時の果ての殺人 第一章「過去と現在」
Author――奥田光治
この作品は『この謎が解けますか?』の拙作『耳なし芳一殺人事件』、及び『この謎が解けますか? 2』の拙作『隠蔽凶器』、及び作者自身が公開している『業火の殺人者』の直属の続編である。もちろんこの三作を読まずとも何ら支障がないように構成はしてあるが、ご一読頂いた方がよりこの世界観を楽しんで頂けるという事はここで明記しておく。また、物語に登場する事件・団体等は現実のものと何ら関係ない事はあらかじめ記しておく。
「ねぇ、明日みんなで私の家にお泊り会しない?」
三学期が始まって少し経ったその日、海江田姫奈は小学校からの帰り道の通学路で、同じクラスの友達の江花紅美からそんな誘いを受けていた。姫奈はランドセルを揺らしながら、その思わぬ誘いにどう答えたらいいか少し迷っていた。
姫奈たちの通う青雲小学校は兵庫県神戸市の一角に校舎を構えるごく平凡な市立小学校である。姫奈は現在六年生で、あと数ヶ月もすれば小学校を卒業して中学校に進学する予定である。
そんな彼女が所属する青雲小学校六年二組には、特に仲の良い女子のグループがあった。全員が何の偶然か六年間同じクラスで非常に仲が良く、姫奈も含めたその七人は、容姿がかわいい事もあってかクラスの女子の中心として同じ学年の中では有名な存在だった。だが、そのうちの何人かが小学校卒業と同時に他県へ引っ越す事になっていたり、あるいは中学受験をして別の私立中学校に行く予定になっているため、そのグループも卒業を持って終わりになる事が確定していた。
「だから、さよならする前にみんなで一回集まってわぁって遊びたいなぁって思って」
グループのリーダー格でもあった紅美はニッコリ笑ってそう提案した。この中では一番背が高く、明るくはきはきした性格で、メンバー七人の中でもひときわ目立つ存在である。実際、クラスではクラス委員長をやったりして、成績もいい事から卒業後は県内有数の名門私立中学へ進学する事が決まっているらしい。
一方の姫奈はといえば、逆にこの七人の中では一番背が低くて引っ込み思案であり、どちらかといえば自分の席で静かに本を読んでいる方が好きな子供だった。そのおとなしい性格と静かにしている事が多い事から以前は「お姫ちゃん」などというあだ名を男子の悪ガキから頂戴した事もあったが、不思議とこのグループとは馬が合い、放課後によく校庭で遊んでいる事が多かった。ちなみに成績は良くも悪くもなく普通なので、卒業後は普通に公立の中学校へ進学する事になっている。
「うーん、私はいいけどさ。でも、いいの? 迷惑じゃない?」
一緒に帰っていた七人の一人である米内涼香がそう尋ねる。この中では紅美に次いで背が高く、グループの副リーダー的存在だった。小さい頃から剣道のスポーツ少年団に入っていてなかなかに強いらしく、スポーツ強豪校である県外の私立中学校からの推薦の話が来てそちらに進学する予定らしい。
「平気だって。お父さんもぜひいらっしゃいって。一晩くらいなら問題ないみたいだよ」
「そうなんだ。じゃあ、いいかな。他のみんなはどうする?」
そう聞かれて一番に返事したのは、メンバーの一人である朝島玲於奈だった。
「うちはええよ。楽しみやわぁ」
どこかのんびりした風に京風のイントネーションで話す玲於奈はそう言って微笑んだ。実際に京都の祇園辺りの生まれで、両親の仕事の都合から小学校入学の時にこっちに引っ越して来たらしく、今でもこうして京風の関西弁が抜けない。そののんびりした話し方と相まって長い黒髪の日本人形のような風貌で、ある意味姫奈より姫らしいなんて言われた事もあった。卒業後は再び京都の実家に戻るらしく、彼女とも卒業でお別れである。
「樹里亜ちゃんは?」
「行く! 絶対に行く! みんなで遊びたい!」
そう答えた長平樹里亜は元気よくそう答えた。彼女はこの中のムードメーカー的存在で、遊んでいるときもこの中で一番元気よく駆けまわっている印象がある。こう見えて母方の実家は高級住宅街の集まる芦屋の辺りにあり、つまりは一応いいとこのお嬢様なのだが、本人はそんな認識が皆無らしく元気いっぱいに暴れまわっている。ちなみに彼女は姫奈同様に公立進学組である。
「後は美智子ちゃんと姫奈ちゃんと奈々ちゃんね。美智子ちゃんは? 習い事とか大丈夫?」
「えっと、明日だったら習い事はないし……うん、大丈夫だと思う」
塩賀美智子はそう言って予定を確認する。髪をポニーテールにまとめた女の子で、母親が教育熱心な事もあってかたくさん習い事をしていてなかなか放課後に一緒に遊べない事が多い。本人は「ちょっといい加減にしてほしいかなぁ」とぼやいているが、特にピアノについてはコンクールで金賞をもらえるほどの腕前らしい。彼女も公立進学組だった。
「姫奈ちゃんはどう?」
「……うん、大丈夫。私も行きたい」
聞かれて、姫奈は小さく頷いた。
「じゃあ、五人は参加って事で。後は奈々ちゃんだけど、私が電話で聞いておくね。仕事が空いていたらいいんだけど」
「人気子役っていうのも大変だよね」
ここにいない七人組のもう一人、乃木坂奈々について涼香はそんなコメントをした。奈々はテレビの子役として芸能活動をしていて美智子以上に一緒に遊ぶ機会が少ないが、姫奈たちにとっては大切な仲間である。彼女は神戸にある有名な女子中学校へ進学する予定だった。
「じゃ、決まり! それじゃあ、明日の放課後に私の家に集合って事で!」
紅美の言葉に、彼女たちは笑いながら頷いたのだった。
次の日の放課後、姫奈は家に帰るとお泊り用のリュックとランドセルを持って、紅美の家へと向かっていた。両親に話したら簡単に許可ももらえ、それどころか土産用のお菓子まで持たされてしまった。お泊り会自体は今までにも何度かやっているので、両親も紅美の家に泊まる事は特に問題にしていないようだった。ちなみにランドセルまで持っているのは、明日はこのまま直接学校に行くためである。
姫奈は紅美の家に急ぎながら、ポケットから時計を取り出して時間を確認した。それは、少し古い懐中時計だった。小学生の女の子が持つにはどう考えても不釣り合いなものだが、これは時計商である父が去年読書コンクールで優秀賞をもらった時に姫奈のために作ってくれたもので、以来姫奈は外に出かけるときはこの懐中時計を肌身離さず持つようにしている。紅美たちからは「何かかっこいいね!」と意外に高評価をもらっていて、普段あまり自己主張しない姫奈にとってはちょっとした自慢だった。
そうしているうちに、目の前に紅美の家が見えてきた。どこか渋い外観の古い日本家屋で、元々時計商の両親の影響でアンティーク趣味に理解がある姫奈からすれば何となく居心地がよく感じる。
玄関に廻ってチャイムを鳴らすと、しばらくして紅美が顔をのぞかせた。
「いらっしゃーい!」
ニッコリ笑って彼女は姫奈を出迎える。
「さ、入って入って。みんな来てるよ」
「お邪魔します」
姫奈はぺこりと頭を下げて、玄関で靴を脱いで中に入った。居間に行くと、姫奈が最後だったようですでに他のメンバーはそろっていた。
「あ、姫奈ちゃん。久しぶり!」
そう言って真っ先に声をかけてきたのは、普段は子役の仕事であまり会えない乃木坂奈々だった。
「あ……奈々ちゃん。仕事、大丈夫だったんだ」
「うん。たまたまスケジュールが空いていたの。お母さんに聞いたら、しばらく仕事が続くから今のうちに羽を伸ばしてきなさいって」
奈々ははにかみながらそういう。さすがに子役をしているからか、この中では多分一番かわいい顔をしている。着ている服も、姫奈たちに比べてお金をかけている印象だった。
「さ、みんな揃ったし、今日は思いっきり遊ぼう!」
「おーっ!」
紅美の音頭で、その場にいた全員が元気よく返事する。
それから後は、楽しい時間だった。色々な事をお喋りし、トランプやボードゲームで遊び、ゲーム機で協力プレイをする。明日提出の宿題をみんなでわいわいいながら仕上げる。仕事でいないという母親に代わって普段から家事をしているという紅美と一緒になって全員で夕食を作り、それを楽しくおしゃべりしながら食べる。そんな事をしているうちに、時間はあっという間に過ぎて行った。
やがて夜の九時くらいになって、玄関のドアが開いてこの家の主……妻に紅美の父親が疲れた様子で帰ってきた。
「あ、お父さんお帰りなさい」
「あぁ、ただいま。そうか、そう言えば今日がお泊り会の日だったか」
納得したようにそう言う紅美の父に、姫奈たちは頭を下げて挨拶した。
「お邪魔してまぁす」
「あぁ、どうも。楽しむのはいいけど、早く寝なさい。明日も学校があるんだろう?」
「うん。大丈夫、もう寝るから」
実際、七人はお風呂に入り終えてすでに客間に布団を敷いていたところだった。
「そうか。じゃ、お休み」
紅美の父はそう言って自室へ入っていった。
それからしばらく、姫奈たちはお喋りを続けていたが、やがて十時くらいになり、そろそろ寝ないといけない時間になった。
「じゃ、そろそろ消すよ」
「はーい」
紅美の言葉に、全員が返事する。紅美は笑いながら電気のスイッチに手をかけた。
「じゃあ、お休み。また明日」
そう言って紅美が電気のスイッチを切り、部屋の中が真っ暗に包まれ、そして……
……そこで、姫奈の記憶はいきなり途絶える。それが大の親友だった七人の少女たちが交わした、記憶に残る最後の会話であった。
そして、姫奈の記憶はそこからかなり時間が経ってから唐突に復活する。記憶が戻った時、人生で一番楽しかったあの日から……そして、人生最悪の日となったあの日から、すでに一週間が過ぎてしまっていた。
一九九五年一月十七日火曜日という、歴史に名を残したあの日から……。
「……はぁ、はぁ……」
……暗い夢から目を覚まし、彼女は布団を握りしめながらベッドから起き上がって息を吐いていた。ここは江花紅美の家ではない。まだ夜明け前の薄暗いアパートの一室、そのベッドの上である。ベッドの上で、彼女は頭に手をやりながらしばらく息を乱していたが、やがて小さく深呼吸して息を整えるとポツリと呟いた。
「……また、あの夢……」
彼女はそう呟くと、汗で湿ったパジャマを着替えようとベッドから立ち上がった。そのまま日が昇る前の薄暗い街並みを窓から見ながら、ふと彼女は傍らのカレンダーの日付に目をやる。
『二〇〇八年一月十七日木曜日』
「……あれからもう十三年か……」
二〇〇八年、彼女……海江田姫奈は二十五歳になっていた。
『……阪神大震災から今年で十三年目を迎え、被災地となった神戸市では鎮魂のイベントが行われています……』
テレビから流れるニュースを見ながら、姫奈は簡単に作った朝食を食べていた。そのテレビの近くには、あの日以降のアルバムがしっかりと保管されている。それを見ながら、姫奈はあの日以降の事を何気なく思い出していた。
……十三年前、未明の神戸を急襲した歴史にその名を残すあの都市直下型の大地震は、姫奈の慣れ親しんだ神戸の街を完膚なきまでに破壊した。死者行方不明者は約六〇〇〇人にも上るが、当日彼女がいた江花紅美の家も例外ではなかった。
築年数がかなり経っていて耐震補強などなされていなかったあの古い家は地震により全壊し、その家の中で寝ていた姫奈たちは家の下敷きになってしまった。救助されたのは本当に奇跡的な事らしく、たまたま近くを通りかかった被災者の一人が子供の泣き声がすると言って周囲の人間と一緒に助けに入り、結果彼女を発見したのだった。
彼女の記憶は地震前日の午前十時頃に紅美が電気のスイッチを切ったところで文字通り突然途切れてしまっている。記憶が復活するのはその一週間後……病院のベッドの上で全身に包帯を巻いて動けない状態でのことだった。
他の子たちがどうなったのかはわからなかった。誰も教えてくれなかったのだ。その代り、彼女は急遽駆け付けてきた母の妹である叔母から、姫奈の両親が崩壊した家の下敷きになって死亡したという事実を知らされた。彼女はいきなり一人になってしまったのである。さっきまで楽しかったはずの日常が、いきなり崩壊してしまったような気分だった。
