第六話「晩夏」
文化祭が終わった。
結局、晴香の言う理想は叶えられなかった。どうしても、文化祭に興味のない者は興味のないままだったし、真知自身、心から楽しめたかといえばそうでもなかった。それでも概ね成功と言ってよい結末を迎えたのだからいいだろうと真知は思っていた。晴香はやはりどこか悔いはあるようだったが、ある程度の充足感には満たされ、一方ではもう来年の文化祭を志向して新しい情熱の炎を燃やしているようだった。
「夏と秋の隔たりってすさまじいものがあるよね」
駅前のファーストフード店で真知は言った。
「すっかり涼しくなってから夏のことを思い出すと、同じ年とは思えないくらい昔のことに思えない?」
「分かるかも。だけどまだ暑いね。九月って秋の始まりみたいに言われるけど、実際に涼しくなるのは十月の中旬くらい」
千里は掌で顔を仰ぐ仕草を見せた。このフロアーの冷房はあまり効いていなかった。
「さて、文化祭も終わったわけだけど、どうするの。千里」
「今週末の体育祭までは待つよ。とはいえ、文化祭シーズンの熱も利用したいし、来週あたりかな」
「随分とタクティカルに考えるね。恋愛ってもっと純なものだと思っていたよ」
「十分に純粋だよ。あたしにとっては、こうやって可能性を高めることが一つの誠実さなの」
普段の千里にはずる賢いような面もあったが、確かに、洋平のことに関しては純粋さが見て取れた。洋平と話している千里は本当に楽しそうだったし、洋平のことを話しているときが一番本音を露わにしている気がした。
「今まで聞いてこなかったけどさ、千里って中学時代はどうだったの? その様子だと、既に何人かと付き合ったことがあるのかな」
「ないよ。言い寄ってきた男子は何人かいたけどね」
「あら、意外。千里なら何事も経験だとか言って付き合っちゃってると思ってた」
「これって思える人がいなかったからね。好きでもないのに付き合うだなんて、相手に失礼な話だと思ったから」
真知は思わず苦笑した。それから少しの間を置いて、気が付いた。
「あれ、じゃあ千里、狭川くんが初恋ってこと? 恋したことのないわたしにドン引きとか言ってたくせに」
「ごめん、ごめん。一応好きな人はいたよ? だけど、どうすればいいか分からなくて、結局何もできなかった。だからこんな、自分から行動しようなんて思ったのは初めてなんだ」
真知は千里という人間を少し誤解していたのだと思った。積極的な態度から、当然自分には想像もつかないほど経験が豊かなものだとばかり思っていたが、やはり同い年の少女だった。いつも何気なく洋平に話しかけているように見えたが、本当は一つ一つが勇気を振り絞っての行動だったのかもしれない。
体育祭は文化祭の一週間後の土曜日に行われた。
グラウンドの外側に教室から運んだ椅子で観戦席が作られ、競技に出場しない者はそこで待機することになっていた。千里は真知と並んで洋平の真後ろに座り、時折洋平と話していた。
「向田さんは後夜祭には出るの?」
洋平の言う後夜祭は体育祭が終わった後、体育館で行われる。プログラムは基本的に運動部生徒による漫才と文化部による舞台発表で構成され、千里の所属する軽音楽部からもいくつかのバンドが舞台に出る。
「うん、出るよ。部内でバンドの選考があるんだけど、頑張ってオーディション残ったんだから。部の方針上、一年生の方が後夜祭には出やすいから、来年はどうなるか分からないけど。だからちゃんと見てね」
「そうか、楽しみだな。俺、結構洋楽とか好きでさ。ロックをやるのかな?」
「曲目は内緒だけど、うちらはポップス。洋平の趣味には合わないかもしれないね」
こうした雑談を、真知は千里の隣で黙って聞いていた。仲がいいな、と思う。その点はさすが千里だ。洋平を含む数人で買い物に出かけたこともあるというし、高校生の男女が実現しうる中では結構な親密さだ。
ふと、男女の付き合いはどのように成立するのだろう、と考えた。真知が知る物語の世界では「好きです。付き合って下さい」という「告白」があり、「わたしなんかで良ければ」と相手が承諾して、恋人関係というのは成立する。では、「告白」の受け手はどういった基準で承諾を決めるのだろうか。互いが相手に対して恋愛感情を抱いていた場合なら話は簡単だが、そのようなときにしか恋人関係が成立しないのなら、巷に溢れている男女カップルの数はほとんど奇跡だ。やはり、恋愛感情がなくとも、それなりに好感度が高ければ承諾する、という場合があるのだろう。しかし、それは真知にとっては考えられないことだった。洋平はどう考えるのだろうか。
日がまだ高いうちに体育祭は閉会式を迎え、真知たちは体育館に移動した。体育館では全生徒が集まって地べたに座っており、照明も落ちて、非日常的な雰囲気が醸し出されていた。
