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 さすがに泉州さんを相手にして、司の感じた思いをすべてぶちまける気にはなれず、かといって断るすべも知らず、その日は桂さんの車に乗らずひとりでさっさと部屋に篭った。たぶんいつも司が待ち合わせをしている砂利路のところで、泉州さんは「Kさま」がくるのを待っていたのだろう。中学生と大人のお付き合い……しているかどうかはわからないが……なんて、犯罪だと司は思う。でも、そんなことどうでもいい。夕方、玄関の鍵が開いたのは勘付いたけれども、司はひたすらベットの中で物思いにふけっていた。厳密にいうと、自分の中でべらべらとしゃべりだす、不思議な存在の声に耳を傾けていた。


 ──明日からどうしよう。

 天羽を始めとする男子たちが、温かく受け入れてくれたのは感じた。 狩野先生が心配そうに帰り、声をかけてくれたのも知っていた。でもうつむくしかなかった。 廊下ですれ違った他クラスの女子がこれ見よがしに「ほら、A組でさっき」と噂話をするのもいつものことだ。司なりには覚悟していたことばかりだけれども、やはり怖くて辛いものはある。

 ──もう、西月さんとは顔を合わせられないよな。


 本当は暑くて汗ばんでいて、風呂にすぐ入りたくてならなかったけれども、桂さんが呼びにくるまでは全く何もしたくなかった。だから寝ていた。制服を脱ぎ捨てたまま、枕に顔を押し付けていた。

「司、腹減っただろ、食えよ」

 めずらしく桂さんは、机の上にそっと肉じゃがとごはん、オレンジジュースを置いていってくれた。桂さんの作る肉じゃがは、母の手作りよりもずっとおいしい。泉州さんと会ったのか、それとも詳しい話を聞かされたのか。司がしでかした第二の出来事についてどのくらい知っているのか。その辺司にはわからなかった。ただ、放っておいてくれるのだけは助かった。もう一生、顔を外に出したくなかった。

 とはいえ、腹の虫が泣き喚くのには勝てず、桂さんが出て行くやいなや大急ぎでかぶりついたのだが。


 次の日は美術の写生授業だった。青大附中では毎年五月のお天気良い時期に、それぞれ写生会が行われる。各クラス二時間ずつ使って、自分たちの一番好きな場所を押えてエンピツでスケッチを行う。二時間もあると、大抵水彩画は完成することが多い。遅くても早めに教室に戻り、仕上げをする人もいた。

 司は決して写生の授業が嫌いではなかった。堂々とひとりでいられる時間でもあるし、絵も苦手ではなかった。小学校の頃、よく誉めてもらって教室廊下に張り出されたものだった。周平に一歩先んじることのできる数少ない科目のひとつでもある。神乃世に父がたまに帰ってくる時泊りに来てくれたデザイナーのお姉さんに教えてもらったのも影響しているのかもしれない。水性絵の具を油絵ぽく使い、直接チューブから搾り出して画用紙に載せていったり、水でおもいっきり薄めて乾いた筆ではたいたり、結構いろんな技を教えてもらった。周平の「司の絵ってかっこいいよなあ」と感動していた声が忘れられない。

 西月さんの方を伺うのは怖くてできなかった。なんとなく天羽も落ち込み気味だったのが気になったけれども、あまりその辺も触れないようにしておいた。他の男子たちも少しだけ、ひそひそと天羽について語っているのが聞こえた。

「近江に振られたのかねえ」

「あとで聞くしかねえな」

 ──あんなに仲良かったのにか。

 司はあえて聞かない振りをした。そうなのかもしれないが、今の自分は今日一日を乗り切るだけで精一杯だった。狩野先生がいつものように物静かな声で朝礼を行い、修学旅行に向けての準備について注意を促していた。聞き流しつつ、周りの奴らと合わせるように絵の具セットと、配られた木の画板、それと水入れ一式を持ち、廊下に出た。毎年のことだから、下級生たちのように整列させる必要はなく、みな気分に任せて、友だち同志でまとまっていった。