その後、法的に後見人となれる人間がその叔母しかいなかった事から、姫奈は叔母夫婦の養子になる事が決まった。ただ、問題はその叔母の夫がアメリカの商社で働いていて、必然的に彼女もアメリカに引っ越す必要が出てしまったという事である。地震の混乱でとても両親の葬儀をやるような余裕はなく、簡単な合同葬で遺体を埋葬した後はろくに友人たちに挨拶する事もなく彼女は退院するや否やアメリカに渡った。後で聞いたところによれば小学校側は事情を考慮して彼女を卒業扱いにしてくれたそうだが、結局最後まで一緒にいた六人がどうなったのかはわからずじまいだった。
姫奈は高校卒業までをアメリカのロサンゼルスで過ごす事となった。幸い向こうでも友人に恵まれた学生活を送る事ができ、おまけに成長期が遅かったのかそれとも向こうの食事に何かあったのかは知らないが、渡米した直後から今までの分を取り返さんばかりに背が伸び始めた。おかげで今の彼女の身長は一八〇センチメートルと日本人女性にしてはやや大柄で、ついでにちゃんと出るところも人並み以上に出ているなどスタイルもかなり良くなっている。小学校時代の体形は何だったのかと今でも疑問に思う事が多い。
高校卒業後、姫奈は思うところがあってアメリカの大学ではなく故郷である日本の大学入学する事にした。ハイスクールの恩師は君ならアメリカの大学でもやっていけると盛んに引き留めたが、彼女は意志を変える事無く、結果日本の私立東城大学法学部へ入学した。大学時代、アメリカ帰りで二ヶ国語をネイティブに話せる彼女は学内でも有名人で、「お姫ちゃんどころか高嶺の花って感じで近づきにくい」とゼミの友人に言われた事がある。
そして現在、大学を無事卒業した彼女はこうして日本で就職し今に至っている。だが、そんな彼女にとっても毎年一月十七日は特別な日であった。帰国後、彼女は学業の傍らにあの六人の消息を追ったりしていたが、地震の混乱で記録もほとんど残っておらず、あまり芳しい結果は得られなかった。
彼女は朝食を食べ終えると、着替えるために姿見の前に立った。服を脱ぐと、背中に地震の際に負った一本の筋のような傷跡が残っていて、それがなぜかうずくような気がする。十三年前の地震は、こうして今もなお彼女に消える事のない傷跡を残し続けているのだ。
それを振り切るように彼女はビジネス用のスーツとスカートをはくと、そのまま荷物を持ってアパートを出た。実は、このアパートにやってきたのはつい最近で、今日は職場への初挨拶の日である。こんな時期にもかかわらず一週間ほど前に急に転勤を告げられ、急遽こうして職場の寮に入ったところなのである。なので、ある程度片付いたとはいえ、まだ部屋の中には整理しきれていない段ボールがあったりした。
電車を乗り継ぎしばらくして、姫奈はあるビルの前に立った。そのビルの正面にはこんな文字が躍っていた。
『山口県警本部』
姫奈は一度深呼吸すると、覚悟を決めたようにビルの中に入っていく。そして受付に近づき、受付の警官に向かってこう告げたのだった。
「本日付で警察庁から出向となりました、海江田姫奈警部です。本部長に取り次いでもらえますか?」
警察庁キャリア組の警部……それが姫奈の今の職業だった。
「君が海江田君かね。本庁から話は聞いているよ。急な話ですまなかったね」
山口県山口市にある山口県警本部の本部長室で、山口県警本部長の大野塚竜一郎警視長はじろりと種類と姫奈の間で視線を往復させていた。
「知っているとは思うが、何分、十一月の事件でうちは今少し人事が混乱していてね。まぁ、その一環で補充が必要になったわけなんだが……」
その話は姫奈も少しは噂で聞いていた。何でも、昨年の十一月に起こったある事件で山口県警による冤罪の事実が発覚し、それに絡んで発生した殺人事件の影響などもあってこの県警はかなり混乱状態に陥ったようなのである。目の前にいる大野塚本部長は元々北海道警への栄転の話が出ていたのだがそれも取り消しになり、状況いかんでどこかに飛ばされるかあるいは自主退職という名目での退職強要がなされるかというところまで行ったらしいのだが、結局山口県警本部長のまま残留という形で落ち着いたようである。噂ではこれは事件を受けた棚橋惣吉郎警察庁長官による判断らしく、当面は山口から離れられないのではないかという事だったが、目の前の大野塚はその処遇に対して何か吹っ切れたらしく、淡々と仕事を続けている。
「何々……東城大学法学部卒で大学入学まではアメリカ・ロサンゼルスで生活。従って日本と英語の双方が堪能。大学卒業後に国家公務員第一種試験を一発でパスして警察庁に入庁し警部補を拝命。その後、一年前に順当に警部に昇進、か。ふむ、なかなか優秀なようだな」
「ありがとうございます」
姫奈はひとまずそう答えておいた。
「さて、これを見る限り出向期間は一年から二年となっているな。まぁ、上としてはあくまで臨時の出向かつ君に対する研修的な意味合いがあるんだろうが……キャリアだろうが何だろうが仮にも警部だ。それなりの仕事はしてもらう。で、君の配属だが……」
大野塚は一瞬じろりと姫奈を見るとこう告げた。
「ひとまず刑事部に行ってもらおうかと思っている」
「刑事部、ですか」
意外な部署に姫奈は戸惑った。こういう場合、出向中のキャリア組は将来の事を考えて警備部などに配属される事が多いからだ。
「あぁ。さっきも言ったように、今の県警は人事で混乱していてね。特に刑事部はひどくて、十一月の事件で刑事部長が辞職し、捜査一課長も自ら降格処分を名乗り出て交代した。何だかんだで私は残る事になったが……はっきり言って人手不足もいいところでな。とにもかくにも刑事部の混乱を収拾させないといけない。そんなわけで、君には刑事部の取りまとめをやってほしい。キャリアならこれくらいはできないと出世できないぞ」
「はぁ」
姫奈はそう言う他なかった。
「ひとまず、君には刑事部の捜査一課課長補佐をやってもらう」
「課長補佐、ですか?」
「言った通り人材不足だからな。まぁ、刑事部長や捜査一課長の補佐役、及び彼らと刑事部の刑事たちの連絡調整役のような仕事だ。とはいえ、今の刑事部には厄介者が一人いるから、それなりに大変な仕事だが」
「厄介者?」
「まぁ、すぐにわかる。さて、今後の事だが……」
と、その時だった。大野塚の卓上の電話が鳴った。
「私だ……あぁ……あぁ……そうか……わかった、すぐによこす」
電話を切ると、大野塚はじろりと姫奈を睨んだ。
「着任早々で悪いが、早速仕事だ。山陽小野田市郊外で遺体が発見されて、所轄の報告だと殺人の疑いが強いらしい。ひとまず、君にはこの捜査に参加してもらう。構わんね?」
「わかりました」
「まぁ、せっかくの機会だ。現場の捜査にちゃんと触れておくといい。それに……ここならうってつけの指導役がいるからな」
「は?」
「何でもない。とにかく、すぐに現場に行ってくれ。住所はここだ」
大野塚からメモを渡され、姫奈は戸惑いながらも一礼して部屋を出た。それを見送りながら、大野塚はポツリと呟く。
「さて……お手並み拝見だな」
山口県山陽小野田市。二〇〇五年に小野田市と山陽町が合併して誕生した、瀬戸内工業地域の代表的な都市の一つである。特に宇部市共々近隣の秋吉台から産出される石灰岩を利用したセメント工業が盛んで、実際市内にも「セメント町」や「硫酸町」などと言った風変わりな地名が存在したりする。
事件が起こったのは、その山陽小野田市の外れにある山中での事だった。姫奈がタクシーで到着したとき、すでに現場一帯は所轄や県警本部刑事部の捜査員たちでいっぱいになっていた。
タクシーを降りて現場に近づくと、見張りの警官がじろりと姫奈を見やった。
「何だ、君は。ここは立入禁止だ。戻りなさい」
そういう警官の鼻先に、姫奈は小さくため息をついて警察手帳を突き付けた。それを見て、自分より階級が上だと知ったその警官は泡を食ったように敬礼する。
「し、失礼しました!」
立入禁止のテープをくぐって中に入ると、持ってきた手袋と足袋をして現場へと向かう。少し行くと、責任者と思しき中年の男が刑事たちに指図をしていた。
「そうだ。警部が来るまでにある程度の情報はまとめておけ。証拠は一つも見逃すんじゃないぞ」
姫奈は一瞬躊躇したが、ずっとそうしているわけにもいかないので思い切ってその男に声をかけた。
「あの……」
「ん?」
声をかけられて男が振り返る。年齢は四十代半ばだろうか。その鋭い目つきから一目で現場一筋の叩き上げの刑事だろうという事は察しがついた。姫奈は後ずさりたい思いを殺すと、負けるなと自分を鼓舞しながら挨拶をした。
「本日付で、県警刑事部捜査一課の課長補佐に配属されました海江田姫奈です。大野塚本部長から捜査に参加するように言われてきたのですが」
そう言われてその刑事は少し眉を上げて姫奈を見やると、口調を敬語に変えて挨拶した。
「課長補佐、ですか。お若いのに大したものですね。失礼、自分は県警刑事部捜査一課主任の光沢春義と言います。階級は警部補です。今後とも、よろしくお願いします」
口調こそ丁寧だが、どこか表情に苦々しいものが混じっているのを姫奈は見て取っていた。明らかに邪魔に思っている。とはいえ、ここで引っ込むわけにはいかない。
「よろしくお願いします。何分、着任早々ですのでわからない事も多いですが、ご教授頂ければ幸いです。それと、別に敬語じゃなくても構いません。年齢は私の方が下ですし、階級に見合うだけの技術を持っているとは言えませんから」
「そうですか? では、遠慮なく」
光沢はそう言うと、じろりと姫奈を睨んで言葉を続ける。
「人員不足で本庁からキャリアが来るって話は聞いていたが、まさかこんな大学出たてみたいな嬢ちゃんとはな。言っておくが、ここは事件現場の最前線だ。階級振りかざしてうまくいくような場所じゃないって事は覚えておく事だ。ここで信用されるには、ちゃんと実績で証明するしかない」
「わかっています。ですから、言った通り色々ご教授願えればと思っています。階級や役職も忘れてもらって結構です」
「……まぁ、本部長の指示なら仕方がないか」
光沢はため息をついた。姫奈はホッとしつつも、一応確認する。
「ところで、あなたがこの現場の捜査責任者という事でよろしいのですか?」
「いや、言った通り俺は主任だからな。指揮をするのは係長だが……まぁ、何というかちょっと変わった人でな。今、こっちに向かっているからそろそろ来るはずだが……」
「変わった人、と言うと?」
「……一応、嬢ちゃんみたいなキャリア組なんだよ。と言っても、第二種試験を通ったいわゆる準キャリア組けどな」
「準キャリア、ですか」
一般的にキャリア組と呼ばれるのは国家公務員試験をパスして警察庁に就職した人間を指すが、その国家公務員試験には第一種と第二種の二種類の試験が存在する。通常キャリア組と呼ばれるのは第一種試験をパスした文字通りのエリート集団の事を指し、彼らは将来的に警察上層部の幹部へと出世していく事となる。姫奈もこの第一種試験通過組だった。
これに対し第二種試験を通過した人間は準キャリアと呼ばれ、大体地方公務員試験を受けて各都道府県警に就職しているノンキャリアとキャリア組のほぼ中間のペースで出世していく。一応国家公務員なので立場的にはキャリア組に近いが、出世は大体中堅幹部までくらいで、何とも中途半端な立ち位置にいる。光沢が言っているのはその事だった。
「あぁ。だけど刑事畑一筋で、紛いなりにもキャリアであるにもかかわらず各地の県警の刑事部を回りながら事件を解決し続けているっていう奇特な人だ。上もその捜査能力を認めていて、本人が希望している事もあって出世コースである公安部や警備部じゃなくて刑事部ばかりを異動させ続けている。というか、本人が刑事部以外の異動を拒絶し続けているらしい」
「そんな事ができるんですか?」
基本、上からの人事命令には逆らえないキャリア組の姫奈としては信じられない話だった。が、光沢は真剣な表情で頷く。
