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 男子トイレを通り抜けて奥の部屋に通されても、泉州さんは動じなかった。振りかえった桂さんが、なにげにに様子を伺ったのを、すっかり勘違いしているらしい。司の前だってことを意識していない。腕に飛びかからんばかりだった。

「すっごおい、かっこいいじゃん」

 ──かっこいいってなんか間違ってないか?

  うっかり変なこと口走ると大変なことになる。すでに司は学習済みだ。

「じゃあ、もっとかっこいいものを見せてか。いつものラーメン一丁!」

 やはり桂さんは頼むと思っていた。もう第一次関門「トイレを通り抜けて特別室へ」は通過している。ラーメンにマヨネーズをトッピングするなんて、ピザでもあるまいし人間の食えたもんではない。さすがに桂さんはいきなり怪しい食べ物をすすめることはせず、素直に塩と醤油ラーメンを注文した。もちろん自分の分はオリジナルバージョンだ。

「片岡もずいぶん若者らしい食い物食べてるんだよねえ。いわゆるファーストフードとか、そういう庶民のもんは食わないもんだと思っていたよ」

「食べてるよ」

  神乃世では、の話だが。周平と親の目を盗んでセットメニュー注文したことがある。後で母さんに買いぐいしたことを怒られたけれども、禁止はされていない。夕食が食べられなかったのが計算違いだっただけだ。

「そうかあ、いつもさ、腹すいたぞって顔しててさ、そのくせ給食はなーんも食わないんだもんねえ」

「おい司、お前そうなのか?」

 ──食べる気になれるってか。

  割り箸を割らないまま、テーブルを叩いてあさっての方を向いた。

「さあて来た来た、取り皿もサンキュー。さ、お嬢も食うか? 俺の特別メニュー」

 店のおかみさんがいつものようにぶっきらぼうに、ラーメン三膳、置いていった。すっぱいのと脂臭いのとでごったに状態の、桂さんのラーメンどんぶり。覗き込み泉州さんは驚かずに、

「うん、食べていいですか。おいしそう!」

 ──やっぱりこの人変だよ。

 箸を割って司はぐるぐる自分の醤油ラーメンどんぶりをかき回した。これだって結構な量 がある。給食はいつも、ほんの少し皿にひっかかるくらいしか食べないので、四時過ぎると猛烈に腹が減ってくる。のびないうちにがっついた。

「片岡ってさ」

 仲良く、マヨネーズラーメンの汁を自分の塩ラーメンどんぶりにちりれんげで注ぎすすっている泉州さんは、口をもごもごさせたままつぶやいた。

「もう少しなんとかしたらどうかねえ。あんた、犬食いしてるんじゃないの」

 ──人のこと言えるのかよ。

「小春ちゃんのうちって、食事のマナーにはうるさいらしいよ。あんた、もう少し箸の使いかた覚えなよ。あ、そっか。今度さ、あんたに矯正箸をプレゼントしようか。ねえ、桂さん?」

 最後の、桂さんへの呼びかけだけがやたらと甘ったるかったのがむかっとくる。

「余計なお世話だ!」

「いや、司、お嬢の言う通りだ」

 なんでこの二人、初対面……ともいえないけれども限りなく初対面に近いだろう……なのにここまで結託できるんだろうか。司は汁を一気にすすって口を袖で拭いた。

「お前もなあ、やっぱり握り箸は直そうな。俺も前から気になってたんだぞ。泉州さん、鋭いなあ、やっぱりあんたみたいな子がな、司の彼女だったら」

「桂さん!」

 もうがまんできなくて、司はテーブルを思いっきり殴った。もちろん箸は握ったままだ。

「なんでそんなに僕を馬鹿にするんだよ! もういいだろ! 僕ひとりで帰るから!」

「桂さん、そういうわけいかないんでしょ」

 また世の中なめきった表情で、にやにやしながらお嬢、泉州さんは微笑んだ。

「だって、あんたのことで桂さん、神経すり減らしてるってのがよおくわかるよねえ。またあんた誘拐されたらどうすんのさ。青潟中大騒ぎになるんだよ。状況によってはさ、うちの父さんも殉職しちゃうかもしれないしさ」