「片岡」

 振り返った。後ろにはクラスの男子三人が気まずそうに立ちんぼうしていた。返事のしかたがわからない。

「あのな」

 一言ずつ、ぶっきらぼうに投げ出された言葉に司は戸惑いつつ頷いた。

「俺たちのグループに入れ」

 最後は命令形だった。そういえば、天羽が修学旅行の班分けでこの三人と一緒にくっつけてくれたと話していた。すっかり忘れていたけれども、それもみな天羽の気遣いなのかもしれない。決して目立つグループではないし、天羽たちのように派手ではないけれども、一年の頃から居場所がない時はこの三人と一緒にまとまることが多かった。しゃべったことはほとんどない。いつもくっつけられる場合は先生や天羽の指示かのどちらかだった。三人側から声を掛けられるというのは、かなりめずらしかった。

「うん、ありがとう」

 ──やはり、「感謝」しかないだろうな。

 そういえば、昨日白いティッシュをくれたのもこの三人だった。思い出した。


 中庭で四人、紫陽花が咲いている陰で黙ったまま花のスケッチに専念していた。

 もともと核になっている三人も、それほど仲良くおしゃべりをするわけではない。必要以上の会話は交わさない。どうも絵だってそんなに得意ではなさそうだ。2Bのエンピツを持ってくるのを忘れ、HBのシャープを使っていることからして、やる気のなさは明白だった。

 一応、司は五本だけ写生用のエンピツを用意していた。ちゃんと小さいエンピツ削りもある。 シャープやHBのエンピツだと、どうしても紙が痛む感じがして、きれいな絵が描き辛い。司のこだわりもある。

 ひし形を小さく細かく重ねていき、なんとなく紫陽花の雰囲気を描いてみた後、司は三人の様子をもう一度うかがい、絵の内容を覗き見た。時たまひとりが、話題を投げかけるのだが他のふたりおよび司が乗ってこないのですぐに黙ってしまう。居心地はいいとは言えなかった。司は心もちゆっくりとエンピツで紫陽花の隣りに並んでいる牛みたいな置石を一緒に描いた。できるだけ水を使いたくなかったので、さっそくいつものパターン、チューブから直接絞り出し、乾いた筆で少しずつ画用紙に伸ばしていった。

「おい、片岡、お前すげえ描きかたしてるなあ」

「まじ、ほんと、すげえ」

 三人の視線がすうっと伸びて、司の手元にくっついた。

 ──そんな珍しいことしてないのに。

 司からしたらいつものことだ。ただ青大附中では今まであまりやったことがなかっただけだ。以前美術の担当だった駒方先生が今ひとつ司のやり方にいい顔をしていなかったからという理由もあるし、あわせようと思ったらそれなりに水性絵の具で普通の描き方もできたからだった。 司は答えずに、百色揃った絵の具の中からちょうどよさげな紫色チューブを取り出した。花の上をなぞって少しずつ白を混ぜていくつもりだった。そうすると、油絵っぽくなってあまり筆でいじらなくても見栄えよくなるのだった。小学校時代の経験だ。

 ──なんで見てるんだろう。

 手が震えそうになるがしくじらないですんだ。あっという間に紫色の絵の具はお尻のところ一杯まで出し終えてしまった。まだ乾いていない表面から筆で上をすくい取り、さらに別の花びらへ重ねて塗っていった。足りなくなったら水で心もち伸ばせばいい。

「すげ、ほんと、お前すげえ」

 ──司、お前の絵ってさ、かっこいいよなあ。

 耳に周平の声が聞こえたような気がした。

 司は顔を上げた。すっかり手をお留守にしたまま見とれている三人に軽く頷いて、

「ありがとう」

 とだけ答えた。あとはひたすら絵の具の色をどんどん替えて、重ねていくだけだった。夢中になると相手のことがどうでもよくなるのはよくあることだけど、三人のクラスメートがひそひそ「こいつ下着ドロなんだぜ」以外の言葉で、司について語っているのは珍しいことだった。

