14
生徒相談室に呼び出されるのは久しぶりだった。
──咽、渇いた。
司は目の前に差し出された黄色いお茶を見下ろしながら、つばを何度も飲み込んでいた。給食後なので腹はくちくなっている。牛乳も一応は飲み干した。でも、狩野先生と向かい合ってうつむいていると、体育が終わった後のように、ごくごくと何かを咽に流し込みたくなる。
──早くなんか言えばいいのに。
白衣の汚れはほとんど見当たらない。うっすらとピンクの粉が袖についているのはたぶんチョークだろう。窓辺に立って緑色の銀杏を眺めつつ、狩野先生はめがねのレンズをめがねふきでぬぐっていた。めがねを外すと、想像しているよりもずっと若く見えた。父のところで秘書かなにかをしている背広姿の社員さんたちのようだった。
──桂さんより、年上なんだよなあ。
気を紛らわせるために司は、桂さんのどすんとした体型を思い起こした。もし、一緒に暮らす相手が桂さんじゃなくて狩野先生のような人だったらどうなっていただろう。想像するだけでも恐ろしかった。毎日敬語で話をするのだろうか。
全校朝会が終り、教室に戻る途中、狩野先生は司の耳もとで、
「昼休み、相談室まできてください。誰にも言わなくてもいいですよ」
ささやいた。生徒相談室。面談で込み入った話をされる時とか、問題を起こして呼び出される時、司がこの部屋にお世話になったのは、これで五回目だった。例の事件後、クラスで見事に浮き上がってしまった司を拾い上げて、狩野先生は何度も今のようにお茶を出してくれた。もっとも司も何一つ、答えることはしなかった。言うべきことが見つからなかったのだから、しかたない。狩野先生もあきらめたのか、それ以上のことを求めてこなかった。
──何の用事なんだろう?
目の前でお茶の葉を紙にくるんで捨てている狩野先生の指先は細かった。
担任としては、きっと優しい先生なのだろう。桂さんは今ひとつ、狩野先生に対して、
「悪い奴じゃあなさそうだけどなあ。ただ、教師向きじゃねえなあ。狩野先生はなあ」
言葉を濁していた。とはいえ司に関することとかは父母の代わりに取次ぎの代行をしているらしい。仲は悪くないだろう。きっと司が学校で何をしでかしているか情報交換しているのだろう。
「片岡くん」
めがねを掛け直し、狩野先生は静かに座りなおした。
「今、ここにいるのは片岡くんと、僕だけです。だから、安心して聞いてください」
司はそっと、後ろを振り返った。扉は閉まっている。真後ろには青潟大学附属中学の卒業生が書いたという、風景画が飾られていた。神乃世の景色に似た絵だった。
「昼休み後の五時間目、ロングホームルームで、天羽くんが何をしようとしているか、聞いてますか」
──僕が、何をしようかってことなんだ。
司はゆっくりと眼を上げた。狩野先生の顔をじっと見上げた。
「僕から、言いました」
「え?」
戸惑う風に狩野先生はお茶を持ったまま、首をひねるような格好をした。
「天羽くんに、片岡くんが、あのことを話そうと切り出したということですか」
「はい」
どう説明したらいいのだろう。もともとは天羽から切り出されたことである。西月さんに告白し、その後自分の過去をすべて洗いざらい白状し、そしてきちんとけじめをつけること。二年前の司には出来なかったことだけれども、すでにひとつめの目標はクリアしている。絶対に出来ないと思っていた、西月さんへの想いを告げること。天羽や泉州さん、桂さんに励まされて、ばらの花を捧げることができた。どういう答えが返ってくるのか、そこまでは望まなかった。天羽だけはどうも納得いかなさそうな顔をしていたけれども、感じ方の違いだ。気にしなかった。
あとは天羽の言う通り、きちんと本当のことをクラス全員に告げ、自分の過ちをさらけ出すだけだ。
「天羽くんは、きっかけ作ってくれただけです」
お茶をすすろうとして、熱すぎてすぐに舌を引っ込めた。
「きっかけとは?」
「いろんなことをです」
狩野先生は黙りながら、唇の端を小さく上げるようにした。
「僕も、天羽くんから今日行われる予定のことについて説明を受けています。クラス評議として、片岡くんを仲間に入れたいという彼の、熱い気持ちは伝わってきました。きっと片岡くんも同じことを考えているのでは、とは思いました。ただ」
言葉を切った。 「本当に、片岡くん、そうする覚悟はついているのでしょうか」
銀縁めがねの奥から刺す瞳は、いささか怖かった。
「天羽くんは一生懸命になり過ぎて、片岡くんの気持ちを先走っているところなどはありませんか。もちろん彼は、片岡くんのことを懸命にA組の仲間にいれようと努力しています。彼は本当に、一生懸命です。ですが、それはあくまでも、天羽くんの視点から観たものです。どんなに天羽くんが片岡くんのことを一生懸命応援したとしても、受け取るのは片岡くん、君です。君がどう思うかが一番大切なことです」
