番外編「Goodbye World」前編
※この番外編は、『ブルー・エイジ』本編の構想段階で、真知と将のストーリーを一度短編としてまとめてみようということで書いたものです。基本的には本編を将の視点から見ているだけですので、ストーリーは『ブルー・エイジ』とあまり変わりません。しかし、本編との細かい差異や矛盾はいくつかありますので、一応は独立した短編としてお読みください。
将は家族とテレビを見ていた。恋愛モノのドラマで、主人公の女が失恋し、今まで相談に乗ってくれていた男とくっつくという展開だった。
「都合が良すぎるよ」
将は呟いた。
「どうして」
母親が返す。
「本命が駄目なら相談相手と付き合うって、初めから滑り止めを用意していたみたいだ。虫が良すぎる」
「捻くれたことを言うのね。これは純愛でしょう。将も好きな人ができれば分かるわよ」
将はうんざりした。大人は何かにつけて「いずれ分かる」と言う。彼らは色々なことを知った気になって偉そうにしているけど、代わりに何か大事なことを忘れてしまっているのだ。将は大人が嫌いだった。
それなのに、友人たちは大人になりたがっている。口を開けば、部活、勉強、学校行事、女の子、そんな話題しか出てこない。そんなリッパな話をして何が楽しいのだろう。ついこの間までは、お互いの影を踏み合っているだけで日が暮れたのに。
大人になりたくない。いつしかそう思うようになった。
将が空野真知と初めて話したのは、中学校に入って数日が経った頃だった。授業が終わり、帰る準備をしていたとき、丸まった紙の束と画鋲ケースを持った小柄な少女が話し掛けてきた。将と同じ「掲示係」で、ポスターを壁に貼るよう先生に頼まれたと言う。
二人で一通りの作業を終え、将は今度こそ帰る支度をし始めたが、真知は椅子に座ってぼうっと窓の外に目をやっていた。「何をしているの」と将が声を掛けると、真知は慌てたように振り返った。
「今日の空は青いなって思って」
真知は照れたようにはにかむと、そそくさと教室を出ていった。
将は真知をたいへん気に入った。公園の砂場で遊ぶ二人の幼児がやがて仲良くなるように、将はごく自然に真知と親密になった。
家が近かった二人は、学校からの帰路が分かれるT字路でしばしば立ち話をした。
「ただ空を眺めたり、あてもなく散歩したり、そういう、くだらないことが好きなんだよ」
ある日の帰宅時、真知はそんなことを言った。それを聞いた将は強い共感を覚えると同時に、ある期待を膨らませた。他の友人には決して言えないことを、今なら勇気を出して話してみる気になれた。
将は夕焼けの中に煌めく星を指した。
「あれ」
「金星、一番星だね」
「俺はさ、ああいうのを見るとすごく嬉しくなるっていうか、変な言い方だけど、この為に生きているなって思うんだ。綺麗な風景に出会ったり、素敵な音楽を聴いたり。でも、皆は違うのかな。そりゃ、友だちと夕陽を見て感動する人はたくさんいると思う。だけどその人たちにとっての夕陽っていうのは、友だちとの楽しい時間を引き立てるスパイスに過ぎないっていうか、夕陽自体に感動しているわけじゃないっていうか……。ごめん、よく分からないかな」
喋っている間、思わず真知から目を背けてしまった。理解されないかもしれない。意味が分からないと一蹴されるかもしれない。
言い終えて恐々と真知の顔を見ると、その表情は幼子のようにきらきらと輝いていた。
「すごく分かる。周りはどんどん大人になっていく気がして、こんなことばかりやっている自分はおかしいのかな、とも思う。だけど、やっぱり好きなんだよ。生き甲斐とも言えるくらいに」
衝撃だった。初めて、自分の言葉を理解してくれる人に出会った。喜びが身体の端々から湧いてくるようだった。
その日、二人はいつもより長く話し続けた。くだらないことについて。取るに足らないことについて。
それから二人はより親しくなった。帰り道を同じくするのは珍しくなかったし、寄り道して買い物に行くことすら何度かあった。
友人たちに真知との関係を冷やかされることもあったが、将には関係がなかった。将は恋愛をまだ知らず、真知を異性として意識することもなかった。
ところで、周囲から見た真知のイメージというのは、将の抱いているそれとかなり異なるようだった。皆は真知のことを、淡白、クール、大人びている、などと評した。将から見れば、小さな冗談にもお腹を抱えて笑い、ちょっとしたことにも感動をあらわにする、極めて純粋な少女だというのに。しかし、そのようなギャップがあるのも、自分だけが真知の本当の顔を知っているというような感じがして、悪い気分ではなかった。