「その無理が押し通るだけの事件解決率を叩き出し続けていて、上としてもできれば刑事部にいてもらった方がいいという判断らしい。もっとも、第一種試験を通ったキャリア組ほど出世をしない準キャリア組だからこそできる裏技らしいがな。うちに来たのは一年くらい前だが……あの人はキャリアの中でも例外だよ。キャリア組にもかかわらず殺人の検挙率は県警最高で、間違いなく山口県警刑事部の誇る捜査の切り札だ。俺たちも、あの人の事は信用している」
「そんな人が……」
準キャリアとはいえ、キャリア組の中でここまで現場の刑事に信用されている人間というものを姫奈は初めて知った。同時に、キャリアにとって普通は通過点扱いでしかない刑事部でそこまでの実績を残している人間というものも姫奈は見た事がなかった。
と、その時テープの向こうでタクシーが停車するのが見えた。
「あぁ、ようやくお出ましだ」
光沢のその言葉に姫奈がタクシーを見ると、中から一人の男が降りてくるところだった。年齢は三十代半ばだろうか。彫の深い端正な顔つきで、一言で言うと「ニヒルなイケメン」と言った感じだろうか。着ているスーツやコートもやや高級そうなもので、一見すると刑事っぽくはない。
だが、その目を見て姫奈は一瞬ゾッとした。一見穏やかそうな眼ではあるが、その奥に現場叩き上げの光沢と同じ鋭さがあるのがわかる。それは姫奈が今まで見てきたキャリア組の人間の目とは明らかに違い、キャリア組の中にもこんな人間がいるのかと姫奈は戦慄していた。
その男はテープをくぐって二人の所に近づくと頭を下げた。
「すみません。地検から裁判の証人に呼ばれていたものでして少々遅れました」
開口一番、男はそう言って謝った。部下に対してもなぜか敬語であるが、これが普通なのか光沢は気にする事もなく応対する。
「いえ、問題ありません。警部が来るまでに一通りの捜査は済ませておきましたが、遺体はまだそのままです」
「では早速見に行きましょうか。ところで、そちらのお嬢さんは?」
そう言われて、姫奈は慌てて挨拶する。
「ど、どうも。本日付でこちらの県警に配属されました海江田姫奈です。県警刑事部捜査一課の課長補佐を拝命しました。色々とご教授して頂ければ幸いです。よろしくお願いします」
「課長補佐……という事は警部ですか。その歳で警部という事はキャリアの方ですね。まぁ、何にせよ、課長補佐という事は我々の上司になるわけですか」
そういうと、男は再度頭を下げて挨拶した。
「改めまして、山口県警刑事部捜査一課の係長をしています、一里塚京士郎です。階級はあなたと同じ警部。一つよろしくお願いします」
どこまでも丁寧な口調ではあるが、光沢と違ってこちらは内面を全く読み取る事ができない。姫奈としてはそれが少し不気味だった。大野塚本部長が言っていた『厄介者』、もしくは『指導役』がこの男だという事を、姫奈は今さらながら理解していた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
「どうも。ところで、海江田課長補佐は、刑事部は初めてですか?」
役職で呼ばれて、姫奈は少しどぎまぎしながら答える。
「はい、その通りです。これが初めての捜査になります」
「なるほど。では失礼ですが、今回は役職を忘れて我々と一緒に捜査をするという事で構いませんか? それなら色々な事を教える事ができると思いますが」
「構いません。ところで……あの、役職で呼ぶのは遠慮してもらえませんか? 何だか全然慣れなくて……。普通に『海江田さん』でいいです」
「いえ、仮にもキャリア組で上司の方をそんな気軽には呼べませんよ。そうですね……では、『海江田警部』という事にしておきましょうか」
「……わかりました。もう、好きにしてください。ただし、私も『一里塚警部』と呼ばせてもらいます」
自分だって準キャリアではないか、と思いながらも姫奈は渋々そう言った。こんな事で時間を潰している暇はない。
「では、立ち話はこのくらいにして……事件について説明を」
そう言われて、光沢の目が真剣なものになった。いよいよここからが本番である。
「今から二時間前、この奥の林に遺体が倒れているのを山菜取りの老人が発見しました。被害者は四十代半ばくらいの男性です。ひとまず、こちらへ」
そのまま林の奥へ向かうと、うっそうと生い茂る木々に紛れて確かに一人の男の遺体がうつ伏せに転がっていた。すでに遺体は変色し始めていて、顔はどす黒くなりつつある。初めて見る殺人現場の遺体に姫奈は一瞬吐き気がしたが、何とか耐えてしっかり観察する。一方、一里塚と光沢は特に気にする様子もなく会話を続けていた。
「簡単な検視ではありますが、死亡推定時刻は今から約二日前。死因は見ての通り、背後から心臓をナイフで刺された事による出血死です。ほぼ即死でしょう」
見ると、背中から心臓部にナイフが刺しっぱなしになっていた。一里塚は黙って話の先を促す。光沢も心得たもので、すぐに話を再開した。
「遺体に動かした形跡はなく、殺害現場はここであると考えて間違いないかと思われます。所持品等は確認されていません。持ち去られたようです」
「身元はどうですか?」
「現時点では不明です。ただ、堅気の人間ではなさそうですね」
光沢はそういうと遺体の着ているブルゾンなどをめくって背中の肌を露出させた。そこに見事な龍の入れ墨が描かれているのが、姫奈にも見えた。恐る恐る光沢に尋ねる。
「もしかして、暴力団員ですか?」
「わからん。ただ、前科があるなら指紋照合で身元が判明するはずだ」
光沢は厳しい表情で姫奈の問いに答えた。
「しかし、暴力団員がこんな山奥で何をしていたのかわかりませんね」
一里塚はそう言うと辺りを見回した。付近には小屋などもなく、どう考えても普通人が来るような場所ではない。
「遺体が動かされていないとなれば、被害者は自発的にこの場所にやって来た事になります。問題はその理由ですね。それと、ここまでの足ですか」
「足、と言うと移動手段ですか?」
姫奈が遠慮がちに尋ねると、一里塚は小さく頷いた。
「少なくとも、ここは徒歩で来られる場所ではありませんからね。自動車かバイク……最低でも自転車くらいは必要でしょう。まぁ、自転車はないと思いますが」
「調べましたが、付近にそれらしい乗り物はありませんでした」
光沢が即座に情報を補足する。
「となれば、犯人がその乗り物で乗って帰ったか、あるいは被害者が犯人の自動車に乗って来たかの二択ですね。一応聞きますが、致命傷となったナイフの傷以外に外傷はありましたか?」
「いいえ、まったく。完全に不意打ちですね」
「そうすると、被害者を誘拐もしくは拘束してここまで無理やり運んできて刺殺したという可能性は消えますか。とすれば、被害者は少なくともここに来る事自体は同意していた事になります。理由はさっきも言ったようにまだ判然としませんが、つまり、犯人と被害者は顔見知りの公算が強いですね」
「そうなると、いよいよ身元の確定が重要になってきますか」
光沢の言葉に一里塚は頷いた。
「念のため、周囲の地面を調べておいてください。タイヤ痕なりが検出できるかもしれませんから」
「もちろんです」
流れるように捜査を進めていく一里塚と光沢のコンビネーションに、姫奈は内心で感嘆の声を上げていたのだった。
明らかに殺人であるため、同日午後三時には山陽小野田署に捜査本部が立ちあげられる事となった。それと同時に指紋から前科者照会がなされ、第一回目の捜査会議が行われている最中、登録されている指紋と被害者の指紋が見事に一致したという報告が入った。
「早いですね」
山陽小野田署の会議室で一里塚が感心したように呟く中、捜査会議に飛び込んできた所轄の刑事の一人が緊張した様子で身元情報を読み上げた。
「被害者は石清水康義。五大暴力団の一角である福岡の天橋組直系の傘下組織である鳩舟組の幹部です。鳩舟組は福岡に本拠を置く天橋組の山口支社のような扱いで、同じく山口に勢力を伸ばしている広島の五大暴力団・杜若組と長年争いが絶えない組織です。組対も長年警戒しているところでした」
「天橋組にとっては重要な組という事か。そこの幹部だったとなれば、かなりの大物だな」
光沢が緊張した様子で言う。ちなみに「五大暴力団」とは警察庁が特に警戒している五つの巨大暴力団の事で、関東の神岡組、北海道の釘宮組、阪神地域の上林組、広島の杜若組、福岡の天橋組の五つが該当する。
一方、一里塚は静かに尋ねた。
「指紋登録されているという事は、石清水には前科があるようですがどのような?」
「主に銃刀法違反ですが。若い頃には詐欺罪や傷害罪でも服役しています」
「彼の組内での立ち位置はどのような?」
これに対しては、県警本部の組対……すなわち組織犯罪対策部から派遣されてきた増木仁介という警部が答えた。
「石清水は鳩舟組……と言うより上部組織である天橋組の武器調達担当です。ところが、数ヶ月前にその調達ルートが潰されて、最近は新たな武器調達ルートを躍起になって探していたらしいです。一里塚警部、あなたならこれが何の話なのかすぐにわかるはずですが」
そう言われて、一里塚の表情が険しくなった。
「まさか、その潰された武器調達ルートというのは……」
「お察しの通り、あなたが去年に『耳なし芳一』の事件で潰した武器密売人・所沢篤のルートです」
その言葉に、捜査本部がざわめく。一人意味がわからない姫奈は、光沢に尋ねた。
「あの、何なんですか、その所沢篤というのは?」
「あぁ、そうか。嬢ちゃんは知らないのか。実は、例の山口県警の大不祥事が起こる少し前、下関市で所沢篤という武器の密売人が殺されるという事件が発生していてな。まぁ、死体の有様が怪談の『耳なし芳一』そっくりだったから県警の中じゃ『耳なし芳一殺人事件』なんて呼ばれているが、結論から言えばそいつが殺されたのは武器の密売をめぐるトラブルのためだった。で、警部がその事件を担当して、所沢を殺した犯人は逮捕。同時に所沢が山口県内に持っていた武器の保管場所も暴いて、奴が国内に隠していた銃器類はすべて押収された。さっき警部が証人に出ていたと言っていた裁判も、この所沢の事件に関する裁判だ」
「そんな事が……」
「もっとも、そのせいで九州北部から中国地方西部にかけての主要な武器密輸ルートが潰されたのは確かだ。どうやら被害者も、その余波を思いっきり受けた口らしい。それに天橋組自体、この事件の時に所沢を殺した犯人が福岡の門司でしでかしたホステス殺しの容疑をかけられて、福岡県警による一斉摘発を受けていたはずだ。結局ホステス殺しに関して天橋組は無罪だったが、逮捕された連中は余罪がゴロゴロ出て、結果的にこの時天橋組の勢力が少し弱体化している。要するに、被害者の石清水も含めて天橋組そのものが今躍起になって勢力回復に努めている真っ最中って事だ」
と、ここで一里塚が増木に尋ねた。
「組対も石清水を監視していたんですよね。彼に関する情報は何かありますか?」
「用心深い奴でした。もっとも、だからこそ武器調達係なんて大役をやっていたんでしょうが、それだけになかなか尻尾を掴ませない奴でしてね。ただ、数少ない情報によれば、どうも女がいたようです」
「確かですか?」
「奴の住所は遺体が発見された山陽小野田市なんですが、何度か山口市内の飲み屋で若い女と一緒にいるところをうちの捜査員が目撃しています。もっとも身元まではわかりません。年齢は二十代半。我々は諸々の情報からホステスではないかと考えています」
「こうなると、鍵を握るのはその女ですね。彼女がいた飲み屋で聞き込みをするのが一番だと思いますが、本部長、どうでしょうか?」
一里塚はそういうと正面に座る捜査本部の本部長……山陽小野田署署長の多賀目哲弘警視の方を見やった。この多賀目警視はつい最近まで県警本部刑事部捜査一課課長だった人間だが、先日の山口県警の混乱に伴い一課長を辞し、こうして地方所轄署の署長に降格処分になっていた。つまり、一里塚たちからすれば元上司に当たるわけで、それだけに多賀目は何とも複雑そうな顔をしていたが、やがてしぶしぶと言った風に頷いた。一里塚の有能さをいちばんよくわかっているのもこの男なのである。
