13
部屋の中でぼーっとしている司を桂さんが様子伺いにきた。
「頼むから食うもんくらいは食えよな」
生返事を返し、食卓へ向かう。さばの煮付けとブロッコリーのサラダなんて、苦手なものばっかりが並んでいたのに、ひたすら食いまくってしまった。
「しっかし珍しいなあ。司、野菜まで食ってやがるんだなあ」
それ以上桂さんは何も言わなかった。
一切、西月さんとの間になにが起こったかは話していない。いつものように車で迎えに来てもらい、その後はずっと部屋の中だった。
──神さま、ありがとうございます。天の神様地の神様、あとえっと、とにかくありとあらゆる神様、ほんとにほんとにありがとうございます!
ふと、桂さんのさいばしと、司の箸とがぶつかりあった。思いっきり極上の笑顔で見返してしまった。自覚はあった。
「司、お前、明日まではそれでいいけどなあ。ったく」
風呂、歯磨きの後はすぐ部屋に戻った。宿題なんてやる気しない。ベットにもぐりこみ、何も見えない状態にして眼を閉じた。夢の中に早く突入したかったけれども、まだ夜の八時過ぎ、眠くなんてなりゃしない。一度起きて、棚に飾ってある藤棚の写真を、枠ごと持ち込みまたベットに入った。ただひたすら、写真の表面に指を滑らせていた。
──もういいよ、ありがとう。
何を意味するかはわかるようでわからなかった。断られたのかもしれないけれども、少なくとも彼女は司を、露骨に「下着ドロ」として拒絶はしなかった。恋をしている自分が生身でいて、西月さんが自分に対して「嫌い」といわなかったことだけが真実だった。最悪のことばかり想像して心を麻痺させていたからなおさらだろうか。
──女神さまか。
天羽の言葉が思い出される。
やっぱり自分の見る目は間違っていなかったと思わずにはいられなかった。天羽はこれまでの経緯を追う限り、決して悪い奴ではないだろう。クラスで明らかに浮き上がっている司を、懸命にクラスへなじませようとしてくれたのだから。しかも、昔付き合った彼女を、「信頼できる」という一点において、司に紹介してくれるようなことすらしてくれたのだ。もちろん西月さんのことが嫌いなのはびんびん伝わってくるものがあるけれども、それとこれとは違うだろう。ただ、天羽と自分とは女子の好みがはっきりと分かれている。あんなおっかない顔をしてにらんでくる近江さんを追いかけるよりも、ほわりとしたほっぺたにえくぼをこしらえる西月さんの方がなんぼいいかしれやしない。
ふっくらした、ほおはこのあたりだろうか。
小指の爪の先で、写真に触れる。
もし本当に、この指先に温もりがつたわってきたとしたら。
──理性、ふっとんでたろうなあ。
想像するだけで、またかあっと血が昇ってくる。
それにしても、と司は思う。
──僕は贅沢な奴だよなあ。
わけもなく頬が赤らんできて、むしょうに叫びたくなったりして、しばらく想像の世界に浸っていて約二十分後。もう一度、妄想の内容をチェックしてみるうちに、自分が現実に戻されていることに気がついた。三年D組の「下着ドロ野郎」だった自分が、やはり消えずにそこにいる。
──これ以上の奇跡なんて、夢見てどうするんだよ。
だけど、夢見てしまう自分も、生身でちゃんと、ここにいる。
決して、男子の生理的現象に基づく妄想のネタなんかにはしていない。絶対にしていない。そのくらいの自制心は司にもある。エッチなことなんて考えたらいけないと、あの事件以降自分を必死に抑えてきたつもりだ。テレビや雑誌、スポーツ新聞のお色気ページなどでつい、ということはないとは言わないけれども、西月さんに対しては決して、しやしない。
なのに夢の中で起こる出来事だけは打ち消すことができない。目を閉じるたび、えくぼの愛らしい微笑みが浮かんでくる。一度は何も着ないで、後姿というすごい奴も見てしまったことがあった。 ──うわあ、どうしようどうしよう!