「こいつ、絵、すげえよな、D組の金沢以上かもしれねえな」

「うんうん、いけてるよな」

 誉め言葉をもらえたのは何年ぶりのことだろう。今までは視線を合わせるのが怖くてうつむいていたけれど、今は照れた頬がりんごみたいで恥ずかしいから下を向いていた。

 一度、誉めてもらうとなんだか小骨が取れたみたいで、少しずつ野球のこととか、サッカー、バスケのこととかで会話が進んでいった。気が付くと二時間目もだいぶ過ぎているようだった。時計を見て、誰ともなしに立ち上がった。ちなみに一緒の三人は、ほとんどスケッチのみ、司だけが絵の具の大量消費のおかげもあって、派手な紫陽花と置石の絵を完成させていた。

 まあまあの出来かもしれない。


 すでにほとんどの連中が戻ってきていた。司たち四人が最後かもしれなかった。みな、仕上げのために水を汲みに行ったり、またこぼしたりしていた。見ると天羽の絵がびしょぬれになっていた。色が淡くついているのは、たぶん仕上げ中だったからだろう。床もかすかに水びかりしていた。

「さっき泉州さんに水掛けられたんだと」

 隣りで情報を教えてくれる奴がいた。今までほとんど口を利いたことのない相手だ。

「なぜ」

「まあ、天羽も悪いことしたからなあ。自業自得だよな」

 全くわけがわからなかった。司は自分の机にそのまま、完成した絵を画板ごと置いた。

「ほお、片岡、いい絵だなあ」

 廊下からやはり画板を首からぶらさげてもどってきた美術の先生。司の絵を見るなり、大げさに両腕を広げて驚いてみせた。

「色のセンスもいいけどな、直接チューブから絞り出したのか」

「はい」

 答え方がわからない。

「花と石の構図も良く出来ているなあ。お前、才能あるぞ!」

 頭を軽くぐりぐりやられた。他の連中に「来い来い」と目配せをして、司の机に生徒を集めた。

「こういう絵はな、好き嫌いが分かれる。だが、私は大好きだぞ!」

 もう一度、今度は背中をはたかれた。

「ありがとうございます」

 口の中でもごもご言った。いったいどうしたのだろう。めったに誉められたことなんてないのに、今日に限ってクラスの男子から、そして美術の先生から。

「ほら、女子たちも見てみろ。ほら、近づいてみろ」

 近づいてきたのは泉州さんだけだった。他の女子たちの反応は司の想像した通りだった。ひそひそと、今度は「あの下着ドロがさあ」と聞こえよがしの言葉ばかりだった。「いいかげんにしなさいよ!」と叫ぶ、あの人の声も聞こえなかった。しかたないことだ。司は紫陽花の花だけを見つめて、唇を噛んだ。美術の先生が司の絵を画板からはずし、わざわざ黒板まで持って行ってよさを語りつづける間、司は一点の空白を見つけていた。

 ──どうして気付かなかったんだろう。

 女子たちがざわめいているのを一喝する先生。

「いったいどうしたんだ! このクラス、まだ戻ってきてない奴がいるのか!」

 ふうふうと熱いお茶を冷ますようなしぐさで、画用紙に息を吹きかけている天羽が司を見た。目が合った。司に向かい、親指を立てて、廊下を指した。ほんの一瞬のしぐさだった。

 ──天羽、どうした。

 既に自分の席に戻り、肩を怒らせている泉州さんが司にぐいと唇を曲げてみせた。昨日おっぽといて帰ったことに腹を立てているのだろう。その件については謝ったほうがいいだろう。

