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 どうやら気付かずにいるのは西月さんだけらしい。天羽がそんなことを軽蔑しきった顔で言っていた。

「はああ、全然気付いてねえなあ。予想以上だわあ」

 ──天羽は段取り段取りって言っているけど、本当に大丈夫なのかな。

 この日だけは桂さんに頼んで、ばらの花一輪を例の花屋さんにて買って来てもらった。終業のチャイムが鳴ると同時に司はいつものように砂利路へ駆け出した。迎えには来なくてもいい、その代わりにばらの花だけ持ってきてもらう。受取ったらめいっぱい走って後、教室に戻る。司は話していないのだが、泉州さんが逐一予定を立ててくれていたらしい。

「お嬢にはまたラーメンおごらないとなあ」

 ひとりごちたのち、にやっと笑いかけた。

「司、気合入れていけよ!」

 余計なことは言わなかった。これから会社の用事があるのだろうか。桂さんの格好は明るい臙脂の背広姿だった。似合わない。


 机を下げて教室を出た時も西月さんは笑顔のまま、みなと挨拶を交わしていた。放課後の待ち合わせなんてないかのようにだった。

「あれ、小春ちゃん、今日一緒に帰らないの?」

「うん、ちょっと狩野先生に呼ばれてるから。また明日ね!」

 司の方なんて見ていない。が、他の連中はさりげなく司、および天羽の方を意味ありげに視線投げていく。

「ほら、くみ恵ちゃん、私、杉本さんのこととか、いろいろあるじゃない? だから今日は残ってくね」

「じゃあねえ」

 からくりご存知の泉州お嬢も、しっかり司に目配せして去っていく。

「これだけ騒ぎになったら、そりゃあばれねえわけねえなあと俺も心配していたんだけどさ」

 ちらっと様子をチェックした後、天羽は司にさりげなく、

「とにかくちっとだけ来い」

 とささやき、近江さんに

「じゃあ俺先に評議のことで行ってるよん、待っててえな」

と大声で言ってのけた。

 ──どこに行けばいいんだよ。

 とにかく天羽をおっかければいいんだろう。しかたなく司はかばんをぶら下げて、できるだけさりげなく教室から出ることにした。もともと司が人と挨拶して教室を出るなんてことはめったにないことだから、別に反応もなにもあるわけじゃない。けど今日に限っては空気が妙に静まっていたような気がした。気のせいだろう。  天羽が階段を降りて玄関へ向かった。三メートルだけ離れて追いかけた。

「下手な尾行だなあ。よっし、こっちさ来い」

 下級生たちが通り過ぎていくのを横目に、天羽はいきなり職員室前で立ち止まった。放課後となると戻ってくる先生たちが、時間差でうろうろしている。狩野先生もちらっとふたりの方を流し目して職員室の中へ。白衣が目立った。長い影がふたりぶん伸びて、司は足をもじもじさせた。

「職員室前ってのはな、結構使える場所なんだぜ。うるせえやつらもここではちょっかい出してこねえし、先生どもはあんまし俺たちにまとわりついてこねえし、なによりも女子がひっかかってこねえ。これは大きいぞ」

 ──そんなこと思うの天羽だけだろ。

 あまりいい思い出が残っていない司としては、一切無視するしかなかった。苦笑して天羽は、司の肩を三回軽く叩いた。

「わりいわりい。そうだな、お前はな。とにかく今日お前のやることを済ませたら、あとは明日のロングホームルームの時までにもいっこ、覚悟を決めてこい。あ、片岡、お前もしかしてかなり緊張してる? ちびりそうか? 先にしょんべんしてきたほうよくねえか?」

 ──余計なお世話だ!

