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番外編「Goodbye World」後編

 将が違和感を覚え始めたのは、それからすぐのことだった。


 ある日、学校の廊下で真知とすれ違った。真知は変わらぬ態度で手を振って、笑顔を向けてくれた。将は「おはよう」とでも声を掛けようと思った。だが、できなかった。真知を見ると息が止まる。どうしようもなく苦しくなり、その場にいることを拒絶してしまう。愛の告白が失敗した後、気まずくなるという話はよく聞くが、まさか自分がそうなるとは思ってもいなかった。真知はこれからも友だちでいようと言った。そして、将自身もそれを望んでいた。それなのに、なぜ。


 そのまま冬休みに入り、将は、事態は更に深刻であると知った。告白の前後で、真知への想いが全く変化していないと気付いたのだ。むしろ以前よりも強く恋焦がれるようになった気さえする。


 何らかの踏ん切りがつくと思ったからこその告白だった。未練を残すことなど、あってはならない。


 千里なら、もう一度気持ちを問うてみろと言うかもしれないが、それはできない。一度きりの告白だから、将は勇気を出せたし、真知は将の想いに精一杯応えたのだ。これ以上引きずれば、真知の誠意を冒涜することになる。


 何ということだ。将は、もはや何もできなくなってしまった。勇気の告白は状況に何らかの進展をもたらすものとばかり思っていた。しかし、逆に絶望的な膠着状態に陥ってしまった。順調な青春のレールから、完全に足を踏み外してしまったのだ。


 次に千里から真知の話をされたのは、将たちが進級した春のことだった。


「あれから真知とろくに話していないでしょう」


 将は黙ってしまった。その通りなのだが、それを認めることは将と真知の間に漂っている気まずさに言及することになる。


 答えがないのを見ると、千里は続けた。


「真知ね、多分将のことで相当悩んでいたよ。知ってる? 真知、あれから短期のバイトに打ち込んでいたの。あの真知が、だよ。まあそのバイトももう終わったらしいんだけど、最近、随分帰りが早いんだよね。ほら、真知って今までは学校が閉まるギリギリまで図書館で本を読んでいるか、教室で勉強しているか、だったでしょう。だけど最近すぐ帰るものだから、訊いてみたんだ。そしたら、電車で色んなところに行っているんだって。途中下車の旅ってやつ?」


 千里の報告に、胸が冷える思いがした。


「これさ、逃避だよね。将なら知っていると思うけど、真知って『取るに足らない世界』と現実の社会を分けているところがあるでしょう。何の役にも立たない、何の生産性もないけれど、感動する瞬間を探すのが好き……、あたしにはよく分からないけれど。だけど、今までの真知は現実とも何とか折り合いをつけていこうと思っていたはずなんだよ。学校行事にも真面目なくらいに参加していたし、クラスの中でも周りにある程度合わせているところがあった。それなのに、今の真知は、もう完全に現実に愛想を尽かしちゃって、『取るに足らない世界』にどっぷり浸かりにいっているような、そんな風に見える」


 自分のせいだ。やはり、あれからの自分の態度は露骨過ぎた。後悔を隠し切れていなかった。心優しい少女はそのことに責任を感じたに違いない。真知にとって恋愛は現実のもの、よく知らないものだ。その恋愛に対する無知が将を傷つけたのだとしたら……、今の真知の行動はそんな思いに裏打ちされているように見えた。


 だが、それが分かったところでどうしようもない。将はもう二度と、真知と恋の話はできない。


 それから将は努めて真知のことを忘れようとした。真知との間にもう何の問題もない、全ては解決した、そう自分に嘘をつき続けた。


 八月、将は北海道の大学を訪れた。高校受験のときとは違い、今回は将も進路決定に関して積極的であった。おぼろげながらにも自分のやりたいことは見えてきていたので、望む未来の実現に最も適切な大学を探そうと思っていた。


 小旅行を兼ねて泊まりがけで行っており、帰りは朝早く出発したので、東京に着いたのは昼頃だった。


 将は普段二つの駅を利用している。通学に使っているのは北側の駅だが、将の自宅や中学校は市の南部にあったため、中学校時代はこの南側の駅をよく使っていた。


 暑い。雲ひとつない真夏日だ。日差しの強さのあまり、風景は白み、現実は幻となる、そんな季節だ。


「あれ、マサくん」


 突然、聞き慣れた、それでいて懐かしいような声が聞こえ、とたんに汗が引いた。


 真知はこちらを見つけるや否や小走りで駆け寄ってきた。この明るい日の中、白いワンピースをまとった姿は消え入りそうに見えた。


「どうしたの、荷物多いね。あ、分かった。オープンキャンパスでしょう。今着いたの? じゃあ、一緒に帰らない?」


 二人で肩を並べて歩くのは随分と久しぶりなように思われた。


「大学か。わたしも色々考えたんだよ。でも高校受験のときと同じように、大学に行く理由っていうのが分からなくて。うちの学校じゃ大学進学なんて前提にされているから、こんな話をすると変な顔されるけどね。マサくんなら分かってくれると思うんだけど、わたしは本気で『取るに足らないこと』が好きで、将来とか考える上でもそれは欠かせないんだ。だけどさ、夕陽を見て感動しても、それでお腹が膨れるのか、なんてことを言われるんだよね。それがわたしにとっても悩みの種だったんだけど、最近、無意味でもいいんじゃないかって思えてきた。だとすると、わたしがすべきことは徹底的に人と向き合うこと、これに尽きるね」


