第三話「将来の夢」
高校に入学して、二つの大きなイベントが終わった。
ひとつは球技大会。真知たちのバレーボール組は素晴らしい団結を見せたものの、八クラス中三位という結果に終わり、優勝は叶わなかった。なお、この行事に際して真知は「打ち上げ」と呼ばれるものに初めて参加した。球技大会自体にはあまり興味を示さなかった真知だが、打ち上げの席では学校空間以外の場所でのクラスメイトの顔が見られたようで、悪い気はしなかった。
もうひとつは前期中間考査。入学初日の実力テストを除けば、初めて行われた学力テストだ。成績はクラス四十人中四位と、真知としては安心できる結果だった。真知は「くだらないこと」が好きだが、現実社会と向き合っていく必要性も強烈に感じていた。部活動に関しては参加しないという選択をしたが、高校生の本分たる学業においては一定の成績を収めることを自らに課した。もともと勉強好きだというのもあるが。
そうして学校の雰囲気も落ち着いた六月の末、真知は新たな課題に直面することになった。
「総合学習」の時間に、進路について考えさせられることになったのだ。教師やOBらの話を聞かされ、プリントに細かい進路設計を記入させられ、グループの中で将来について話し合わされ、さらには自身の描く将来像をグループの皆の前で発表させられるという。
この時間は真知に大変な苦痛を与えた。もちろんどのような将来像を描くかはそれぞれの自由だ。しかし、暫定的にせよ、何かしらの道を選ぶことは強いられる。真知には選べなかった。
この国では「将来の夢」というとき、ほとんど「将来なりたい職業」を指す。それが真知には分からなかった。働くということに、金を稼ぐため、という以外の理由を見出せなかった。労働が必要なのは分かる。この社会では働かないと生きていけない。しかし、仕事それ自体を何か素晴らしいもののように感じて目的とするというのは意味が分からなかった。
職業選択だけではない。高校選択にしても、進路決定と名の付くものに関して真知には積極的な理由がなかった。真知が高校に求めた条件は第一に公立であること。第二に入学試験の難易度が自分の学力相応であること。第三に自宅から通うのが苦にならない程度の距離にあること。そもそも「将来の夢」などというものの具体像は見えていなかったし、高校選択が将来にどう関わってくるのかもよく分からなかった。だから本当の意味では、真知には高校に進学する理由がなかった。それでも進学したのは、それが当たり前とされる環境で生きてきたから、すなわち周囲に流されたからに過ぎなかった。
そして今、この高校という場で大学進学や職業選択について考えるにあたって、真知は立ち止まらざるを得なくなった。相変わらず、この学校でも大学進学は前提とされていた。しかし自分は何故大学に行くのか。この国では就職は当たり前とされている。しかし自分は何故働くのか。
真知はふと周囲を見回した。最初の席替えが行われ、話し合いのグループには千里も含まれている。皆、熱心にプリントに将来設計を書きこんでいる。真知は入学式において校長が「わが校の生徒は自主性が高く、明確な目的意識をもち……」などと言っていたことを思い出した。あれは誇張でも何でもなかった。本当にこの学校の生徒は、気味が悪いくらいに明確な目的意識をもっている。
やがて発表の時間となった。運がいいのか悪いのか、真知の順番は最後となった。
最初に発表したのは千里だった。食品に携わる職に就きたいらしく、大学は国立の農学部を目指しているという。その後、検事、外科医、自動車メーカーの社員などといった言葉が飛び交い、やがて真知の番になった。
「まだ具体的にはイメージできていないけれど、文章を書く仕事に就ければな、と思っています。だから大学は文学部とかになるのかな」
真知は白紙のプリントを隠しながら話した。
「文章を書くって、小説とか?」
千里が尋ねる。
「うーん、小説もなくはないけど、どっちかっていうと評論、論説って感じかな。ほら、国語のテストで出てくる文章みたいな」
「ああいうのって学者さんの仕事なんじゃないの? 本売るだけで生活している人ってあまり多くないと思うんだけど」
「そうだね……。だとすると大学に残って研究? 本職は教授? まだはっきりと目指しているわけじゃないから、知らないことが多いね」
真知はやっとのことで答えた。