目が覚め、自分のやらしさ加減に腹が立つ。
次の日、西月さんはぎりぎりになるまで教室に来なかった。いつもだったらすぐに教室で、他の女子たちと一緒にノートを見せ合ったり、前の日のテレビドラマの話で盛り上がったりしているのに。珍しかった。鐘が鳴ってからそそくさと飛び込んできて、一切話をする間もなく自分の席に着いた。当然、司とも顔を合わせなかった。
「あれめずらしいねえ、小春ちゃん? 寝坊したの?」
「ほら、下級生のことでいろいろあって、今日もこれからいかなくっちゃいけないの」
「小春ちゃん後輩思いだもんねえ」
この辺の事情はよくわからない。司は天羽とその仲間衆が固まって盛り上がっているのを眺めつつ、もう一度西月さんの言葉をかみ締めていた。あの声、あの笑顔が、昨日は自分の目の前で、手を伸ばすとすぐに届くところにあったのだと。
とはいえ現実はやはり淋しいものがある。修学旅行の準備についていろいろ、他の連中は盛り上がっているようだが、司は息を殺しているだけだった。一応天羽たちがそれなりに司の席順とか部屋とかを決めてくれているらしい。さすがに一人だけ別部屋、シングルルームだなんて希望は通らないだろう。その辺は何も考えずに任せておくことにした。
「おい、片岡、修学旅行の時なんだがな」
二時間目が終った後、天羽が近づいてきた。昨日の今日だ。言葉が見つからない。
「お前の部屋なんだけど、月島たちと同じとこにしといたからな」
たぶんそんなとこだろうと思っていた。月島とは、どちらかいうとクラスの地味目グループに属している奴だった。天羽たちとは別でいつも、漫画やアニメの話ばかりで盛り上がっているような雰囲気がある。体育とか遠足のバスの時も、集団行動を取らねばならない時はいつも投げ込まれていた。別に話をするわけでもないし、一緒に歩く時だけ黙って隣りにいる相手が必要、そんな時のためだけだ。いつものこと。
「わかった」
「けどお前、あいつらとも全然しゃべったことねえだろ」
──余計なお世話だよ!
どうせ集団行動の時は意味なくおしゃべりする必要なんてないのだからしょうがない。
「三日もあるんだぜ、三日も。もう少しお前も、この前みたいなぼけぼけしたとこ見せて、もっとなじめや。ほら」
──おせっかいっていうんだよ!
もちろん天羽が親切心で言ってくれているのはわかる。西月さんのことといいすべてその通りだ。「だからな、来週の月曜なんだが、いいか」
「いいかって何が」
「もちろん、あれだよ。昨日の続きさ」
──昨日の続き?
