試験監督
Author――大和麻也
入学式以来、およそ十か月ぶりにスーツに袖を通した。
ダメ元と思って受験した大学に合格し、難しすぎる授業やサークル活動に思いのほか翻弄され、忙しさを言い訳にろくにアルバイトもせず過ごしていたら、ついに高校時代に貯めたお小遣いをほとんど使ってしまった。大学生ともなれば交際費も食費も、服飾費もぐっと高くなり、友達付き合いに失敗したくない思いから無計画に出費をしてしまった。
短期アルバイトを探そうにも時期が中途半端だし、忙しいことには違いないので途方に暮れていたとき、たまたま学部の掲示板にアルバイトの募集を見つけた。
入学試験の試験監督であった。
まさに渡りに船、喜々として応募したところ、面接もなしに採用された。契約書に必要事項を書いてサインするだけだった。学内での募集だから基準が甘いおかげでもあるけれど、そもそも人手が大量に必要なのだろう。
普段の一限の開始よりもずっと早い時間に訪れたキャンパスは、スズメやハトが闊歩する以外は閑散としていた。職員、臨時職員は正門を使えないルールのため、小さな北門から守衛さんに入構証を見せて敷地に入った。スーツの人影が見えるほか、書類の運搬を依頼されたのであろう運送会社の制服を着た人も何人か歩いていた。
出勤の手続きを済ませて控室に向かうと、さっきまでの静かな世界が嘘のように、たくさんの若者がスーツ姿で座っていた。百人は軽く超えていそうだ。アルバイトに従事する学生たちは、下を向いて携帯電話の液晶を熱心に見つめている。
受験生を見ているみたいだ、と少し笑ってしまった。
ちょうど一年前は、自分のほうこそ受験生だった。いまとなってはくだらない、ごく簡単で当たり前のことばかり書かれた参考書や単語帳を山ほど抱えて、過去問題集に書かれた各大学の傾向と対策を読みながらいくつもの試験を受けて回ったものだ。いざ大学に入ってしまえば、あのとき費やした時間と労力は過剰なものだったようにも感じるし、まったく足りなかったと思うこともある。
自分の後期の成績が発表される前から、高校三年生たちが緊張しながらテストを受けるさまを監視しなければならないのか、と控室に来てはじめて思い出し、ため息。
まもなく集合時間になり、トイレから焦って戻るアルバイトたちに続いて大学の職員が入ってきた。ゴリラのような大男による大声で脅し口調の説明が始まる。
「不正行為には厳正に対処すること。言うまでもありませんが、試験監督が不正に加担するようなことがあれば、どういう結果が待っているかは覚悟しておいてください」
不正、という言葉に背筋が凍る。
試験監督がそれに加われば、停学や退学も免れないそうだ。そういえば、試験監督業務に従事する事実を言いふらしたりネットでつぶやいたりしないよう、採用されてからずっと厳しく言われていた。
「携帯電話を机の上に出して、電源を切ってください。もう切ってある人も、電源を入れなおしてからもう一度切るように」
まるで受験生みたいだ。
一年前と同じ、心臓がバクバクしている。
大学の事務職と思しき女性職員が主任となり、試験監督三人組で教室へと入った。
教室には緊張した面持ちの受験生たちが最後の抵抗とばかり、参考書や問題集にかじりついている。中には諦めなのか確信なのか、携帯電話をいじっていたり、机に突っ伏していたりする者も。
試験開始十分前になると、主任から受験生に向けて注意事項がアナウンスされる。
それに従い、受験生たちが電子機器を取り出して電源を切り、鞄の中へと仕舞う。
つい、自分の荷物を振り返ってしまう。自分自身は音の鳴るものを持っていないだろうか。もし気が付かずに、不意に鳴らしてしまったら――
大丈夫か、と年上とみられるアルバイトの男性に問われてしまった。必要もない不安を抱いたばかりか、顔にまで出てしまっていたのか。首を横に振って雑念を吹き飛ばし、彼に視線と手の仕草でお礼を伝える。
「本人確認のための写真照合を行います。監督官が回りますので、マスクを外し、受験票の写真に合わせて眼鏡の着脱をしてください」
主任の指示を受け取り、受験者リストを手にふたりの試験官が教室の狭い通路を歩く。
自信に満ちた顔、焦りで怯える顔、ふてくされた顔――様々な受験者たちを見て回る。今時替え玉受験なんて時代遅れの不正などまずありえないし、ましてそれが私の担当教室で起こるなんて、安っぽいドラマみたいなことはない。
リストに鉛筆でチェックを付けながら進んでいき、やがて受験生の背中側から部屋を見て歩くようになる。いちいち振り返って確認しなければならないので、ひとりあたりにかける時間が数秒ずつ長くなる。
すると、見覚えのある水色のパーカーが目に入る。デジャヴというものだろう、そう思って、不安に押しつぶされているのだろう、俯いている彼女に声をかけた。
「顔を上げてもらえますか?」
フードの紐の先をいじりながら、不承不承彼女は顔を上げる。
その顔は、どこかで見た気がするなどという程度ではなかった。
浪人として受験を続けていた、かつての友人が座っていたのだ。