 真知はこんな調子で喋り続けた。ここまで饒舌になるのも珍しかった。将はぎこちない相槌で応えた。


 やがて二人は、中学校時代よく立ち話をした、あのT字路で立ち止まった。


「ねえ」


 ふいに、真知は将の顔を覗き込んだ。近すぎるように思われて、将は思わず後退りしてしまった。真知は笑っているのかどうか分からないような表情を浮かべていた。


「マサくんはまだ、わたしのことが好きだよね」


 一瞬、蝉が鳴きやんだような気がした。


「馬鹿な」


 将は笑った。


「あれからもう半年以上経つんだぜ。そんなに長いこと引きずっているわけないだろう」

「嘘だね。マサくんがわたしのことを忘れられるはずがない。そうやって何もできないまま、苦しみ続けてきたんだよね」


 将は目の前で話しているのが真知であることを疑った。自分の立場をまるで理解していないような、無神経な発言。だいたいこんなこと、一歩間違えれば痛々しい勘違いだ。何故そう、不敵なまでの余裕を持っていられるのか。そんな真知の態度に、将は怒りさえ覚えた。憎悪ではない。理解の及ばぬものに、自分の力ではどうにもできないものに出会ってしまったときの、素朴な怒りだった。


 しかし悔しいことに、真知の言っていることは真実なのだ。将はまだ、真知のことが好きなのだ。


「……ああ、そうだよ。確かに俺はまだ空野のことが好きだ。忘れられるわけがない。だけど、だからといってどうしようもないことも知っているから、黙っているんだ。放っておいてくれ」

「わたしもマサくんのことが好き」


 その言葉は意外にすんなり将の内に入っていった。真知が将を好いている。普通ならば喜ぶべきことだろう。しかし将の心は、嬉しさとはまた違った不穏な波を立てていた。


 翌日、将は学校に部活の練習で来ていた。夏休みだというのに校舎は文化部の活動や文化祭の準備のために登校している生徒たちで賑わっている。そんな中、下駄箱の前で真知に会った。真知はごく自然に声を掛けてきた。


「おはよう」


 微笑む真知に、将は苛立ちを募らせる。


「おはよう。なあ、もうあまり話しかけないでくれないか」

「怒ったの?」

「そうだ。それに俺はもう、空野が怖い」

「怖い? 分からないな。マサくんはわたしのことが好きなのに」

「声が大きい」


 将は真知の手首を掴み、昇降口の柱の裏まで連れていった。


「昨日言ったよな。俺のことが好きだって。本当にそう思っているのか?」

「もちろん。言ったでしょう。マサくんに嘘はつかないって」

「じゃあ、付き合ってくれるのかよ」

「マサくんが望むのなら」

「訊き方を変える。空野は俺に恋をしているのか?」


 この質問に真知が答えるまでには少しの間があった。


「恋は、していないよ」

「もういい」


 将は一方的にその場を立ち去った。


 別の形での膠着状態が生まれた。将も真知も、互いに互いのことを好きだと言う。しかし、将は真知に恋をしているが、真知は将に恋をしていないと言う。真知の言う「好き」は友だちとしてという意味ではあるまい。何か特別な意味での「好き」だから言葉にしたはずだ。それがどういった感情なのか、将には全く分からなかった。


 真知の態度は不可解で、腹立たしくもあった。自分から近づいてくるようで、交際を始めようとは言わない。手の届かないぎりぎりの近さでからかわれているようだ。


 将はその内、深く考えることをやめた。真知は将のことが異性として好きなのだ。恋をしていないと言うが、真知には昔から言い回しが独特なところがあった。大きな視点から見れば、恋愛における両想いと変わらない。


 かつて、自分に振り向くようならばそれは自分の好きだった真知ではなくなる、などと考えていた。だが、今でも現にこうして将は真知のことを好きでいる。何も問題はない。


 もはや単純に、世間一般に恋愛と呼ばれていることをすればいいだけだ。


 夏休み明け、将は真知に毎日共に帰る約束を持ちかけた。真知は快諾した。


 真知との会話は、以前とさして変わらないように思われた。違うところといえば、将が真知という人間の底を見通せなくなったことだけだ。これでは、告白後一時的に気まずくなっていた二人の関係が回復したに過ぎない。恋人同士とは呼べない。


 将は自分と真知が恋人同士である確証を求めた。そして、それは行為の内に示されると思っていた。将は、九月末にある文化祭の日までに二人の関係を一歩進めようと思っていた。