 そんなのほほんとした言い方しなくたって分かっている。よっくわかっている。なんでみんな、わかりきったことばかりぶつけて司を物笑いにするんだろう。さっき桂さんが言った通り、泉州さんのお父さんが警察関係の人だったとしたら、たぶんじいちゃんばあちゃんの誘拐事件がらみでの知り合いなのかもしれない。司が生まれるはるか昔のことだし、泉州さんだって生まれているとは思えないし。でも、新聞にあれだけでかでかと出る事件だったのだから、もしかしたら泉州さんのお父さんが関わっていたのかもしれない。それこそもしかしたら、「殉職」寸前だったのかもしれない。

 ──わかってるよ。どうせ僕は、そういう立場なんだもんな!

 ──けど、そんなことと、なんでここまで僕が物笑いにされるのかとは関係ないよ!

 もっと言い返したいのに言葉が続かない。司はただ、ぎょろっと目に力を入れてふたりをにらみ返すしかなかった。全く動揺する様子もなく、ふたりは仲良くマヨネーズラーメンを食していた。  

 

  食べ物がおいしいのかどうかわからないけれど、胃袋が膨れるとなんとなく無言でも平気の気分になってくる。余計な言葉を泉州さんも桂さんも口走らず、ふたり腹を撫でで、

「ああ食ったくった、うまかったかお嬢」

「ごちそうさま! 今度作り方教えてくださいよ!」

「おおきた! 今度うちに遊びに来いよ。司、お前も一緒に作り方覚えろよ!」

 なごやかな会話が続いていた。

 ──マヨネーズをラーメンに入れること自体が間違ってるよ。

 無視して司は割り箸の先を噛んでいた。食べ終わった後、まだ食い足りないと餃子を注文するのが桂さんの常なのだが、どうもそういう気分ではないらしい。お茶のお代わりをおかみさんからもらうと、爪楊枝で歯の間をつつきつつ飲んだ。もう帰りたい。

 泉州さんは帰りたがっていないみたいだった。

「あのさ、片岡、この機会だからひとつ聞きたいんだけどさ。ほら、やっぱ、学校だといろいろ問題あるじゃん? 小春ちゃんにも聞かれたくないことあるじゃん?」

「話すことなんてもうないよ。この前、話したことだけだよ」

 いきなり肩をがしっと両手で捕まれた。もみ出した。上手だ、肩がほぐれる、と思ってしまったけれど慌てて身を逸らした。

「やめろよ、泉州さんいったいなんで僕につきまとうんだよ。桂さんだけでいいだろ」

「もちろん、あとで桂さんには出血大サービスしてあげる。でもさ、せっかく桂さんがいるんだったら、私がやばいこと口走ったって、あんた守ってもらえるじゃないの。最高のシュチュエーションよ」

 ──どこが最高だよ!

 司は手を振り解いて尻で座布団一枚の幅、逃げた。向かい合って受けているのは桂さんだった。自分のことをネタにされているのに、全然腹を立てようとしないではないか。やっぱり桂さんと泉州さんとの間には、何か事情があるんじゃないだろうか。司が知らないところで何か。まさか、泉州さんのお父さんが、司の二年前にしでかした事件について調べていたとかなんとか……いやそんなことはない。ないはずだ。警察には洩れていないはずだ。でも、泉州さんが情報を流して、お父さんを動かしていたとしたら……想像ばっかり膨らんで、さっき食べたラーメンをもどしそうになる。どきどきした。

「なんだよ、もういいかげんにしろよ! もう僕だってみんな話しただろ? あの人に、本当のこと言いたいんだったら言えよ。C組の女子にばらしたいんだったらばらせよ。もう僕はどうなったっていいんだから」

 言いながら、危うく泣きそうになりごくんとつばを飲み込んだ。

「いやごめんごめん、別に片岡、あんたのこと泣かそうだなんて思ってないからさ。それにしてもあんた、ずいぶん泣き虫だねえ。別に男が泣いちゃいけない法律なんてないんだから」

「泣いてなんかいないって!」

 勝手に決め付けるのはやめろと司は言いたい。桂さんに助けを求めたいけれども、三人きりの部屋の中、泉州さんの思う壷になりそうだ。お願いだからこれ以上、桂さんに事情がばればれになるようなことは話さないでほしい。それだけ祈った。