祭りは文化祭準備期間のスライドショーから始まり、バンドの演奏、漫才、ダンスの発表といった演目が披露された。
やがて千里の所属するバンドが舞台に立った。演奏された曲は、流行りの曲には詳しくない真知でも聞いたことがあるような有名なものだった。千里のパートはギターだったが、時折コーラスに参加していた。意識して歌詞を聞きとると、片想いの心情を歌ったもののようだった。この種類の音楽をあまり聴かない真知にも、拙い演奏だということは分かった。ただ、千里をはじめ、演奏者たちは楽しげで、聴いている方としてもどこか心地よかった。
週明けの月曜日、真知は校門を出たところで傘を差して佇んでいた。
蒸し暑さを際立たせる雨もあれば、季節を秋へと進める雨もある。今日の雨は後者だった。前日の暑さが嘘のように空気はひんやりとしており、ようやくあの暑さともお別れだ、などと早とちりしてしまいそうになる。しかし、明日には今日の涼しさなどなかったかのように、再び意地の悪い太陽が照りつけるのだろう。
視界の奥に青い傘が現れた。真知は目を凝らした。顔は隠れて見えないが、背格好からして千里だろう。雨音に交じって、革靴がアスファルトを鳴らす音が近づいてきた。やがて傘は、真知の少し前で立ち止まった。
笑顔が覗いた。真知はそれだけで全てを察してしまった。見ている方の胸が締め付けられるくらい、寂しい笑顔だった。
「ダメだったよ」
帰り道、真知は千里の「告白」の顛末を聴いた。洋平には想う人がおり、千里にはその名も明かしたという。
「洋平はとことん気を遣ってくれた。真面目な男だよ。あたしに好きな人の名前を教えてくれたってことはさ、あたしがその子に嫉妬することはないだろうって信用してるって意味だよね。そうまでされちゃ、もう、どうすることもできないよ」
真知は千里の話を黙って聴くしかなかった。掛けるべき言葉を知らなかった。
「まあ、良かったよ」
千里は傘を持ちあげ、無色の空を見上げた。
「優しい、いい人を好きになれた。それだけで、あたしの恋愛デビューとしては御の字かな。さあ、明日から新しい恋、頑張るぞ」
真知は俯いた。
「ごめんね。気の利いたこと、何も言えなくて」
「今、傍にいてくれるだけでありがたいよ。独りだったらどんなに心細かったことか。やっぱり、失恋は辛いな」
この日から千里は洋平のことを口にしなくなった。教室では千里と洋平は互いに何事もなかったかのように接している。真知は、本当は「告白」などなかったのではないか、と時々思った。
真知が改めてこの話題に触れてみる気になったのは、すっかり空気も入れ替わった十月の中頃のことだった。
その日の授業は午前中に終わり、軽音楽部の練習もなかったので、真知は千里を誘って学校の周辺を散歩することにした。
「あれから一ヶ月経ったけど、どんな気持ち? 狭川くんのこと」
真知の問に、千里は驚いたように笑った。
「珍しいね。真知からその話振ってくるの」
「気に障ったのなら謝るよ。だけど、千里との間にタブー扱いされる話題ができるのは嫌なんだ」
「確かに、それももっともだ。じゃあ正直なところを言うとね、まだぐちゃぐちゃだよ。というより、不安」
「不安?」
意外な言葉だった。不安も何も、もう全ては終わったのではないか。
「あれから、前と同じように洋平と話しているでしょ。本当は迷惑なんじゃないかって。振った女がいつまでも馴れ馴れしくしてくるの、気持ち悪いんじゃないかって」
「そんなこと、あるわけないよ」
「うん。さすがにマイナス思考が過ぎるって、分かってる。でもどうしても考えちゃうんだ。洋平は優しい態度で接してくれているけど、内心面倒くさいんじゃないか。嫉妬しているかもしれないあたしのことが、気味悪いんじゃないか。こんなこと思うの、洋平にも失礼なのにね」
真知は、千里には悪いが、洋平の対応はやはり不十分だったのだと思った。失恋を良い思い出として捉えられないのはどんなに辛いことだろう。勇気の「告白」が相手にとって迷惑だったかもしれないなどと考えてしまっては、自分の行動に誇りすらもてなくなる。それは悲しいことだ。しかし、洋平の立場で、千里の不安を完全に取り除くことなど不可能ではないか。そう考えると、「告白」というのはどうしても人と人の関係に傷を残すものなのかもしれない。
「とにかく、疲れた。また別の誰かを好きになるまで少し時間がかかりそうかな。ごめんね、暗いことばかり言って」
「ううん。わたしが訊いたんだし」
「少し、真知みたいな生き方が羨ましく感じられるよ。小さな感動、小さな喜び。あたしも、何か探してみようかな」
「また河川敷でも行く?」
「いいね。今度また、どこか連れていってよ」
秋晴れ。まだ色の変わっていない葉が風に運ばれていった。




