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第五話「ありふれた青春」

 夏休みも終盤に差し掛かり、文化祭本番まで三週間を切った。


 真知は、自分がすっかり「文化祭の作業に熱心な人」のグループに入ってしまったと感じていた。確かに、真知の登校日数はクラスの平均と比べてはるかに多かった。真知が部活動に参加しないのは自分の時間を確保する為だったが、それでも毎日やりたいことがあるわけでもなく、暇な日も多かった。そんなときは勉強でもしようかという気になり、真知の自宅は学校に比較的近かったので、文化祭の準備に行く気にもなった。しかし、文化祭に熱中する人々に相変わらず共感はできず、淡々と作業を進めるのみだった。


 最近、文化祭の「上層部」はピリピリしていた。特に急ぐことがあるわけでもないのにやたら忙しげで、指示一つとっても声が荒々しく、見えない何かに駆り立てられているようだった。その最たる例が晴香で、以前は単なる事務連絡だけだったが、最近は説教じみた文面を、メーリングリストを使って送ってくるようになった。作業自体は順調だったし、クラス全体として見れば文化祭に対する士気も高く、「上層部」は何をそんなに苛立っているのか、真知は不思議に思っていた。


 その日、真知は午後から登校した。


「昨日のメーリス見た?」

「ああ。もういい加減にしてほしいよな。俺、最近は夜になったら携帯の電源切ってる」

「それいいな。俺もやろう。ったく、全員が文化祭に命懸けてるわけじゃないってのに」

 部活動帰りの、真知と同じクラスの男子生徒二人が昇降口でそんな会話をしていた。

「おい」


 真知に気付いたのか、片方が注意を促すような仕草を見せた。


「いいじゃん、聞かれても。陰口叩いてるんじゃないし。それに、空野さん、そんなにあっち側の人じゃないだろ?」


 急に声を掛けられた真知はどう反応すべきか迷ったが、千里に言われた作り笑顔を浮かべて応えた。


「文化祭に熱心じゃない人がいてもいいとわたしは思うよ。わたし自身、そんなに熱心な方じゃないし」


 そう言いながら真知は、自分は結構卑怯な立ち位置にいるのだな、とも思った。作業に参加していれば「上層部」から文句は言われないし、かといって文化祭に熱狂しているわけでもないから、この二人のような層からも煙たがられない。


 真知が教室に入ると、晴香が一人で作業していた。黒板に貼ってあるシフト表に目をやると、真知と晴香以外には、先ほど会った二人の名前があった。真知は何も言わなかった。


「大丈夫? 最近元気ないみたいだけど。この内装、他のどのクラスよりも進んでいるよ。皆だってモチベーション高いし、そんなクラスを引っ張っていってる川崎さんはもっと胸を張っていいと思うな」


 真知は柄にもなくそんな言葉を掛けた。真知にそうさせるほど、晴香の表情は疲弊して見えた。


「……作業が順調なのも、皆のやる気があるのも、当然だよ。わたしは、クラス全員が心の底から文化祭を楽しんでくれなきゃ嫌なの。一部の人たちが参加しないまま終わるのが嫌なの」


 晴香はひどく暗い声で言った。


 その言葉に、真知は「上層部」の苛立ちの理由を察した。同時に、少し呆れた。クラス全員が心の底から。本気でそんなことを思っているのだろうか。もしそうだとしたら、それは楽天的というよりも、もはや傲慢に近い。


 二人はその後たいした会話はせず、黙々と作業を続けた。


 真知は幼い頃から争いごとと無縁に生きてきた。真知自身が天真爛漫な性格をしていたというのもあるし、何故か真知の付き合う人間は基本的に温厚だった。しかし、この学校の生徒は皆自己主張が激しい。互いに衝突し、和解していく中で友情を深めるのだろう。人間関係上の対立を経験してこなかった真知は、争いごとにアレルギー反応を示すようになっていた。そして今まで自然に避けていた争いごとを、積極的に避けるようになった。この文化祭における真知の立ち位置にも、そういった心情が反映されていた。


 下校時間帯となり、真知は晴香と共に帰ることになった。普段はそれほど親密ではなく、二人での下校は珍しかった。


「空野さん、さっきの話だけど」


 晴香の方から話題を切り出してきたので、真知は少し驚いた。


「準備には真面目に参加するけど、本当はあまり文化祭が好きじゃない……、そんな人がいるのも、わたしは嫌なんだ」

「どういう意味」

「空野さんはすごく協力してくれるけど、文化祭好きじゃないよね? 空野さんは、人は人、自分は自分、みたいなところがあるじゃん。そういう考え方もあると思うんだけど、だけど、表面上は参加して、心の底では無関心って、そういう態度が一番寂しいな」