西月さんの方を見た。思わず目が合った。すぐに向こうから逸らされた。
「わかっているだろ、前から約束したことをな。第一計画突破したら、次は第二計画だ。覚悟はあるな」
頭の回線が繋がり、西月さんと天羽、そして司へと一本に意味が伝わった。
もう逃げられない、やらなくちゃいけない、あのことだ。
──あるよ。もちろん。
答えず司は天羽を見上げていた。どきどきもせず、机の上に手を置いたままでいた。
「わあった、四時間目終わったら玄関に来い。手短に話そうぜ」
忙しい評議委員はさっさと自分の席に戻ってしまった。
怖い泉州お嬢は、今のところ教室で何も聞いてこなかった。なんとなく桂さんと同じ対応に思われた。うるさいくらい付きまとってきて、ゲテモノラーメンを平らげても平気なあのお方は西月さんに、どういうこと話しているのだろう。触らぬ神にはたたりなし。無理に泉州さんのつっこむ余地をこしらえるつもりはなかった。まあ、あとでいろいろあるだろう。
狩野先生もいつも通り、静かに帰りのホームルームを終わらせた。西月さんに何か用があったらしく、小さい声でひとつふたつ指示をしていた。こっくり頷きすぐに教室を出てしまった。
別に話をしたかったわけではない。顔をまた真っ正面から見据えて話をするなんて、もう心臓がいくつあっても足りない。むしろ何も会話がなかったから、助かったといった方が正しいかもしれない。あの「片岡くん、おはよ!」が聞けなかったことが淋しい程度なら、がまんできる。
天羽に呼び出された通り、司は玄関につっぱしった。いつものパターンだ。この時間、桂さんが迎えに来てくれるのは早いことが多かった。天羽も「手短に話そうぜ」とふっていたのだから、すぐに片付くだろう。
内容は大体想像がつく。
──あのことを、言えってことだよな。
玄関で大急ぎ、スニーカーに履き替えた。すでに土曜の四時間目ということもあり、何人かは自転車置き場へダッシュしている様子だった。
外に飛び出すと、昨日よりもだいぶ冷え込んでいて、何度かくしゃみをしてしまった。鼻水もかすかに鼻の下をぬらしている。手でこすり、ブレザーを着た。靴箱の陰に思わず隠れてしまったのは、玄関ロビーを西月さんが見覚えある女子と一緒に横切っていくのが見えたからだった。相手がどうも横から見てでこぼこした体だと感じたのは当然だった。前の日、メロンをふたつブラウスの中に押し込んだような胸をして、じいっとにらみつけてきた、髪の毛一本しばりのあの女子だった。 手短に終わらせる意思は確かに持っていたらしい。天羽がポケットに手を突っ込んだまま、ブレザーを脱いで玄関に下りてきたのは司が着いてからすぐだった。
「わりい、待たせたな」
「そんなんでもないよ」
「さ、行くぞ」
取り巻き連中は誰もいなかった。好都合だ。天羽は素早く司を親指で誘い、校舎後ろ側へと向かった。なんのことはない、いつも司が桂さんと待ち合わせている砂利路へと向かう路だ。天羽もずいぶんと司のことを細かくチェックしているのだと改めて感じた。
「一言言わせろ。片岡、お前よくやった! えれえよ」
まずはお褒めの言葉を頂戴した。うそっぽくない。堂々と言い切った天羽の口調に、つい司も、
「ありがとう」
と返してしまった。満足げに「ま、相手の好みっていうのは人それぞれとしてもだなあ」とつぶやく天羽。礼儀として、司も付け加えた。
「もう、悔いはない」
「いんやあ、それほどでも」
おどけた後、天羽は自分の頬を何度かぺたぺたとはたいた。
「けどなあ、さっきも言ったけどな、お前もうひとつやることあるだろ。分かっているよな」
わかっていることだ。司も思う。
「わあったわあった。ところで片岡。今度の月曜の五時間目、何の授業かわかってるかな」
いきなり先生口調。むっとした。
「わかってるよ。ロングホームルームだろ!」
「怒るなよお坊ちゃま。俺と近江ちゃんのオンステージって世界なんだがんなことどうでもいいわな」
──二年までは、天羽と西月さんとなんだけどな。
A組ではあまり盛り上がりに欠ける時間帯であることは確かだった。一生懸命西月さんが、
「A組はみんなから『コネクラス』だとか言われて馬鹿にされてます! そんなことなんてないってわかってるのに、実力テストの結果とか、球技大会の結果とか、そういうものを引っ張り出されてさんざん悪口言われてます! だけど、みんなほんとはやればできるんだってことを私、知ってます! 一生懸命努力すれば、かならず結果がついてくるんだって、信じてます! だからみんなも一生懸命やりましょうよ!」