──僕がどう思うかって。
きっと、一ヶ月前の自分だったら、狩野先生に泣きつくか逃げ出すかしていただろう。そういう奴だった。でも、夕暮れ色の光の中で、たったひとりの女神様にばらを捧げた一枚の絵が目に焼きついている以上、もう何も怖くなんてなかった。
──もういいよ、ありがとう。
眼を閉じた。何度もかみ締めて味わった笑顔。
狩野先生は姿勢を正すと、両手を膝に置いた。心持膝を開いて前かがみとなった。
「片岡くん、僕は決して、君が一年の時のことを反省するのがいけないことだとは思っていません。いいや、君が二年以上ずっと、重荷を背負っていたことも感じてきたつもりです。でもそれ以上に、片岡くん、君は本当に一生懸命努力を重ねてきたはずです。見ている人には必ず見えているはずです。伝わっているはずです、僕もそれは、毎日、感じてきましたから」
──何言ってるんだろう、先生。
天羽もそうなのだが、司に対して真剣に意見しようとする人は、時たま意味不明なことを口にする。いったいどこが見えているのだろう。努力なんて、していないのに。
「天羽くんが君のためにチャンスを用意しようというのは、彼らしい友情のしるしでしょう。でも、そのしるしが人によっては不愉快に感じられても仕方の無いことです。片岡くん、君にはその友情を、きちんと断ることもできるのですよ。天羽くんの気持ちを受け止めた上で、あえてきちんとそういうことは出来ない、と答えることもできるのですよ」
──断らないから、天羽に言ったんだってわからないのかな。
しばらく司は首を振るだけにした。どうも狩野先生、何を伝えたいのかよくわからない。
「断る気はないです」
それだけ、もう一度口にした。
「どうしてですか」
「けじめ、つけたいからです」
「けじめとは、過去のことをすべて告白して、許して欲しいと思っているからですか?」
狩野先生の眼がまた光った。とらえどころのない落ち着いた口調と、でこぼこのない抑揚。いきなり暗闇で光る車のライトに似ていた。
「はい」
小さい声で答えて流すつもりだったのに、狩野先生はしっかり食いついてくる。思わず身を逸らそうとしたが、狩野先生は目をそらさなかった。
「片岡くん、よく聞いてください」
また、わずかに身体が前にかしいできた。司も懸命に座っているところから後ろに下がろうとした。
「きちんと話をして、わかってもらう。それは大切なことです。もしそれが他の出来事だとしたら、僕は担任としても、一人の人間としても応援したいと思います。しかし、君は過去の出来事を、自分の力で少しずつ消化して、今の自分の身にしたはずです。それだけで今は、十分ではありませんか。二年前の片岡くんと今の君とは、もう別なんですよ。成長した自分をもってゆっくり、ひとり、ふたりといい友だちをこしらえていく。それもひとつのやり方ではないですか」「決めました」 「もし、全てを話して、クラスのみんなが受け入れてくれなかったとしたら、どうしますか?」
──考えなかったことなんてないよ。
眼を閉じ、もう一度西月さんの絵をまぶたに浮かべた。勇気と言葉がたまらなく欲しかった。
「片岡くん、天羽くんの思いやりそのものはこの際、置いておきます。君が懸命に自分を高めようと努力しているのも、僕は嬉しく思っています。でも、今から行おうとすることは、君にとって必ずしもいい結果が出るとは限りません。そのことは予想していましたか?」
「はい」
と、しか答えようがない。
「クラスの女子たちは、二年前、被害者でした。もし、目の前に犯人です、とばかりに同じクラスの男子が現れたとしたら、どう感じると思いますか? これは正しいとか正しくないとか、そういう問題ではありません。本当はもっと友だちとして受け入れなくてはならないとわかっていても、どうしてもそうできない部分が女子にはあるものでしょう。女子に限らず、巻き込まれた人や被害にあった人たち。君が傷つけてしまった人たち、みな、そういうところはあるはずです」
──女子に好かれたいなんて思ってない。けど、あの人にだけは。
あの人、と言葉が浮かんだとたん、初めてちくりと痛みが走った。注射針をいきなり、関係のないところに刺したような鈍い感覚だった。
「必ずしも、女子たちは君の勇気ある告白を、好意的に受け止めてくれるとは限りません。それも覚悟は出来ていますか?」
──西月さんには。
じりじりと痛みが続く。司は歯を食いしばった。天羽の言葉、泉州さんと桂さんのからかいの声、いろいろな声が響き渡った。
「はい」
じっと、狩野先生の視線を受け止めるように目に力をこめた。
──嫌われる覚悟は、もう出来ている。
今日だってそうだった。