「あのね、片岡。私はね」

 髪の毛がほつれてぼさぼさしている。ドアップで見ると本当に目の切れ長なとことか、唇の細くくっきりしたとことか、鼻の整っているところとか、有名な大人の女優さんそっくりだと思わずにはいられない。だけど、髪と肩の白いふけだけがやたらと目立ち、せっかくの顔かたちが台無しだった。司は覚悟を決めて一言投げた。 「泉州さんこそ、もっときれいな格好すれば、桂さんいちころなのに」

「はあ?」

 不意を食らったらしい、熱気が少し引っ込んだのを感じる。ゆるんだ口元と目元が、花びらほころびたという感じで、やっぱりきれいだった。

「食べる前にさ、肩のところ、はたいた方が、いいと思うんだ」

 一矢報いたか。ざまあみろ。一瞬にして崩れた。泉州さんの表情はすぐに意味ありげな笑みを浮かべた。

「ご忠告ありがと。いいきっかけになったよね。ところで片岡あんた、どうしてあんなこと、しちゃったわけ?」

 ──あんなことって。

 桂さんへ優しく頷くしぐさをする泉州さん。司にはふたりの意思疎通がどうしてなされているのかが見当つかない。

「この機会利用して、白状しちゃいなよ。桂さんだって心配しているよ」

 ──なんだよ、この人たち。

 またぐぐっと、こみ上げてきそうになる。火をつけてしまった自分をぶん殴りたかった。司は足を半分あぐらかいた格好にしながら、後ろにのけぞり片手をついた。

「そうだな、司。今日は秘密を守ることのできる三人組だ。ってことでだ」

 完全に包囲された。司はやっと答えの出た言葉を桂さんから聞いた。

「二年前のこと、言っちまえ」

 きん、と頭の中に張り巡らされていた糸が切れた音がした。


 いつも桂さんと出ている裏口から抜け出すと、司は駆け出した。勘定はどうせ桂さんが全部やってくれる。あのふたりがぐるだったってことをどうして気付かなかったのか、自分のまぬけぶりに腹が立ってくる。

 ──結局それかよ!

 変だとはうすうす思っていたのだ。なんで泉州さんがいきなり司のうちに電話をかけてきたのかとか、なんでいきなり上がってずうずうしくばらの花の事情について聞き出そうとしたのかとか、なんであんな白々しいやりかたで初対面を装い、あっという間に打ち解けてしまったのか。パーティーがどうのこうのって話していたけれど、あんなのきっと大嘘だ。最初から泉州さんと桂さんは、告げ口かなにかしあって、司に張り付こうとしていたに違いない。

 ──桂さんはしょうがないよ、桂さんは。

 なんどか似たようなことはあった。桂さんはいつも脳天気にB級グルメのことばかり考えているように見えるけれども、実は相当の切れ者だったらしいと聞いている。今のところは司の教育係としてのみ、父の会社に携わっているけれどもかつては超エリートだった……本人談……らしいとも聞く。桂さんはその辺の事情を司に全然話してくれないけれど、たまに父の関係で連れて行かれるパーティーなどで聞いた話だと、わけありで会社を辞めたのにまだ社長である父が手放さないでいる、ということらしい。つまり、桂さんもいろいろあるってことだろう。あんまり今までは考えてなかったけれども、桂さんが単なる「売れない漫画家」風貌の奴ではなく、ひと癖もふた癖もある切れ者だったことは確かのようだ。  司がこっそり何かしようとしても、すぐに桂さんに気付かれる。 ばらの花百日間計画のように。

 司が精一杯考えて計画し、ばれないように遂行しようとしても、桂さんにはかなわない。

 頭ごなしにやめさせられることはないけれど、桂さんの視界に入らないようにすることができるのは風呂に入ることとトイレくらいじゃないだろうか。今まで考えたことなかったけれど、二十四時間監視されている状態なのだ。

 きっと、司が西月さんへばらの花を捧げようとたくらんだことを見抜いた段階で、学校側に手を回したのかもしれない。それこそ、泉州さんのお父さんの関係で、かもしれないしそうでないかもしれない。また泉州さんも桂さんのおめがねにかなってさっそく、司へスパイみたいなことをしようとしたに違いない。ついうっかりと、西月さんへの想いを認めてしまい、内緒にするという約束のもとでぺらぺら話してしまった自分のまぬけさが悔しい。