と声を掛けていたことを覚えている。司も当時、ずいぶん物好きな人だとだけ感じていたのだけれども今は違う。とにかく純粋でひたむきな人なのだと思っている。ただ、そう思わない天羽のような奴がたくさんいたのも当然のことなんだろう。とにかく司にとってロングホームルームとは、西月さんの声と笑顔をシャワーのように浴びることができるという、至福の時でしかなかった。
天羽は鼻水を啜り上げた。
「さっきもしゃべったけどな、修学旅行の準備最終段階ってことで、他のクラスではイベントとかいろいろ企画をやるらしいんだ。が、しかし。俗に言う『コネクラス』の俺たちA組に、そこまでの団結力を求める必要ははっきりいってない。根本的に、無理って奴だわな」
──そんなの知らないよ。
全部天羽にお任せだ。司が割り込む部分なんてない。
「けどな、このままじゃあいけねえよなって俺もいつも思っていたんだ。他のクラスのようにもっと、クラスが一丸となってさあ、仲良くなるって出来ねえかなあって狩野先生にもいろいろ相談をしたりしていたわけだ」
──狩野先生じゃあ無理だよ。
もともとあの先生はクラスに対して無関心風に見えた。「風」と曖昧にぼかしておくのが、わずかな「希望」でもある。天羽も同じ「希望」を持っていたのだろうか。
「狩野先生はそれなりにうちのクラスのこと、真剣に考えてるらしいんだ。ただ趣味としてあまり熱く情熱たぎらせるのは好きじゃないらしくってな。ほら、D組の菱本先生のようには熱血できないらしいんだ」
──やっぱりあの先生、熱血なんだろうなあ。
噂に聞く、社会科担当の菱本先生を思い出した。生徒と一緒にあのラーメン屋に入るような先生だ、きっと狩野先生とは違うのだろう。
「だから、お前のことを話しておいたら、俺に一任する、つまり『任せる』と言ってくれたんだ。ありがてえなあ」
「なにが任せるなんだよ!」
足下から血が一気に昇って、頭の上で噴火しそうだ。昨日と同じくらい、熱い。
「つまりだなあ、片岡」
天羽はゆっくり、初めてここで話をした時と同じように、肩を叩いた。
「俺に、お前のこと、任せてもらえねえか。悪いようにはしない」
──任せるって、いったい。
次にくる言葉は、大体想像通りだった。
「片岡、お前のためのステージを俺が作る。ここで、禊やっちまえ!」
うつむいた。司は片手を握り締め、足下の砂利を小さくつま先で掘った。
「男子も女子も、お前ひとりをハブにするという状態はもうやだろうって思うんだ。ほんとは臭いくらい青春ドラマやりたいのにさ、どうしてもふたをしておきたい問題があるって奴だ。一応こういう事例みたいなのは、評議関連でも結構聞くことあるから、俺もそれなりに用意した。お前、わざとらしい青春ドラマなんて今ごろ流行らないと思っているのか? 思ってるだろうなあ」
一人、酔いしれつつ語る天羽。
「けどな、あんまり大きい声では言えねえけど、あまりにもしんどい出来事をな、うちの学校のある奴とかこういう奴とか、懸命に乗り越えてきてるんだ。たまには教師の鉄拳、とか愛の抱擁とか、いろいろくさすぎるネタを用意してだなあ。ま、お前が知らないだけだなそういうのは。とにかく、ほんっととにかく、やってみて後悔は絶対にさせねえよ」
いつも思うのだが天羽の言葉は理解不能な時がかなりある。
「変なこと言うようだけどな、お前があの事件を起こしてから、誰かかしらは味方になってやりたいって思ってた奴が絶対いるはずなんだ。お前の大好きな西月以外にも、男子の中ではかならずいたはずなんだ。ただどうしてそれができなかったかっていうと、あとあと何言われるかわからねえ、他の奴らが何考えてるかわからねえ、そういう、『不信感』ってもんもあったんじゃねえかなと俺は思う。繰り返すけど、うちのクラスは俗にいう『コネクラス』だからなあ。お前もそうだろ」
──否定できないよ。
入学試験問題、半分は白紙で出したような記憶が残っている。それでも受かったのだから、たぶんそれだろうと思っていた。
天羽はにっこりと頷いた。
「けど俺はそれを責める気ねえよ。でないと、今のA組になんか入れねかったもんな。ただ、いんちきして入学しちまったっていういやあな気持ちってのは、まだ残ってるんだよな。俺も最近やっとわかったんだけど、いつ俺は他の奴らよりも楽して受かってしまったってことを気付かれるんだろうって、いっつもびくびくしてたかってことをさ。他の奴らも『A組は決してコネクラスじゃない』って建前が大嘘だってこと、わかってるし。俺も二年まではその大嘘を守ろうと懸命にやってたけど、そんなの無駄だったよな」
話がだんだんそれていく。本当だったら問い返したい。でも天羽は真剣に、笑顔ながらも語りつづけていく。
「俺は、三年になってから決めたんだ。すべてのことにおいて、正直になりてえなって」
──正直?