 でも、ちゃんと教室に戻る前には、トイレに寄っていくつもりではいる。もちろんだ。

「そっかそっか、片岡、とにかくだ。あとは俺がうまく段取り組んでおいたから、向こうが教室にいる時にこっそりふたりっきりになるように持ってってやる。ま、さっきの様子だとあいつも全然気付いてねえみたいだし、やっぱり俺がなにかいちもつあるんでないかとか思っているはずだろう。変なこと、言うかも知れねえ。でも、俺もちゃんと正真正銘の理由付けってことしとくから、その辺は心配しないでいいぞ。とにかくだ、片岡」

 半分以上天羽の言葉は理解不能だった。ひとり、芝居がかった言い方で司の肩を抱くようにして語りつづける天羽。なんだろう。どこかの名探偵が犯人を前に堂々と推理結果を語っているかのようだった。

「なあに、目が点になってるんだよ。ったく片岡ぼけてるんだからなあ」

 耳を痛くない程度に引っ張られた。失礼だ。

「とにかくだ、教室に誰もいなくなったとこで、お前堂々と入っていけよ。運悪く誰かがいたら、忘れ物を捜しているような顔をしてふららふららとしてればいい。今日は委員会関係も、まあ修学旅行前ってこともあってだいぶ落ち着いてるはずだしな。そしたら、お待ちかねお前の女神様がやってくる。最初は俺を探しにきたような顔をするだろうが、その時にちゃんと言うんだぞ。『呼んだのは、俺だ』ってな。あとは逃げられないように俺がうまくやっとく。ふたりっきりになったところで、思いのたけを激しく語っちまえばいい。言いたいことだけは、あるだろ、片岡」

 頷いたらからかわれるのが目に見えているので、あえて知らん振りをした。天羽は気を悪くしたような顔をしなかった。むしろ上機嫌でにやにやと、

「ま、やってみねえとこの辺の呼吸はわからねえな。とにもかくにも、まずはお前、早くばらの花、買ってこい。西月には、教室に誰もいなくなったら行くからと言ってあるから、その辺は大丈夫だ。もうそろそろ掃除も終わって落ち着いたころだろうしな。俺は少し評議のかみで狩野先生のところにいってくるから、その間にちゃんと気合入れとけ。いいな」

 最後に背中をばしりとやられた後、天羽はさっさと職員室へ入っていった。


 司もまずは、トイレに駆け込むことにした。さっきから近くてならなかったのだ。緊張の現れとは思いたくないけれど、天羽に言わせたらきっとそうなんだろう。

 西月さんは天羽が呼び出したと思い込んでいる。実際その通りなのだけれども、きっと目的は違うことなんじゃないかと思っているだろう。泉州さんが何も話していないということはきっと、今この一瞬も疑っていなはずだろう。西月さんは今きっと、天羽がやってきて、ばらの花が自分の仕業なのだと言ってくれると思い込んでいるだろう。

 ──あいつ俺だと思い込んでやがる。

 とことん顔をしかめてつぶやいていた天羽の表情は、ほんととことん近づいてほしくないといわんばかりのものだった。

 天羽が言うには、実際ばらを持って一週間通い詰めた奴が司であることを暴露し、あとはおふたりで仲良くどうぞ、という乗りでまとめようとしているらしい。西月さんがどれだけショックを受けるかはわからない。でも、あとは司がなんとか自分の思いのたけを連ねて、言いたいことを伝えればいい。それはもともと覚悟していたことだ。周平との約束でもある。

 ──けど、西月さんはそんなこと関係ないよな。

 泉州さんも天羽も、なぜか司を応援してくれている。もちろん泉州さんは自分の恋成就のために司を利用しているのかもしれないし……いや別に、桂さんとだったら司も応援してやりたいなとは思う……、天羽はそりゃあもう露骨に、「うるさく付きまとってくる元彼女」を捨てたいのだろう。それも、できるだけ傷つけない形で、自分を悪者にしてという形で。司も、もし何事もない心のもとだったら、全身全霊かけて西月さんを口説こうと思うだろう。あの沁みさえなければ。

 司は頭をぶんぶんと振った。

 ──好きになってくれるなんて、思っちゃだめだ!

 ──そんなの、ありっこないよ。ないって。

 最初から悪い想像をしておけば、少しは気持ちも楽になりそうだ。西月さんが「ありがとう片岡くん、私、嬉しかったのよ」と微笑んでくれるところを期待していたのかもしれなかった。そんなわけがない。今一瞬の間にも、西月さんは天羽から新しく告白されることを期待しているのかもしれないのだから。それが裏切られて、悲しく思わないわけがない。よりによってあの下着ドロ野郎から……自分に貼り付けられたレッテルは一生はがれることがないだろう。はがしてものりがしつこく張り付いたままに違いない。なによりも一番可能性が高いのは、「あんたみたいな下着ドロ野郎なんか、近づいてこないでよ! 最低! 不潔!」 と罵られてほっぺたひっぱたかれて、泣きながら去っていくところ。その場面を想像してはいけないと思いつつも思い浮かべてしまう。ひとり取り残される自分と、しおれたばらの花と。

