第七話「夕焼けの色」
将と最初に話したのがいつだったか、真知は正確には憶えていない。最も古い記憶は、中学校に入って数日経った頃に、「掲示係」として教室の壁に将と二人でプリントを貼ったことだが、特にこれといったきっかけもなく、自然に仲良くなっていった。
真知と将は、思春期に足を踏み入れ始めた年頃の男女としては不自然なほど仲が良かった。理由の一つとしては、互いに異性を意識しない性格だったというのがある。身体だけ大きくなった二人の子どもが遊んでいるに過ぎなかったのだ。
真知にとって将がさらに特別な存在になったのは、ある夕暮れ時の出来事がきっかけだった。
「あてもなく散歩したり、空を眺めたり、そういうことが好きなんだよ」
と、ごく素朴に自分の嗜好を話したところ、将は熱烈な共感を示した。
将は夕焼けの中に煌めく一番星、金星を指して言った。
「俺はああいうの見るとすごく嬉しくなるっていうか、大袈裟かもしれないけど、今、生きてるんだなって感じがする。だけど、皆はそういうこと思わないのかな。最近は、部活とか友だちのこととか女の子のことばっかり話す。ちょっと前まではお互いの影を踏み合っていたら日が暮れたのに。そりゃ、夕焼けを綺麗って言う人はいる。だけどそれって、夕焼け自体に感動しているわけじゃないっていうか、皆にとっての綺麗な風景は、友だちとの思い出を際立たせるスパイスに過ぎないんじゃないかって」
将の言うことの意味が、真知には完全に理解された。真知が日頃から漠然と感じていたことを将が言葉にしてくれた気がした。
それから真知と将は多くの「くだらないこと」を共に行った。将が周囲から真知との関係を冷やかされることもあったらしいが、二人とも気にしなかった。真知にとっての将は、精神の深いところで共感し合える仲間だった。
最も印象的だったのは、中学二年生のとき、十月の暮れに二人で紅葉を見に行ったことだった。
そこは東公園という、真知たちの暮らしている地域からは電車で二駅ほどの距離にある公園で、丘陵地に造られており、歩いて一周するのに一時間近くかかるほどの広さがあった。真知たちは斜面上に開けた広場に立ち、周りを囲むようにして植えられた楓の紅葉を見た。
草は赤かった。夕暮れ時の雲は青いのだと知った。鳥の群れのシルエットが太陽を遮った。木々は空の黒い額縁となって不穏に揺れていた。
「恋人との思い出の場所は綺麗であればあるほど、別れた後に訪れると悲しくなるって思わない?」
真知はそんなことを言った。
「どうして?」
「風景は綺麗なほど印象に残るから、変わってしまった二人の関係と変わらない景色が嫌でも対比されてしまう」
「なるほど。空野はロマンチストだな」
高校受験が近づいてくると、真知は将との別れを意識するようになった。真知の成績は中学校では常に最上位で、地域の公立では一番の入試難易度を誇る高校を受験するつもりだった。対して将は、勉強は性に合っており、成績も悪くなかったものの、飽きっぽいところがあり、真知との学力の差は開いていた。しかし、中学三年生の夏を越えたあたりから将の成績は急激に伸び始め、最終的に真知と同じ高校を受験するに至り、共に合格した。真知は将と同じ高校に行けることを心から喜んだ。
高校一年生の秋、真知と将はかつて通っていた中学校の近くを歩いていた。中学校は街の南側にあり、通学に使う駅は北側にあるので、高校入学以降めっきり立ち寄らなくなっていた。
「千里とは二人で会うこともあるんだって?」
真知は道の端を流れる小川に目をやりながら言った。
「ああ。あいつ、いい奴だよな。空野の一番の親友ってのも分かる。気が合うし、色々と相談にも乗ってもらってる」
やがて二人は線路沿いのT字路で立ち止まった。二人の家からほぼ等距離に位置し、中学校からの帰りによく立ち話をした場所だった。
「懐かしいな、ここも。中三の頃の俺は受験勉強に必死だったから、あまり立ち話できなかったっけ」
「じゃあ、今日はここでお話ししようか」
真知は笑った。
「なあ、空野。人間ってのはどうしてもいつか大人になるもんだよな」
「え? うん、まあ」
「俺さ、昔から大人が嫌いだったんだ。いつだったか、家族で恋愛ドラマを見ていた。失恋した主人公の女が、それまで恋の相談に乗ってくれていた男とくっつくっていうラストで、俺は『都合が良すぎ』って言ったんだよ。そう思わないか? だってそれじゃあ、本命が駄目だったときのためにあらかじめ保険を掛けていたみたいじゃないか。そしたら母親は、そんなことを思うお前は捻くれている、お前も恋をするようになったら分かる、なんてことを言ったんだ。正直、ムカついたよ」
