第八話「純白」
昨晩雪が積もった。
太陽が昇り切った現在、雪はやんだものの、空は相変わらず揺るぎのない白色に覆われ、冷たい空気は緊張した糸のように止まっていた。
十二月も半ばを過ぎ、冬休みまでの日数も残り少なくなった。
この日の授業は午前中に終わり、サッカー部の練習は休みであるらしく、珍しく将の方から、一緒に帰ろう、と真知を誘ってきた。
電車を降り、住む街に戻ってくると、クリスマスツリーの並木通りが目に入る。
「すっかりクリスマスムードだね」
真知は嬉しそうに言う。
「空野って意外とこういうイベント好きだよな。そこんとこは普通の女の子っぽい」
「まるでわたしが変な女の子みたいな言い方だけど。雰囲気が良ければいいんだよ。あ、今度イルミネーションでも見に行く?」
「いいな。だけど冬休みの予定がどうなるか、まだ分からない」
途中で二人は餡まんを買った。食べ歩きは行儀が良くないとの考えか、将がなかなか口をつけないので、真知も袋を手に持って歩いた。今は温かいが、じきに冷めてしまいそうだ。
「一つ、隠していたことがあるんだけど」
将は唐突に始めた。
「何? マサくんでも隠しごととかするんだ」
「俺があの高校を受験した理由」
「あれ、マサくん言ってなかったっけ。わたしと同じで、特にやりたいこともないから、偏差値と家からの近さだけで決めたって」
「将来の夢とか、そういう理由じゃないってのは本当だ。ただ、中二の冬あたりから気付いていたんだ。空野は成績がいい。学年でも常にトップで、俺との学力差は歴然としていた。このままでは空野と一緒にいられなくなる。そう思うと急に焦り始めて、それから必死で勉強するようになった。もともと勉強は苦手ではなかったらしく、学力は嘘みたいに伸びた。俺は空野と同じ高校に行きたかっただけなんだ」
真知は唖然とした。そんな話は一度も聞いたことがなかった。将と同じ学校に通えることになったのも、幸せな偶然だと思っていた。
「それは照れるなあ。普通に考えて、あんまり褒められた動機じゃないだろうから複雑だけど、個人的には嬉しいよ。マサくんと高校で離れ離れになること、わたしも嫌だなって思っていたし、二人とも合格できたときは本当に喜んだ。じゃあ、改めて。同じ学校を目指してくれてありがとう」
真知は屈託のない笑顔を浮かべた。
「まったく」
将は溜息をつくように笑った。
「よくよく考えると、俺たちの関係って相当特殊だな。普通、お前を追って高校を選んだ、なんて言われたら少なからず引くだろ。二人で夕日、紅葉、そしてイルミネーション? 俺は他人から後ろ指さされても文句言えないぜ」
「そうかな。わたしは特に疑問に思ったことないけど」
第一公園に差し掛かると、将は足を止めた。
寒さのせいか、公園にほとんど人はおらず、雪の積もったグラウンドに数人の子どもたちが遊んでいるばかりだった。接する道路の車通りも少なく、雪が音を吸うせいもあるのか、辺りは不自然なほど静かで、子どもたちの笑い声もかえって静寂を引き立てていた。
将がようやく餡まんを袋から取り出して食べ始めたので、真知もそれに続いた。将はあっという間にたいらげてしまったが、真知の一口は小さく、食べ終えるのには時間がかかった。
「空野」
将の呼びかけに、餡まんで口が塞がっている真知は目線のみで応えた。
「俺、空野が好きだ」
純白の景色の中、将の言葉は浮き立って聞こえた。
真知はくわえていた餡まんの残りを口の中に押し込み、ゆっくりと咀嚼した。飲み込むのにはかなりの時間がかかった。
「それは、『告白』?」
「ああ」
「気持ちに応えることはできないよ」
「そうか」
儀式はあっさりと終わった。
その直後、真知には時間が止まったかのように感じられた。将と出会ってからの、三年以上の記憶が波のように一度に押し寄せた。そしてその全てに対して思考することを命じられた。
千里はよく真知と将の関係について言及した。今思えば、あれは二人の関係の異常さを指摘していたのだろう。いくら恋愛経験のない真知とはいえ、年頃の恋人同士でもない男女が頻繁に二人きりで出かけることは特殊なことなのだとは知っていた。しかし、こと自分と将の関係については、今の今まで一切の疑問をもたなかった。千里に指摘されようとも、つい先ほど、将自身の口から言われようとも。
真知と将の関係は極めて厳しい条件のもとで成立していた。互いが互いを異性として微塵も意識していない限りにおいて、二人の親密さは許されていたのだ。