「好きにしたまえ。すぐに刑事部長も来るだろうし、私はすべてを君らに任せるよ」
「ありがとうございます」
一里塚は軽く一礼する。と、増木は難しい表情でこう続けた。
「問題は、これが暴力団同士の抗争に波及しないかという事です。現に福岡の天橋組本部はこの事件を広島の杜若組の仕業ではないかと疑っています。対応を一歩間違えれば、天橋組と杜若組という五大暴力団のうちの二派閥で全面戦争が起こる可能性さえありえるんです。無論、私たちもそれを防ぐ気ではいますが……」
「わかっています。こちらも慎重に捜査を進めますので、彼らが暴発しないようにだけ監視しておいてください」
一里塚の言葉に、増木は重々しく頷いた。
「まさか、こんなところで所沢の事件が出てくるとは思ってもいませんでしたね」
パトカーで移動している最中、助手席の一里塚がポツリと呟いた。ちなみに運転しているのは光沢で、後部座席には姫奈が恐縮気味に腰かけている。そんな中、光沢が一里塚に対して問いかけた。
「所沢殺害事件の公判はどんな様子ですか?」
「このまま行ったら犯人は懲役十五年ほどになると思います。ただ、所沢殺害によって密輸ルートを潰され、結果的に組員を何人も逮捕される羽目になった天橋組の動きが不穏で、地検も苦労はしているみたいです。下手をすれば天橋組から被告人への報復があるのではないかという事で。それに、押収した大量の銃器類の処分も考えなければなりませんし」
「……つくづく思いますが、事件というものは犯人を逮捕しただけでは終わらないものですな。こればかりは時間が解決するものではないという事を、毎回痛感させられます」
光沢は感慨深げに言った。
「さて、そろそろ問題の店ですね。まぁ、飲み屋ですからこの時間帯から開いているかはわかりませんが。今何時ですかね」
「ええっと……」
光沢が答えようとしたが、その前に後部座席の姫奈が自分の時計を見ながら答えた。
「今、午後四時くらいですね。そろそろ仕込みを始めるくらいの時間だと思いますけど」
「……どうも」
光沢は不機嫌そうにそう言う。が、一里塚はバックミラーで後ろを見ながら興味深そうな表情を浮かべていた。
「珍しいですね。若い女性が腕時計ではなく懐中時計を使っているというのは」
「え、あぁ、これですか」
姫奈はそう言うと、ポケットから取り出していた懐中時計をそっと撫でた。
「父の形見なんです。うち、昔は時計商をやっていたので。これは父から祝いでもらった物なんです」
「時計商、ですか」
「はい。……十三年前、神戸の地震で死んでしまいましたけど」
そう言われて、一里塚は何か納得したような表情を浮かべた。
「そうですか……。海江田警部は阪神大震災の被災者だったんですか」
「……えぇ、そうです。私もあの地震ですべてを失いました。そんな中で、唯一残った思い出の品がこれなんです」
あの地震の時、病室で目を覚ました姫奈は、手に父の形見である懐中時計をしっかり握りしめていた。駆けつけた叔母曰く、崩壊した江花家から救助された時点ですでに固く握りしめていて、治療をした医者も取り上げる事ができなかったという。
記憶がないので自分がなぜあの地震の中でこの懐中時計を守ろうとしたのかはわからなかったが、おそらく自分とつながりのある唯一の物という事で手放そうとしなかったのではないかと今では思うようにしていた。当時の家も何もかもがなくなってしまった今となっては、この懐中時計だけが当時を知る唯一の思い出であり、同時に一緒に地震を生き延びて人生を共に過ごしてきた腐れ縁のような存在でもあった。
「なるほど。……いや、立ち入った事を聞いて失礼しました」
そんな事を言っているうちに、パトカーは問題の飲み屋に到着した。看板はまだ準備中になっているが、幸い店の明かりは点いている。どうやら中に人はいるようだ。
「行きましょう。これが捜査の第一手です」
一里塚の言葉に、他の二人も頷いて車を降りた。暖簾に『故郷』と書かれたその飲み屋のドアをノックすると、しばらくして四十代くらいと思しき女将の女性が姿を見せた。
「あの、まだ開店前なんですが……」
そういう女将に、一里塚は警察手帳を示した。
「山口県警の者です。少し、女将に伺いたい事があるのですが……」
「私に、ですか?」
「えぇ。この人物に心当たりはありませんかね?」
そう言うと、一里塚は被害者の写真を見せた。女将はしばらく写真を見ていたが、やがてしっかりと頷いた。
「はぁ、うちの常連さんの、石清水さんという人に似ています」
「間違いありませんか?」
「もちろんです。週末になるといつもお越しくださいます。詳しくはわかりませんけど、仕事でいつも大変な取引をしていると、よく私に自慢げに話されています。あの、石清水さんに何かあったんですか?」
女将が心配そうに聞くが、一里塚はあえてその問いを無視して質問を続けた。
「常連という事ですが、来るときはいつも一人ですか?」
「えぇ、まぁ……あ、でもたまに女の子と一緒に来る事があります」
女将の言葉に、一里塚は目を光らせた。
「同じ子ですか?」
「えぇ。いつも一緒で、二、三回に一回くらいのペースで連れてきていました」
「その子の名前、わかりますか?」
「さぁ……石清水さんは『リア』って呼んでいました。多分、源氏名と思いますけど」
「水商売の女性ですか?」
「詳しくはわかりませんけど、私にはそう見えましたねぇ。何というか、雰囲気がね。そんな感じだったから」
「外見的な特徴とかはわかりますか?」
その問いに、女将は首をひねりながらも答えた。
「そうですね……。多分、二十代半ばくらいだと思います。私が見てもかわいい子でねぇ。あれなら石清水さんが熱を上げるのも仕方がないと思いましたよ。あと、多分この近くに住んでいるんだと思いますよ」
「なぜですか?」
「本人が市内に引っ越してきてもう数年経ったとか、この辺のスナックで働いているとか石清水さんに話していましたから。口ぶりからしてそう思っただけです」
「なるほど」
「……あの、本当に石清水さんに何かあったんですか?」
女将はますます不安そうに先程と同じ質問をする。今度は一里塚もしっかり答えた。
「実は今日、彼と思しき遺体が発見されましてね。殺人の疑いで捜査をしています」
「殺人って……石清水さん、殺されたって事ですか?」
女将が青ざめた表情を浮かべる。
「何かあったらお知らせしますよ。そちらも何か思い出した事があれば知らせてください。では」
一里塚は一礼して飲み屋を後にした。そのまま他の二人に今後の捜査方針を指示する。
「ひとまず、この辺のスナックに片っ端から聞き込みをかけましょう。被害者及び『リア』という女性について知っている人間を探します。光沢さんは海江田警部とペアを組んでください。私は一人で回ってみます」
「わかりました」
「了解です」
光沢と姫奈は頷き、そのまま近場のスナックへと足を向ける。一里塚も別のスナックへと足を運び、それから数時間は周囲のスナックに対する聞き込みに費やされる事となった。
しばらくはなかなかこれと言ったスナックが見つからない状況が続いたが、結果が出たのは「故郷」を出てから二時間ほど経過した時だった。近隣の繁華街を片っ端から調べていた光沢と姫奈に、一里塚から連絡が入ったのだ。
『見つけました。××商店街の裏手にある「アポロン」というスナックです。場所を言いますので来てもらえますか?』
連絡を受けて、光沢と姫奈はすぐにそのスナックへと向かった。偶然にも、彼女たちが聞き込みをしていた場所から五分程度の場所で、到着すると店の前で一里塚が店のママと思しき女性と話し込んでいるところだった。
「警部、遅くなりました」
「いえ、今話を聞いていたところです」
頭を下げる光沢に対して一里塚は簡単にそう言うと、改めて店のママに話しかける。
「失礼しました。それで、リアさんの事なんですが」
「えぇ、確かにリアちゃんはうちのホステスですよ。三年くらい前から働いてくれているんだけど、仕事ができるいい子です」
ママは当惑気味にそう言った。
「今、ここにいますか?」
「それが三日くらい前から休んでいるんですよ。最近疲れているみたいだったから、少し休みなさいって無理に休みを取らせたんですけど」
「写真はありますか?」
「えぇ。ありますよ」
そういうと、ママは一枚の写真を差し出した。ホステス全員での集合写真らしく、その中心付近にいる女性をママは指さす。それを見ながら、一里塚は次の質問に写った。
「彼女の本名はわかりますか?」
その問いに対し、ママは肩をすくめた。
「さぁ。こういう商売だと、そういうのを知られたくない子が多いですから。店ではずっと『リア』で通していましたし、私もそれを詮索するような事はしませんでした。ただ、山口の生まれじゃないのは確かだと思いますよ」
「なぜです?」
「言葉のイントネーションとかがね。やっぱりわかるんです。そういう刑事さんだって、山口の生まれじゃないんでしょ?」
その言葉に、一里塚は苦笑気味に頷く。
「まぁ、そうですね。でも、さすがに連絡先や住所くらいは知っているはずですね」
「そりゃね。それがないと連絡したくてもできないし」
「連絡先を教えてもらえますか? 彼女に聞きたい事があるんですが」
「はぁ。まぁ、いいですけど」
そう言って、ママは電話番号と住所を告げた。その住所はこの近くにある住宅街のものだった。光沢が補足する。
「ここは集合住宅が多い場所ですね」
「この辺に住んでいるという『故郷』の女将の推理は当たっていたわけですか」
一里塚は感心した風に言うと、さらにこんな質問を重ねた。
「彼女にはお得意さんというか常連のような人はいなかったんですか? 何度も指名するみたいな」
「そう言えばいましたね。何というか……こう言っちゃなんだけど、その筋の人みたいな怖い男の人。半年くらい前によくここに来てリアちゃんを指名していましたね。最近は顔を見せなくなったけど……」
その証言に一里塚と光沢は頷く。どうやら、最近は店の外で個人的に合う事が多くなっていたようだ。一里塚は石清水の写真を見せる。
「この人ですか?」
「そうそう、こんな人だった」
「店での様子はどうでした?」
「気前は良かったと思いますけどねぇ。来るたびにかなりのお金を使っていたみたいで。あぁ見えて、話もなかなかうまかったし」
「なるほど……。ありがとうございます」
ひとまずママへの質問はそこで打ち切って、三人は教わったリアの住所へと向かった。『故郷』から歩いて十五分ほどの場所。そこに彼女の自宅があるというアパートがあった。
「かなり年季の入ったアパートですね」
姫奈は少し緊張したようにそう言ったが、一里塚はジッと建物全体を観察しているようだった。
「住所からすると、部屋は二階のあそこですね。明かりはついていない……。留守かもしれませんね」
「どうしますか?」
「このまま帰るわけにもいきませんし、一応、部屋の前までは行ってみましょう」
一里塚の言葉に、三人は階段を上って二階の一番奥にある彼女の部屋の前に立った。近くで見ても明かりはついておらず、人気は全くない。
「表札はなし。まぁ、今のご時世なら珍しい事ではありませんね。新聞受けに新聞は三日分。となれば、休みを取ったその日から彼女はここにいない事になります」
「逃げたという事ですかね?」
光沢が厳しい顔で言うが、一里塚は慎重に言葉を続けた。
「まだわかりません。ひとまず、彼女の携帯電話の番号はママから聞いているので、かけてみる事にしましょうか」
一里塚はそう言うと、自分の携帯を取り出してママから聞き出した番号を押した。しばらくかけ続ける、が、相手が出る様子はない。
「出ませんか?」
「えぇ。さて、どうしたものでしょうかね」
そう言って一里塚が電話を切ろうとした時だった。
「ちょっと、待ってください」
ふいに姫奈が声を上げた。一里塚と光沢は彼女の方を見る。