心臓が病的に弾むのを隠しながら、平静を装って教室を巡視する。
最初の科目は英語だった。まぐれで合格した私よりよっぽど頭が良いと見え、すらすらとマークシートや回答用紙を埋めていく受験生たち。きっと学習塾などでこの出題形式には何秒、この手の問題には何分、などとうるさく言われて訓練されてきたのだろう。大学に入ってしまえば、特に価値のない実力とも知らずに。
巡視には、担当する範囲が大まかに決まっている。先ほど写真照合をした机だ。だから、教室の右側はアルバイトの彼が回り、左側は私が引き続き監視する。あの子が座っている区画を。
不自然な姿勢をしていないか、机の下に怪しげな気配はないか、衣服やひざ掛けの陰に何かを隠し持っていないか――巡視のポイントはそのあたりだ。背中側から覗き込むように観察し、もし引っかかる様子の受験生がいれば、立ち止まってしばらく監視し、威圧しすぎないように配慮しながらも注意を向ける。
お給料が高い割に楽な仕事、と思っていたけれど、思いのほか楽ではない。緊張した空気の中で受験生を刺激しないよう心掛け、音を立てないよう歩いたり、万一机に脚や腰をぶつけないよう気を付けたりする。そうして遠慮して歩いていると自然と脚に力が入ってしまい、心身をじわじわと消耗していく。
受験生と近い心身の状態にある気がする。
何より私にとっては、――あの子の存在が心に重い。
どうしてこんなところで出会ってしまったのか。志願者が具体的に何人いるかは知らないが、ここは有数の学生数を誇る総合大学だ。試験を受ける人数は軽くその数倍はいるはず。相当な人数の受験生と、百人以上の試験監督がいるのに、私とあの子が同じ教室で再会する可能性とはどれほどなのか。そもそも、大学は世の中にいくらでもあるし、その学部や入試日程を掛け算すれば、きょうここで出くわす確率など、それこそ天文学的な数字になってもおかしくないのではないか。
替え玉受験を発見するよりもずっとドラマチックで、運命的で、反吐の出るようなふざけた経験だ。
できることなら、すぐにでも声を発したい。
どうしてここにいるの?
志望校ここに変えたの?
一年間どうしていたの?
もちろん、言葉を発すれば不正行為とみなされてしまいかねない。第一、アルバイトとして契約し、受験料を払う彼女たちとは対照的に、お金をもらう約束でこの場に来ているのだ。どんな私情があろうとも、どんな感情があろうとも、私は黙って巡回をしていなくてはならない。むしろ、それさえしていればいいともいえる。
簡単に片付く気持ちではないけれど、厳正、公平、そういった言葉で心を塗り潰す仕事なのだ。大学生となり、大学側の立場で受験生たちと向かい合う責任がある。
――と、いくら自分に言い聞かせたところで、できないものはできない。
「ちょっと」主任の前を通りがかったとき、小声で引き留められる。「巡視が偏っているように見えます。あくまで公平に、平等に、あのへんの列も回って下さい」
はい、とは返事をしつつも、苛立つ頭に、胸がちくり。
昼食後に二科目めが始まるが、休憩をしても私の疲れは取れなかった。
心の消耗はねっとりと絡みつき、身体の疲弊を長引かせる。それは部活の経験で知ったことだし、一年間の大学生活でも実感した。しかし、たった一日の試験監督業務、しかも半分も終わらないうちにそのような言い訳をしたくなる状況がもたらされたことに、私は驚いているし、辟易もしている。
二度目の写真照合は憂鬱だった。
順々に、問題なく本人確認がなされている。でも、問題がないからこそ私はあの子と対面しなくてはならない。試験監督ながら、替え玉受験があったほうがよっぽどマシに思われた。トイレやら電話やらでうっかり遅刻してくれるだけでも構わない。
実際には、そんなこと起こるはずがない。
彼女だって大切な試験に挑んでいるのだから。
自分の所定の座席で、頬杖をついて私のチェックが終わるのを待っていた。目を閉じて、澄ました顔で口を尖らせている。確認なんかしなくてもわかるでしょ、と。挑発のつもりか、と問いたくなる。確実に、腹立たしさが募っていく。
彼女のほうも私に気が付いていることだろう。お互いに声をかけられないいま、彼女は何を思っているのだろうか。案外、受験のことで頭がいっぱいで、私のことなんか何とも思っていないのかもしれない。
「始めてください」
主任の号令。
私は楽天的な空想をやめた。
空気が読めない、というほどでもない。
後先を考えていない、というほどでもない。
人の立場で考えられない、というほどでもない。
ただ少しだけ、お調子者というか、寂しがり屋というか、自分の立場でふと思いついたままに行動してしまい、周囲を困らせてしまうことがあった。月々のお小遣いがあるのにアルバイトが必要になるほどお金を使ってしまったのも、そういう私の悪癖が原因のひとつ。
あの子と私は、高校三年間一緒に部活をし、行事に参加し、勉強してきた一番の友達だった。志望校や受験の日程だって、お互いに知らせ合っていた。高校三年生の二学期が終わり、孤独に受験を闘う時期になってからは、再びふたりで遊びに行く日が来ることを最大のモチベーションとしていたくらいだ。
