桜の花が咲く頃に
Author――裏山おもて
古書独特のかすかに饐えた匂いを、僕はゆっくりと吸い込んだ。
ほとんどの店がシャッターを閉め、寂れた商店街。
その一角に小さく佇む『本田本店』が僕の家だった。
祖父のものだったこのかび臭い古書店を、母が受け継いで経営している。一人息子である僕もまた、本田本店の店員のひとりだ。
わずか十畳ほどの狭い店内には、天井まで高く積まれた本棚とレジカウンターがあるだけだ。駅前にできた新しい本屋のように喫茶スペースがあるわけでも、蔵書検索の機械があるわけでもない。それどころか本が作家の名前順にならんでいるわけでも、レーベルごとに区分けされているわけでもなかった。
祖父が気ままに並べていたまま、古書たちが残っている。
そんな風体だから当然、経営が黒字になるわけもなく、日がな一日閑古鳥が鳴いているのだった。
そんな店だとしても、僕はここが好きだった。
「卒業おめでとう、コテツ兄ちゃん」
店の隅で立ち読みしていた常連客――竜ヶ峰ナナが、卒業証書を手に帰ってきた僕に声をかけてきた。
僕と同じ高校の制服に身を包み、足元には鞄を置いている。
ナナは幼馴染で、ひとつ年下の二年生。卒業式には出席したはずだから、式が終わってすぐにここに来たのだろう。卒業式に参加しなかったという可能性もあるが、速読のナナが手元の本をまだそれほど読み進めていないことも鑑みて、間違ってはなさそうだ。
そんな風に彼女を観察しながら言葉を返す。
「ああ、ありがと」
「卒業式なのに、そのまま帰ってきたんだね」
辛辣なセリフだった。
あいにく僕は友達が少なく、数少ない友人のひとりも部活の集まりに参加しにいった。当然、卒業アルバムにコメントを書き込むクラスメイトたちに溶け込めるはずもなく、当たり障りのない程度に教室に残り、帰ってきたのだった。
とはいえそんなことはおくびにも出さず、レジカウンターから眺めるナナの横顔に向かってやわらかに微笑んだ。
「お前に一番に会いたくてさ」
「まあ、兄ちゃんは友達いないもんね」
バレていたのであった。
毎日顔を合わせる仲だ。隠せているはずもない。
ちっぽけな自尊心を打ち砕かれてうなだれている僕にナナは、本から目を離さず、
「でも、はやくおめでとうって言いたかったからよかった」
照れているわけでもそれを隠しているわけでもなく、彼女は淡々と言った。
それを聞いた僕がむしろ照れてしまう。
あまり感情的にならないナナと違って、僕はすぐに顔に出てしまうのだ。
「そうだナナ。僕が引っ越す前に、もう一度――」
「やっほーコテツー! いるー⁉」
穏やかな空気が唐突にぶち破られた。
立て付けの悪いドアを豪快に開けて入ってきたのは、背の高い少女。
快活な表情と目を輝かせ、ズカズカと店内に入ってきた。
「あ、やっぱりいた! ひどいよもう先に帰るなんてさ!」
「いや……一緒に帰る約束なんかしてねえだろアイ」
村雨アイが彼女の名前だ。
アイの家は同じ商店街にあり、この商店街で唯一繁盛しているパン屋だ。テレビ取材も何度も来るくらいにパンは美味しく、その客のほんの一部がこの店に立ち寄ってくれるおかげでここも潰れずに済んでいるという具合だ。
僕たちは親同士の仲が良く、そのせいで生まれたときからの付き合いだった。アイとナナも同じ幼馴染なのだが、ふたりは性格的に合わないようで、あまり話す姿を見たことがない。
喧騒の気配を察知した途端、本で顔を隠すナナ。
そんなナナに気付きもせず、アイがカウンターに鞄と卒業証書を豪快に置く。
「ねえコテツ! 新しい噂聞いたんだけど!」
「いやいやいやいや……おまえ、今日卒業式だっただろ。新聞部の活動は終わったはずだぞ」
「何言ってんの! あたしは死ぬまで新聞部なの!」
冗談か本気なのか……いや、本気だ。
アイはジャーナリストになるために大学に行くらしい。冗談なわけがなかった。
「友達と遊びに行けよ。最後の日なんだぞ」