「どうしましたか?」
「……何か、部屋の中から音が聞こえませんか?」
そう言われて、一里塚たちは一瞬顔を見合わせると、改めて耳をすました。すると、確かに室内からかすかに何かの音が聞こえてくる。
「これは……」
光沢の顔が厳しさを増す中、一里塚は答えを告げた。
「携帯電話のバイブレーション……のように聞こえますね」
「やっぱりそうですよね」
自分の感じていたのと同じ答えを言われて、姫奈が確信を持ったように言う。だが、それが意味するのはかなり深刻な状態だった。
「今、私は彼女の携帯電話にかけています。となれば……」
「彼女の携帯は室内にある、という事ですね」
光沢は厳しい表情を崩さずに答えた。それを受けて、一里塚は姫奈に問いかける。
「私は若い女性の習慣について詳しくはないのですが、今の若い女性は出かける際に携帯電話を部屋に置きっぱなしにするものなのですか?」
「いいえ、そんな事はないと思います」
姫奈も緊張の度合いを高めた顔で答える。一方、一里塚は表面上落ち着いた様子のままでその先の推測へと踏み込んでいった。
「だとすれば、彼女は外出していない事になる。しかし、部屋の明かりはついていない。となれば……」
一里塚はおもむろに新聞受けの辺りの顔を近づけ、そこから漏れ出てくる室内の空気の臭いを嗅いだ。その瞬間、珍しい事に彼は顔をしかめた。
「……わかりにくいですが、かすかに異臭のようなものがします」
「まさか……」
一気にその場が緊張する中、一里塚はポケットから薄手の手袋を取り出してそれを身に着けると、ドアノブを慎重にひねった。鍵はかかっている。が、一里塚は瞬時にドアの周辺を見回すと、不意に傍にあった植木鉢の下に手をやった。
「……何というか、随分古典的な隠し方ですね」
そこには、部屋の合鍵がしっかり置かれていた。一里塚はその鍵をドアノブに差し込んでゆっくり回す。カチッという音と共に鍵が開き、今度こそドアがゆっくりと開いた。チェーンロックはされていない。玄関を見た限り特に怪しい様子は確認できないが、同時に部屋の中から明らかに通常とは異なる臭いが今度こそはっきりと漂ってきた。
「警察です。リアさん、いますか?」
一応一里塚はそう呼びかけるが、中から反応はない。彼は意を決して室内に足を踏み入れ、光沢と姫奈もその後に続く。だが、入ってすぐ……狭いアパートの部屋の入口のところまで来た時点で、一里塚の足が止まった。
「これは……」
後ろから光沢と姫奈も部屋の中を覗く。そしてその瞬間、二人とも思わず息を飲んでいた。
乱雑に散らかった部屋の中央。そこに、一人の若い女性が。仰向けになって倒れていたのである。
「警部、これは……」
「えぇ」
光沢の言葉に短く答えると、一里塚は部屋の中に足を踏み入れ、女性の脈を確認した。だが、すぐに黙って首を振る。
「残念ながら、亡くなっていますね」
「なんてこった……リアですか?」
「そのようです。さっき見た写真の人物と同じです」
その答えに、光沢は息を吐きながら首を振る。一方、姫奈は事態の急展開にどう反応したらいいかわからない様子だった。だが、その間にも一里塚は遺体の様子を確認していく。
「死因は……見た限りだとどうも絞殺ですね。首筋に跡が残っています。もちろん、正式な解剖は必要でしょうが。凶器は……この洗濯紐のようですね」
一里塚は近くに落ちていた洗濯用の紐を見ながら言った。帰宅直後に襲われたのか、遺体はホステスらしい少し派手な衣装だった。化粧も落とせていないようであるが、死んでから少し時間が経っているのか、その顔色は化粧で隠し切れないほどに青黒くなりつつあった。
「光沢さん、すぐに本部に連絡してください。応援が必要です」
「わかりました」
光沢は携帯を取り出すと、そのまま一度部屋の外に出て本部に状況を報告し始めた。その間に一里塚はさらに遺体の周りを調べながらこう呟く。
「何にせよ、いつまでもリアなどという源氏名で呼ぶわけにもいきません。何か、身元がわかるようなものがあればいいのですが」
その言葉に、姫奈は部屋の様子を素早く観察する。すると、机の上にバッグが置かれているのが目に入った。手袋をしてそちらに近づき、中を確認する。案の定、そこには財布があった。
「一里塚警部、これが」
その財布を見て、一里塚も目を光らせる。
「その財布にはいくら入っていますか?」
「えっと……五万円くらいあります」
「ならば、犯人の目的は金銭ではありませんね。身元がわかるものは何かありますか?」
姫奈が中を探ると、運転免許証が見えた。
「運転免許があります。彼女の本名は……」
と、そこまで言った瞬間、ふいに姫奈は言葉を切って黙り込んでしまった。一里塚が不思議に思って近づくと、なぜか姫奈は顔を青ざめさせて食い入るようにその運転免許を見つめている。
「そんな……嘘……」
そんな呟きが彼女の口から聞こえてくる。一里塚は彼女の態度を訝しげに思いながら、彼女の手元の運転免許証を覗き込んだ。そこにはこんな名前が書かれていた。
『長平樹里亜』
「樹里亜……だから『リア』ですか。しかし、名前はわかりましたが、この後の身元調査が大変そうですね」
一里塚が深刻そうにそう呟いた、まさにその時だった。
「私……この子を知っているかもしれません」
不意に、今までなぜか硬直をしていた姫奈がそう言葉を発した。
「どういう意味ですか?」
「私の小学生時代の同級生の友人に、同姓同名の子がいるんです。『長平樹里亜』……確かにそういう名前でした」
姫奈の頭には、元気いっぱいにいつも遊んでいて、グループのムードメーカーだった『長平樹里亜』の幼い顔が浮かんでいた。しかし、そんな彼女と今死体になって転がっているホステスが同一人物だとは頭の処理が追い付かず、姫奈は何がどうなっているのかわけがわからなくなってしまっていた。
だが、一里塚はそんな姫奈の言葉に少し考えた後、すぐさまこう問いかけた。
「確か、海江田警部は阪神大震災の被災者という事でしたね。となれば、出身も神戸?」
「は、はい」
「ならば、あなたの同級生だという『長平樹里亜』さんも神戸の出身という事で間違いありませんか?」
「そうです。当時は神戸にある青雲小学校という小学校に通っていました」
一里塚の質問はさらに続く。
「震災が起こった時、あなたは何年生だったんですか?」
「六年生です。あと二ヶ月で卒業でした」
「では、震災後の彼女がどうなったのかわかりませんか?」
これに対し、姫奈は首を振った。
「わかりません。あの震災で私は重傷を負って、気付いたときは病院のベッドの上で……その後は一度も学校に顔を出す事もなくアメリカに引っ越してしまいましたから。私も大学時代に帰国した後、彼女たちがどうしたのかずっと調べていたんですけど……」
「調べていた、というのは?」
一里塚の問いに、姫奈はあの震災の時あった事をすべて……すなわち、自身を含めた仲良し七人組で江花紅美の家でお泊り会をしているときに地震に遭遇し、彼女たちの生死もわからないまま海外に引っ越す事になってしまったという事を話した。それを聞いて、一里塚は深く考え込む。
「そういう事ですか……」
「でも、今ここにいる彼女が私の知っている『長平樹里亜』とは限りません。珍しい名前ですけど、同姓同名かもしれませんし……」
だが、一里塚は一瞬部屋の中を見回したかと思うと、軽く首を振った。
「いえ、どうやらその長平樹里亜さん本人で間違いなさそうです」
「何でそんな事がわかるんですか?」
「あれです」
一里塚が示したのは、部屋の片隅にある古びた本棚だった。その本棚の一番下の段、今やすっかりほこりまみれになっているそこに、一冊の本があった。その背表紙にこう書かれていたのである。
『平成六年度神戸市立青雲小学校卒業アルバム』
それを見た瞬間、姫奈は思わず絶句してしまっていた。
「平成六年度卒業という事は、西暦に直すと一九九五年三月の卒業。海江田警部の同級生に『長平樹里亜』が二人以上いない限り、あのアルバムを持っているのは海江田警部の知っている長平樹里亜さんとみてまず間違いないと思います。残念ではありますが」
「そんな……」
その残酷な事実に、姫奈の頭は真っ白になってしまったのだった……。
それから数時間後の夜八時頃、山陽小野田署の捜査本部でこの新たに発生した事件に関する突発的な捜査会議が開かれていた。ただし、光沢と姫奈の姿はない。彼らは多賀目署長の指示で遺体の解剖に立ち会うよう言われ、解剖が行われている大学病院に行っている。よってこの場には三人の中では一里塚だけが出ている状態だった。
「新たに発見された遺体の身元は長平樹里亜、二十五歳。山口市内でホステスをやっていた人間で、山陽小野田の被害者である石清水と接点がある女性でした。死因、死亡推定時刻などに関しては現在解剖待ちです。最後に目撃されたのは現時点では三日前の十四日で、勤務しているスナックに出勤しています。退勤したのは朝の五時頃で、それ以降の足取りがわかりません」
所轄の刑事が緊張した様子で報告し、続いて別の刑事たちが立て続けに報告する。
「えー、現場での簡単な検視によれば遺体に動かした形跡はなく、従って殺害現場は遺体が発見されたあの部屋である可能性が高いとされます。部屋の鍵はかかっていましたがチェーンロックはかかっておらず、部屋のすぐ外の植木鉢の下に合鍵があったため、それを知っていれば誰でも出入りは可能と判断できます」
「また、現場を調べた結果、室内から被害者以外にも複数の指紋が検出。データベースにかけたところ、山陽小野田の被害者である石清水康義の指紋と一致しました。つまり、石清水があの部屋に出入りしていた事は間違いないと思われます」
その言葉に、本部がざわめく。と、一里塚が冷静な口調で尋ねた。
「石清水の事件までの動向についてはどうなっていますか?」
「何しろ相手は暴力団ですから、向こうが非協力的で……。今、組対の増木警部が踏ん張ってはいますが、判明するまでには時間がかかりそうです」
「では、長平樹里亜の経歴はどうですか?」
これには所轄の別の刑事が答えた。
「市役所に問い合わせましたが、山口に来たのは三年前ですね。その時に現場のアパートに引っ越していて、そのまま現在働いているスナックに転がり込んでいます。ただ、それ以前の動向が不明確です。少なくとも山口県内にいなかったのは間違いなさそうですが……」
「室内に神戸の小学校の卒業アルバムがありましたが、そちらの調査は?」
一里塚がさりげなく言う。ちなみに、被害者が姫奈の昔の友人かもしれないという点に関しては、確証が出るまではひとまず保留する事で一致していた。
「兵庫県警に問い合わせ中ですが、何しろアルバムの時期が震災のあった頃で、県警そのものが崩壊していた時期ですから、向こうも記録が曖昧らしいです」
「まぁ、仕方がありませんね。結果が出るのを待ちましょう」
そう言ってから、一里塚は淡々とこう続けた。
「あのスナックのママの話だと、石清水が問題のスナックに顔を見せていたのは半年前の事だそうです。必然的に、二人が出会ったのはその頃という事になってくるでしょうが、問題は、そこから何があったのかという事です。それを掴めれば、二人がなぜ殺害されたのかがはっきりするはず。以後の捜査はその点を重点的に……」
と、一里塚がそこまで言ったその時だった。不意に捜査本部の電話が鳴り響いた。代表で今まで黙って話を聞いていた署長の多賀目が取る。
「はい、山陽小野田署捜査本部。……はい、はい……」
多賀目はしばらく何やら応答していたが、不意にその目が厳しいものになった。
「何だって? うむ……いや、しかし……」
そのまま何事か話し続けていたが、やがて大きく首を振ると、一里塚を手招きした。
「話がしたいという事だ。君の方が適任だろう」
「相手は誰ですか?」
「聞けばわかる」
何とも意味深な事を言われ、少し不思議そうな顔をしながらも一里塚は受話器を取った。
「変わりました、一里塚です」
『山口県警捜査一課の一里塚警部ですか?』