本当は西月さんにだけ、先にすべてを話そうと決めていた。日曜ずっと考えてひとりで決めた。
だから、朝から西月さんを何度も呼び止めようとした。どうしても口が回らなくて、自分でもわけのわからないことばかり口走ってしまったけれど、ちゃんと、言うことを決めていたのだ。
「片岡くん、あのね、ごめん、じゃあね、私、これから、行かなくちゃ」
あからさまではないけれども、西月さんの態度もクラスの連中が揃っている教室の中だと、どこか緊張気味だった。あの日のように、茜色の光がたっぷり溢れんばかりでふたりきりだったら、きっと西月さんも話をきちんと聞いてくれただろう。求めてはいないけれども、やはりつい追いかけたくなってしまうのはなぜだろう。自分でももちろんそれ以上、追いかけたりはしない。頷いて彼女を見送るにとどめる。でも、西月さんは女子たちのおしゃべりに混じって、男子たちからは懸命に距離をおいていた。
──泉州さんが言ってたな。
ぜいたくもんの欲望だとわかっていても、つい考えてしまう。
──西月さんに何人もの男子が、告白しているって。
自分もそのひとりだから。
──競争率高いよな、当然だよな。
慌てて打ち消す。想像してしまう夢を打ち消す。
──あれだけで僕は十分なんだって。
嫌われないですんだ。ばらを受取ってくれた。それ以上の何を求めろというのだろう?
自分がクラスの恥ずべき下着ドロである以上、西月さんの側に近寄ることすら本当はできないんだと自覚しているのに。理性で抑えても感情が溢れてしまう瞬間が昨日今日と続いてしまう。
──嫌われないですんでいる。今だけは。
「片岡くん、おはよ!」
と声は掛けてくれた。今日もいつも通りだった。
嫌われないことが、最高のごほうびだと自覚しているくせに。
──けど、これも、今日で終りなんだ。
司は眼をこすり、西月さんに話すつもりだった言葉を飲み込んだ。
──あれをしたのは、僕だったんだ。かばってくれたのに、ごめん。
たぶん嫌われるだろう。三日間の夢をあの微笑でくれたあの人には。
天羽はちゃんと「大丈夫だって、お前を馬鹿にする奴なんていねえよ」と繰り返し言ってくれたけれども、司も世の中そんな甘くないことくらい、わかっている。今まで曖昧なままですんでいたから下着ドロたる自分がここにいられたのだ。もし、それを本当のことだと認めてしまったとたん、司は正真正銘の「下着ドロ」として認定されてしまう。烙印を押されてしまう。
──それがいやだったから、逃げてただけなんだって。
今なら司も分かる。なぜ一年の時懸命に逃げつづけてきたのか。クラス男子たちの弾劾裁判にあえて答えなかったのか。自分のしたことをいまだに思い出せないのも、すべてはあのことを自分のしたことじゃないと認めたかったからなのかもしれない。司にだってそのあたりのことは見当がつく。今でも思い出せないし、自分のしたことを想像するだけでも吐きそうになる。自分の口から自分の記憶していることを、全て話すなんて、気が狂いそうだ。ふつうだったらそうだ。 狩野先生も、きっとそのことを心配してくれているのかもしれない。
わけのわからないなりに、司に恥をこれ以上かかせないようにしたいと思ってくれているのかもしれない。好き好んで傷をつけて血を舐めて遊ぶ、そんなことはすべきではないと言ってくれているのかもしれない。めがねの奥でまだちろちろと訴えている視線に司は、簡単な答えだけで応えた。
「僕は平気です」
「そうですか。片岡くん」
沈黙が長く続いた。にらみ合うような格好でふたり座っていると、もう休み時間二十分はあっという間に経ってしまった。
「わかりました。これからロングホームルームです。先に教室に戻っていてください。それと、もうひとつ、覚えていてください」
身動きせずに、前かがみのまま、
「君の言葉でもし、クラスの人たちが冷たい反応を返してきた時、もしくは居場所がないと感じるようになった時」
自分に言い聞かせるように頷きながら、
「授業中でもかまいません。『E組』のことは聞いてますね。一階の教室です。そこで駒方先生がいつもそこで絵を描いていらっしゃいます。休み時間や放課後は他の生徒たちも集まりますが、大抵先生ひとりだけです。そこでは机もありますし、もし勉強したかったら図書室からビデオも借りることができます。息抜きにそこへいらっしゃい」
「『E組』?」
知らない。全くそのあたりの噂は耳にしていない。口をぽかんと開けた。
「さぼりを勧めているのだと思わないでください。学校の中で、ちゃんと先生のいる教室で机に向かっているのだったらそれは授業に出席しているということです。逃げることはかならずしも、負けることではないということだけ、覚えていておいてください」
──『E組』って何?
