「キズだらけのウルフィーナ」
「キズだらけのウルフィーナ」
一人の男が馬車に揺られながら1冊の本を開いていた。
穏やかな顔で、雨でもないのにジトジトと湿った髪の毛を枯れ木の様な細指で弄りながら、馬車に備え付けられた小窓か零れる日差しに顔をしかめている。
______本は良い。文字は美しい。
どんな本でも、例外なくそう断言できる人間が私だ。例えば子供が作った夢と魔法と剣の出来すぎた御都合主義の物語をしたためた日記帳でも、素人の書いたくだらない、何処にでも転がる創作であってもだ。
そこに書かれた文字は総じて素晴らしく私の心を騒ぎ立てる。
"本"という字はとても美しい。"美"も美しい。美しさを表す字としては及第点だ。真っ二つにしても再び繋げれば呼吸すら感じられる対の形を取る。
しかしだそれは一般的な人間の感覚ではないだろうか。私のいう本好きというのはそんな浅学非才な者たちの辿り着く境地にはない。古書の芳しい匂いが熟れた貴婦人を想わせるからでもない。若い息吹を感じさせる書き手の可能性と未来に祝杯と祝辞を挙げたいわけでもない。そんな些細なエロティズムなんて、私の臨む究極の目的には遠く及ばないことだろう。私は瞬間を愛し、哀詩を歌いながら果てる。まるで人形遣いの様だが私は調教師を選んだ。私の意思だ、必要に迫られてのだが。終末に選び取った選択こそ真実だとは思わないかね? いかん、衝動が抑えられない。今すぐにでも外に飛び出して森に入り獣を捕らえたい、教えたい。私の崇高な愛の定義を。私にとって文字は薬。本は薬学。普通に溶け込むためのと自傷的に例えていうならばだが。
本質的にいうならば予行練習だ。著・ドフラクス、『獣と我が快楽』。私の自伝だ。書きこまれた文字を記憶と擦り合わせている最中なのだよ。
「薬が切れてきたか・・・」
そう言い男は、本を膝に置き。隣に置かれた大きな麻袋の口を開いた。
中には大量の獣毛、茶色、白色、灰色、栗色の。所々赤い染みのついた獣毛の束を一掴みすると男は鼻に押し付けて。
「シベリア・・・リザ・・・アリス・・・イザベラ・・・ホロ・・・ああ愛していたよ。もうすぐ仲間を送るよ、牝の。気高い獣の王族を騙る愚かな婬売の毛を肉を。隅々まで喰らった後に。ドィラゴスラ様に捧げなければならないから。仕方がない、もうしばし私と旅を続けておくれ。」
愛してる、愛してた。
と囁いた後に、男は獣毛の束に口付けをおとし再び本を開いた______
ライクニックは夏模様、カンカンに照りつける太陽が陶器の様に白い肌を持つエルフ族の貴婦人たちには眉間にシワを寄せる時期だが。
人間の少年騎士は違う。
鮮やかな、ミカンを思わせる短く切り揃えられた髪をたなびかせ少年は軽い軽装の鎧を身につけ、護身用の短剣を帯刀しながら通りを駆けていく。
走る少年を見た果物を売る円錐形の一本角を生やす娘は、
「ジーノさん、走ると転びますよ。」
と、売られているリンゴよりも顔を赤くして走る騎士ジーノへと笑いかける。
「急いでいるんです! ごめんなさい!」
「遅刻ですか?」
「また団長にお尻を叩かれるわね。」
隣で商いを行うエルフの少女とその母に笑われて。ジーノは複雑な笑みを返して走り続けた。
『ジーノくん、ちょっといい。』
同僚の女性との約束に遅れている。
『何でしょう、キャトルさん。』
『うん。明日、非番だったよね? 付き合ってほしいことがあるんだけど、いいかな?』
宿舎で、同じく同期入りした友人と稽古をしている最中に交わした約束である。
『キャトルさん、僕も非番にします!』
『いや・・・アレン君。ちょっとした森の調査だから・・・』
みるからにショックを受けて恨みがましくジーノを見るアレンの視線を流しながらジーノは、キャトルに微笑んだ。
『お供しますよキャトルさん、非番といっても用事がありませんから。』
実を言うと、用はあった。その前日の夜にだが。
久々に彼女が家に泊まりに来るのだ、非番を利用して何処か遊びに行く計画をたてていたのだが。
断れない。
キャトルさんも明日は非番だ。領主様に頼まれたのか最近のキャトルさんは非番の日も関係なしに休みなく働いているようだ。街の騎士団に所属し、領主に仕える騎士と二足のわらじ。
薄化粧で目元の隈を隠しているようだが。艶やかだった綺麗な銀髪のキューティクルが傷ついているのはジーノにとっては一目瞭然である。
『ありがとう! ご飯は奢るからね!』
ごめん、フラニー。この埋め合わせは必ずするから!