 ──わかってるよ、わかってるよ。けどどうしたらいいんだよ。

 司はかばんに潜めたばらの花がつぶれないように、そっと取り出した。他のクラスの女子が降りてきたのでブレザーの中にいったん隠し、そのまま駆け上がった。どういう噂話されているのかは、聞かないふりをした。


 三年A組の教室に駆け上がってみると、掃除当番の連中と近江さん、また一部の男子たちがこそこそと話をしているのが見えた。近江さんはやはりいつものように、文庫本を片手になにやらしゃべりまくっている。耳をすませてみると、どうやらテレビ演芸番組の話らしい。天羽もそうだけど、近江さんも漫才とか落語とか、ああいう日本伝統演芸が大好きらしい。西月さんもそういうの嫌いではないんだろう。よく父さんの会社のパーティーで落語家さんとか漫才師さんがくるから、もし好きだったら父さんに紹介してもらってもいいのに。思いかけて頭を振った。こういうこと周平に言ったらきっと張り倒される。そういうえさで女子を釣るなんて最低野郎だと嫌われるだろう。

 回れ右して今度はD組の方へ向かった。扉は閉まっているが、教室からは男女入り交じった嬌声が聞こえる。廊下には髪の毛を一本に束ねた、胸の大きい女子が黙って立ち尽くしていた。顔の形はよくわからないけれども果物のメロンをむりやりブレザーの中にふたつ押し込んだような丸みが不気味だった。 ──まだかなあ。  あまりうろうろするのも怪しまれそうだった。例のメロン二個を胸に押し込んだような女子が、奇妙な表情で司を見据えた。 奇妙、としか言いようがない。慌てて司はばらの花をブレザーの脇あたりに隠した。

 ──早く帰ってくれないかなあ。

 D組側の手すりによりかかると、司はかばんにもう一度ばらの花をしまいこんだ。かばんを廊下においたまま、腹を手すりに押し付ける形ですすっと滑り降りてみた。小学校の時良くやって怒られた遊びだった。誰もいないからできたことだ。今だとバランスを崩して三階から一階まで落っこちそうだった。途中でやめて階段を昇り直すと、すべて見ていたらしいメロン胸の女子が無表情に司の挙動を見据えていた。やっぱり、なんか怖かった。


 しばらく手持ちぶたさでうろうろしていると、ようやくA組の扉に動きが見えた。男子連中がしゃべりながら教室を出て行った。A組側の階段から降りていくと同時に、何か面白いことを言った奴がいたのか、がはは笑いをしているのが聞こえた。

 ひとまずほっとして司はA組の教室前に立った。何はともあれ誰もいないはずだ。さっきみんな出て行ったんだから。

 まだじいっと見据えている胸の大きい女子を無視して、まず司は窓ガラスに向かった。さっき掃除当番の誰かがきれいに磨き上げたのだろうか、髪型の乱れくらいは直せそうだ。軽く髪の毛をかき回した。次にシャツの襟とブレザーの埃を払った。さっき砂利道で砂埃を被ったような気がする。司としてはたいして気にはならないのだけれども、西月さんがどう思うかわからない。女子は基本として清潔好きだと聞いている。泉州お嬢のように、肩にはふけの嵐という状態の人もいないわけではないが、西月さんはやはりそういう人だろう。

 ──ふけ、落ちてないかな。

 最後に肩を払った。たぶん大丈夫だろう。実は昨日桂さんがつかっているオーデコロンをかばんに忍ばせ、さっきトイレで制服に振りかけておいたのだ。どのくらい使えばいいかなんてわからないけれど、やったらみかん臭い。でもこういうのもたしなみらしい。司のできる限りの準備は終わった。 扉に手をかけて、まずは握った。ゆっくり開けた。

 ──やばい、誰かいた!