 晴香の言葉に、真知は多少の苛立ちを募らせた。苛立ち。真知らしくない感情だった。


「文化祭楽しんでます、って演技すればいいのかな。わたしとしては真面目に参加するので精一杯。心底楽しむっていうのはちょっと厳しいなあ……」


 努めて感情を殺しながら話した。


「文化祭に非協力的だったり、さぼったりする人がいるのも悩みの種なんだけど、空野さんみたいな人はもっとタチが悪いっていうか、何だか、見限られているって感じがする。さぼる人は部活が忙しいだとか、勉強がしたいだとか、面倒くさいだとか、それぞれの理由があって文化祭を嫌っているんだろうけど、空野さんは最初から相手にしていないって感じで」


「見限るって……、随分とわたしを冷淡な人間みたいに言うね。そろそろ怒るよ」


「気を悪くしないでとは言えない。それでも、わたしは空野さんにも文化祭に参加してほしいの」


 その言葉に、真知は諦めの気持ちを抱いた。もう、無理だ。いよいよ自分はこの子とケンカしてしまう。


「いい加減にしてよ。好きでもない文化祭にも律儀に付き合ってるわたしが、何でそんなこと言われなきゃならないの。好きになれ、なんて無茶なこと言わないでよ。興味がないものは興味がない、しょうがないでしょ。あのね、言っておくけど、全員が心の底から、なんて無理に決まってるからね。あなた一人がそんな理想を抱くのは勝手だけど、あんまり人に押し付けないでよ」


 一気にまくしたてた後、すぐに後悔の念に襲われた。周囲の通行人たちも大声を上げた真知に驚いている。怒ってしまった自分を嫌悪した。


 普段穏やかな真知が感情を露わにしたことに驚いたのか、晴香はしばらく口を開けて黙っていた。だが、やがてその表情は笑みに変わり、ついには声を上げて笑い始めた。真知は、晴香がストレスでおかしくなってしまったのかと思い、たじろいだ。


「そうだね。わたしの言っていることなんて理想。無理に決まってるよね。ごめんね、空野さん。ちゃんと文化祭に協力してくれている人に向かって、文化祭に参加しろ、なんて失礼極まりないよね」


「いや、わたしこそごめん。怒鳴っちゃって……。本当、ごめん」


 すっかり冷静になった真知は、すぐさま緊張した関係の修復にかかろうとした。しかし、事態はこれで収束しなかった。


「だけどさ、わたしみたいに理想を押し付けてくる人間がいてもいいじゃない! 静かに暮らしている人の心の中にまで土足で入り込んでくるような、鬱陶しい奴がいてもいいじゃない! 高校生だよ? 文化祭みたいな馬鹿げたことに熱中しているだけで褒められるような、そんな素晴らしい時期だよ? 人にどんなに迷惑を掛けたって、理想を追ってみたいじゃない。ベタな、ありふれた青春をさあ!」


 真知はすっかり呆気にとられてしまった。晴香の物言いから気を遣った建前は消え失せ、喋り方も芝居のように大袈裟になり、理性だとか、恥の気持ちだとか、そういったものが吹っ飛んでしまったようだった。


 自分のしていることを理解していながら、なお理想を押し付けてくる。なんて悪質で迷惑な人間なんだろう。そう思うと、真知も笑ってしまった。晴香は真知の常識を完全に越えたところで生きている。決して分かり合えそうにはない。だが、その振り切れた態度は清々しくもあり、敬服の念すら抱いた。


「すごいね。衝撃的だよ、川崎さんの言葉。そっか。こんな人もいるのか。少し、わたしと文化祭のあり方、考え直してみようって気にはなれたよ」

「本当?」

「その結果、わたしが文化祭を好きになるとは限らないけど」

「正直、この話題を切り出したときには大ゲンカする覚悟だったよ。だけど空野さんが少しでもそういう気になってくれたのなら……」

「ちょっと、あまり自信を持たないでよ。他の人にも同じことやってたら、そのうち友だち失くすよ。実際わたしも今ので川崎さんは変な人だって印象もっちゃったし……。あれ、まさか、今までにもこういうことやってたりする?」

「何人かにはお話したよ。怒るどころか、面倒くさがって逃げていく人ばかりだったけど。それでも、これからも、クラスが一丸になれるまで、一人一人とお話していきたいと思っているよ」

「……あまり思い詰めないでね。暗くなっている人の傍にいる方も息苦しいから」

「気を付けるよ」


 相変わらず晴香のことは分からなかったが、多少印象は変わった。こういうこともあるなら衝突も悪くないな、などと思ったが、やはり声を荒げることはあまりしたくないな、とも思った。

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