そう言って彼女の眠るベッドを飛び出してきたジーノ、彼は女性に対してよく気が回るのだ。
ジーノ・スターロード。人間の両親の家に生まれた、長男。二人の姉と一人の妹に挟まれて、出張続きで家を離れている父がいない、4人の女性に囲まれて17年間育ったのだ。お化粧を学ばされたことある。腕白な姉に捕まり女装をさせられたこともしばしば。そんなジーノが騎士という職種を選んだのは一種の反抗心からくるものでもあった。父の代わりに家族を護りたいという気持ちが主ではあるが。
「遅れてすいません!」
「んーん、気にしないでジーノくん。アタシはさっきまで何処かの間抜けな助平を張り倒してたところだから。」
ヨミの館についたジーノをキャトルは快活な笑顔で迎えてくれた。
この笑顔が見れるなら、今日の足労も徒労ではないと感じられる。
「さ! いこう。暗くなる前に帰らないと、夜の森はコウモリが五月蝿いからね。」
「そうですね。」
弓を手に先導するキャトルに続き、ジーノは森へと入ったのだ。
日はてっぺんを過ぎ去った頃だった______
「ねえ、ジーノくん。もしかして彼女と・・・」
「えっ! いやそんなことないですよ!」
「でも、首筋に痕が・・・。」
「あ、いや・・・。」
キャトルが飲んだ水筒を恭しく受け取りながら、ジーノは首筋の痕を掻いた。拓けた丘までついた二人は近くの樹木に背を預け一休憩している。
「んー・・・最近夜行性の動物が姿を消したから、その調査をしてこいって言うんだけどさぁ・・・どう考えても、あのコウモリのせいだよねー。」
そう言い、弓の柄を丘の奥にそびえ立つ館へ向けた。
「僕はまだ直接話したことがないんですよね。」
「え? なに? 今から会いに行こうとか言わないよね!」
「いや、いや、 滅相もないです!」
凄い剣幕で迫るキャトルに押されて否定の言葉を告げたが、実のところ少し興味はある。
数日前にやってきた怪奇、吸血鬼の女主人とその眷属、妹。
騎士たちと共にアスビーたちを援助に向かったときに遠巻きに見ることは出来たが。
「絶対ダメ、一生ダメ。ジーノ君みたいな可愛い男の子を好物とする悪い悪い、性格が異常に悪いあの女に会わせることなんて許すものですか!」
フンフンと鼻息荒いキャトルに、ジーノは顔を伏せて水筒に口をつけた。
僕は変わらないなぁ。
男になりたくて、男に生まれ変わりたくて家を出たというのに。
僕はここでも可愛い男の子なんだ。
キャトルさんだけじゃない、アレンも、琥太郎さんも。街の皆も。
僕は可愛い男の子。
一人で走ることも許されない、補助輪をつけられた道。
このままじゃ嫌だ。このままじゃ嫌だ。このままじゃダメだ。何も変わらない。
変わりたくて環境を変えたのに、僕の心は進んでいない。可愛いジーノ坊やのままだ。
吸血鬼を初めて見たとき、僕は不思議な夢を見た。
昔、本で読んだ御伽噺の主人公になる夢を。
吸血鬼に独りで、刃向かった人狼の勇者の物語を。
クォーン・・・クォーン・・・。
空耳に聴こえる勇者の遠吠え。
傷付き、孤高に、気高い獣の声。
まるで丘に響き渡っているようだ。
「・・・何の声?」
「え・・・?」
「今の、鳴き声・・・魔物?」
妄想の声ではなかったようだ。
キャトルは長い耳をひくつかせ、音の聴こえた呉方向を探っているようだ。
「・・・狼じゃないですか?」
「ん・・・違う、もっと大きい獣・・・変な匂いもする・・・」
鼻を鳴らすキャトルは、犬の様に鼻を効かせながら丘を練り歩き、森へと足を進めていく。
流石は森の民、と関心半分。もしも魔物だったらと恐々半分にジーノは臆せず進むキャトルの後をついていく。
木をわけて、草を踏みにじりながら。
クォーン・・・。すぐ近くまで苦しそうな遠吠えを聞いたところでキャトルの身体は止まった。
「・・・・・・いた。」
二文字の言葉にジーノの心は飛び上がりそうになったが。
キャトルの見つけた声の主を捉えた瞬間にその心は落ち着きを戻した。
真っ赤な狼。
とても大きい狼が、草の上に横たわっていた。
「ジーノ君! 治癒を!」
「えっ?」
「早く! 死んじゃうよ!」
キャトルは身につけていた服の端を破り真っ赤な狼の首を押さえに動いた。そうして狼の身体をしっかりと見たジーノは、その狼が赤い毛色ではないことに気づく。
首から止めどなく流れる血によるものだと認識する。
苦しそうに、今にも止まってしまいそうに苦しく行き絶え絶えに動かす肺の動きに乗じてうっすらと栗色の毛並が見えた。
「ヒール! ヒール!」
ジーノもキャトルの隣に座り必死に快呪を唱えた。
そのかいもあってか、キャトルの押える布に染み込む液体は、徐々に勢いを抑えていく。効いている、助かる。ジーノは一心不乱に、狼の腹に触れ呪文を唱え続け・・・・・・
「いやっ・・・・・・」
・・・・・・いや?
昨夜のフラニーを思わせる艶っぽい女性の声に、ジーノはキョトンとした面持でキャトルを向いた。
キャトルも同じく、面を喰らっていたのだが。
触れていた、濡れた毛の感触が、縮んでいく。
大きな大きな腹はみるみるうちに、縮んでいく。それに伴い身体も。変化していった。
キャトルの押さえていた首も、牙を剥き出していた口も、力強い野生の四足も。
変化していく、細く、長く・・・そして美しく。
「・・・女の子。」
傷付いた狼はみるみるうちに、健康的な人間の女性へと姿を変化したのだ。
キャトルの手は細い女の首筋に当てられており、
ジーノの手の平は引き締まった女の腹へと当てられていた。
「・・・っ! ・・・・・・ごめんなさいっ!!」
理解が追いついたジーノの悲鳴にも似た声が、遠吠えのように森に木霊していった。