言いたいことはわかっている」

 ──わかっているってなにをだよ!

「けど、俺はやったことを一切、後悔していねえよ」

 ──何をやったんだよ何を!

「だから、あとはお前と西月のしたいようにしてくれ」

 ──だから、どうすればいいんだよ!

 すでに天羽は司が、西月さんからすべてを聞きだして、ぶち切れたのだと思い込んでいるようだった。違う。司はただ、西月さんが激しく泣きじゃくっているのを見ただけだ。天羽がもしかしたら司を勧めてくれたがゆえに傷ついたのかもしれない。それとも別のことで……まずありえないだろうが嬉し泣き……泣いていたのかもしれない。プラスの方向へ少しでも答えをずらしたい。気持ちが残っている。なのに天羽はどんどんマイナスへ押し込んでいこうとする。耳をふさぎたかった。でも司は聞いていた。

「いったい、何をしたんだよ」

「本当のことを話した、それだけだ」

「本当のことってなんだよ!」

 むせて咳き込んだ。

「俺がなぜ、西月のことを好きになれないか、その理由だ」

 風が窓辺から天羽の髪の毛を思いっきりぐしゃぐしゃにしていった。

「今話したことは、あいつに渡したテープに録音してあるんだ。お前ら仲良くなってから、聞かせてもらえ。その段階で、片岡」

「録音って、いったいわけわかんないよ! 天羽、お前いったい西月さんと」

 意味のわからない言葉ばかりが飛び交う。こいつの頭、いったいどうなっているのかわからない。食い下がる司を遮るように手を振り、今度はきっとした眼で答えた。

「とことん、俺を殴りに来い。お前にはそれを西月の前できちんとやる、義務がある」

「だからわけわかんないよ!」

 もう一度、小さな声で「わけわかんないよ」とつぶやいた。にっと笑い天羽は、肩を二回そっと叩いた。

「早くあいつの近くに行ってやれ。給食のパンと牛乳と、あとなんかかんか、そのまんま机に置いてあるから、持ってってやれよ。お前の本当にいい奴だってとこ、ちゃんとぶつけてやれよ」

 最後まで意味不明の言葉を吐きながら、天羽はゆったりと他のクラスへ入っていった。

 

 しばらく放心していた。口の中に風の吹き寄せる砂が入り、初めて自分が口をぽかんとあけていたことに気付いた。お腹がまた鳴った。

 はっきり言って天羽の言いたいことを掴むのが骨だった。西月さんに「好きになれない理由」を告げ、それで泣かせてしまったということ。このあたりは理解できる。いわゆる「振られて泣いた」ということなのだろう。でも、なぜ「テープに録音」なんて言うんだろう? まさか、その一部始終を西月さんの前でマイクロテープか何か用意して録音させたのだろうか。異常だ。まさか天羽がそこまで恐ろしいことするわけない。たぶん冗談だろう。それになんだ? 「俺を殴りに来い」って? なんで殴らなくちゃいけないんだ? それが「義務」なのか? 体育で剣道か柔道をやる時に対決すれば十分じゃないか。天羽、妙にエキサイトしている。

 ──けど、やっぱりあいつ、僕のために。

 たったひとつだけはっきりしていたのは、天羽が司を応援してくれていることだろうか。 西月さんは傷つけてしまったかもしれない。でも天羽は全力尽くして、司のことを守り立てようとしてくれているのだろう。あいつの脳回線がどうなっているのかは別としても、そのことだけは素直に受取るしかないと司は思う。

 もう一度、今度は身体を雑巾絞りされるような、強烈な胃の絞込み。

 天羽の最後の言葉にぴんときた。

 ──そうだよそうだよ! 今から行かなくちゃ!

 西月さんはまだあの林にいるはずだ。どういう事情かわからないけれど、たぶん天羽にあらためて別れを告げられたショックで泣いているのかもしれないけれど。だからといって司のことを好きになってほしいなんて、思っていないけど。でも。

 ──やること、やらなくちゃ。

 まずは給食だ。教室に入った。泉州さんがいた。近江さんもいた。


 泉州さんはぼさぼさの頭をかき回しながら、ふたりの女子と話をしていた。近江さんはひとりで窓の外を眺めていた。司が入ってきたのに気が付いていないらしかった。ひとりでいたら話し掛けられるのだが、その辺がタイミング悪い。司はすばやく自分の席に向かい、置かれている紙パックの牛乳をブレザー右ポケットへ、左ポケットにコッペパンを詰め込んだ。西月さんの机には何も置いていなかった。

 ちらりと近江さんが司をにらみつけて、すぐに逸らした。気にしている暇はない。

 本当はすぐにぺろっと食べてしまいたかったけれど、西月さんの分がないのならばしかたない。これ、あげよう。背を向けて暗くひそひそ話に没頭している泉州さんに近づくべきか否か迷い、気持ちを整えるためにかばんを机に置いた。置くと今度は中に教科書をしまいたくなる。しまうと今度は、そのまま帰りたくなる。自然な反応だった。