「確かに、いずれ分かるよ、っていう言い方には何とも言えないものがあるよね」
「頭でっかちで、本人たちは色んなことを知った気になっているけど、それと引き換えに何か大事なものを忘れてしまっているんだ、そんなことを思ってた。空の青さに心の底から感動できる大人が何人いる? 皆、もっと分かりやすい価値に飛びつく奴らばかりじゃないか。俺は、大人になりたくなかった。だけど、最近俺自身が変わりつつあるんだ。昔は全然興味なかった、友だち関係の話や恋愛話にも首を突っ込むようになった。文化祭でも重役をやったし、サッカー部の活動は本当に忙しい。そんな中、自分の責任を果たして人から信頼される充足感、努力して目標を遂げる達成感なんてのも分かってきた。自分が大人の側に行きつつある気がして、それはそれで気分がいい一方で、怖くもあるんだ」
「どうして怖いの? 昔は大人を嫌っていたから? 人は変わり続けるものでしょ。過去の自分の言葉や考え方にそこまで囚われることもないと思うよ。それも度が過ぎると無責任と言われるかもしれないけど」
「……そうだよな。所詮中学生の生意気。大人は汚い、大人が嫌いだなんて思う時期は誰にでもある……。だけど、空野はあの頃のままだろ。俺は空野を見ていると、自分がどうしようもなく卑しい奴に思えてきて、嫌になるときがある」
「自分でも、変わらないな、とは思うよ。昔との違いといえば少し知識が増えたことくらいで、やっていることも考えていることも感じていることも、あの頃のまま。それでも皆はものすごい速さで前に進んでゆくから、寂しく思うときもある。だけどわたしは、わたしの現状に不満はない。基本的にはこれでいいと思っている。ただ、やがて自分の力で生きていかなければいけない現実があるから、そこのところ何とかしなきゃとは思っているけどね。マサくんが変わっていくのは自然なことだし、それでいいと思うよ」
真知がそう言っても、将はどこか悔しさのようなものを表情に残したままだった。
高校に入ったあたりから気付き始めていたこと。真知と将はかつて同じ世界を共に見る仲間だった。しかし、将の方は次第に変わっていった。大人の、「彼ら」の世界に足を進めようとしている。将がそれを自覚していると、今初めて知った。住む世界を違えつつあることについて、真知の抱く思いは単に寂しさであり、それ以上の何物でもなかった。ただ、将は苛立ち、不安、焦燥のようなものを感じているらしい。向こう側に立ったことのない真知には、今の将の心情が想像できなかった。それは、もはや言葉が通じなくなっているということなのかもしれない。
「ねえ、マサくん。千里はわたしの友だちだけど、――分かると思うけど――わたしとは正反対の人間なんだよ。口を開けば恋愛、部活、友だちの話ばかり。宿題はちゃんとやらないし、わたしに写させてなんて言ってくる。人の事情なんかお構いなし。よりにもよって一番仲のいい子が、どうしてこうもわたしと違うんだろう、って最初は思ってた。だけど、最近気付いたんだ。千里は、わたしが千里とは決定的に違う種類の人間だと知っている。分かり合えないことを認めた上で、それでもなおわたしに興味を示してくる。多分、わたしと千里の唯一の共通点は、分からないことを楽しむ性格だってこと。何も、見るものを同じくするだけが友だちのあり方じゃない、そう思えるようになってきた。だからね、マサくんがどんなに変わっても、わたしはマサくんの友だちだよ」
日が暮れてきた。
将は線路越しに夕日を眺めた。家の屋根や電信柱は背景の空を黒く切り取り、一番星の明るさを引き立てていた。夕焼けはいつまでも輝きの消えない黄金のようで、その美しさはどこか時を越えていた。
「昔、東公園に紅葉を見に行ったな。ちょうど、このくらいの時期だっけ」
将の眼は太陽を見ていたが、確かに真知に向かって言った。
「俺はあのときの風景、よく憶えている。すごく綺麗だったけど、一方でぞっとするような不気味さも感じて、彼岸を見ているようだった」
「そんなこと思ってたんだ。わたしは不気味だとは思わなかったな。むしろ居心地がいいくらいで」
「空野はそうだろうな」
その後は取り留めもない雑談が続いた。
東の空から月が昇る頃、二人はそれぞれ反対の方向へと歩き始めた。