将が今まで自分に恋心を抱いていたと知り、真知には、自分の過去の行動全てがあまりに浅慮だったと思えた。女友だちと同等、もしくはそれ以上の時間を共に過ごし、好意を包み隠さず伝えてきた。それは将にとってどれほど残酷なことだっただろうか。あるいは、そうした自分の態度が将を勘違いさせ――。
そこで真知は考えるのをやめた。その先は、想像してすらならないのだと思った。「告白」する者は、勇気を携えた戦士だ。「勘違い」などという言葉でその尊厳を穢しては絶対にならないのだ。彼にとってこの時間は神聖。少しの憂いも、悔恨も、恥も、この空間に立ち入らせてはならないのだ。
真知はこれからのことを考えた。今何としても避けるべきは、この「告白」に傷をつけることだ。「告白」した者にとっての一番の不幸は、その「告白」に誇りをもてなくなることだ。相手の真意を読みとれなくなり、負の螺旋に感情が取り込まれてしまうことだ。ならば真知は、透明にならなければならない。心の最も深いところまで、将に晒さなければならない。
「理由を話していいかな」
真知は極めて慎重に告げた。
「話してくれるのなら」
「わたしにはまだ、恋が分からないから」
「そんな気はしていたよ」
将は寂しげな笑みを浮かべた。
「俺はもう消えるけれど、最後にこれまでの話をさせてくれ」
「うん」
「初めは本当に素朴な共感だった。俺と同じように夕日を見て感動する奴がいるっていうのが嬉しかった。それがいつ恋に変わったのか、はっきりとは分からない。だけど、自覚したのは、中二の秋、二人で紅葉を見に行った帰りだった。それ以降、途端にそれまでの自分の行動が下衆に思えてきた。俺は本当に、同じ世界を共に見る仲間として空野と接していたのか。実は初めから、単に空野と付き合いたかっただけなんじゃないのかって。そう感じてしまった以上、もう一緒にいるべきではないな、とも思った。でも、それで距離が置けるほど俺はストイックじゃなかったんだな。むしろ、離れたくないって思いが増した。必死に受験勉強に打ち込んでまで、空野の後を追った。想いを秘匿している限り、俺は好きな女の子と、付き合ってるのとたいして変わらないような関係を続けられたんだからな。だけど、そうもいかなくなった。高校に入って、俺は自分が大人になりつつあるって感じ始めた。もう、空野と同じ世界を見ていることはできない。それに、俺だって普通の若者だ。ありふれた青春ってやつを望んでしまった。まともな恋愛ひとつできないなんて、嫌だったんだよ。俺は、恋愛を知らないような空野真知が好きだったんだ。だからこの想いは原理的に叶わない。空野が俺の望むような人間だったとしたら、『恋が分からないから』という理由で俺は拒まれるはずだし、逆に、俺を受け容れるようだったら、それはもう俺の好きだった空野真知ではないんだ。そんな絶望的な、わけの分からない恋に、いつまでも振り回されたくはなかった。この件に関して向田には色々と相談に乗ってもらっていた。で、やっぱり早いとこ『告白』すべきだって結論になった」
真知は将の語りを、暗記しようとするほどの集中力をもって聴いていた。この場で正しい対応をするために、将の想いを正確に把握する必要があった。しかし、詳細が分かれば分かるほど、将の想いは自分にはどうしようもないものに感じられた。
「俺たちは初め、確かに特別な関係だった。互いに互いを異性として全く意識していなかった。先に裏切ったのは俺だ。ごめんな」
「マサくんに謝られちゃ、何も言えないよ」
真知は俯いた。
「困ったな。わたし、マサくんにひどいことしたくないのに、傷つけたくないのに……。誠意を示す方法が何もない」
「誠意なんて……」
「でも、これだけは約束する」
真知は将の眼をしっかりと見据えた。
「わたしは、マサくんには嘘をつかない。ずっと、本当の気持ちを話し続けるからね」
「もう十分だ。これ以上、優しいことを言おうとしなくていい」
「それと、わたしからお願い。厚かましいお願いかもしれないけれど……、これからも、わたしのいい友だちでいてほしい」
「空野がそう言ってくれるなら、それほど嬉しいことはないよ」
そうして将は去っていった。普段なら帰路が分かれるまでもう少し共に歩いていたが、真知はその場に留まった。ベンチの雪を払い、しばらく何も考えずに座っていた。やがて自分の手が寒さに赤くなっていることに気付き、重い足取りで自宅へと向かった。