 ──そうしよう。

 心にささやき司は、かばんをぶらさげた。司の気配に気付かない泉州さんを無視したら、きっとまた桂さんにいろいろと告げ口される可能性大だし、なによりもこの人は西月さんの親友だ。他の女子たちのいる中での泉州さんがどういう態度をとるかは想像つかなかった。 

「泉州さん」

 小さな声で背中に声をかけた。振り向くと同時に白い埃のようなものが、光に混じってぱらぱらと振った。

「あれ、天才画伯、どうしたのよ」

 いつもの泉州さん口調ではない。司と桂さんを交えて言いたい放題やっている時とはやはり、違う。見ると他の女子ふたりは胡散臭そうな目で司を眺めていた。こっちに来るなとばかりにだった。やはり女子同士とのつきあいは違うのかもしれない。あまり詳しいことは話せないだろう。司は目の前ふたりの女子視線をあえて無視して、声を落とした。

「西月さん、裏の林にいる。今から、もう一度、行ってくる」

「え、それほんとなの!」

 女子同士用の仮面みたいなもの、ぱらりと外れた。司たちと一緒にいる泉州さんの顔がひんむけた。大きく頷いた。言葉を選びつつ、曖昧に、でも伝えることは伝えたい。

「けど僕だけじゃだめだから、泉州さんもこれから来て」

「どこによどこに!」

「Kさんがいつもくるとこだよ」

 この辺は隠語を使う。

「とにかく今から、給食持っていくから、泉州さん、すぐに来てほしいんだ。天羽を連れていくこと、できないみたいだから」

 最後は自分でもうまくいえないことばかりだった。泉州さんにしか聞こえないように話したつもりだった。本当は西月さんがこの世の終りに近い状態で泣きじゃくっていることまで伝えたかったのだけれども、やはり言えない。帰ってきた時傷つくのが目に見えている。

「わかった追っかける。先生とこと、あともういっこ、やることあるからさ」

 大至急女子たち用の仮面を被り直すようにして、泉州さんは司に、「行きな!」と一声かけた。ポケットの牛乳が爆発しないようにそっと押えながら、司は駆け足で教室を飛び出した。


 昼休みが終わったのをチャイムで確認した。まだ泉州さんは追いかけてこなかった。

 ある程度のことは伝わっただろうけれど、たぶん西月さんが戻ることのできない理由までは勘付いていないのかもしれない。

 天羽を連れていけない状態、ということは傷つけた当人が天羽であるということ。

 司ではだめなのがわかっているということは、女子の泉州さんが一番温かい傷の手当ての仕方を知っているということ。

 お腹がすいているだろうから、大至急給食を持っていかなくちゃいけない、というのが司の判断。

 めいっぱい走ってきた。どうすればいいか司もよくわからないけれども、とりあえず必要なのは、腹ごしらえだ。へろへろになりそうな足を叱りつけつつ、松の大木側の西月さんを探した。もしかしたらいなくなってしまっているかもしれない。一人で消えているかもしれない、不安もないわけじゃなかった。一刻も早く、泉州さんとバトンタッチしてほしかった。 ──泉州さん、遅いよ。あまり遅かったら今度、桂さんに泉州さんの悪口いっぱい言っちゃうぞ!

 昼間の木々は影が別方向を向いていた。ややまっすぐだった。いわゆる南中高度の時刻なのだろうか。理科を真面目にやっていない司にはわからない。いきなりげじげじが木の枝から落ちてきたりとぎょっとしたりもしたが、すぐに見つけることができた。同じ松の木近く、座り込んでいた。スカートはきちんと調えられていた。膝を両手で抱えるようにして、あどけなく膝山に目を当てていた。司を見つけ、明らかに作り笑い、というものを浮かべた。

 ──やっぱり天羽の方がほんとはよかったんだ。

 しゃっと葉っぱで心をこすられる痛みあり。ポケットから、白色爆発することなく運んできた真四角の牛乳パックと、つぶれかけたコッペパンを取り出した。かばんを脇に挟み、足下に落とした。

「給食、終わっちゃってた。だから、これ」

 食べて、とはつなげられなかった。きょとんとした目、だいぶ充血気味だが、目は乾いていた。膝のところに両手をお皿のように出して受け取り、司を見た。やっぱり潤んでいた。

「今、泉州さん、来るから。あの、先生に言ってから来るって」

「先生に?」

 かすかにおびえの影があり。

「でないと泉州さん、五時間目さぼりになるから。三時間目も泉州さん、探しに行くって言ってたけど、先生にやめれって言われたから」

 言ったあとでどんどん後悔が溜まってきた。もっと西月さんが笑うようなお笑いのネタ、仕込んでおけばよかった。天羽みたいに辛い時でも笑わせられるだけのネタがあればよかったのにと。そういえば泉州さんから聞いたけど、西月さんのお父さんは高校野球の選手だったんだとかいう話だ。選抜高校野球の話でもしたら盛り上がるだろうか。頭の中ではいろいろな案が思い浮かぶのだけれども、口に出せるのはほんのわずかだ。