 最悪もいいとこだ。

 さくさくっとした頭の女子が窓際の机の上に腰掛け、上目遣いに司の方を見た。慌てて扉を閉めようとし、なにげなく振り返るとまたメロン胸のあの女子がじとっと見据えている。逃げ場なし。しかたなく司は呼吸を整えて足を踏み入れた。女子は司なんてどうでもいいという顔ですぐに窓の外を眺めていた。「何しに来たの」でも「こんにちは」でもない、じゃまなものが来たなという程度の感じでしかない様子だった。たわし頭の女子、近江さんはポケットから文庫本らしきものを取り出し、適当に開いて目を落とした。

 自分の席に行くにはやはり抵抗がある。司はとりあえず、一番前の椅子を引いて座った。男子の席かどうかだけは確かめた。女子の席なんて選んだら、見られた時に「やーい下着ドロ菌がついた!」などといわれる可能性大だからだ。  足下に血を薄めたような光が注いでいた。近江さんがさっき見つめていた空を司も追った。赤と青が混ざったような、神乃世で良く見るような夏の空だった。小学校時代周平と一緒に野球していた時、こんな空していた。気を紛らわせたくてそう思った。  

 どのくらい時間が経ったのかわからない。司がずっと膝に両こぶしをこしらえて、うつむいている間。さっさと近江さんが帰ってくれればいいのに全く動きやしなかった。振り返ると何を言われるか怖いからそのままでいた。司はそっと教室で黙って座っていた。廊下に足音が響くたび、笑い声が聞こえるたび司は身を硬くして耳をそばだてた。何度か繰り返された後、A組側の階段をばたばたと音ならして駆け上がる足音が響いた。

 ──天羽だ。

 D組寄りの扉が思いっきり開いた。空気が揺れた。ほっと息を吐いた。

「おーまったせいたしやした! 近江ちゃーん、もしかして待ちくたびれてた?」

「別に」

 一言、めんどうくさそうに近江さんが答えた。はたと合点がいった。どうやら天羽は教室で近江さんと待ち合わせしていたらしい。

 ──なにが段取りだよ。そんな、こんなんだったら、西月さん入ってこられないじゃないかよ。

 ──さっさと帰ればいいんだ!  

 ずっとうつむいていた時は、このまま何も起こらなければいいなんて真剣に思っていたくせにだ。全く自分の性格はいいかげんだ。司は天羽の足音が自分の後ろに近づいてくるのを感じて、さらに身をこわばらせた。歩きながら近江さん相手に軽口を叩き合っている天羽の様子。そこには動揺とかそういうものはなかった。

「近江ちゃん、花好き?」

「嫌いじゃないわよ。私は百合が一番」

「あぶねえこと言うよなあ。せめてもっと激しく燃えろグラジオラスとか」

「なんでグラジオラスが激しいのよ」

 よくわからない言葉ばかり、天羽と近江さんは使っている。このふたり、クラスでも三年になってからいつもそうだった。西月さんと仲の良かった頃と同じような調子だった。あの頃は聞いていてもそれほど腹が立ったりしなかったのだけど、今の自分にはふたりの交わす言葉がちくちく刺さり、泣きたくさせた。  

  足音が止まった。肩に置かれた手が熱かった。 「じゃあ、がんばれよ。待ち人、そろそろ来るぜ」

 ──近江さん見てるよ。

 やはり近江さんは天羽の彼女なのだから、それなりに司のことも聞かされているのかもしれない。その辺はあえてがまんすることにした。司だって自分の思いとか今日の計画とかを桂さんや泉州さんにべらべらしゃべっているのだから。そうすることによって今日のチャンスが得られたのだから。これから西月さんが来た時、自分はどうやって本当のことを話せばいいのだろう。舌がもつれて思いっきり噛みそうだ。けれど、天羽と近江さんがいるところで西月さんが傷つくところを見るよりは、はるかにましなような気がした。

 ──天羽、感謝するよ。

 ──周平、いよいよなんだよな。

 神乃世で「親友の証」を求めたあいつに、司は身動きせぬまま想いを投げかけた。

 ──いよいよ、一人なんだ。


 後ろ側の扉が開いて出て行こうとしたとたん、今度は天羽が息を呑む気配を感じた。はあっと息のようなものがどこかから聞こえている。司は振り返りたいのを必死にこらえた。心臓がちぎれそうだ。なんでかわからないけれど猛烈にトイレに行きたくなってしまった。握りこぶしをめいっぱい力入れ、足を震わせていた。

「ほら、待ってるぜ。ばらの相手が」

 ──ばらの相手、って僕のこと?