だから、自分の合格が決まったときには、有頂天に浮かれるまま、その喜びを真っ先に彼女と共有するため、昼下がりに合格通知が届いてすぐメールを送信した。その行動は私にとってはごく自然で、普通で、いつもの友情の延長線上にあった。
メールに返信は来なかった。
それどころか、一切の連絡が私に届けられることはなかった。
受験生同士、本人から合格の報告がない限り迂闊に楽しい話題を切り出せず、まして合否を尋ねるということは不可能だった。私は彼女が志望校に合格できなかったのだろうと薄々感じながら、偶然合格してしまった大学の入学手続きを進めた。
入学式の一週間前、進学や就職が決まったクラスメイトたちと再会した。そのときになって初めて、彼女が浪人を決意したことを知った。しかも、志望校は私に知らされていたよりも高いレベルに変えられていたらしい。浪人することも、志望校を変えたことも、どうして私に伝えてくれなかったのだろうか――やり場のない怒りと呆然とさせられる疑問が頭の中に転がっていたが、そのうち大学生活の忙しさに吹き飛ばされてしまった。
サークルもおおよそ決まり、一通りの授業が第一回目の講義を終えた四月の中旬ごろ。私は何気なく見ていた土曜の昼間のワイドショーが伝えるニュースで、全国の大学入試において何件の不正行為があった旨が伝えられた。
カンニングや所有物の違反など従来の不正のほかに、携帯電話のトラブルが続発したと知らされる。自分もたまたま、ある大学の一科目で電源を切り損ねて危うく退室になる可能性があったことを思い出して肝を冷やしていると、いくつかの大学の名前が読み上げられる。
彼女が変更したという志望校の名前があった――
私は急いでその大学のホームページを開き、昨年度の受験結果のページを開く。まさしく一名が携帯電話の着信音を試験中に鳴らしたとして、受験資格を剥奪されていた。その日付を確認し、自分のメール履歴と照らし合わせた。
それから私は、彼女がその不正を犯した受験生でないことを祈るばかり。
過ぎてしまったことは仕方がない。数多くの受験生がいるのだから、まさか彼女ではあるまい。万一のことだとしても、彼女が電源を落としていなかったことにも責任がある――いろいろなエクスキューズで思考を塗りつぶそうとしたが、胸の奥に空いたブラックホールが感情を喰い荒らしていくのに歯止めをかけることはできなかった。彼女が受験の首尾について私に教えてくれなかったという事実が、最悪の事態があったことを証明しているように感じられたから。
彼女はもう友達ではない――そのように思ったことはないつもりだが、実際の行動にはその覚悟があった。連絡は取らなくなったし、別のクラスメイトたちと会って話すことがあっても、彼女の話題は避けていた。大学入学以来交際費が膨らんでいるのも、そのぶんの寂しさを無意識に埋めようとした結果だったのかもしれない。
最終科目の時間。
科目のあいだの休憩時間に控室で音楽を聴いていたらうっかり時間ぎりぎりになってしまい、主任に小言を言われた。試験監督の仕事はいわば立ち仕事だし、そこに彼女の存在が加われば、心身ともに疲弊する。時間を忘れて音楽に癒される気持ちもわかってほしい。
教室の隅に荷物を置いたら、三度目の写真照合だ。
彼女のところまで進んでいくと、今度は向こうから目を合わせてきた。そして、にっと口角を上げる。
その意図をすぐには理解できなかった。
新たな挑発のつもり、というのが第一のアイデア。試験の調子が良くて、それが表情に現れたのか。私が遅れてきたことを面白がっているのか。まさか、試験が終わり次第私に声をかけるつもりで楽しい気持ちになっているのか。
写真照合から戻って、私は首を振った。
「始めてください」
主任の三度目の号令。
がさがさと紙のこすれる音が響いた。
私は最後の巡視に出かける。脚が重い。気持ちも重い。
試験時間が折り返しになろうというころ、私は主任に睨まれたこともあって、彼女の座席のある列を後ろから見て歩いた。どうせ、あと何回かここを歩けばいいだけなのだ、そのうち一回を消化できると思えば、少しはマシな心地になれた。
机の下を重点的に。できるだけ気配を消して。
一か所、青白く見える場所がある。
息を呑む。
間違いない、携帯電話を使っている。まさかこの教室から不正行為が出るとは思わなかった。そろり、そろりと近寄っていき、使用を確認する。そう、不正を見つけたときには、どこの座席かをしっかりと記憶して主任に伝えるのだ。だから、その座席は――
にやり、と座席の受験生が私の顔を見て口角を吊り上げていた。
友達として彼女の表情はいろいろ知っているつもりだ。でも、そこまで凶悪な顔は、一度も見たことがない。写真照合のときの笑みよりもずっと嫌味なその顔――その意味はまもなくわかった。
いまになって、朝一番に聞かされた大柄な大学職員の警告を思い出す。
教室に、メールの受信を知らせるメロディが響き渡った。
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