 一度西月さんへパンと牛乳を渡した後、すぐ立ち上がったのは、近づきすぎたから。

 ただでさえ全力疾走して息が上がっているのに、まんまるいほっぺたを半径五十センチ以内で見つめてしまったら司の神経が完全に別モードへ入ってしまった。かえってどもってしまう。

「あの、だから、泉州さん来るまで、待ってて、そしたら僕、いなくなるから」

 へどもどしすぎているのが自分でもわかる。情けない。

 西月さんはしばらく両手に載ったつぶれたコッペパンと牛乳を見つめた。唇をかみ締めていた。うつむくようにして、目をぎっちりとつぶった。スカート、靴、靴下、裾からべっとりとドロがついていた。頬には白いものがくっついていた。

「みんな、知ってるのね」

 視線は向けられていないけれど、司への言葉だとすぐに気付いた。

「天羽が教えてくれたから、あの」

 ──言ってどうするんだよ僕ってば!

「天羽くんが、言ったのね」

 西月さんはパンと牛乳を脇に置いた。

「私のこと、最初から嫌いだったって、言ったのね」

 ふたたび、声が波打ち、ゆがみ、かすれた。

「天羽くんのいないところへ、行きたい」

 大きくしゃくりあげた。もう一度涙と吐息の混じった声がもれた。大きかった。

「誰もいないところへ、私をどこかに連れていって」

 あとは声にならなかった。司の前で西月さんは、両頬を押えるようにえっ、えっと繰り返し息を吐いた。


 ──教室に戻りたくないんだ。そうだよなあ。

 泣いてしまった女子を前にどうすればいいのか、司にも見当はつかなかった。

 ただ、言葉通りに感情を追うだけだった。

 三時間前に振った相手と、また目を兎さん状態にして顔を合わせたいとは思わないだろう。

 天羽もこの調子だと相当きついことを言ったのだろう。

 司とくっつけたいという親心もあったのだろうけれどもだ。

 ただ、西月さんはもう青大附中の三年A組に戻りたくないと言っている。永遠に、というわけではないだろう。実は川に飛び込むとか自殺とかそういうことを一番恐れていた。西月さんが今、ここで、ちゃんと呼吸しているのならばもう怖いものはない。

 司ももう、下着ドロという罪を犯してしまっている。これ以上罪が増えることなんて怖くない。

 ──連れてっちゃおうか。

 かちりと掛け金が外れた音が、したような気がする。


「西月さん」

 司はしゃがみこんだ。正座して、両手を土下座するようについた。

「本当に、知らないところに連れていっていい?」

 まんまるな瞳、やわらかなほっぺたが揺れて司に留まった。涙目がゆっくりと正面を向き、こっくりと頷いた。

 ──本当だよ。本当に。

 戸惑いがないとは言わない。でも司の口の方が勝手に反応してしまった。

「僕で、かまわない?」

 迷うようにうつむいて、また元に戻り、唇を結んだ。頷いたりはしなかった。答えだけを返してくれた。

「他の人が来ないうちに、どこか、私を連れて行って」

 司は西月さんから視線を逸らさず、お奉行さまの前でお白州に座る罪人のように、ははあと頭を下げた。


 西月さんが放り出したままの絵の具入れを司は抱え、自分のかばんと一緒にぶら下げた。さっきから腹の虫は泣きっぱなしで死にそうだ。でも、目的地にたどり着いたらいやと言うほど食えるはずだ。

「一度、僕のうちに行って、それからタクシー呼ぶから」

「え?」

 首をかしげる西月さん。

「それから、誘拐だと思われないように、うちに電話かけておいた方がいいと思う。僕もこれから、うちに電話かけておくから」

 全くわけがわからない顔で西月さんは立ち止まった。すぐに司の後を追ってきた。

 ──僕がつれていけるところで、誰も西月さんの知っている人がいないところで、天羽がいないところ。

「どこへ連れて行くの?」

 不安げな声。

「うん、僕の家。到着したらうちから電話かけて、連絡しておけば怒られないよきっと」 腹を何度かさすりつつ、虫に告げた。

 ──僕は、神乃世へ、あなたを連れていきます。


 まずうちに戻り、貯金箱と通帳、あと桂さんへの無断帰省ごめんなさい手紙、および母と周平への電話を入れようと決めた。西月さんにはほんの少しだけ玄関先で待っていてもらおう。もし西月さんが気に入ってくれたら、神乃世に泊ったっていい。明日の朝一番で桂さんに迎えに来てもらって学校に行ってもいい。前もって母さんに連絡しておけば、きっと料理もおいしいもの出してくれるに決まっている。いきなり学校さぼって怒られるかもしれないけど、西月さんをこのまま放っておくなんてことしたらかえって父さん母さんに怒られる。西月さんが、どこへでも連れて行ってもかまわないというのだったら。


 今、司が西月さんにできることは、それしか見つからなかった。

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