 恐る恐る司は振り返った。扉に入る直前のところで、前髪をすくった格好の西月さんが司と天羽を交互に眺めていた。天羽は真っ正面から西月さんの顔を見据え、背に従えている近江さんの方へ片手をひらひらと後ろ側へ延ばしていた。近江さんはというと、あきれはてたといわんばかりの様子で、天羽の手を無視しあくびをちいさくした。

 西月さんはなんども繰り返し司と天羽を眺めなおした後、最後に司へ向かって、小首をかしげた。細い声で尋ねた。

「私を呼び出したの、天羽くんじゃなかったの?」

 ──やっぱり言われた。

 答えが見つからない。西月さんは近江さんにも何かを訴えたさそうなそぶりをした。口びるを開いたままなんどか呼んだ。でも近江さんは一切相手にしなかった。天羽も最初はかなり驚いていたようすだったけれども、もういつも通り冷静に戻っていた。

「天羽くん、どういうこと。説明して」

 怒っていない。泣いてもいない。ただ、か弱かった。司は両手を爪が食い込むくらい握り締め続けた。ただ西月さんの視線だけは受け止め続けた。全校集会で途中具合悪くなって抜け出したいのに抜け出せない奴のようだった。  近江さんはあきれたふうに、「ほう」とため息をついた。ひとにらみきかせた。 天羽は一歩あとずさりし、近江さんへ困った風に同じく「ほう」とため息を吐いた。うなだれると同時に司へ顎で頷いた。合図だろうか。司は動かず、黙って西月さんだけを見つめることにした。もう逃げられないのだったら、何したって、何言ったって同じだ。もう西月さんが司のことを想ってくれる可能性はゼロだとわかったのだから。しょうがない。司は周平と約束したことを果たすだけだ。それ以上のことを望んではならない。

 ──僕は、下着ドロなんだ。永遠に、そうなんだ。

 それならせめて、真っ正面から見つめることだけ、させてほしかった。


「まあ、入れ。それからだ」

 西月さんは一歩入った。同時に司はかばんを開け、かろうじてつぶさないですんだばらの花一輪を取り出した。西月さんの机は司の座っている席の真後ろだった。いつものように斜めにして置いた。西月さんはそれを、何も言わずに見つめた。視線が苦しくて、とうとう司はうつむき背を向けた。身体が汗ばんできて、とろけてしまいそうだった。

「片岡、くん?」  

 いつもの「片岡くん、おはよ!」ではない。細く、泣きそうな声だった。いつも天羽に見せないところで、女子同士で泣いている時の声と同じだった。耳にするたび、どうしようもなく苦しくてみじめになる、あの時のものと同じだ。  西月さんはもう一度、繰り返した。

「まさか、これ、一週間、ずっと片岡くん、だったの?」

 ──答えなくちゃ、だめなんだ。そうだろ、周平。

 足場がぐらついているようだった。司は足がこのままなくなってしまうんじゃないかと思うくらいがたがた震えているのが自分でもわかった。雲の上で足元がすとんと抜けそうだったら、こんな感じなんじゃないだろうか。みっともなくらいからだが震えているのが丸見えなんじゃないだろうか。顔も、きっと信じられないくらい真っ赤なんじゃないだろうか。ばらの花と同じくらいに、きっとそうだ。

 西月さんは見ていた。隣りにいる天羽ではなく、司だけをばらごしに見つめていた。

 決して軽蔑するような目ではなかったのが救いだった。ただ、「どうして?」と尋ねるようなまなざしに、言葉が見つからない。泣いていなかったからよかった、そんなことを思った。もしここで悲鳴をあげられたら、司はきっと窓から飛び降りて逃げ出してしまっただろう。年賀状の写真でしか正面で見つめたことのなかった彼女が、今ばらの花を境にして近づいている。

 ──よかった、ほんとに、よかった。

 司は西月さんの机側に立った。そっとばらの花をくるんだアルミホイル部分を握り締めた。さすがにここで、いつものように、「ありがとう」とは言えなかった。ただ指先に想いをめいっぱいこめた。刺が食い込んでしまいそうなくらい握り締めた。赤い光はばらの花びらをとろかしたようだった。頬が染まり、ただじっと司だけを見つめているあの人へ、一歩一歩近づいていった。