また、真知は将のことを「マサくん」と呼んだ。名前の「ショウ」を「マサ」と読み違えたことに由来するあだ名で、使うのは真知だけだった。将にとって「マサくん」は、特別な人にだけ呼ばれる、秘密の名前のようにも思われた。
時は流れ、将は中学二年生の秋を迎えた。
十月も末になると、日はすっかり短くなって、まだ午後四時だというのに薄暗い。風も冷たく、からっとしていて、空気が入れ替わったと感じさせる。
その日、真知は寄り道するところがあると言った。よかったらついてくるか、と言うので将は頷いた。どこへ、とは訊かなかった。真知が将を誘って行く場所だ。面白いところに決まっている。
道のりは長かった。もう一時間近く歩いている。あまり遠出しない将にとって、もはや周囲の風景は見知らぬものに変わっていた。
真知が「もうすぐ」と言う頃には、急な上り坂に差し掛かっていた。夕陽を背に歩き、足元に長い影が伸びた。
丘を登り切ると、急に見晴らしが良くなった。そして、大きな公園の入口――「東公園」と書いてある――が目に入った。将は真知に導かれるまま、公園に足を踏み入れた。
しばらくは舗装された狭い道の上を歩いた。左右の木々がアーチを形作り、視界が狭い。丘陵地に造られた公園だからか、やたら上り下りが激しかった。やがて門をくぐるように小道を抜けると、急に広々とした場所に出た。
将は言葉を失った。
広場は斜面上に造られ、芝生の周囲には葉を赤くしたカエデが植わっていた。
草は赤かった。夕暮れ時の雲は青いのだと知った。鳥の群れが太陽を遮った。木々は空の額縁となって不穏に揺れていた。
そんな全ての、冥土のような、妖しく、鮮烈な風景を、世界を見下ろして、真知が立っていた。
将には、真知が急に遠い存在に思われてきた。手の届かない彼方、夢の中のような場所で遊んでいるように。
広場の片隅に、後れ咲きの彼岸花が一輪佇んでいた。
「ねえ、マサくん。恋人との思い出の場所っていうのは綺麗であればあるほど、別れた後に訪れると悲しくなると思うんだ」
帰り道、真知はそんなことを言った。
「どうして」
「その場所が印象的なほど、はっきりと記憶に残るでしょう。だから、この景色はあの頃と変わらないな、って思っちゃうんだよ。変わってしまった二人の関係と、変わらない風景が嫌でも対比されてしまう」
「なるほど。空野はロマンチストだな」
よく見知った街角で、将が真知と別れる頃にはすっかり日が暮れていた。
一人になって、将は自分に纏わりついている違和感に気が付いた。胸の内側から強い力で殴られているような、喉の奥から何か熱いものがせり上がってくるような、不思議な感覚だった。しばらくは、変な気分だな、としか思わなかったが、次第に不可解な焦燥が将を支配した。ほとんど本能的なところで危機を察知していた。膝が震える。心臓は嘘のように速く脈打つ。そして、その正体が分かったときには、もう遅かった。
とっくに真知に恋をしてしまっていたのだと自覚した。
真っ先に、ひどい罪の意識に苛まれた。今となっては、自分と真知の親密さがいかに異常なものであったかが分かる。あの関係は、互いが互いを異性として微塵も意識せず、純粋な仲間と見なしている限りにおいて許されていたのだ。先に裏切ったのは将だ。そして、このような疑問も湧いてくる。俺は本当に真知を恋愛対象として見ていなかったのか。本当に純粋な共感のみをもって真知と接していたのか。どうしても、自分が卑しい人間に思われた。
好きになってしまった以上、この関係を続けていくべきではないとは思った。だが、真知から離れる勇気はなかった。何か見通しがあるわけでもないが、惰性でもいい、今はまだ真知と一緒にいたかった。
将はこの想いを秘匿することにした。
その年の暮れ、学校で進路の希望調査が行われた。将は進路決定に関して積極的な理由を持たなかった。やりたいことがあるわけでもなく、高校の選択が将来にどう影響するかもイメージできなかったので、学力相応の適当な学校を受験するつもりだった。
そんな中、真知とも進路の話をすることがあった。真知の考えは概ね将と同じだった。ただ、真知は成績が良かった。もともと勉強が性に合っていたのだろう。学年でも最上位の学力を持つ真知に相応しい学校といえば、この地区の最難関の高校になってしまう。将は、成績が悪いわけではないが、真知ほど勉強熱心ではなかった。