向こうからは中年の男の声がした。
「そうです。あなたは?」
『失礼。私は広島県警刑事部捜査一課係長の山本景隆と言います』
「広島県警、ですか?」
思わぬ相手に一里塚はますます首をかしげる。係長という事は、おそらく相手は一里塚同様に県警刑事部の警部であろう。だが、この状況で広島県警が自分たちにどのような要件があるのか全くわからなかった。
一里塚は慎重な口調で言葉を発する。
「それで、ご用件は?」
『実は、先程テレビでそちらで殺人事件が起こったというニュースが流れていたのを見ましてね。被害者は長平樹里亜。間違いありませんか?』
「その通りです。それが何か?」
『その長平樹里亜に関してなんですが、できればそちらと情報共有をさせて頂けないでしょうか?』
思わぬ申し出に一里塚は戸惑った様子を見せる。広島県警の意図が全く読めない。
「どのような理由で、でしょうか? そもそも、山口県内で発生したこの案件に広島県警の、それも捜査一課が介入してくる理由がわかりません。返事をする前に、まずそちらの事情をお聞かせ願えませんか?」
その問いに対し、山本は少し難しそうな声でこんな事を言った。
『……実は、こちらも一つ殺人事件を抱えていましてね。今から一週間ほど前、東広島市で起こった事件です。市内の模型店で店主の男が殺されたという事件なんですが、捜査の結果一人の参考人が浮かび上がり、我々としてはその人物を追っているところでした。そんな中で、今日、そちらでその人物が殺害されていたというニュースが流れて、こちらとしても情報がほしいと、こういうわけです』
その言葉に、一里塚の表情にも緊張が走った。
「待ってください。それでは、その東広島市で起こった模型店店主殺しの重要参考人というのが……」
『お察しの通り、長平樹里亜です』
その簡潔な答えに、一里塚は反射的にこう問いかけていた。
「一体なぜ彼女がそちらの殺人事件の参考人になっているのですか? こちらで調べた限り、被害者とそちらを結び付けるような情報はなかったのですが」
その問いに対し、直後、広島県警の山本警部は事件をひっくり返すかもしれない情報をぶつけた。
『それなんですがね、こちらで調べた限り、長平樹里は殺された模型店店主の元恋人です。戸籍記録では五年ほど前から東広島市内に住んでいましたが、三年前に引っ越してそれ以降の行方がわからなくなっていました。しかし、殺害当日に彼女と思しき人物が現場周辺にいたという目撃情報があり、我々は事件について何か知っている可能性があると考えていたのですが……まさか山口で殺されるとは……』
そう言うと、山本は一里塚に対して事件の詳細を語り始めたのだった……。
それは今から一週間前、すなわち二〇〇八年一月十日早朝の事だった。広島県東広島市をパトロールしていた一台のパトカーに県警本部から無線連絡が入ったのは、朝七時頃の事である。
『至急、至急。県警本部から各局。東広島市××番地の模型店「ナンペイ」店内で店主と思われる男が血まみれで倒れているという通報が救急隊より入電。救急隊の情報では男性は既に死亡。現場の状況から事件性が高いとの事。近隣警邏中のPC(パトロールカー=パトカー)は至急現場に急行し、状況確認、現場保存に努められたし』
「東広島6(東広島署所属パトカー6号車)、了解。これより現場に急行する」
市内を巡回していたそのパトカーは即座にハンドルを切り、指定された模型店の住所へと走った。駅前近くの商店街の隅にあるその模型店は個人経営と思しき一階建ての小さな店で、すでに先着していた救急車が店の前に停車していた。パトカーがその横に停まると、傍にいた救急隊員が駆け寄ってくる。
「ご苦労様です」
「状況はどうですか?」
降りてきた警官たちが尋ねると、救急隊員は厳しい表情で答えた。
「死亡しているのは明らかです。首の頸動脈を物の見事に切断されていました。どう考えても自然死ではないので、警察に通報しました。遺体はそのままにしてあります」
「発見者は?」
「新聞配達の男性です。勝手口のドアが開けっ放しになっているのを不審に思って中を覗いたところ、店内で倒れている被害者を発見したという事です。そこに待機してもらっています」
救急隊員が指さす方を見ると、店の脇で蒼い顔している新聞配達の若い男の姿があった。警官の一人がそちらに向かい、もう一人が店内に入って中の様子を確認する。
が、店に入った警官はすぐに出てくると、パトカーの無線を手に取って緊張した様子で本部に報告を入れた。
「東広島6から本部。現場を確認。被害者は頸動脈を切られており、殺害の可能性が高い。至急、応援の出動を要請する!」
……それから三十分後、模型店の周りには所轄や県警本部の刑事たちが厳しい表情でうろついていた。店内では鑑識が早速作業を始めており、普段は人通りの少ない商店街に物々しい空気が漂っている。
そんな中、広島県警刑事部捜査一課係長の山本景隆警部が、現場となった模型店に到着した。今年四十五歳になるこの警部は県警刑事部一筋の叩き上げで、曲者ぞろいの広島県警刑事部をまとめる大ベテランである。そこへ、先着していた県警刑事部捜査一課主任の仲町家直警部補が駆け寄ってきた。丸眼鏡をかけてピシッとしたスーツを着たインテリめいた風貌ではあるが、見かけに反して山本同様にノンキャリアのバリバリの叩き上げで、こちらも長年山本の相棒を務めてきたベテランである。
「ご苦労様です」
「状況は?」
「左の頸動脈を切られて死亡。ほぼ即死ですね。死亡したのはこの模型店の店長の新浪南平、三十歳。八年前に模型店を経営していた父親が事故死し、以後はこの店を継いでいたようです。母親は十年前に離婚しています。現在独身。従って一人暮らしですね」
「だから店の名前が『ナンペイ』なのか。……『ナンペイ』と聞くと、十年くらい前に東京で起こったあの未解決事件を思い出してしまうな」
「八王子のスーパー強盗殺人事件ですか?」
仲町が眼鏡をずり上げながら尋ねる。「八王子スーパー強盗殺人事件」とは一九九五年に東京・八王子のスーパー「ナンペイ」で起こった強盗殺人事件で、閉店後のスーパーの事務室でアルバイトの女子高生二人を含む女性従業員三人が無残にも射殺された事件だ。現在も解決しておらず、一市民が拳銃で無慈悲にも殺害され、しかも犯人が見つかっていない事件という事で日本犯罪史にその名を刻み続けている。また、警察の銃器犯罪に対する対応が大きく変わった事件で、「ナンペイ」の名前は警察関係者にとっては忘れたくても忘れられないものとなっている。
「まぁ、この事件とは関係ない話だ。それで、現場の様子は?」
「この店は被害者の自宅を兼用していまして、店舗部分と自宅部分に分かれています。で、店舗のレジ裏、つまり自宅部分と店舗部分を繋ぐ場所に模型を作成するための『作業室』とでもいうべき部屋がありまして、被害者はその作業室で殺されていました。凶器は模型作成の作業に使うカッターナイフです。遺体の傍に転がっていました」
「被害者の持ち物か?」
「そのようですね。詳しい死亡推定時刻等は解剖待ちですが、血痕の様子などから遺体が動かされた様子は皆無。犯行現場はここですね。作業部屋は飛び散った血で血まみれになっていますよ」
そんな話を聞きながら、山本は現場の勝手口に到着した。第一発見者の新聞配達員がこの勝手口が開いている事を不審に思い、中を覗いて遺体を発見したのだという。勝手口から中を見ると、勝手口のすぐ横に作業部屋があり、そこから床に転がっている遺体を見る事ができた。
「ひどいな……」
開口一番、山本はそんな事を言った。仲町の言うように現場となった作業部屋は一面血の海で、その中心に被害者は倒れている。何しろ頸動脈を切られているので、この出血量はある意味当然である。
現場となった作業部屋を覗くと、机の上に作りかけの戦艦か何かのプラモデルが置いてあった。一メートルはあろうかというかなり大きめの模型で、近くに置いてある箱を見るとどうやら『大和』の模型らしい。作業着を着た被害者の格好を見る限り、どうやらこれを作っている最中に襲われたようだ。
「検視官の報告では、遺体に致命傷となった頸動脈の傷以外の抵抗の痕跡等は確認されていません。不意打ち的に襲われたようです」
「椅子に座って作業中の被害者の後方から接近、後ろから羽交い絞めにするようにして左頸動脈をカッターナイフで切断、か」
「その可能性が高いです。その犯行なら返り血をあまり浴びなくて済みますし、犯人にとって利点が大きいですから」
「となれば、可能性は二つだ。犯人が被害者に無許可で侵入し、作業に没頭していた被害者の後ろからこっそり忍び寄って瞬時に犯行を成し遂げたか、あるいは……」
「被害者と犯人が顔見知りで、被害者本人が招き入れた犯人が隙をついていきなり襲い掛かったか」
仲町が後を引き継ぐように言う。山本は頷いた。
「その通りだ。だが、前者だとすれば自前の凶器ではなく現場にあったカッターナイフを使った意味がわからない。殺害が目的なら、あるかどうかもわからない現場のカッターを使う事はないはずだ。それに、勝手口にこじ開けたような痕跡はなかった。被害者は勝手口の鍵を閉めないのが普通だったのか?」
「いえ、近所の人間の話では貴重な模型が多いので、戸締りには慎重だったとか」
「なら、無許可で侵入した可能性は消えるな。犯人は被害者の顔見知り。それも用心深い被害者が自宅に入れるほどの関係の人間だ」
「被害者の交友関係を調べる必要がありますね」
山本と仲町は遺体を見下ろしながらそんな話をしていたのだった。
その日の夜に開かれた捜査会議で、さらに詳しい情報が入ってきた。解剖の結果、死亡推定時刻は遺体が発見された一月十日午前七時の約十時間前……つまり、前日の一月九日午後九時頃と推測された。被害者の経営する模型店の閉店時間は午後六時。聞き込みの結果、閉店後の午後七時頃に被害者は近所のラーメン店にチャーシューメンの出前を頼んでいて、七時半にラーメンが到着。一時間後に店員が器を取りに来た時被害者は応答しており、これが被害者の生存している事が確認された最後の瞬間だった。
一方、被害者の交友関係の調査に関しては難航していた。両親のうち父親はすでに死亡、母親は離婚していて、調べたところすでに再婚して北海道在住だった。地元の商店街の人間との付き合いはあったがあくまで社交辞令的な付き合いで、踏み込んで付き合っていた友人は少なかったという。
だが、数少ない友人の一人であり、地元商店街で薬局を経営している式沢久雄という男から興味深い証言を聞く事ができた。何でも彼は昔からの幼馴染で、人付き合いの少ない被害者ともよく一緒に飲んでいたのだという。
「あいつ、五年くらい前に一度失恋した事があるんですよ」
聞き込みをしていた山本たちに、経営する薬局の前で式沢はそんな風に話した。
「失恋、というと?」
「五年前だったか、この商店街にある小さなスナックに若いホステスがいた事がありましてね。まぁ、一度一緒にそこへ飲みに行ったんですけど、あいつその新人ホステスにぞっこんで、何度かアプローチしていたみたいだよ」
「でも、うまくいかなかった?」
「多分ね。その子、三年前に急に店からいなくなっちゃったらしいから。しばらくはがっくり落ち込んでいたっけなぁ」
「そのホステスの名前は?」
式沢は少し考え込んでいたが、振り絞るようにこう言った。
「確か……店では『リア』とか言ってたような気がする。まぁ、確かにかわいい子だったけど、俺はあんまり興味なかったからよく覚えていなくって……」
「どうしてですか?」
「どうしてって、そりゃ当時は結婚一年目で、他の女の子と付き合いなんかしたらかみさんに怒られかねなかったし……」
式沢は奥の方で仕事をしている妻と思しき女性の方をちらりと見ながら言った。
「そのリアというホステスの本名はわかりませんか?」
「さぁ……店のママなら知ってるかもしれないけど……」
式沢は曖昧にそう言う。やむなく山本は別の質問に移った。