言っている意味がだんだんわからなくなってきた。司の足下にできた、ちいさな蟻地獄の巣もだんだん深くなっていく。
「俺は、じいちゃんのコネで青大附中に確かに入っちまった。それは本当のことだよな。同じ小学校の奴で、一緒に受けて落ちた奴の方が成績良かったことも知っているんだ。それがすっごく辛くてさ、まるで俺がそいつの席、取っちまったような気がしてさ。でも、もう入ってしまった以上は俺らしく、正直にぶつかっていくしかねえんじゃねえかって思うようになったんだ。奇麗事の嘘なんかつかねえで、周りの奴らに無理やり好かれなくてもいいって、そういう気持ちでいこうって思ったんだ」
──奇麗事の嘘?
天羽においてはひとつだけ、わかる部分がある。確かに天羽は一年の頃からおちゃらけ野郎として有名だった。クラスの男子女子みんなに関西系のギャグを飛ばし、なにかあると「あ、それはしっつれいいったしやしたあ〜」とお笑いを取るのがくせだった。ふつうだったら笑えないだろう?と感じる事件がある時も……司の時は例外としても……「ま、そんなことどうだっていいでがんしょ! それよかもっと明るいこと考えましょうや!」と雰囲気を変えようとしてくれた。そう言う奴だった。
「とにかく、このクラスをなんとかせねば、俺も三年間A組評議としてなにしてきたの、ねえあんたってことになっちまうんだよなあ。他の連中もやっぱり、このまま自分のコネを内緒にしたまま卒業するっていうのは、罪悪感ばりばりでしんどいよなあってことになるわけだ。お前だけじゃねえよ。みな、人にはなっかなか言えねえ秘密ってもんがたくさんあるんだよ。でな」
車の到着合図、クラクションが鳴った。無視した。司も、天羽も。
「俺はお前になんとしても、A組の一員として、気楽な顔して座っていてもらいてえんだよ。俺のわがままだってわかってるし、正直、一部にすげえひでえことしているかもしれねえって気持ちはあるんだ。でも、このまんま、白々しい嘘で塗り固めたクラスで終わるよりは、みな本音をさらけ出して、気楽なアホ組A組としていてほしいんだよ。ここまでお前に恥をかかせるのはひでえことだってわかってる。けど、お前がすべて男らしく白状すれば、必ず俺たちはお前をカバーする。約束する。他のクラスの連中からまた、『下着ドロ』だとわざとらしいことを言われたら、その時は俺たちA組男子野郎が、制裁してやる。だから頼む、片岡、俺に月曜の五時間目、すべてを任せてくれねえか」
想像して怖さを感じる瞬間、西月さんがだいだい色に染まったまま手を伸ばしてくれた一枚の絵、それを思い浮かべた。
すうっと恐れが消えていく。
司は顔を上げた。天羽の表情には、教室で見せているようないいかげんな笑いではなく、百メートル走を走り終えた直後のような険しさが残っていた。それが司には本当だと思えた。言っていることの半分以上は理解できなかったけれども、天羽なりに司へ、本気で勝負してほしがっていることだけは伝わってきた。
「天羽のおかげだよ。ありがとう」
小さくつぶやくと、足下のあり地獄を少し砂利で埋めた。
「ロングホームルーム、そうする。あとは頼む」
「ほお、お前、ほんっと未来の社長っぽくなってきたなあ」
言い方に刺がなかったから、司は軽く流した。いつもだったらかっとなってしまいそうな言葉なのだが。でも顔にはちらっと「ふざけんな」なるニュアンスが浮かんだのだろうか。天羽は慌てて手を振った。