 隣りで天羽や近江さんが何を想っているかなんてどうでもよかった。

 たとえこの場で西月さんが司を張り倒したとしても、それでもよかった。

 後ろでただ立ちすくみ司が近づくのをそのままに、待ってくれている大好きな人。

 ──警察に捕まったっていい。嫌われたっていい。もう退学になったっていい。

 今まで感じたことのないもの。教室の窓ガラスいっぱいに照りつける「神乃世発」の夕暮れ。

 周平の声「親友の証を見せろよ」。

 いろんなものが交じり合い、頬を真っ赤にした西月さん一点に集まった。声がうまく出ない。

「ほら、言いたかったんだろ。お前の、『女神さま』にさ」

 ──余計なこというなよ! 

 めまいがした。天羽をちらっとにらみ、もう一度司はうつむいた。

 ──ありがとう。僕を救ってくれて、ありがとう。


「これ、あげたかったんだ。受け取ってほしいんだ」

 かすかに西月さんの髪が横に揺れた。司は続け、そっとばらを差し出した。

「盗んだんじゃない、自分で買ったものだから」

「そ、そんなんじゃないの。私、これ、受け取れないよ。そんな高価なもの。私、ばら、大好きよ。でもね」

「聞いた。ばらの花、毎日、プレゼントしてほしいって」

 なにか付け加えないとまずい、とっさに言い足した。

「天羽から聞いた」

 西月さんは息を呑んだ。かすかに震えているようだった。もっと、違う言い方すればよかったかもしれない。そこまで頭の回らなかった自分のアホ加減を呪いつつ、司はもう一度ばらの花の柄を握り締めた。わけがわからないなりに、全身が激しく燃え盛っていた。目の前に広がる夕陽の滴りで、

 ──もう、この瞬間に死んだっていい。  

 天羽のせきばらいで、司はすぐに生き返った。西月さんも司からすぐに目をそらした。

「わりい、つまりだなあ、そういうわけなんだ」

 もう見てくれない。司がずっと西月さんだけを追いかけて近づこうとするけれども、そうさせないバリアが張られているようだった。細い、か弱い声だった。片面だけえくぼをこしらえ、早口にまくし立てようとしている。

「そういうわけってどういうことなの。私、わからない。だって、なんで片岡くんがそんなことしなくちゃいけないの?」

 もう一度司を見た。笑っているのか怒っているのかわからない。

「ね、誰かに頼まれたの? 私、怒らないから」

 ゆっくりと、いつもの評議委員口調だった。今だったら司が「ごめん、冗談だったんだ」と言えば、丸く納まるだろう。そう言ってほしいんだろう。でも司には一切嘘を言うことなんてできなかった。

 ──そうしたいだけなんだ。

 言葉にしようとしても、舌が固まって出てこなかった。

 ──お願い、嘘だって言ってよ!

 叫んでいるように見えた。天羽がもう一度、のほほんとした感じで助け舟を出してくれた。

「素直に受け止めろよ。お前、前から片岡に優しくしてやってただろ?」

「優しくって」

「西月、受け止めてやれや」

 どこか天羽の口調は、以前「小春ちゃん小春ちゃん」と優しく語りかけていた頃のものに似ていた。その調子のまま、司ににやりと笑って見せた。

「ほら片岡、お前も西月のことどうして好きか、言ってやれよ。一年の、あの時からだろ? 男子からもみなばればれだったんだって、わかってるだろ。この機会だ。誰もライバルいないんだ。安心して言っちまえ」

 ゆっくり今度は近江さんへ片手を差し出し、数回振るようなしぐさをした。近江さんはうんざりしきった顔で天井を眺めている。天羽がすっと腕、そして指を触れようとしているのを、特段振り払うでもなく面倒くさそうに唇を尖らせていた。

「片岡はずっと、お前に惚れてたんだ。俺なんかよりも何千倍もな」

「そんな勝手に決め付けないでよ。片岡くんだって迷惑するよ。私なんかに」

 ──そんなことない! 僕はそんなことないよ!