「被害者が殺される心当たりはありますか? 最近仕事で悩んでいたとか」
「どうかなぁ……。あぁ、でも、ここ一ヶ月くらい何か顔が暗かったと思います。なぜかは知りませんけど、何か悩んでいたみたいですね」
「悩んでいた理由は?」
「わかりません。俺にも話してくれませんでしたね」
「仕事上のトラブルはありませんでしたか? あそこの模型の中には貴重なものもあったと聞いていますが」
「確かに、何度か盗難騒ぎみたいのはあったみたいだけど、でも、殺人まで行きつくようなトラブルと言われても……」
式沢は困った顔を浮かべながらそう言った。
その後、二人は「リア」というホステスが務めていたという近くのスナックに立ち寄ったが、そこのママは幸い「リア」の事を覚えていた。
「あぁ、あの子ね。確かに、新浪さんがぞっこんだったみたいだけど」
「その『リア』って子の本名はわかりますか?」
「うーん、何だったかなぁ。確か何かの機会に聞いた事があるんですけど……」
ママがそう言うと、近くで開店の準備をしていた別のホステスが口を挟んだ。
「樹里亜ちゃんじゃありませんでした? 歓迎会の時にそう聞いた覚えがありますけど」
「あー、そうそう、そうだったわ。樹里亜ちゃん。だから『リア』なんだ、って思った記憶がある」
「樹里亜、ですか。名字の方は?」
山本が先程のホステスに尋ねると、ホステスは首をひねりながら答えた。
「それも確か言っていたはずですよ。えっと、長浜……じゃなくって長坂……でもなくて……何だったかなぁ、『長』が頭についたのは間違いないと思うんだけど」
と、ここで今度はママの方が何か思い出した風に手を叩いた。
「確か『長平』じゃなかったっけ?」
「そうです、長平! ママ、よく覚えていましたね」
「長平樹里亜、ですか」
仲町がその名前を手帳にメモする。
「それで、その樹里亜さんと新浪さんとは仲が良かったんですか?」
「さぁ、どうでしょう。でも、仕事以外でもよく会ってはいたみたいですよ。店の外の事だから、私はよく知らないけど」
「恋人だった、と?」
「そこまでは。でも、リアちゃんもまんざらじゃなかったはずです」
「聞いた話だと、彼女は三年前にいきなり引っ越したという事ですが」
「そう。急にやめるって言っていなくなっちゃって。新浪さんも相当がっかりしていたみたいだったけど」
ママが気の毒そうにそう言った時だった。先程のホステスがこう口を挟んできた。
「あ、でも私、昨日リアちゃんっぽい子を見ましたよ。帰って来たんじゃないかなぁ」
その言葉に、山本と仲町がホステスの方を向く。
「それは本当ですか?」
「うん。昨日、商店街の辺りを歩いていたら、リアちゃんそっくりな子が駅の方からやって来るのが見えたんです。懐かしかったから声をかけようかなぁって思ったんですけど、すぐにいなくなっちゃって」
「どこへ行ったかわかりますか?」
「うーん、駅の方から商店街の奥の方へ向かって行った風に見えましたけど」
「新浪さんの模型店の方という事ですか?」
「行ったかどうかはわからないですけど、でも確かに方角はそっちの方でしたね」
三年前に姿を消した被害者の元恋人と思しき女性が、事件当日現場近くをうろついていた。これは重要な情報だと、山本は緊張した表情を浮かべていたのだった。
……そして、時は現在に至る。時刻はすでに午後九時を超えていた。
『その後の捜査で、東広島市に来てから三年前に引っ越すまでの長平樹里亜の足取りはある程度掴めました。五年前に東広島市に引っ越してきて、そのまま先程述べたスナックで二年間働いていましたが、三年前に突然転居。ただ、転居先はこちらではわからない状態でした。我々は現場の状況から被害者が顔見知りに殺されたと考えており、さらに長平樹里亜が殺害当日に東広島市にいたかもしれないという情報から、彼女が事件に関して何か知っているのではないかと考えて行方を捜していたんです』
電話口で山本から語られる長平樹里亜の過去に、一里塚は慎重な様子で探りを入れていた。
「そのホステスの証言が見間違えという事はないのですか?」
『念のため、その後彼女に書いてもらった似顔絵を元に商店街を聞き込みしたのですが、その結果複数の目撃者が出てきました。さらに、近隣のコンビニの防犯カメラを調べたところ、似顔絵と同じ顔の女性が道路を歩いている姿が映っているのが確認されています。後でその似顔絵と映像をそちらに送って本人かどうかを確認して頂きたいのですが、少なくとも彼女と思われる女性が一週間前に東広島市にいたのは確実です』
「そちらの県警としては彼女が犯人だと?」
『そこまではまだ。ただ、事件に深くかかわっているのではないかという点では捜査員の意見は一致しています』
「なるほど……。ところで、彼女が東広島市に引っ越す前の経歴はわかりますか?」
『それについてはこちらも調べているのですが、どうもはっきりしません。ただ……』
「ただ?」
『そのホステスの話では、彼女が神戸の生まれだという話を何度かしていたと言っていたそうです』
「神戸、ですか」
ある意味、予想通りの話だった。
『こちらの情報は以上です。それで、そちらの情報を教えてもらいたいのですが……』
「……いいでしょう」
一里塚はそう言うと、彼女の死に様と三年前に引っ越してきて以降の境遇、そして同じ頃に殺された暴力団員の石清水の事などについて話した。
『……そうですか。どうも状況が複雑になっているようですね』
「合同捜査をした方がいいかもしれません。こちらは大野塚県警本部長に掛け合ってみるつもりですが、そちらはお任せしてもいいですか?」
『もちろんです。どうもこの一件、我々が思っている以上に大変な事件なのかもしれませんね』
「同感です」
山本の言葉に、一里塚は重々しく頷いたのだった。
同じ頃、光沢と姫奈は山口市内にある山口中央大学医学部で行われている被害者の解剖に立ち会っていた。多賀目署長曰く「何事も経験だ」という事だったが、かつての友人なのかもしれない女性の解剖への立ち合いは姫奈にとっては相当にヘビーであり、解剖が終わったあと、疲れたように備え付けのベンチに座り込んでしまっていた。
「大丈夫か?」
「はい……。でも、正直きついです」
光沢に対して、姫奈は気丈にもそう答えた。
「ま、最初はみんなそんなもんだ。すぐに慣れて何とも思わなくなる。ここはそういう職場だ。嬢ちゃんもそれは覚悟してこの仕事を選んだんだろう?」
「もちろんです」
と、その時奥から執刀医の助手と思しき男性が出てきた。
「結果が出ました。先生が話したいという事です」
「わかった。すぐに行く」
光沢が答え、ベンチから立ち上がる。
「どうする。結果を聞くだけだから、辛いんなら待っていてくれてもいいが」
「いえ、私も行きます」
そう言って
「それにしても、ここの先生は随分若かったですね。しかも女性でしたし……こう言っては何ですけど珍しいですね」
さっき見た限り、執刀していたの多分姫奈とそう大差ない年齢の女性医師だった。多分というのは、マスクをしていたので顔がはっきりしなかったからである。
「あぁ、何でもここの法医学教室のホープらしくってな。特例で飛び級を重ねまくって、まだ二十代半ばなのに法医学教室の准教授に就任。今じゃ本来法医学教室のトップであるはずの教授に代わってほとんどの解剖を彼女がやっているそうだ。実際、何度か世話になっているが、若いが解剖の腕はいい先生だよ」
「そんな人がいるんですね」
「年齢も近いだろうし、もしかしたら嬢ちゃんとも気が合うかもな」
そんな事を話しているうちに、二人は目的の部屋に到着した。『法医学教室研究室』と書かれたその部屋をノックすると、中から返事がして光沢たちは中に入った。中には、先程執刀していた若い女医が白衣を着てパソコンに何かを打ち込み続けている。
「先生、いつもお世話に。夜遅くにすまんね」
「光沢警部補、お久しぶりです。十一月に元タクシー運転手の解剖をした時以来ですか。今回は二遺体を一度に運び込んでくるなんて気前がいいですね」
女医はパソコンの方を見ながら無表情にタイピングを止める事なく応答する。が、普段からこうなのか、光沢は気にする事なく話を進めた。
「所見は?」
「最初に運ばれてきた男性については、死亡推定時刻は二日前の一月十五日午後六時頃から午後十一時頃までと判断します。死因は背後から刃物で心臓を突き刺された事によるショック死という事で間違いないでしょう。ほぼ即死だったと考えて結構です。暴力団関係者という事でいくつか古傷はありましたが、他に犯行時についたと思われる外傷は確認できず、臓器等の確認もしましたが、喫煙で肺が少し汚れている以外は健康そのものでした。それと胃の内容物ですが、若干のアルコール成分と未消化の米、マグロ、イクラ、エビを発見。多分、寿司をつまみにお酒でも飲んでいたんだと思います。消火物の状況から見て、飲食したのは事件の直前ですね」
一気にそう話しながら、女医はさらに言葉を続けた。
「次に後に運ばれてきた女性ですが、死亡推定時刻は同じく二日前の十五日午後三時から午後九時までの六時間と判断します。死因は頸部圧迫による窒息死……要するに絞殺ですね。いわゆる手なんかで絞める扼殺ではなく、紐状のようなもので思いっきり絞めたと考えられます。索状痕が水平になっていましたから、首吊りの可能性も否定できるでしょう。持病等は特になし。ただ、お酒の飲みすぎか肝臓が少し弱っているようにも見えました。それに肺も少し汚れていたので、多分喫煙していますね。胃の内容物はポテトチップスとカップラーメンの麺とアルコール。お酒を飲みながらつまみをつまんでいたっていう感じです」
「現場のごみ箱からはポテトチップスの袋とカップラーメンのカップが見つかっているし、机の上には飲みかけのビール缶もあった。おそらくそれだろう」
光沢が補足すると、女医は小さく頷いた。
「なら、それで間違いないでしょう。あと、体内から精液等は検出されていませんから、レイプ殺人の可能性は否定してもいいと思います」
「性的暴行の可能性はないか。金銭目的でもないようだし、これは動機の解明が大変そうだ」
「それは警察の仕事です。私がとやかく言える話ではありません。ひとまず、これが解剖所見です」
女医はそう言いながらこちらを見る事もなく器用に片手でパソコンのキーボードを叩きつつ、反対の手で光沢に書類の入った封筒を差し出す。
「ありがとう、また何かわかったら知らせてほしい」
「礼には及びません。仕事ですので。ところで、一つお聞きしても?」
「何だ?」
「さっきから気になっているんですが、その後ろの方はどなたですか? 初顔のようですが」
そう言われて、後ろに控えていた姫奈は慌てて自己紹介する。
「本日付で県警刑事部捜査一課課長補佐に就任しました海江田姫奈です。よろしくお願いします」
「まぁ、キャリア組の嬢ちゃんだ。階級は警部。ここにいるのは一、二年ほどらしいが。今後も顔合わせる事が多いだろうから、知ってやっておいてくれ」
光沢がそう捕捉し、姫奈は頭を下げる。が、その自己紹介を聞いて、初めて女医はキーボードを叩く手を止めた。
「海江田姫奈……」
そう呟くと、不意にゆっくりと姫奈の方を見やる。思わぬ反応に、姫奈は戸惑いを見せた。
「あの、何か?」
「いえ、知り合いの名前に似ていたもので……。つかぬ事を聞きますが、出身は?」
「神戸ですが、それが?」
それを聞いた瞬間、女医の目が大きく見開いた。今まで無表情だっただけに姫奈は少し驚いたが、続いて発せられた言葉に姫奈はさらなる驚きを味わった。
「もしかして……『お姫ちゃん?』」
「えっ」
そのあだ名は小学生の時に親しい人間だけが呼んでいたものである。だが、女医は姫奈の驚きを知ってか知らずか急にため口になってこう言葉を続ける。
「うわぁ、びっくりした……何て言うか、すっかりかっこよくなっちゃって……」
「あの、あなたは……」
その問いに対して、女医は初めて自身の名前を告げた。
「私よ。『乃木坂奈々』。覚えていない? 小学校の時の同級生だった」