「遊びになんていつでもいけるじゃん! それよりねえコテツ、聞いてくれる?」
「はあ……わかったよ」
この十八年、アイの頼みを断れた試しがない。
見えない強制力のせいでうなずいた僕に、アイは目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。
「『枯れた桜の木』って知ってる?」
「……ん?」
「だから、『枯れた桜の木』。パパとかママとか、この街のそれくらいの年代のひとたちには有名な話なんだけど」
「ああ、森の丘公園のやつか」
「そうそう! それ!」
この商店街から東に進んでいくと、小さな森林公園がある。
そこの中心は小高い丘になっていて、丘の頂上に一本の小さな枯れ木が植わっている。もうずっと昔から花を咲かせてないという話だが、それが桜の木だということは僕も知っていた。
その枯れたはずの桜の若木が、十年前に一度だけ花を咲かせたという都市伝説がある。アイが言っているのはそのことだろう。
「その『枯れた桜の木』がね、人知れず花を咲かせるんだって!」
「……え?」
「だからさ、見てたくない? その桜の花!」
枯れた木が花を咲かせることなんてないのは常識だ。
いままで色んな噂の取材に同行してきたが、今度はまた妙なものを嗅ぎつけて来たようだ。
僕は首を振る。
「特に興味ないな。いつもだけど」
「もう! コテツってば刺激が足りないよ!」
「この街で過ごす最後なんだから、もっとこう穏やかに過ごそうぜ……」
お互い大学がここから離れた場所になってしまった。
いままできょうだいのように過ごしてきた幼馴染でも、ついに離れるのだ。
そんな僕の言葉を、アイはいつもの笑顔でねじ伏せた。
「だからこそいま見たいの! それに、あの桜の木、三月には伐採されるらしいし、ちょうど見納めになるんじゃないかって」
「伐採?」
「そうなの。それをパパの会社が頼まれてるんだって。でもこんな時期に切るなんて桜が可哀想だよね。なんでいま切るんだろ」
「まあ年度末だから、自治体も予算使い切りたいんだろうけど……」
「とにかく! あたし、噂の桜の花が見たいの! だからコテツ、いつもみたいにちゃちゃっと推理して見に行こうよ!」
いままで推理してきたのは僕ではないのだが。
しかしこの噂には、ひとつ心当たりがあった。
「……じゃ、とりあえず今から向かうか。森の丘公園」
「え? いま咲いてるの?」
「そんなわけないだろ。僕の考えが成立しそうか見にいくんだよ。下見だ下見」
僕は立ち上がった。
卒業証書を放り投げてアイがついてくる。
店を出るとき、思い出して振り返る。
「そうだナナ。店番よろしく。そろそろ母さんも戻ってくるからさ、頼むよ」
不機嫌そうな顔をしたナナは、僕の言葉にぴくりとも反応しなかったけど。
アイはそこでようやくナナに気付いたらしく、少し申し訳なさそうな顔をしていた。
森の丘公園までは歩いて十五分程度。
問題は丘を登るのが大変だと言うこと。
なんたって、僕は運動不足なのだ。
冷たい北風が草を撫でる。
森林公園の入口には遊具があり、近所の子どもたちでいつも賑わっていた。
冬の気配もまだまだ残る初春だというのに、半袖半ズボンの小学生が何人か駆けている。そういえば僕も小さな頃はあまり長袖を着なかったっけと、かつての自分を思い出す。気がつけば、いつのまにか意味もなく走ることをやめていた。
公園の中心は丘になっていて、その勾配はけっこキツイ。そのせいで丘を登る人はあまりいないようで、夕暮れの寒い気温のなか誰とすれ違うこともなくひたすら無言で登った。
「あ~疲れた!」
普段体力が有り余ってるアイですら肩で息をしていた。
僕はというと言葉を吐く余裕もなく、草の上に倒れるようにして寝転がった。
頬に触れる草の冷たさが心地いい。
「でも、いい景色だね!」
アイがぐるりと周囲を見渡した。
遮るものがなにもない丘の上だ。公園の周囲に広がる街。東は海になっていて水平線が見え、西は遠くに山が望める。僕たちの家がある商店街も、卒業した学校も、ほっぺたが落ちるほど美味しいたこ焼き屋がある隣街もすべてが見渡せる。