 本当に、どうしようもなく悔しい。

 曇りのち晴れ。雨はだいぶやんだ。湿った空気が足下からよじ登ってくる。蒸し暑い。青潟には梅雨がないと言うけれど、きっとこれって噂に聞く「梅雨空」だ。  司はひとりでゆっくりと歩き出した。

 さっきラーメン店を飛び出した時、桂さんも泉州さんも、全く動じていなかった。小さく、 「おい、司待て」 と怒鳴ったように聞こえたけれども追いかけてこなかった。黙ってもうちに帰るしかないのだから、とたかをくくっているのだろう。思い切って駅前のゲームセンターに入ってみようか。それとも、喫茶店に入ってみようか。そのくらいのお金だったらポケットに入っている。

 ──僕だってわかんないこと、なんでも知りたがるなよ。

 涙が出そうになる。泉州さんに言われた「泣き虫」という言葉が刺青みたいに刷り込まれてしまいそうだった。そうだ、学校では決して泣かないけれども、あの時、二年前のあの日はどうしようもなく泣きじゃくっていた。

 本当に、あんなことさえしてなければ泉州さんにさんざん物笑いにされることもなかったし、司が計画していたことだってもっともっと楽に運んだはずだった。何もかもがぶっ壊れてしまった。孫悟空がお釈迦様の手の中で走り回っていたことを知ってショックを受けるという話を読んだことあるけれども、今の司がまさにそうだった。さらに猿の本能丸出し。みっともないったらない。


 駅前通りは仕事帰りの男女や学生たちでごったがえしていた。司が青潟に越してきた時、神乃世よりも大人がひしめいていることに驚いた。また、司と同じ年頃の子どもが男女で肩を並べて歩いていたことも。司はあの頃誰かのことをそんな思いで見つめる日が来るとは思っていなかった。たまらなく通りのカップルがうらやましいと思う日が来るなんて。司にはわからない感情がここのところあふれかえって、どうせき止めたらいいのか見当つかなかった。

 ──わからないのがどうして悪いんだよ。

 数人、青潟大学附属中学生の制服姿を見かけた。雨が降ったせいかちゃんとブレザーを羽織っていた。司は見られるか見られないかのすれすれで花屋の隣に並んでいる書店に滑り込んだ。入り口のマットにこけそうになった。自動ドアが開いて前かがみになりふらついた。棚が大ざっぱに四列くらい並んでいた。司がたち読みするコーナーは一カ所だけだ。スポーツおよび格闘技。男性客ばかりで野球雑誌を手に取ることもままならず、司は人の後ろから本棚を覗き観するだけだった。なにかの拍子にレジの方へ目が行った。やはり司と同じ年頃の男子が学生服のままレジを捌いていた。

 ── 一年くらいかなあ。アルバイトする中学生なんていけないんじゃないかと思う。でも、学校でなんもやる気なしのまま惚けているよりはましかもしれない。「お客様、恐れ入りますが二列に並んでお待ち下さい!」本を片手に十五人以上の客から本を受け取り、一秒でカバーをかけ、隣のレジ打ち係の女性に「雑誌、一点で五百円、計五百円となります!」と威勢よく声を張り上げている。まだ声が女子みたいにとんがっている。愛想は悪くない。どんぐり眼の、なんにも考えていない顔した奴だった。やがてピークが過ぎるまでの五分あまり、その男子は魔法の手を使うがごとくスムーズにレジ前の客を片づけていった。実に要領がいい。片手で本を受け取り、次の瞬間もう一方の手でカバー用の用紙を器用に折っている。

 ──すごい、速い。 司は自分よりも確実に仕事のできる奴にぼんやり見とれていた。 あの忙しさを思うと、本を買うのも気がひける。 司は野球専門週刊誌を棚に戻した。 やがてそのレジ打ち少年は手薄になったところで、隣の女の人に、