 舌の奥がとろっと溶けた。言葉がゼリーみたいに流れてきた。叫んでしまった。

「迷惑なんか、しない。天羽の言う通り」

「片岡くん、なんでなの、だって私、片岡くんになにもしてないよ?」

 天羽が指を鳴らした。もう止まらなかった。もう自分の気持ちが考える前にどろどろっと流れてくるのを押えられなかった。目の前でまだ赤く、揺らめいている夕陽の中、司は周平との約束の言葉を口にした。

「西月さんがいたから、僕はこの学校にいられた」  

 気のせいだろうか。誰かが司の頬をさらっと撫でたような感覚が残った。かすかな風のようだった。

 震える足と手をそっと包んでくれた。そんなふうに。

震えが止まった。すっと手が西月さんの方へ、正面へ出た。握り締めたばらの花はちゃんと、だいだい色に染まった西月さんの髪と頬の前にあった。

「ちゃんと俺のできること、するから」

 言うつもりのなかった言葉が、自然とよじ登ってきた。

「お願いします。付き合ってください」

 藤棚の垂れ下がる花のように、司は頭を下げた。


 側に近づいてくる、温かい気配がする。自分の振りかけてきたオーデコロンで、側にいるはずの西月さんの、甘い薫りが消えてしまったようだ。また震えてくるのは風の魔法が消えてしまったからだろうか。司は身動きしなかった。

「私、クラスの評議として当然のことしただけだよ。片岡くん、濡れ衣着せられただけなのに、そんなこと言われたって困るからって。それだけなのよ。そんな大げさに受け取らなくたって、いいじゃない」

 優しい声だった。いつも「片岡くん、おはよっ!」と呼びかけてくれたものと同じだった。

「誰にそんなこと吹き込まれたの? 私、ちゃんと文句いうから。片岡くん、今のことみんな嘘でしょう。嘘と言ってもいいのよ」

 ──違う、違うってば。文句なんていいんだって。僕はただ。

 いきなりずきっと咽が痛くなった。横目で天羽の方を見た。視線がかち合った。すっかり落ち着き払った天羽は司にだけわかるように、小さく目のふちに笑いしわをこしらえてみせた。

 ──本当のことを言いたかっただけだよ。天羽になれなくてごめん。けど、これだけはいいたかったんだ。

「本当。今のこと、嘘はひとつもない」

 ──ありがとう、それだけだよ。

 言葉は返ってこなかった。西月さんは司の顔を黙って見つめた。さっきとは違って、感情の糸がみなすぱっと切られたようなそんな表情だった。暗さがさらに西月さんの瞳を潤ませているように見えた。戸口で天羽と近江さんがいきなり身を寄せ合い、

「近江ちゃんけっこう大胆?」

「別に、それより早く帰ろうよ」

 肩をつつきあい、挨拶もせずに教室から出て行くのが見えた。天羽だけがもう一度、言葉にならない「グットラック」を、親指立てて合図していった。まさしく司を応援しているとしか思えない。


 教室の窓べから流れる青と赤の絡み合った光に、西月さんが包まれていた。髪の毛が赤茶色に照り付けられていた。手を伸ばしたいのをこらえつつ、司はもう一度言葉を捜した。とうとうふたりっきりだった。他の女子たちだったら「片岡みたいな変態と同じ部屋にいるなんていや!」とか言って逃げ出すだろうに。一言も西月さんはその類のことを言わなかった。


「片岡くん」

 一度、天羽たちが出て行った扉をそっと眺め、西月さんは静かに尋ね返した。

「今のこと、天羽くんが全部、仕切ってくれたのね」

 責める口調とは違った。少し安堵しながら司はうつむいた。

「花も、天羽くんから持っていくようにって言われたのね」

「違う!」

 この辺誤解されないようにしなくちゃと、司は強く否定した。

「天羽はただ、あの、ばらの花が好きだけど買ってあげられないって言ってたから、それで」

 ──だってばらの花が好きだって言ってたし。

「私が? ばらの花?」

「うん、ばらの花を百本毎日、小野小町みたいに持って行ってあげればって。だからあの、天羽は悪くないんだ。僕がやりたいって言っただけだから」

 そっと視線が司の手元に移った。ばらの花はちょうど花びらが一杯に開いて、今にもこぼれそうだった。このままだと天羽が嫌がらせをしたんだと思われるかもしれない。それはまずい、司なりに考えた。