観光地でもなんでもないただの小さな街だけど、確かにいい景色だった。
「この街ともお別れか……」
感慨深くつぶやいたアイ。普段は感傷に浸る姿なんて見ないから、少し新鮮だった。
育った街だ。僕にだって想い出の場所はたくさんある。
自分で選んだ進路とはいえ、遠くの大学へ行くという選択は少し寂しいものだった。
「卒業おめでとう、アイ」
「コテツもね。いままで色々ありがと」
ぺこり、と頭を下げた。
そんな殊勝なアイが珍しくて、つい驚いていると、
「それでどうなんですか本田コテツさん! 愛しの竜ヶ峰ナナさんと離れ離れになるのは! 寂しいですか! 浮気ですか! 不倫ですか! スクープですか⁉」
「黙れ週刊村雨め」
まったく油断も隙もあったもんじゃない。
しつこく僕の恋愛環境を聞いてくるアイを無視して、僕は枯れた桜の木を眺める。
一本の若木。虫が巣食うこともなく風に折れることもなく、ただ枯れたときの姿を保ち続ける。
ずっと咲くことのない花を待っているのだ。
それは十年前と変わらない、寂しい姿だった。
「ねえコテツ! きこえてますかー!」
「……おまえ、花を見たいのか?」
「え? あ、うん! もちろん!」
「なら明日の六時、ここに来いよ。早朝のな。条件が良かったら見れるだろ」
「へ? あ、うん……って六時⁉」
ぽかんとするアイを置いて、僕は丘を下り始めた。
すでに昼過ぎだ。防寒具も持たずに制服のまま歩いてきたから、風が冷たくなる前に家路を急いだ。
花 花 花 花 花
『待ってるの』
十年前。幼い彼女はそう言った。
もう咲くことがないことを知りながら、彼女は待ち続けていた。
まだ幼い彼女の瞳は、いつも儚げに潤んでいた。
『桜が咲くの、待ってるの』
それが叶わないと知りながら、信じるように。
桜の季節になっても、枝に芽をつけることのない木を。
ただひたすら待っていた。
だから僕は彼女のために。
ただ、彼女のために――
花 花 花 花 花
「さっむーい!」
アイの叫びが丘の上に木霊した。
空は深い藍色に澄み渡っていた。
まだ日も登っていない早朝だ。昨夜からの雲一つない快晴が放射冷却を生み、昼間に温められていた大地の熱が空の彼方まで逃げていく。そのせいで気温が夜の間にぐっと下がり、まるで真冬のような寒さを生んでいた。
月は大地の裏側に隠れていて、星だけが空を照らす。とはいえ東の空が少しずつ明るみ始めているので、太陽がもうじき顔を覗かせるだろう。
分厚いコートとマフラー、手袋、帽子、ブーツに身を包んだ僕は、眠い目をこすりながら水平線を眺めていた。
「ねえコテツ、ほんとに咲くの⁉」
「さあ……条件が揃えば、って言っただろ」
こればかりは自信はない。運の要素が強いからだ。
マフラーの隙間から漏れる息が白み、冷たい風に溶けていく。
辛抱強く待つこと数十分。
水平線を見つめていた僕は、アイの腕を掴んで移動した。
「……ほら、見ろよ」
日の出だった。
靄のかかった暗い海の向こうから、赤みがかった太陽が姿を現した。それほど強い輝きではないが、それゆえ濃い赤と黒のコントラストで水平線に浮かんでいる。
気温のせいで朝露に濡れた桜の枯れ木は、その水分を吸うことはできない。表面に水滴を浮かばせた枝先は、赤い太陽を背にするとその光を反射して、キラキラと輝き始めた。
「わあ……!」
アイの嬌声が漏れる。
決して満開の花とは言えないだろう。本物の桜には及ばないかもしれない。
でも、枯れた木には確かにその花の片鱗のような淡い光を咲かせていた。
太陽が登るすこしの間だけの、花びらだ。
「……すごいね」
「ああ。いい景色だ」
アイのこの街の想い出に、またひとつ残せただろうか。
幼い頃から一緒に育ってきた仲だ。もちろんこの底抜けに明るい少女と離れるのも、僕にとっては寂しかった。
「ありがとうコテツ」
「ああ」
「……ふふふ。なんか悪いな」