司はとりあえず頷いておいた。付け足すように
「はい」
と答えた。狩野先生がそのままお茶の入ったままの茶碗を持って立ち上がると同時に、廊下に出た。同時にチャイムが鳴った。走らず、ゆっくりと教室へ向かった。
──嫌われる覚悟は、ある。
──受取ってくれて、ありがとう。
窓から刺す光の隙間に生徒相談室から出てくる狩野先生が、かすんで見えた。
司が教室に戻ると、一瞬だけ男子たちのかもし出す空気が冷え、すぐに戻った。自分の存在が女子たちには……泉州さん除外……無視されていることをよくわきまえている司は、天羽にだけちらりと視線を投げた後、自分の席についた。天羽は近江さんとその他数名の仲間たちと、椅子を反対側にしてまたがり、ひそひそ話をしていた。近江さんだけつまらなそうな顔をして、またひとり頬杖をついていた。いつもだったら天羽もかなりでかい声でしゃべりまくるのだろうが、様子が違う。やはり天羽は計画を百パーセント遂行させようとしているのだろう。
前もって狩野先生に話を通そうとするところといい、その通り。
司ひとりでは全く手も足も出ないことばかりだった。
そっと西月さんの様子をうかがうと、彼女は他の女子たちとトーンの高い声で、ラジオ番組の話をしているようだった。内容は全く見当がつかないけれど、女子たちはみな心得ている話題のようで、それなりにわいわいとはしゃいでいる。
机の薄いマーブル状木目を見つめていると、だんだん二重、三重に重なってきて目が回りそうになった。天羽は果たして今から司がしようとしていることを、他の男子たちにも話したのだろうか。たぶんそうしたに違いない。そのあたりの手回しも完璧だ。そんなに親しいわけでもないし、それどころかクラスの害虫みたいに言われている自分がどうして、ここまで天羽に救ってもらえているのだろう。いくら西月さんのことがあるとはいえ、親切過ぎる。
司は天羽にもう一度、合図をしようとした。でも即刻、無視された。
──だから、ちゃんと言わなくちゃいけないんだ。そうなんだ。
なんども司は「そうなんだ」という言い回しを繰り返した。何度もそうやっていると、だんだんどきどきする音が引いていく。すぐにまた緊張しそうな音が胸の奥で鳴り響くけれど、また「そうなんだ」と心で言い切ると、ちゃんと凪いだ。
狩野先生が前の扉から入ってきた。やはり白衣のままだった。司と天羽の方をちらっと眺めたように見えたのは気のせいかもしれない。すぐに天羽は頷くと、
「きりっつ、れい、ちゃくせーき」
元気一杯に号令をかけた。全員立ち上がり、首だけで一礼した。西月さんはきちんと両手を揃えて頭をしっかり下げていた。狩野先生は一拍うつむくようにして、めがねを外した。さっき生徒相談室で見せた、妙に幼く見える顔をさらけ出した。ポケットからハンカチらしきものを取り出すと、すっと拭い司に視線を向けた。あっという間だけど、目と目が合った。生徒たちの間からこもった笑い声が沸いた。やっぱり、変な顔だと司も思う。一切反応を無視して狩野先生は、
「それでは、今日のロングホームルームは、一学期半ばに入ってから議題としてあげたいことをそれぞれが出していってください。評議委員にあとはお任せします」
いつものように静かな声で、始まりを告げた。
評議委員の天羽と近江さんがふたり仲良く、黒板の前に並んだ。
近江さんの方が冷たく席についている人たちをにらみ付け、さっさとチョークを手に取った。天羽の方に、質問したさそうな顔を向けていた。めずらしくそちらの方を天羽は無視した。軽く拳骨で、
「おまたせしやした! では本日の議題と参りましょうか、レディー・アンド・ジェントルマーン!」
教卓を叩きながら、いつものように狩野先生の方へ向き直り、敬礼をした。狩野先生も表情を変えることなく、頷いた。
──いよいよ始まった。
激しい始まりだ。司は息を長く吐き出した。おなかの限界まで、空気を腹から抜いた。