「え……ええぇぇぇぇっ!」
今度こそ、姫奈は驚きの声を上げた。乃木坂奈々……それは被害者である長平樹里亜同様に十三年前の仲良し七人組だった少女の一人で、当時子役として芸能界で華々しい活躍をしていた少女の名前そのままだったからである……。
『乃木坂先生が?』
「びっくりしましたよ。まさか、先生が嬢ちゃんや被害者の長平樹里亜と同級生だったなんて……というか、先生が震災の被災者で、当時芸能界で子役をしていたなんて初耳です。何と言うか、普段の姿からは想像もできません」
それから一時間後、光沢は建物の外で一里塚に事の顛末を報告していた。
『それで、今二人はどうしていますか?』
「積もる話もあるようなので二人きりにしています。ただ、震災でバラバラになった当時の同級生三人が今になってこの山口に集まっているというのは少し気になるところです」
『同感ですが、この段階ではまだ偶然の範疇といえなくもありませんね。ちなみに聞きますが、当時仲の良かった同級生は今言った三人だけなのですか?』
「いえ、別れる前に嬢ちゃんから聞き出しましたが、当時神戸市立青雲小学校に在籍していた六年生の少女七人で仲良しグループのようなものを作っていたらしく、海江田警部、乃木坂先生、それに被害者の長平樹里亜はそのグループに所属していたそうです」
『つまり、もう四人いるわけですね。名前はわかりますか?』
「聞いておきました。三人以外では塩賀美智子、米内涼香、朝島玲於奈、江花紅美の四人だそうです。ただ、震災の時に嬢ちゃんは重傷を負ってそのまま海外の親戚に引き取られてしまい、関係はそこで途絶。帰国後、嬢ちゃんも個人的に探していたという事ですが、今の今までわかっていなかったと言っています。そこで警部にお願いなんですが、今言ったメンバーの名前が問題の卒業アルバムにあるかどうかを確認してもらえますか?」
『わかりました。こうなってくると、海江田警部からその震災の状況を聞いておきたいですね』
「やっぱり気になりますか?」
『もちろんです。どうも、海江田警部はその七人組絡みで震災の時に何かがあったようですね』
「こちらの話が終わり次第、すぐに戻ります」
そう言って電話を切ると、光沢は奈々の部屋を見上げたのだった。
「でも、十三年ぶりかぁ。まさか、あのおとなしい『お姫ちゃん』が、アメリカ帰りのエリート警部とはねぇ。一瞬見ただけじゃわからなかった。っていうか、スタイル変わりすぎでしょ」
研究室では、奈々がコーヒーを入れて姫奈と語り合っていた。姫奈としても思わぬ旧友との再会でどう反応したらいいかわからないところが大きかった。
「それはこっちのセリフよ。あれだけ子役で活躍していた奈々が解剖医だなんて、イメージが違い過ぎて信じられないわ。あの頃と雰囲気も全然違うし、何があったの?」
「……地震の時ね、私も大怪我をしたの。多分、あなたより重傷だった。全治半年くらいかかってね。小学校の先生の計らいで病室で卒業はさせてもらったけど、退院して中学校に途中入学した時にはみんなもう誰もいなくなっていたの」
「誰も?」
「卒業をきっかけに他県に引っ越す子が多かったみたい。私は神戸に残ったけど」
「引っ越したって事は、みんな生きてるの?」
その問いに対し、奈々は少し顔を伏せて答えた。
「一人だけ……駄目だった」
「駄目って……誰が……」
「紅美ちゃん。それに紅美ちゃんのお父さんも。打ち所が悪かったって」
その言葉に、姫奈は絶句した。やはりあの地震で仲良し七人組の中に死者が出てしまっていたのだ。リーダー格だった紅美がすでにこの世の人間ではないという事を、姫奈は認めたくなかった。
「しかも、親子二人で死んじゃったから、葬儀を上げる人もいなくてね。震災のごたごたで、結局近所のお寺がご厚意でお墓を作ってくれたみたい。今は二人ともそこに眠ってるわ」
「そうだったんだ……」
「うちは幸い家族全員無事だったんだけど、私の入院が響いたのと、地震で進学予定だった女子中学校の校舎が崩壊して経営破綻したから、結局姫奈が本来行くはずだった公立中学に進学する事になってね。そういう理由もあって、進学した後に学業を優先するために子役を一度休業したの。で、この先また大きくなった後で女優業に復帰するかどうか考えて、私を自身の時に助けてくれたお医者さんの事を思い出してね。何て言うか、そっちの道もいいかなぁって思って……。結局、芸能界には戻らないで、そのままこうして医学の道へ進んだわけ。まぁ、何の因果か法医学教室なんかに入っちゃったけど、これはこれでいいと思ってる。でも……まさか樹里亜の解剖をする事になるなんてね」
そこまで言って、奈々の表情が少し暗くなった。
「やっぱり、気付いていたんだ」
「そりゃね。名前は書類に書いてあったし、ちょっと信じられなかったけど、何というか顔の雰囲気がね。あの子そっくりだった。でも、そんな事を言ったら担当を外されそうだったし、最後くらい、友達だった私が解剖して見送ってあげたかったの」
「樹里亜の行方は知らなかったの? あの子も私と同じ公立進学組だったんだから、公立に行ったんだったら出会えたんじゃない?」
「さっきも言ったみたいに、卒業と同時にみんな引っ越しちゃったみたいで、結局あの公立中学に入ったのは私だけだったわ。樹里亜も卒業した直後に引っ越しちゃったみたいで、その先はわからない。まさかホステスになって山口にいたなんてね。元気いっぱいだったあの子を知ってるから、ちょっと想像できないわ」
「他の子たちは?」
「玲於奈は京都に戻ったみたいだけど、涼香と美智子は……実はよくわからないの。小学校の先生の話だと、あなたと一緒で、卒業式にもいなかったみたいだし。今は誰がどこで何をしているのか、一部を除いてわからないわ」
「一部?」
意味深な言い方に姫奈が問い返すと、奈々は笑いながらこう言った。
「一人だけ連絡がつく子がいるの。実は、さっき連絡してここに来るように言ってあるのよ。姫奈がいるって言ったら、すぐに行くって言ってたわよ」
「誰なの?」
そう聞いたその時、不意に部屋のドアがノックされた。
「噂をすれば。どうぞ」
奈々の言葉にドアが開き、一人の女性が入ってきた。髪の毛をショートカットにしたきりりとした顔つきの女性で、可愛いというよりかっこよく見える。だが、一番目を引いたのはセントバーナードのマークがついたそのオレンジの服装だった。それは、いわゆるレスキュー隊が着用する制服そのままの姿だったのである。どうやら彼女は消防のレスキュー隊員のようだった。
「えっと、あなたは……」
姫奈が戸惑いながらそう言うと、相手の女性は目を見開いて姫奈の方を見やった。
「あなたが……『お姫ちゃん』なの?」
彼女は確かに姫奈の昔の名前を口走った。それに対し、奈々が補足する。
「そうよ。今は山口県警刑事部捜査一課課長補佐のエリート警部さんだって。あなたもそうだけど、こっちも随分な変わりようじゃない」
「本当に……。でも、よかった! 生きていてくれて……私、あの時からずっと気がかりで……」
「あの……ごめん、あなたは誰なの?」
そう尋ねると、相手の女性は一瞬苦笑すると、不意にきびきびした口調のままこんな言葉を発した。
「いややわぁ、お姫ちゃん。うちのこと忘れてしもうたん? 昔、あんだけ仲良うしとったのになぁ」
その言葉で、姫奈はそのあまりに予想外な彼女の正体に気付く事となった。
「も、もしかして……玲於奈?」
「はっ! 山口消防庁特別救助隊所属、朝島玲於奈であります! 海江田姫奈警部、以後よろしくお願いします!」
女性……玲於奈はそう言って冗談気味に敬礼しながらはきはき答えるとニッコリ笑った。その姿に、姫奈はほんわかした京都弁ののんびりした少女だった朝島玲於奈の姿を思い出し、思わず今の彼女と比べてしまったのだった……。
「おとなしかった姫奈が警察のキャリア組エリートで、のんびりしていた玲於奈がレスキュー隊員で、子役で活躍していた私が死体と向き合う解剖医って、みんな随分ひねくれた大人になったものね」
……衝撃的な自己紹介から数分後、玲於奈を加えた三人組は、それこそ十三年ぶりとなるお喋りを繰り広げていた。
「でも、どうしてレスキュー隊員に?」
「私もあの地震で紅美の家に生き埋めになったんだけど、瓦礫の中で意識が戻ったの。でも、全然体を動かせなくて……もう駄目かもしれないって泣いてたら、急に視界が開けて、レスキュー隊の人が助けてくれたの。幸い怪我もたいしたことなくて、私はそのまま卒業と同時に京都に戻る事になったんだけど……何て言うか、私を助けてくれたレスキュー隊の人の姿が頭から離れなくってね。ああいうかっこいい仕事をやってみたいなぁって、女がてらに思っちゃったのよ」
「でも、ご両親は反対したんじゃない? あの時京都へ戻るって話になっていたのも、ご両親が実家の老舗料理店を継ぐためだったって聞いてたし……」
「うん、まぁ、大学に進学するときに大喧嘩したわ。お母さんたちは私にも料理店の手伝いをしてほしがってたみたいだけど、よりによってレスキュー隊員になりたいなんて言い出したんだからね。凄い大喧嘩して……最後は向こうが折れて、今は実家とは距離をとってるの。親不孝な娘でしょ」
玲於奈は苦笑気味にそういう。
「でも、どうして山口に? 消防士って確か他県への異動とかはないはずだから、最初から山口の消防庁に入ったって事よね?」
「うーん、大学がたまたま山口の大学だったし、それに……あの時私を助けてくれたレスキュー隊員の人が災害派遣されていた山口消防庁の人だったから、どうせなるんだったら同じところで働きたいと思って」
「そうだったんだ……」
と、ここで奈々が口を挟んだ。
「半年くらい前に山口市内の繁華街で雑居ビル火災があって、玲於奈はそこに臨場したの。でも、救助した人が亡くなって、その人の解剖を私がやる事になってね。そこで、立ち合いに来た玲於奈とばったり再会したってわけ。あの時はびっくりしたっけなぁ。まさかあののんびり玲於奈がレスキュー隊員になっているとは思ってなかったから」
「さっきから少し失礼よね」
玲於奈がそう言い、その場に笑いが起こる。が、その笑いも少しすると収まり、やがて少しシリアス度を増した声で玲於奈が尋ねた。
「……奈々から電話で聞いたけど、樹里亜が死んだって本当?」
その問いに、姫奈の代わりに奈々が頷く。
「本当よ。私が解剖した。明らかに殺人だったから、こうして姫奈が動いてる」
「信じられない。というか、同じ山口県にいるなんて知らなかった……」
「私も。知ってたら絶対に会いに行ってたわ」
「ねぇ、樹里亜のお葬式ってどうなるの?」
その玲於奈の問いには姫奈が答えた。
「親族に連絡がつかないの。だからひとまず勤務先の店の人がやってくださるって」
「そう……」
玲於奈はそう言って俯く。代わりに奈々がこう尋ねた。
「ねぇ、姫奈。私が聞くのもなんだけど、警察は今どう考えているの?」
「まだ捜査は始まったばかりだし、何もわかっていないわ」
「光沢警部補が来たって事は、担当は一里塚警部よね?」
「知ってるの?」
「もちろん。あの人、法医学教室でも有名人だから。山口県警の切り札とか何とかで、私が解剖を担当した事件もいくつか解決している。聞いてると思うけど、下関で起こった拳銃密売人の殺害事件や、この前起こった山口県警の大不祥事も、解決したのはあの人だって」
「やっぱり、凄い人なんだ……」
姫奈は思わずそう呟いていた。
「だから、さ。姫奈も気を付けた方がいいかもしれないよ」
「え?」
「私もあの警部さんは切れると思う。コンビを組んでいる光沢警部補だって並の刑事じゃないのは確か。そんな二人が、被害者と私たちの間に関係があるって知ったら……多分徹底的に調べると思うから」
「調べるって何を?」
「私たちが、今回の事件に関係していないかどうかを、よ」
その言葉に、姫奈は少し背筋が寒くなったのだった。
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