「ほんとは、ビーズの指輪、作りたかったけど僕、指が不器用でぜんぶ、材料無くしてしまったんだ。だから」

「ビーズの指輪?」

 ──だって、ビーズの指輪がほしかったって言ってたし。

 西月さんは司とばらの花を何度も見比べた。頬をこすり、またばらの花に目を落とした。

「ほんとは天羽がしてあげたかったことをしてあげられなかったから、だから、僕ができればって思ったんだ。だって僕は」

 言葉が自分でも支離滅裂だとわかっていた。でも、これ以上天羽を悪役にするわけにはいかなかった。たぶん天羽は西月さんのことが好きではないのだろう。だからわざと振るようなことをしたのだろう。でも、最後の最後まで西月さんのことを傷つけたくないと思っていたに違いない。だから、司にチャンスをくれたのだろう。そうとしか考えられない。決して想いが……下着ドロのくせに恐れ多い望みまで口走ってしまった自分……叶うはずもないとわかっているけれど、せめて茜色に染まる西月さんの姿をプレゼントしてくれた天羽には迷惑をかけたくなかった。天羽が手伝ってくれなかったら、この一時も、こうやってふたりで一緒の空気を吸うことすら許されなかったのかもしれない。

 ──僕はこれで、十分過ぎるくらい十分なんだ。だから。


 本当は手を伸ばして、もっと触れるくらい近づきたい。

 泣いてる時には一緒にいたい。

 あの頃の天羽と西月さんのように、一緒に話をしたい。

 でもそれは、自分の罪を思えば望めないことだ。

 夢見ることすら許されないことだ。

 だけど天羽は、ばらの花一輪という魔法でもって、西月さんに近づくことを許してくれた。


「西月さん、僕は」

 また表情を無くした西月さんへ、司は咽の奥から言葉をしぼり出した。

「西月さんのおかげで、僕は、死なないですんだんだ。ありがとうって、あの、それだけ」

 あとは言葉にならなかった。もう正面から西月さんを見つめることはできなかった。自分の眼からまた、ひとたれ、ふたたれ、熱いものが流れてくるのをとめられず、司は片手で何度も頬をこすった。もう二度と、手の届かない相手だからこそ、今この時だけは自分もだいだい色に染まりたかった。西月さんと一緒にくるんでほしかった。


 手元がいきなり引っ張られるような感覚に、思わず司は顔を上げた。みっともない、涙でずたずたの顔を見られてしまって慌てて髪の毛を振った。もう床いっぱいの光も消えていた。あとはわずかにうすい藍色の空が広がっているだけだった。西月さんの手が司の持っているばらの花をつかんだからだった。めまいがして、司はふら付いた。あやうく机の角に尻をぶつけそうになった。

「この花、天羽くんが持っていけって、言ってくれたのね」

「うん」

 しゃくりあげながら司は頷いた。

「それで、片岡くんが一週間、私のために持ってきてくれたのね」

「うん」

「そうなの」

 ささやくような、やわらかい響きだった。クラスでは決して聞くことのないような、たんたんとした言葉だった。こんな西月さんを見られるのも、今だけだろう。受けとって、西月さんは自分の口元にばらの花を当てるようなしぐさをした。

「ありがとう。もういいよ」

 もう一度西月さんは微笑んだ。ふたりっきりになったばかりの時とは違って、そのまま普段の笑顔につながりそうな表情だった。ただ、闇の中で見えなかったのかもしれないけれども、ほっぺたのえくぼを発見することはできなかった。

「じゃあ、また明日ね。ありがとう」

 肩がかすかに震えているように見えた。司はそのまま動かず、西月さんが扉に手をかけるのを見送った。黒い影に戻り、廊下へ去っていった西月さんを誰かが待っていたのだろう。

「西月先輩、どうしたんですか? そのばら」

と平べったい女子の声が聞こえてきた。

「きれいでしょう」とだけ、西月さんの返事を聞き取ることができた。


 ──もう、思い残すことなんてない。もう、ひとりでいい。もう、大丈夫だから。ありがとう。  

  司はもう一度、ほっぺたの涙をぬぐった。

 ──けじめ、きちんとつけるから。受取ってくれて、ありがとう。


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