「さっきの電話、俺宛だった?」

と尋ねた。

「五月ちゃんからだと思っているんでしょう」

「違うよ、それより誰だよだれだよ」

「かわいい声だったわよ。佐賀さんとか」

  言いかけた女の人を遮るように、いきなりレジ打ち少年は手元のカバー折りを中止した。はっと空を見つめ、司と目が合った。すぐにそらし、

「あの、俺さ。もう手伝わなくていいかな。おとひっちゃんに頼まれたこととか確認しなくちゃいけないんだ。母さん、悪いけどさっきたんが店にきたら、後で電話するっていっといて」

「なんなの、関崎くんに頼まれたことって。雅弘、あんたもそろそろ受験勉強なんでしょう。関崎くんのように頭いいわけじゃないんだから。全く、遊んでばかりなんだから」

「遊んでなんかないよ。生徒会の手伝いだから、内申書対策なんだってば」

 ──そうか、あいつここの息子なんだ。

 合点がいった。なあんだ、別にアルバイトってわけじゃないんだ。うちの手伝いだったら、当然店番くらいやるだろうし、給料なんてもらっていないはずだ。で、隣りのかなり年配な女性が彼のお母さんなのだろうか。

 ばたばたとレジ周りを軽く片付けた後、本屋の息子はレジ裏の戸を開けて、さっさと奥に入っていってしまった。それからどうしたのかはわからない。すぐに本屋の奥さんがレジ脇で本を束ねたり重ねたりしはじめたので、司はすぐにレジの側から離れた。


 そろそろ帰ろうと思った矢先だった。

「こんにちは。あの、佐川くんいますか?」

 司の背中にぶつかりそうになり「ごめんなさい」とささやくような声で頭を下げ、まっすぐレジ前に立ったセーラー服の女子がいた。こちらも当然、「別に」くらい答えようと思ったのだけれども、そうする必要はなさそうだった。お下げ髪をきっちりと編み込んだ、なんとなく神乃世でひそかに男子たちから人気のあった女子のことを思い出した。それほど司はのぼせていなかったけれども、あまり男子たちとおしゃべりせず、女子たちだけであやとりやって小さく笑っている姿に似ているような気がした。横顔をちらっと見た。全体的に線が薄そうな感じだった。

「あら、五月ちゃん、ごめんねえ、さっきまで雅弘ここでレジうち手伝ってたんだけどねえ。なんでも関崎くんの手伝いがあるからって言って、たった今出て行ってしまったみたいなのよ。五月ちゃんからも言ってやってちょうだい。もう少し勉強しなさいって!」

「私、頭悪いからわからないです」

 小さい声で「五月ちゃん」と呼ばれた少女は答えた。笑顔がちらりと覗きそうな声だった。

「でも、五月ちゃんのおかげで雅弘も少しは受験生らしくなったかなあ。いつもありがとうね。お母さんによろしくね」

 ──この人、さっきのレジ打ち野郎の彼女かなあ。

 想像するだけだったら何にも罪にはならない。司はもう少しレジに近いところで適当に週刊誌を手に取った。やたらと馬の写真ばかり乗っている雑誌だった。

「佐川くんのおかげです」

「でもねえ、生徒会の仕事って大変みたいよねえ。ねえ五月ちゃん、佐賀さんって女の子、知ってる?」

 ──おいおい、もしかしてこの親、自分の息子の彼女に……。

 立ち聞きを貫きたい。ページをめくりながら耳を済ませた。

「佐賀さん、ですか」

 平な声が返って来た。

「そうなのよ、今日、おととい、先週とずいぶん雅弘、その女の子から電話貰っているようなのよ。くるたびに『生徒会関係』の人だって言い訳するんだけど、どうなの? 五月ちゃん、その辺知っている?」

 ──親の分際でそこまでやっていいのかよ!

 レジ打ち少年の母親に、いささか憤りを感じた司。自分の親がそんなことしやがったら、たぶんすぐに家を飛び出しているだろう。この親がやっていることというのは、 「息子の彼女に、息子の浮気を報告」しているようなものだ。


「私、知ってます。佐賀さん、私も会ったことあります」

 凛とした声が耳に響いた。決して大声で叫んだわけでもない。たぶん、司以外の人はそれほど気にも留めていなかっただろう。ごくごくふつうの声で答えただけだった。お下げ髪の彼女は背を伸ばしたまま、小柄な身体を堅くしながら、