「あの進路学習ってやつ、あと何回続くの? 発表させられるとか、もう軽いハラスメントだよ」
その日の帰り道、真知はそう千里にこぼした。
「珍しいね。真知が愚痴を言うなんて」
「千里は食品会社に勤めたいんだっけ? どうしてそう思ったの?」
「改めて訊かれると恥ずかしいけど、伯父さんの勤めている会社がそうなんだよ。別にその会社に入りたいってわけじゃなくて、伯父さんはあたしにとって格好いい大人の理想像だったっていうか……」
「お父さんじゃなくて?」
「尊敬してないわけじゃないけど、身近すぎると憧れの対象にはならないのかな」
真知は千里の話が随分と素朴なものであることに少し驚いた。
「でも、真知だってちゃんと目指すところがあるんでしょ。そんなに進路学習が嫌?」
千里の問に、真知は少し考え込んだ。
「さっき喋ったのさ、でたらめなんだよね。確かに文章を書くことに興味はあるけれど、実のところ就きたい職業なんて決まっていない」
「それならそう言えば良かったのに。まだ高一なんだから、何も決まっていなくても恥じることないでしょ」
「いや、何も決まっていないっていうとそれはそれで嘘になるような……。わたしはね、一生遊んで暮らしたいんだよ。そういう意味での望みははっきりしている」
千里は「えっ」という声を漏らした。
「健全に遊んでいるだけでその日のご飯が用意されるような生活がベストなんだけどな」
「そりゃ誰だってそう思うよ! だけど、そうはいかないから皆働くわけで……」
「そうだね。そこが問題なんだよ。ねえ、千里。わたしは『くだらないこと』が好きなんだ。何の役にも立たない、取るに足らないことが。のんびりと散歩をするのが好き。ベランダから月を眺めるのが好き。それが何になるのか、と訊かれても、知らない。ただその瞬間を愛してる」
千里はそれを聞くと、真面目な顔をしてしばらく黙り込んだ。真知が呼びかけると、視線を足元に落としたまま応えた。
「そんなこと、考えたこともなかったなあ。よく分からないけど、面白そうだな、とは思う。例えばどんなことをしてきたの?」
真知は四月の、道を横から眺めた体験について話した。
「なるほどねえ。真知はあたしとは全然違う世界を見ているのかもしれないね。案外本当に文章書くの向いているかもよ」
「千里はこういう話でも真面目に聴いてくれるから好きだよ」
「照れるからよしてよ。それにあたし、真知の言っていること、ちっとも理解していないからね」
「理解していないってところが更にいいよ。千里とはいい友だちになれるといいね」
真知がそう言って視線を前方に向けると、将の姿を見つけた。一人で歩いているようだったので、真知は千里を連れて駆け寄った。
千里は気さくな人だった。真知は初め、将と少しのやり取りをした後は別れて、千里と二人で帰るつもりだった。しかし千里は以前からの知り合いであったかのように将に話しかけ、ものの数分で打ち解けてしまったので、そのまま三人で歩いた。
駅に着くと将は、書店に寄る用事があるから先に帰ってくれ、と言った。真知と千里は二人で電車に乗った。
「あれが『マサくん』か。確かにいい人っぽいね。それにしても真知、本当に付き合ってないの?」
千里は、彼女らしくない小声で尋ねた。
「言ったでしょ。付き合ってるも何も、わたしには恋っていうものがまだ分からないんだって。どうしてそういうこと言うの」
「彼と話しているときの真知が、すごく楽しそうだったから。旧知の仲ってだけじゃ説明がつかないくらい」
「そうかもね。わたしにとってのマサくんは……、確かに特別な人だよ」
「やっぱり好きなんじゃん」
「うん、大好きだよ。恋とは違うと思うけど。さっき、『くだらないこと』の話をしたでしょ。マサくんも『くだらないこと』が好きな人だった。一緒にいっぱい『くだらないこと』をしたよ。ひょっとしたらマサくんと過ごした時間は、他のどんな友だちと過ごした時間より長かったかもしれない。一緒の高校に行けることになったときは、嬉しかったなあ」
この話を聴いている間、千里が終始心配そうな眼をしていたことに、喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込んでいたことに、真知も気付いていないわけではなかった。しかし、千里の表情が何を表しているのか想像もつかなかったので、気にしないことにした。
電車の窓ガラス越しの暑さに、夏の始まりが感じられた。