「では、本日はちょっと特別バージョンA組篇ということで、司会・天羽忠文が仕切らせていただきやす。ほら、拍手が足りんぞ拍手が!」
まばらな拍手が、天羽の仲間一群から届いた。三年間全く変わっていない、天羽の切り口だった。「よそのクラスはたぶん、修学旅行、なんだろうなあ。でも、うちで決めることったら、せいぜいしおり作りとグループ決めでしょうがってことで。まずはA組としての土台をきっちりと築きたいと思った次第でがんす。みなさん、本日は評議の俺がどんどん仕切らせていただきますんで、狩野先生、その点よろしく」
汗がにじむ。匂いが少し漂ったような気がした。
「今だから言えることだが、男子諸君、一年、六月末の出来事を、覚えているかな。女子諸君には返す返すも悪夢のあの事件、命名『一年A組下着ドロ事件』。結局犯人は曖昧なまま、俺たちもよくわけのわかんないまま、幕を閉じたわけである。いろいろ噂が飛び交う中、A組の内部では激しく荒れに荒れた。入学後しばらく、他のクラスのように『友情』なんてロマンチックなお言葉が似合わないA組になってしまったのも、また事実である。もう過去だぜ過去、って片付けるつもりでいたし、俺もほんとはそれが一番だと思ってた。評議委員として、いろいろ噂やらなんやらを聞きつけてきたけれども、無理に煙を立てる必要もねえなとかんがえてきたからで、あーる。今回、そろそろ修学旅行が迫ってきているこの頃でありますが、諸君。この際、思い切って腹を割って、話しましょうや。修学旅行ともなれば、いやおうなしにお互い嫌いな奴好きな奴、いろいろな奴と三泊四日、顔をつき合わせるし、そうなればバトルも繰り広げられること確実。旅行が始まる前にある程度、わだかまりって奴をお掃除しちゃいましょうってやつです。ということで、昨日、狩野先生に許可を貰って、天羽忠文一世一代のトークショーとなったわけでございます」
くすくす笑いが聞こえる。今度は女子の方からだ。
「でです、諸君。A組において、どうしても人を信頼できなくなってしまった事件っていうのがさっき言った、『下着ドロ事件』です。今思えば俺もうらやまし、いや、やっぱりまずいよと思わなくもないのですがね、ですが、人間は反省する動物ってどっかの偉い先生も言ってます。罪を悔い改めれば、人生、大抵のことはやり直せます。女子も結局はパンツやブラジャーを買い替えることができただろうし」
今度は司の後ろあたりから女子たちの「サイテー、センスなさすぎ」との露骨なつっこみ。天羽は無理やりにやっと笑った後、いつものような軽いおちゃらけ口調と、時折かっちりした言い方をまぜまぜにして続けた。
「とにかく、この機会に一度すべてをご破算にしましょうってことで、今回こういう場を設けさせていただいたと、ま、そういうわけでがんす。ゆえに本日の内容はA組一同の秘密として、お口にチャックしてくださることを。諸君。よろしいですか。よろしいですね。OKですか、OKですね」 司の方を見た。
思わず顔を上げた。唇を噛んで横、前、横、と三方の気配を見た。三方から、男子と女子の固まった視線とぶつかり、また司は頭を下げた。
「さあ、立て、片岡。勝負だぞ」
さっき教室に入ってきた時は男子たちだけが息を呑んでいた。でも今は女子たちも一緒だった。司は西月さんの方をもう一度見ようと思ったけれどもやめた。どうせ黒板の前から、あの人の顔はしっかと見つめられるはず。そして大好きな人に話し掛けられるはずだ。たとえ、醜い自分の罪だったとしても、許してもらえなくても。嫌われても。
──西月さん。
ゆっくり司は立ち上がった。うつむいたまま、一度呼吸を整えて、一歩前へ足を出した。目のふちに力をこめてぐいと顔を上げた。
狩野先生がもう一度、腰を浮かせるような形で尋ねてきた。同じことだった。同じ答えを返すしかなかった。
「片岡くん、本当に、いいのですか」
「はい」
「先生、俺に任せてくれって言っただろ、頼みまっせ。あとは片岡、お前の好きなように言えよ。俺は男だ、約束は守る。守らせる」