「きっと佐川くん、他の中学の交流会のことで忙しいんです。あの、おばさん、今、私が来たこと、内緒にしてもらえませんか? きっと佐川くん、私が来たこと知ったら、気を遣ってくれると思うんです。忙しいのに、申しわけないですから」

 しっかりと足のついた声だった。どこか、似たような声を聞いたことがあるような気がした。司は身動きせずにずっとこのまま本を立ち読みしつづけた。文字なんて追っていなかった。ただひたすら、お下げ髪の彼女の言葉をかみ締めた。

 ──似ているよ。

 誰に似ているのか、わかりきっていること。

 おばさんはさらにひと笑いし、天気のこととか彼女の家族のこととかについて二、三尋ねた後、レジにやってきた客の相手に戻った。お下げ髪の彼女も一礼してまた司の背中にぶつかりそうになりながら玄関に向かった。すれ違い際に司はお下げ髪ですっきり見えていた頬と瞳をしっかと観た。そこには唇をぎゅっと結び、ほんの少し潤み加減、涙がこぼれそうなのを必死にこらえる人特有の表情が浮かんでいた。


 結局本は買わなかった。ここの店が「佐川書店」であることは、外に出て看板を確認した後に気が付いたことだった。きっとさっきの彼女は泣いているのかもしれない。電話をかけてきた浮気相手の女子がどんな人なのかはわからないけれども、佐川書店のおばさんにとってはあまりいい印象を持っていないらしい。また、なんとなくだけどおさげ髪の子のことを気に入っている、という雰囲気も感じられた。家族で応援してあげたい、そんな気持ちを起こさせるタイプの子なのだろう。

 ──僕よりも年下なのに彼女いるんだ。しかもふたまたかけてるんだ。

 腹が立ってくるのか、それともうらやましいのか。桂さんに言ったらきっと「そりゃあやっかんでるに決まってるだろ! 司、お前も色気付いたからに」とどやされるだろう。

 ──けど、あの子、かわいそうだよ。

 もしかしたらその佐川という少年は、本当に生徒会の関係で別の彼女に会っているだけなのかもしれない。勝手にあのおばさんが誤解しているだけなのかもしれない。あおっただけなのかもしれない。明日になったらあっさりと仲直りしているのかもしれない。

 でも、あの時すり抜けた涙のたまった瞳と、一文字に結んだ唇。  誰かの顔に同じものを見つけたような気がした。目を閉じた。ふうっと、薄い紫色の背景色が頭の中に浮かんできた。


 ──ううん、大丈夫。私、平気だから。ありがとう。でも私が悪いの。私、なんでも直すし反省するから、きっといつか天羽くんに嫌われないようにするから。

 ──天羽くんは悪くないの。きっと私が、天羽くんの気に障ることしちゃったからなの。だからみんな、天羽くんを責めないで。ううん。泣いてない、泣いてないの。さっき、ちょっと眠くなっちゃって涙がたまってしまっただけなの、ごめんね、みんなごめんね。  


 どこが泣いていないのか。いつも司は問い詰めたくなる気持ちを必死で押えていた。

 しゃくりあげながら、いつものように天羽から冷たい仕打ちを受け、時には天羽と近江さんとのおちゃめな会話を目の前にして、必死にこらえているあの表情にそっくりだった。

 本屋の息子がもしも、おさげ髪の子の瞳を見ていたら、きっと別の子になんて会いにいきたいなんて思わないだろう。運が悪かったのだろう。あと五分でも早くあの子がレジの前に立っていたら。

 ──僕だったら、あんな目、させたくないよ。そうだろ?

 話したこともない、たった一度だけ見かけた本屋の息子に司は話し掛けた。

 ──だからなんだ。だから、絶対そうなんだ。


 司は駅前のバス停に向かった。電話ボックスに入り、桂さんの車に備え付けられている自動車電話の番号を押した。何度かコール音が続いたけれども、出る気配はなかった。きっと泉州さんと司を探し回っているか、それとも無視してふたりでいちゃついているかのどちらかだろう。念のために今度は自宅へ電話をかけた。すぐに出た。