「嫌味なんかじゃねえよ、片岡、俺はただな、お前のこと勇気ある、男だなって思うだけだ。女子の趣味についてはなんとも言えねえがなあ。な、お前、本当に後悔してねえのか?」
何言い出すんだろうか。司は首を思いっきり振った。
「本当にほんとか? まあお前の望むことだから、もういまさらって気もするけどな、ほんとに西月と付き合うってことで後悔しねえのか? もし後悔してるなら今はっきり言えよ」
──後悔なんて、するもんか。
天羽の言い方が今の段階で一番真剣だっただけに、司はもう一度はっきり言う必要を感じた。当たり前だ。あの笑顔で見つめてもらえただけでいい、ばらを通じて気持ちが伝わっただけで、もう何も望まない。
「僕、西月さんとは付き合わないよ」
「はあ? だって、お前言っただろ? 『付き合ってくれ』って!」
確かに司はそう言ったかもしれない。無我夢中だったし、ばらの花をとにかく渡すことだけで精一杯だったような気がする。でも、西月さんの答えだけははっきり聞いている。司は首をもう一度、軽く振った。
「だって、西月さんは、付き合うって言わなかったから」
「ちょっと待った!」
天羽の顔が真っ赤に染まった。照れじゃない、形相が変わった。
「お前、七日間もあんな恥ずかしい思いして、ばらの花持って行ったんだろ? いったい何のためだったか、よおく思い出してみろよ!」
「思い出すたって、あれはただ」
少しひきつりつつ司も答えるしかなかった。
「僕、ただ、お礼が言いたかっただけだから」
「礼だと? それだけかよ! お前、あいつと付き合いたいんだろう? 好きなんだろう? ぶっちゅっとしたいんだろ? やらしいことしたいんだろ? なあ、正直に答えろよ!」
答えるしかない。正直に。
「そうだよ。天羽、僕はそうだよ。けど、きっと付き合えないよ」
「俺混乱してきたぞ。つまりなんだ、昨日西月からOKを貰わなかったのかよ? で、そんなに機嫌いいのかよ? 俺になんでそれだったら感謝するんだよ!」
「だって、西月さんとふたりっきりにしてくれたし、僕と話をさせてくれたし、ばらの花、あげさせてくれたし」
司なりに正直な答えを発したはずだった。嘘なんてついていない。天羽が求める「真実」を全部話そうと司としては決めている。
「けどそれは、お前、付き合いたいからだろ?」
「僕は西月さんが、してほしいことしかしたくないから」
──くさい言葉、って僕もしゃべれるもんだなあ。
天羽には嘘を吐きたくなかった。
なんで天羽がいきなり頭を抱えてしゃがみこんだのか、舌打ちしたのか、なぜそんなに天地崩れるくらい動揺しているのかわからない。
「ああ、ちょっと待て、片岡、お前のプライド許す範囲ないでいい、何があったのか、言ってみろよ」
──嘘なんて、吐かないさ。
司はそのまま、金曜の放課後、西月さんとふたりきりの時を話すしかなかった。
──もういいよ、ありがとう。
微笑んだ夕暮れ色の、あのひとのことを。
たぶん、砂利路の向こうに桂さんの車はスタンバイしているはずだ。様子をうかがっているのかもしれない。あとでいろいろ根掘り葉掘り聞かれることだろう。隠すことなんてない。司は天羽に全てを話した段階で、覚悟ができていた。
──西月さんに嫌われてもいい、みんな話すよ。
三回くらい天羽は激しくくしゃみを繰り返した。腹の音が鳴った。