正面からくる天羽のエールを聞きながら司は両手を握り締め、少しずつ教壇へと進んでいった。天羽は動かずに唇を一文字に結んでいる。一度、教壇の上に登った方がよかったかどうか迷った。近江さんが一瞥して降りたのを合図に、司は足をかけた。
「片岡、これが最後のチャンスだぞ」
両腕を組んだままの天羽がもう一度言う。教壇に上がると同時に天羽も降りた。近江さんの隣りに並んでいる。視界からほんの少しだけ西月さんの様子がうかがえた。ずっとうつむいている。あまりじろじろ見たくなくて、司は最初、うなだれたふりをしてもう一度西月さんの表情を探した。でも見せてくれなかった。教壇の上からも、たぶん天羽のいる下からも、あの人が何を思っているのかは読み取ることができなかった。
「すみません、ごめんなさい」
──僕は、あなたに、話します。
「一年の、六月、あの時盗んだのは、僕です」
西月さんは全く身動きしなかった。
視線を司は教室真後ろのロッカーへそのままぶつけ、あとは言葉のこぼれるのに任せた。女子たちの唇がゆがんでいるのは見て取れた。ただ泉州さんだけが、それとは違った意味合いの瞳でにらみつけてきたのだけが、どう対処していいのかわからなかった。あとで、絶対、つっこまれる。
「なんで、あんなことしてしまったのか、僕は、今でもわからないです。けど、やってしまったことは、もう取り戻せない。それに僕は、人間として、最低なことまでしてしまいました。捕まって、それで。ちゃんと、やったことを認めて、謝ればよかったって、今は思う。けど、できなかった。そんなことしたら、死ぬしかないって、思ってた。だから、だから、ずっと今まで先生や、周りの人たちが隠してくれたことに甘えてました。クラスの人たちもみな、僕がしたこと、知っていることはわかっていたけど、ばれない限り、大丈夫だって、そう思ってました」
ここまで司は一気にしゃべりつづけた。時折言葉がくぐもってしまい、鼻水が流れそうになった。泣きたくなかったから必死にがまんした。でも限界はあっという間にやってきて、目の前のクラスメートたちが頭だけ黒豆の集団にしか見えなくなった。どんな顔して聞いているかなんて、わからない。当然、西月さんの様子もうかがえない。
「いじめられなかっただけましだって思ってたし、もうこの学校に居る価値なんてない、って思ってたし。だから、あきらめていたけど。けど、僕のことを、ひとりだけかばってくれる人がいたから、今は、その人のために」
だいだい色に染まった彼女の優しい表情。
いつも朝一番に声をかけてくれたえくぼのほっぺた。
男子たちの前で激しく司を弁護してくれたあの時の瞳。
曇った視界からは、それしか浮かんでこなかった。もう二度と手に入らない。もう絶対、あきらめるしかない。女子たちには永遠の下着ドロ野郎と軽蔑されるだろう。天羽たちがどんなに応援してくれても、自分の罪を認めてしまった以上、あれは冤罪だなんて言えない。言ってはいけない。でも、たったひとつだけはっきりしていることがある。
──僕は、あの事件のことを聞かれても、もう嘘をつかなくてすむ。
西月さんの前で、少なくとも自分はうそつき野郎ではない。西月さんにこれ以上、嘘のかばいだてをさせないですむ。
「昨日、天羽から、これが最後のチャンスだって言われて、僕もそう思ったから、だから、ここではっきりと言います。僕は、あの時の犯人で、親に頼んで、もみ消してもらったし、僕のことをかばってくれた人を裏切ってしまったってことです。僕は、最低な奴です。許して、許してください」
──西月さんに、僕は嘘をつかせてしまったんだ。
──みんなの前で、僕が下着ドロじゃないって言わせてしまったんだ。
──もしかしたら、天羽はそれであの人のことを。
──そうしたら、西月さんは泣かないですんだんだ。
──もしかしたら、僕さえ早く、ちゃんと告白しておけば。