 司はもう一度、廊下から二列目、前から三番目の席が空いているのを確かめた。


 美術の時間限定スターに祭り上げられてしまった。結局、司の描いた「紫陽花と置石」の図は先生によって持っていかれてしまった。あとで返してくれるとは言ってくれたけれども、そんなのはどうでもいい。男子たちも口々に「かっこいいぜ」と感嘆の声の嵐だった。言われなれていない誉め言葉をむずがゆく感じながら、司は廊下に出た。天羽の側をわざと通った。後ろから泉州さんに呼び止められそうになったが、そちらは無視することにした。

 天羽はブレザーを脱いだまま、男子トイレの方へ司を促した。ゆっくり歩いた。

「あのさ、天羽」

「お前すげえよ、どんどんいいとこ、見せてやれ」

 目線をあわせず、真っ正面をにらむように、ズボンのポケットにげんこをつっこんだまま天羽は歩いた。独り言を言うように、

「片岡、今の要領だ。お前、それだけの頭も能力もあるんだ。自信持て」

 言葉はかすれていた。

「美術の先生に何か、僕のこと言ってくれたのか?」

「なわけねえだろ。俺が準備したのは別の方だ。お前の天才的絵の才能、あれはガチンコだ」

 ──ガチンコ?

 言っている意味がさらにわけわからなくなる。男子トイレに入り、素早く朝顔ですることを済ませる。さすがに並んでいる間はしゃべらなかったが、扉を開けようとしたとたん、肩に手を置かれた。

「耳貸せ」

 貸すもなにも、天羽の口が側に来ている。司は身体をこわばらせた。

「今すぐ裏の林へ行け」

「林?」

 いつも桂さんと待ち合わせする砂利路近くの林のことだろうか。

「なんで?」

「行けばわかる」

「はっきり言われないと僕もわからないよ」

「そんなおたんこなすかよ、お前」

 はああ、とまた大げさなため息を吐いた天羽は、

「迎えに行ってやれよ」

「迎えって?」

 さらにわけがわからなくなり、司は頭をかいた。背中越しにA組の男子たちが天羽へ声をかけていき、他のクラスの男子たちにも何か話し掛けられたりして、途中聞き取れなかった。結局途中で鐘が鳴ってしまい、天羽の言いたいことは半分以上、理解不能のまま終わった。

「ったく、ぼんぼん、困った奴だぜ」

 三時間目は理科だ。実験はない。教科書だ。


 やはり西月さんは戻ってきていなかった。絵を描くのに熱中していたのかもしれない、と司は思ったりしたけれども、女子たちはそうでなかったようだった。もともと女子の私語が多いクラスではなかったけれども、この時間は半端じゃなかった。

「どいつもこいつも、夏が近づいたから頭のねじが緩んだのか! しゃべるのやめ!」

みな、視線が西月さんの席に向き、中には指差しをしてささやきどころか、普通の会話状態でおしゃべりする女子も五名ほど。みな、先生に怒鳴られて廊下へ出された。五人も廊下に出されるなんてめったにない。女子十四人うちひとり行方不明、という状態だと、ただ今残っているのは八名しかいない女子。数少ない着席者の泉州さんはきょろきょろと回りを見渡していた。かなりこれも落ち着きない態度だと思われるだろう。注意されるまえに手を挙げた。

「どうした、泉州さん」

 いらいらしていた理科の先生は、大きくため息を吐いた後に尋ねた。泉州さんも立ち上がると反り返るような格好で、

「西月さんが戻ってこないんです。先生、私、心配なんで外、見に行っていいですか?」

 いきなり切り込んだ。

 ──泉州さんも知らないってことか?