 文化祭最終日の夜、将と真知はこの一ヶ月そうしていたように帰路を共にしていた。


 地元の駅から伸びる並木通りで、将は真知の手を握った。冷たい手だった。真知は握り返してこなかった。無理やり引っ張り回しているような気分になったが、離すのもおかしいので握ったままで歩いた。


 やがて、第一公園に着いた。将は足を止めた。


「空野は俺のことが好きか?」

「好きだよ」

「なら俺たち、恋人同士だよな」


 真知は答えなかった。いよいよ将は我慢がならなくなった。


「今からキスをする。好き合っている同士、問題ないはずだ」


 そう言って真知に顔を近づけた。


「いいよ」


 真知は寂しげな笑みを浮かべ、目を閉じた。


 将の身体が真知をすり抜けた。将は、自分の膝が冷たいアスファルトに着いていることに気付いた。そしていつの間にか、大粒の涙を流していた。


「ごめん」


 そんな言葉が口を突いて出た。


「こんなことがしたかったんじゃないんだ。俺は、俺は……」


 自分の望みはこれではない。そのことが、どうしようもなく理解されてしまった。本当はどうしたかったのか。その思考に時間はかからなかった。


「空野と一緒に、夕焼けを見ていたかっただけなんだ」


 一番星。金色の西の空。長い影。燃える手足。


 あの日見た光景が、二度と手の届かない彼方へ行ってしまったような気がした。


「わたしは待つよ」


 真知の声がやけに近く聞こえた。将の目線の高さまで屈んでいた。


「何年、何十年でも。また、いつでも声を掛けて」


 そう言うと真知は立ち上がり、歩き始めた。将はその場に立ち尽くし、真知の背中を追った。


 真知は闇の中へ消えていった。


 十月の末、将は学校の屋上で一人空を眺めていた。


 秋晴れ。空気はすっかり入れ替わり、肌寒くすらある。


 やがて、硬い足音が響いた。


「何、話って」


 真知は将との距離があまり縮まらないうちに歩みを止めた。


 二人の間を一陣の風が吹き抜けた。


「これから、一緒に東公園へ行ってほしい」


 将は真剣な顔で告げた。真知は笑った。


「なんだ、そんなことか。わざわざ呼び出されるから何かと思ったよ。いいよ。一緒に行こう」


 二人が公園に至る坂を上る頃には、日は沈みかけていた。


「俺はさ」


 将は独り言のように話し始めた。


「本やテレビの中の恋愛しか知らなかった。だからなのかな、告白さえすれば、何かしら気持ちの整理がつくなんて、馬鹿なことを考えていた。でも、結局あれからずっと空野のこと忘れられなくて、どうしようもなくなって、告白したことを後悔すらしてしまった。ひょっとしたら、今も同じことをしようとしているのかもしれない。でも、やっぱり必要だと思うんだ」


 公園の入り口を通り、枝のアーチをくぐり、広場に出た。


 草は赤い。雲は青い。鳥が飛ぶ。木々が揺れる。


「変わらない風景と変わってしまった二人の関係が嫌でも対比されてしまう、だっけ」


 将が呟く。


「そんなこと言ったかな」


 真知は照れたように笑った。


「空野は志望校とか決めた?」


 この幻想的な場所には似合わない話題だ。しかし、どうしても訊いておく必要があった。ここで将は真知の志望大学を知った。そして、もうあのときのように後を追うことはできないのだと悟った。将も、自分は北海道の大学に行くつもりだと告げた。


「やりたいこと、興味をもてることができた。この地球のこと、大地のこと、もっと知りたいと思った。だから、受験が上手くいったら、東京を出るよ。生まれ育った街を出ていく」

「じゃあ、もう会えないね」

「ああ。お別れだ」


 将は真知の正面に、夕陽を背にして立った。


「俺はこの世界が好きだった。今でも、美しいと思う。だけど、忘れるよ」


 将は微笑みを浮かべた。同時に、泣きそうでもあった。


「空野」

「はい」

「愛していた」

「わたしも、だよ」


 そうして二人は公園を後にし、中学校時代いつも立ち話をしていたT字路に差し掛かった。


「さようなら」


 二度と交わることのない道を歩み始めた。


 

 卒業式の前日、人のいなくなった教室で三人の生徒が談笑していた。


「それにしても、都合が良すぎない?」


 真知は将と千里を見た。


「二人して北海道なんて。ひょっとしてマサくん、千里に合わせて大学決めたの? ていうか、わたしが駄目だったら千里と付き合おうとか思ってたんじゃないの」


 珍しく毒づく。


「さすがの俺でもそんなことで大学を決めたりはしないよ」

「わたしは将と真知の間のことを知った上で将と付き合うことにしたんだから、いいでしょう」

「そうそう。これは純愛なのだ」


 将と千里は穏やかに言った。


「純愛ね。分からないな。大人の言うことは」


 真知の言葉は、不思議と皮肉っぽくは聞こえなかった。


「空野はそうかもな」

「分からないよ。たぶん、これからもずっと」


 三人で窓の外を見た。


 その日の空は青かった。

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