「あの女、一体何考えているんだよ」
全て話し終わった後、つばを吐きかけるような調子でつぶやいた。
「お前、本当にあんな女でもかまわないのかよ。俺だったら女子でも一発ぶん殴るかするぞ」
「なんでそんなことできるんだよ!」
「あったりまえだろう。いいか片岡、お前、西月がお前に何を言ったのか、理解していないだろう?」
「理解っていったいなんだよ。天羽だって僕にわかんないことばっかり言うから、わけわかんないよ」
ひとりでわけわからないことを話しつづけるのはいい。黙って聞くなら平気だ。でも、西月さんをこれ以上侮辱するのだけは許せない。天羽はとことん、西月さんを嫌っているのだということがよくわかった。だけど、「もういいよ、ありがとう」の一言を話したとたん、あんなに激昂することはないだろう。
「なあ片岡、お前、命がけで西月に告白したんだろ? ばらの花を持ってくなんてこっぱずかしいことまでしてだ。もちろんあいつが振る可能性だってあるだろうし、そんときは素直にあきらめろってことだよな。俺も無理じいはしねえよ。ただ、あんな曖昧な言い方をされてだぜ。好きとも嫌いとも言わねえでだぜ。それで、それだけかよ。あいつばらを持って帰ったのかよ」
「うん、だって、他のクラスの女子が待っていたみたいだから」
メロン胸の女子ときっと待ち合わせしていたんだろう。玄関ロビーでふたりが横切ったのを見た時に初めて合点がいった。ずっと待ち合わせしていたのだったら、急いで帰っても当然だろう。
「片岡、あのなあ」
しばらく天羽は唇をかみ締め、空を見上げた。曇り空の昼まっただなか。やはり風邪引きそうだった。何か言おうとしたが、つばを飲み込むようなしぐさをした。きっと腹が減ったのだろう。
「わあった。繰り返すが、俺に任せとけ。それとお前にもうひとつ、言っておきたいことがある」
「なんだよ」
さらに西月さんの悪口を連ねるつもりだろうか。一言でもそんなことしたら、すぐに司は桂さんの車に向かって走るつもりだった。
「お前、とにかくもっと、友だち作れ。人見る目、もっとつけろ」
腕時計を覗き込み、天羽は自分の手首を握り締めた。指を軽くぶらぶらさせた。
「このままだとお前、とんでもない奴に騙されまくっちまうぞ」
──天羽ってやっぱりわからないよな。
とりあえず、頷いておけばいいだろう。司が一度、こっくりとしたのを確認した後、天羽は全速力で校舎の方へ走り抜けていった。
桂さんの隣り助手席に座り、シートベルトを締めた。少しガソリンくさい匂いが、むっとくる芳香剤で打ち消されている。すきっ腹にぐうっと来て、ちょっと吐き気がした。
「どうした司、風邪か? 病院行くぞ」
行くか、ではなく、行くぞ、というところが桂さんらしい。口を押えて司はいやいやをした。「さっきからなあ、げほげほくしゃみしてるし、鼻水たれてるし、これが風邪じゃなくてなんだっていうんだ。ほら、まっすぐ病院行くぞ。お前この歳で注射が怖いのか? 彼女が出来そうな時になあ」
「彼女なんて、出来ないよ」
やっぱり桂さんはそれ以上言わなかった。後頭部を軽くぱしぱし叩いた後、自動車電話から行きつけの病院へ連絡を入れてくれた。
「薬もらったら、栄養つけるためにもつ煮を作るぞ。とにかく、食って食って食いまくれ!」
──食えるわけないよ。
もしかしたら天羽に風邪を移されたのかもしれない。そっちの方で少しだけ、天羽を恨んだ。