アイが笑顔を浮かべる。
「なにが?」
「だって、彼女でもないのにこんなロマンチックな風景を一緒に見るなんてさ。ナナちゃんに申し訳ないと思って」
「ナナはこういうの好まないと思うよ。本の虫だから文章のなかで充分じゃないかな」
「そう? ならいいんだけど」
「そうそう。それにナナには……」
言いかけて、僕は口を閉じた。
「ナナちゃんには?」
「いや、なんでもない」
黙った僕は、そのまま草の上に座って水平線を眺める。
すでに太陽は水平線から外れて、赤から白へと光の色を変えていた。
枯れた桜の木は、もうその枝に花をつけてはいなかった。
花 花 花 花 花
『今年も、咲かなかったね』
彼女は切なそうにそう言った。
もし咲いたとしても、なんの意味もないと知りながら。
僕は彼女がここで花を待ち続ける理由を知っている。
彼女には大好きな兄がいた。
病気を患った優しい兄だった。
僕にもいつも優しかった。誰からも好かれるひとだった。
その大好きだった兄が、亡くなる直前に言ったのだ。
【――きっと、桜の花が咲く頃には、元気になるよ――】
彼女はその言葉を聞いてから、毎年ここで花を待っている。
咲くことのない桜の花を待っている。
だから僕は、彼女のために決めたのだ。
『……そこで見てて』
子どもが考えた、浅い知恵かもしれない。
だけど僕は本気だった。
ただ彼女の顔に笑顔を取り戻したくて。
僕は、本気だった。
『えいっ!』
僕は彼女をすこし後ろに立たせると、持っていた布のかたまりを空に放り投げた。
布は風に吹かれてほどけ、その中身が舞い落ちる。
たくさんかき集めた、散ったばかりの桜の花びらが。
『……う、あ……』
綺麗な桜の花ではなかったかもしれない。
ほんの数秒にも満たない時間だった。
だけど淡い桜の花びらたちは、枯れた木の周りで満開になった。
花は風に吹かれて街へと飛んでいく。
まるでどこかへと去っていくかのように。
僕らの手に届かない場所へと向かうように。
彼女はその光景を目に焼き付けていた。
『うう、う、ああ……っ!』
彼女の目からは大粒の涙がぽろぽろと零れた。
いつもは無表情で儚げな少女は、喉の奥から嗚咽を漏らした。
僕の服にしがみついて、何かを受け入れたように。
さめざめと泣いたのだ。
そんな、十年前の桜の花が散る頃に。
僕は彼女のそばにいたいと思った。
花 花 花 花 花
「……アイさんは?」
背後から声をかけられて、顔を上げた。
すでに太陽は高くのぼっていた。
どれくらいここに座っていたのだろうか。考えごとをしているうちに眠っていたようだ。
アイはとっくに帰ったようだ。それもそのはず、アイは好奇心が満たされるとすぐに次に向かって進み始める。
まあそうじゃなくてもこんな寒い場所にずっといるわけもない。
手足が凍えるように冷たかった。
「なにしてたの?」
呆れるように、ナナが言った。
「ちょっと思い出してて」
「わざわざ? ここで?」
「うん。ここだから、かな」
枯れた桜の木を眺めて、僕は微笑んだ。
「わざわざ心配してきてくれたのか?」
「バカ。お母さんが店番頼みたいから呼んで来いって」
「うわ~そっちか」
というか、もうそんな時間だったのか。
さすがに長居しすぎた。帰らないと。
僕はズボンについた草を払って立ち上がる。
「……ねえコテツ兄ちゃん」
「どうした?」
「この桜の木、なくなるんだね」
ナナはじっと枯れた桜の木を見つめる。
「寂しいか?」
「うん。……でも、もういいの」
冷え切った僕の手を、ナナがぎゅっと握りしめる。
彼女は相変わらず無表情で、感情的になることはない。
だけど、ほんの少しだけ嬉しそうに浮かべた。
まるで花のように可憐な笑みを。
「私のために咲かせてくれたでしょ。十年前に」
桜の花はもう咲かない。
咲かなくても、その花は残り続けるのだ。
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