 司は教科書の上に手を置いた。ゆっくりと握り締めた。数少ない女子たちが黙りこくる。

「一、二時間目は来ていたのかい?」

 黒板を叩いた手で、先生は重々しく質問した。

「はい、写生の間はいました。けど、まだ戻ってきてないんです」

 少し戸惑った風だった。しばらく黙って時計を見た後、頷いて教壇から降りた。

「よろしい、それなら狩野先生に知らせておいたほうがいいから、少し待ってなさい」

 廊下に出ようとした先生は、一歩、通路側に足を踏み出そうとした泉州さんを制止するのを忘れなかった。

「泉州さんは行かなくていいよ」

 思いっきりむっとした顔でもって、泉州さんは席についた。天羽と近江さんの方を真四角な顔でにらみつけた後、最後に司へ唇を曲げてみせた。あれが実は、親愛表現なのだと気付いたのは、つい最近のことである。知ったことじゃない。

 ──天羽、まさか。

 先生がいなくなったとたんぼわっとため息が洩れ、一気にざわめきが爆発した。女子と男子が一部例外を除いて二手に分かれた。司は取り残されていた。ただ、主のいない机にじっと視線をさまよわせるだけだった。天羽がさっきトイレでささやいた、謎の言葉が蘇ってきた。


 ──今すぐ裏の林へ行け。

 ──迎えに行ってやれよ。


 西月さんが今、教室にいないということと繋がりがあるのだろうか。

 どうして自分は、気付かなかったのだろう。

 天羽と西月さんがどうして繋がらなかったのだろう。

 天羽がちゃんとヒントを残してくれたのに。


 汗ばんだ背中が冷えてきた。風が気持ちよく教室を通りぬけた。女子側の塊からは、

「小春ちゃん、戻ってこないって変だよね!」

「うん、私も変だと思うんだ。だって小春ちゃん、授業をサボってしまう子じゃないもん。真面目だしね」

 明らかに西月さんを心配する声がする。真中に入って真剣に話をしているのは泉州さんだ。

 男子側の声は心持ち小さい。聞こえてこない。

 司は時計を見た。デジタル文字で十時三十分と出ていた。あと二十分くらいで三時間目は終わる。 今なら教室を飛び出しても気付かれない。かすかに男子グループ、主に天羽を囲んだ数人の声が耳に入ってきた。

「女子が団結した時は怖いものなしだからなあ。間違っていることを、あいつら集団の論理で、無理やり押し付けるからなあ」

「『一途』とか『一生懸命』とかいう言葉でね。『一途』な思いは、暴力と一緒よ」 女子の声だった。近江さんだけが、男子グループの席に混じって、けらけらと笑い出した。一瞬静まり女子たちが近江さんを見据えた。なんか用?という顔で受け止める近江さんは落ち着き払っていた。同時に前の扉から理科の先生が戻ってきた。みなが自分の席に戻るがたがた音に混じって、司はすばやく後ろ扉から抜け出した。天羽や泉州さんが気が付いていたかどうかはわからない。


 ──気付けよな、気付けよな!

 責める相手は天羽ではない、自分だった。

 何が起こったかはわからない。めったにないベタ誉めの嵐で舞い上がり、西月さんが戻っていないことにずっと後まで気付かなかった自分が愚かなだけだ。天羽も詳しいことは話さなかったし、司も正直なところ何が起こったのかはわからない。たぶん、司の想像によるとふたりっきりにさせてやろうという「いき」な計らいをしてくれたのかもしれない。前回のばらの花の告白といい、昨日の下着ドロ告白といい、舞台を作るのが天羽は得意だ。

 もしかして、司のことを待つように言ってくれたのだろうか。

 いや、昨日の今日だ、そんなことはないだろう。

 正反対の想像に揺れて、林に入ろうとするところで立ち止まった。誰も追いかけてくる気配がないとこみると、理科の授業は普通に行われているのだろう。一番手ごわいのは泉州さんに追いかけられることだけれども、それも今のところなさそうだ。狩野先生にも西月さんが戻ってこないと報告された以上、司が動かないとせっかくのチャンスも台無しになってしまう。

 ──天羽、ほんと、なんで僕のためなんかにこんなによくしてくれるんだろう?