「おいおい家出息子、いまどこにいるんだ?」

「そこに泉州さんがいるんだろ?」

「ご名答、早く戻ってこいよ。話はそれからだ」

「女子とふたりっきりになるなんて、やらしい証拠だって言ったの誰だよ!」

 さっきかっとなって店を飛び出した引け目が残っていた。帰りたくない。本当だったらこのままどこかで野宿したい。でもできそうにないのもわかっている。司は一呼吸置いてから、

「じゃあ、泉州さんを出してよ」

 と要求した。

「あいよ、おーいお嬢、司がやっぱり話したいんだと」

「あいよっ!」

 すっかりラーメン熱で張り切った声が響いていた。

 ──なにが「あいよっ!」だよ。

「おじゃましてまーす、片岡、あのさ、さっきの話の続きするまでは帰りたくないなあと思ったんでおじゃましてるんだけど、どこにいるのよ。桂さん車出すって言ってるわよ」

「そんなことしないでいい、まっすぐ帰るって言っておいてくれよ。それより」

 さっきまでそんなこと、考えてもいなかったのに、なぜか自分の中で言葉が練られていく。本屋のレジ前でおさげ髪の少女が涙を貯めていた、あの顔だけが目に焼きつき離れない。どうしてなのか、わからないけれども。

 司はぎゅっと目を閉じた。もう一度あの映像を浮かべようとした。

「泉州さん、これから僕、天羽のうちに行くつもりなんだけど、天羽の住所って知ってる?」

「へえ? 天羽ってあんた、どうしたのよ。恋敵のところに塩送りに行ってどうすんの」

「塩なんて持っていかないよ。僕はただ、天羽のうちの住所を知りたいだけだよ」

「はあ?」

 同じ用件を繰り返した。

「ええとねえ、天羽のうちは学校の近くだってことは有名だよねえ」

「学校の側にいれば、あいつに会えるか? 今日なんだけどさ」

「明日じゃあだめなわけ? 学校で話すればいいじゃん」

「いや、今日話さないと、だめなんだ」

 泉州さんは受話器の向こうで黙った。しばらく沈黙が続いた。もう一枚だけテレホンカードを追加して緑色の受話器を握りしめた。

「僕、これから天羽と話をするつもりなんだ。それが終わってからだったら、泉州さんが知りたがっていたことを話してもいい。でも、天羽に会わないとだめなんだ」

「小春ちゃんのこと?」

 すぱっときりつけてくる言葉。でも慣れてしまったらしい。

「そうだよ。悪いけど、すべてを終わらせるから、それまでは泉州さんにも桂さんにも話せない」

  


 泉州さんはぶっきらぼうに、数字を並べ立てた。二回繰り返した。司も聞き返した。その後で尋ねた。

「それ、天羽の電話番号?」

「そ、小春ちゃんがらみで私もよく電話かけたことあるんでね。感謝しな。それと今のこと、約束するんだろうねえ」

「なにがだよ」

「すべてが片付いたら、あんたのほんとうのことを聞かせてもらえるんだろうねえ」

 ──そんなこと、なんであんたに言わなくちゃなんないんだよ!

 心で毒づくものの、司は頷いた。

「約束するよ」


 教えられた電話番号に司は、深呼吸を五回くらい繰り返した後、ゆっくりとボタンを押した。最初はなかなか繋がらなかったが、やっと天羽の母さんらしき人に挨拶をした時、ふと息を呑んだような気配を感じた。きっと天羽の奴、司の過去の悪事を知っていて、気持ち悪いと思ったに違いない。でも愛想良く繋いでくれた。

「どうしたんだよ、お前電話かけてくるなんてめずらしいなあ」

「頼みがあるんだ」

 司は電話ボックスの外に三人くらい人が待っているのを、申しわけなく思いつつ手短に告げた。

「西月さんとふたりっきりで話のできる場所、どこかないかなあ」

 自分の中でも、他の人の前でも、司は彼女のことを「西月さん」と声に出して言ったことはなかった。口から響いた「にしづきさん」という言葉。発したとたん、泣きじゃくりつつ笑顔を浮かべようとしていた顔が浮かんできた。

「腹が据わったんだな、片岡」

 天羽の口調はどこか、面白がっているようで、やっぱり真面目だった。

「そういうこと。西月さんのこと、よろしく頼む」

 泣き顔しか思い浮かばないのが辛くて、司はなんどもその後、「西月さん」と繰り返した。


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