狩野先生の前で覚悟しているなんてつらっとしたこと言ってしまったくせに。足はがくがくと震え、教卓にしっかりしがみつかないと腰が抜けて尻餅つきそうだった。顔をもう上げられなかった。次に顔を上げたとたん、西月さんの笑顔がもう見られなくなることをずっと覚悟していたはずなのに、この日を自分からセッティングさせたくせに。もっと強い奴だと思っていたのに、自分は。どうしてこんなに鼻水が流れるのだろう。言葉が詰まるのだろう。どうして顔を机の上に押し当てないと辛いのだろう。
「片岡、泣く前にもう一つ、言うべきこと、あるだろう」
天羽の声が重く、じわんと耳に響く。
「あんなに、あんなに、西月さんが」
もう、自分が自分のことばを使っているのではない。誰か見知らぬ幽霊か背後霊がしゃべらせているとしか思えなかった。
「僕のことを、濡れ衣だってかばってくれたのに、信じてくれたっていうのに、僕は、僕は」
真っ赤なばらの花を渡した時、微笑みを見せてくれた、あの人へ。
「西月さん、すみません、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
何もかもわからなくなった。とうとう、抑えていた声が洩れた。教卓の木目にほおをつけたまま、司はしゃくりあげてしまう声を消そうと思った。
「片岡、良く言った! 男だぞ!」
「よっしゃあ!」
遠くの方から、男子たちからの掛け声が聞こえた。誰かが司の側に近づいてきた気配があった。天羽だと、匂いですぐわかった。
「もう泣くな、もういい。片岡、偉い、お前、ほんと偉いよ。つらかったよな。みじめだったよな。もういい、降りろ、戻れよ席に」
背に回った腕らしきもの。温かかった。教壇からゆるやかに顔を上げさせられた。両手をぶらんと下ろされ、赤い布みたいなものを目の前に差し出された。ハンカチだった。
「ほら、鼻かめ」
すぐに何か間違ったと感じたらしく、
「じゃあ、こっちだな」
と、白っぽいものを手に握らされた。まだ涙を吸い込みすぎた瞳からはすぐにポケットティッシュだということに気付くことができなかった。肩を抱かれたまま、天羽のひっぱっていく場所へ進み、もとの椅子に腰掛けた時、前の席の男子が、
「ほら、鼻かめって」
どこかのサラ金会社が配っているポケットティッシュをもう一つ、机の上に置いた。また斜め前の男子も、後ろの奴も、一枚ずつティッシュを司の前にそっと回してくれた。女子たちの顔なんて見ることもできないまま、司は裸のまま机に置かれたティッシュを一枚ずつ使い、鼻をかみ目を拭った。なんど涙を拭いても視界がはっきりしないまま、司は天羽の、本日ロングホームルーム締めの言葉を聞いていた。
「以上だ、ってわけで、本日のロングホームルームは終わるってことで諸君。いいな。今日のことで片岡のことを叩いたり馬鹿にしたり、無視したりするのはやめにするんだ。俺たちは俺たちのやり方で片岡の罪を受け入れたし、あいつも二年間ずっと、苦しんできたってことがよっくわかったって奴だ。さってと、修学旅行も近いことだし、これでひとつのわだかまりってものは消えたってわけですぜ。諸君、いいですか。女子諸君にも告げる!」
──ありがとう、天羽。
──ありがとう、西月さん。
司の目の前に、もう一枚、今度は汚い使いかけのポケットティッシュが置かれた。かなりしわしわのビニール袋で、長い髪の毛つきだった。ありがたく鼻をかませてもらおうと手に取り、何気なく裏の台紙へ眼を留めたとたん、司は一気に鼻水を口から吐きそうになった。
──詳しいことは、放課後。すでにいつもの場所で、いとしのKさまと待ち合わせ済み。逃げてもむだ!
恐る恐るメッセージの相手であろう、彼女を見た。机の側に立ち止まり、
「藪用片付けてから行くから、さっさと帰るんじゃないよ」
鐘が鳴っていた。言葉の主、泉州お嬢は即座にうつむいたまま動けないでいる西月さんの側にかけよって行った。
さっきまで流れていた涙が、いきなり止まる。
──なにが、K「さま」だよ!