 今朝、なんとなくだけど天羽は元気がなかったように思う。近江さんに話し掛けられてもいつもと違って無言で促していたような気がする。でも、写生の後はすぐによりを戻したようだ。思うに天羽は、自分が近江さんとうまくいったことを記念して司にも幸せをおすそ分けしたかったのではないだろうか。小学校時代、両親にも司はよく言われていた。

「自分が嬉しくなったり、幸せだなって思ったら、みんなに喜びを分けてあげるのよ。そうすると、いい気持ちが倍以上になって帰ってくるんだからね」

 たいがい周平や、小学校時代のクラスメイトたちにやることだったけれども、そんなのはどうでもいい。天羽も同じ考えをきっと持っているに違いない。だけどしつこいようだが、昨日の今日のことである。下着ドロを認めてしまい、女子たちからは机をさらに離されている自分を、果たして西月さんは認めてくれるのだろうか。わからない。

 ──僕のことを、待っているのかな?

 立ち止まるたび、天にも昇る夢を思い、すぐに振り切る。

 ──そんなことないよ、絶対、そんなことないよ。

 いい想像ばかりしていて、それが裏目に出たら、地獄じゃないか。

 天を仰いでぐっと目を閉じた。暗いだいだい色の光がまぶたにほとばしった。


 ──天羽、ありがとう。

 ──僕なんかのために、こんなに、こんなに。

 ──ちゃんと僕、これから、クラスのために、ううん、みんなのために、ううん、天羽に恩返しするよ。


 林の奥まで進んだ。学校で「夜、女生徒は特に通ることを厳禁する」と通達の出ているところだった。司からしたら毎日通っている路だった。両手を広げてもかかえきれない白樺の木や、お正月に出す屏風に描かれているような松の木、ときたまマツボックリに躓いたりして歩いていく。風が高い枝をしゃらしゃらと鳴らしている。この下に西月さんがいて、同じ音を聴いているのだと思うたび、司は息苦しくなった。一時間近くも待たせてしまったのだから、あやまらなくちゃいけない。きっと狩野先生に怒られるだろうから、一緒にあやまろうと思う。司は一年のあの事件から怒られなれている。でも、西月さんは元評議委員の優等生。きっと怖いに決まっている。

 ──僕にできることなら、何でもするから。待たせてごめん。

 風と木のざわめきにかすれるように、かすかな違和感を感じた。

 ──あれ、今、「くっ」って聞こえたような気、するんだけど。

 ぐるっと片足を軸にしてくるっと回ってみた。もう一度、風に混じって同じく、「ひっ」と違和感のある音がする。

 司は目を閉じて、両手を象のように大きくそばだててみた。

 もう一度、もう一度。

 ──泣いてる。

 今度は間違えようがなかった。身体をできるだけ動かさないようにして、身体がちょうど隠れる松の大木に身を寄せた。耳を当てると樹液が流れる音が聞こえる。そのまま、別の音を聞き出そうとした。斜め前に種類はわからないが少し小ぶりの細い木がそびえている。その根元に、白いものをスカートの下からちらつかせながら、誰かが座っていた。顔は見えなかった。膝までスカートをたくし上げるような格好で安座したまましゃくり上げる声が司の耳には確かに届いた。


 ──西月さんが、泣いてる。

 

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。たぶんここから司の姿は見えないだろう。声が聞こえるほど近いのだけれども、姿をすっぽり隠すくらい松の木はでかかった。司からは西月さんのしぐさ、そしてスカートの中身も丸見えだった。かえって動けなかった。側においていた写生道具一式を投げ出したまま、一度周りを見渡し誰もいないことを確認して、さらに激しくしゃくりあげた。数回周りを見てはその繰り返しだった。遠くを見て、何かを拾って抱きしめるようなしぐさをしては、また顔を覆った。誰かに訴えたくてならないのだけれど、その相手がいない、そう言いたげだった。

 時計のアラームが鳴らないように設定しておいてよかった。司はつくづくそう思った。 ──どうすればいいんだろう。

 また、西月さんが校舎側を眺めるようなしぐさをして、いったん押し殺した声をまた張り上げるようにして涙を流している。

 スカートに目線が行きそうになるのをこらえながら、大木の幹を司は抱きしめた。


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