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第四話「時の見た夢」

 七月に入って、本格的に文化祭の準備が始動した。それぞれに役職が割り振られ、川崎晴香かわさきはるかという女子生徒が真知たちのクラスの文化祭におけるチーフを務めることになった。


「文化祭って、大袈裟かもしれないけれど、学校の中でできる社会経験だと思うんです。きっと大切な思い出になるし、自分自身の糧にもなります。この夏、クラス皆で団結して最高の文化祭にしましょう!」


 チーフの就任スピーチで晴香はそんなことを言った。


 文化祭の作業の大半は夏休み中に行われた。


 真知たちのクラスは教室内に迷路を造るという計画で、真知は教室の内装の担当に割り振られた。生徒たちにはシフト表が配られ、それぞれの登校日が細かく決められていた。


 七月の末、真知はいつのものように教室を訪れた。


 教室では晴香が一人で木材に鋸を入れていた。真知よりも小柄な晴香が冷房も効いていない締めきった教室で作業しているのは、ひどく苦しげに見えた。


 真知は晴香に軽く挨拶をすると、自分の持ち場で作業を始めた。


「今日、わたしたちだけ?」


 三十分ほど経って、真知はぽつりと言った。


「あと二人来るはずだけど、連絡がつかないんだ」


 晴香は鋸を引く手を止めずに言った。「さぼり」だ、と真知は思った。


 いくらこの学校の生徒が部活動や学校行事に熱心だとはいえ、個人レベルで見ればそういった暑苦しさを快く思っていない者もいる。それでも三年生の夏になると、ほとんど一人残らず文化祭に熱狂するようになるらしいが、一年生の文化祭ではやる気のない者が何人かは出てくるものだった。


「空野さんは頑張って来てくれるよね」


 晴香の言う通り、真知はシフトを無視したことは一度もなかったし、シフトが入っていない日も気が向けば教室に来た。球技大会のときと同じく、文化祭に対する熱意はないものの、自分が文化祭に非協力的であることによってクラスに不和がもたらされるのは嫌だったので、真面目に参加していた。


「そう? 川崎さんなんてほとんど毎日来てるでしょ」

「うん。部活がない日はいつも。うちの部活は一日中練習なんてことはほとんどないから、毎日どこかしらの時間帯には来てるよ」


 真知は、何が晴香を突き動かしているのか不思議に思った。クラス全員の部活動の活動日時や個人的なスケジュールまで把握してシフト表を作り、ほとんど毎日のようにメーリングリストを使ってクラス全員に長文の指示を送り、自分自身もほぼ毎日作業に参加する。まさにこの学校の謳う理想の生徒像を体現していたが、真知には理解しかねた。


 

 八月初旬のある日、千里が真知の家を訪ねた。真知が高校の友人を自宅に招くのはこれが初めてだった。


 千里は真知の部屋に入ると、目を丸くした。


「すごい部屋だね」


 部屋にはベッド、机、箪笥、本棚、アップライトピアノが置かれていた。机の上には地球儀、天球儀、十数冊の大学ノート、異常なまでに種類が豊富なペンの束などが置かれ、本棚には図鑑、百科事典、写真集、地図帳などがぎっしりと収められていた。


「そうかな」

「女の子の部屋にも見えなければ、高校生の部屋にも見えないよ」


 千里はそう言って床の上に胡坐をかいた。真知はベッドに腰掛けた。


「そういえばこの前、将と二人で会ったよ」

「へえ。そんなに仲良くなったんだ」

「怒らないの?」

「だから、そういう独占欲みたいなのはないから。わたしを茶化すより、自分のことはどうなの」

「今年中には……、いや、文化祭が終わる頃には行動に出る。ちょっとは距離も縮まったかな、なんて思っているし」

「何のアドバイスもできないけれど、応援しているよ」


 それから、千里と洋平の最近の関係を中心に話し込んだ。


「ねえ。今度真知の『くだらないこと』に同行させてよ」


 千里がそう言い出したのは午後五時を過ぎた頃だった。


「同行か。じゃあさ、千里、今日は時間大丈夫?」

「平気だけど……。今から行く気?」

「父さんの自転車使っていいから。サドル下げれば乗れるでしょ」


 そうして二人は出かけることになった。


 夏至は少し前に過ぎたものの、まだ日は長い。午後六時を回る前では、空はまだ綺麗な青さを残していた。


 真知が先導して、千里が続いた。千里は目的地を尋ねなかった。二人はさして会話もせずに自転車を進めた。


 国道を越え、田畑の多い地帯を抜け、また大きな街道を越え、住宅街が現れたかと思うと、工場や流通センターなどの巨大な施設が散見されるようになり、風の調子も変わっていく。


 川は突然に現れた。細い道路を一本越えればそこは堤防。


「太陽の方へ行くよ」


 真知はそう言うと堤防に乗り上げた。


 空は淡い虹色だった。落日の周囲はオレンジ色に染まり、少し視線を上げるとそこはなんと緑色で、背後には夜が忍び寄っていた。景色全体が霞に覆われているようで、やがて自分が箱庭の中にいるような気持ちになった。この空の色が、果てなく遠い銀幕に映し出された幻のように思われた。


 風はだいたいぬるく、時たま涼しかった。自転車は静かに水平に進み、サドルの上から見える風景は少し広く、空を飛んでいるようだった。


 空の色彩が群青と朱色の単調なコントラストへと変わる頃、真知たちは来た道を引き返し始めた。


 真知の家に戻ったときには、午後七時を回ろうとしていた。


 真知は千里を駅まで送ることにした。


「真知が好きなこと、見ている世界、少しだけ分かった気がする。というより、何だか懐かしかったな。小さい頃はあたしも真知と同じようなこと思っていたのかも」

「そう? 虹色の空が見られるのは、夏の晴れた夕暮れ時の、ほんの短い時間だけ。時の流れが刹那見た夢」

「詩人だね。本当は普段からそういうこと言いたいでしょ」

「あ、分かる? まあ、周りに合わせるということも知っているから」

「ところで、真知」


 千里の歩みが若干遅くなった気がした。


「もし、それなりに仲のいい男子から『告白』されたらどうする?」

「『告白』、かあ。想像もつかないし、実際そのときになってみないと分からないけれど、多分、お断りするかな。恋が分からないのに付き合うだなんて、相手に失礼な話だと思うからね」

「そうか。真知らしいね」

「どうしたの、いきなり。あ、千里がわたしにそういう話をするときは、自分の話を聴いてほしいときだもんね。狭川くんのことでまだ何かあるの」

「え……。うん、そう。さっき言い忘れていたけれど、この間……」


 二人が駅に着く頃、ようやく街は夜らしい暗さになった。

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