真知とはいつか別れなければならないのだと、将はこのとき初めて実感した。
将はそれから勉強に打ち込んだ。向いていないというわけではなかったので、成績は急激に伸びた。そして受験期には、真知の志望校にも手が届く学力に達していた。
将は真知と同じ高校を受験し、共に合格発表を見に行った。同時に各々の番号を掲示板に見つけ、二人は互いの合格を喜んだ。
「また一緒で嬉しいよ」
真知の笑顔は眩しくて見ていられなかった。
高校では他クラスとの交流が減り、将自身が忙しい部活動に所属したということもあり、真知と話す機会は少なくなった。それでも下校するタイミングが重なれば共に帰ることもあり、旧知の仲といった風だった。
また、将は真知を通じて、千里という少女と知り合った。高校での、真知の初めての親友だという。快活な千里とは気が合い、個人的な親交ももつようになった。
夏が近づき、高校の顔ぶれとも一通り面識ができた頃、クラスでは恋愛話が流行した。教室の隅や屋上の角で集まり、自身の、専ら過去の恋愛経験を語るというものだった。将は、当の相手がこの学校にいる以上、気軽に話すことはできず、恋をしたことはないという態で振舞った。
友人たちの中には、現在恋人のいる者や、同じクラスの女子との交際を狙っている者も多かった。そんな彼らの話を聞いて、将は少しの焦りを覚えた。
中学時代、自分は変わった人間だと思っていた。周りが熱中する、学校行事や恋といったものに興味を示さず、空の彼方に想いを馳せたり、抽象的なことに思考を巡らせたりするのが好きだったから。しかしそんな認識ももはや薄れていた。真知に恋をしてしまったあの日から、将は平凡な人間になってしまったのだ。そして普通の人間同様に、まっとうな青春を望むようになったのだ。部活や学校行事に情熱を燃やし、友人や恋人と過ごす青春。
やはり、遠からず真知との関係に決着をつけなければならない。
秋になり、将は真知への想いを千里に打ち明けた。千里は一瞬驚いたが、そんな気はしていた、とも言った。中学時代の話を聞く限り、将が恋愛感情を抱いている可能性は大きいと思えたとのこと。
「俺、どうすればいいかな」
将の問に、千里は意味が分からないというような顔をした。
「『どうすれば』って……。もう真知とは仲がいいわけだし、普通のアプローチ以外に何があるの」
「違うんだ。俺は別に、付き合いたいとか、そういうのじゃないんだ」
「え、好きなんでしょ?」
「空野とはもともと、同じ世界を共に見る仲間として交流していたわけで、俺はその関係が好きだった。だから、これは間違いのようなもので、できることなら好きになんてなりたくなかった。それに、俺の好きな空野真知は、多分恋愛に関心がない」
「恋愛に関心がない、ね。確かに真知はそんなことを言っていたよ。誰かを好きになったこともないんだってさ。だけど、分からないじゃない。将が迫れば、真知だって恋に興味をもつかも知れないよ」
「いや、恋愛に興味をもってしまったなら、それはもう俺の好きだった空野真知じゃない」
「恋愛と全く無縁な女の子なんていると思う? そりゃ、今の真知はちょっと特殊だよ。だけどこれからも誰も好きにならないなんて決めつけられないでしょう。そんなこと言っていたら、将には一生恋人できないと思うよ」
「ああ、そうだよ。分かっている。俺の言っていることは無茶苦茶だ。きっと、この想い自体がちょっとおかしいんだ。だから、空野との関係にはケリをつけて、できることなら普通の恋がしたいんだよ」
「なら何にせよ、好きだって伝えないことには始まらないよ。このまま思い悩んでいたって何が変わるわけでもないし」
「そうか。そうだな。よし、決めた。空野に告白する」
「ちょっと、あまり鵜呑みにしないでよ。偉そうなこと言ったけれど、あたし、将の言っていることの半分も理解できていないからね。コイバナなのに、理屈っぽいことばかり喋るから。何だか真知と話しているときみたいな気分だよ」
こうして、将の方針は真知に想いを伝えることに決まった。ただ、高校の三年間を思うとどうしても先延ばしにしてしまい、実行されたのはその年の十二月のことだった。
その日は授業が午前中に終わり、将と真知は久々に帰り道を同じくした。地元の駅から伸びる並木通りを並んで歩く。
途中で将はコンビニに入り、餡まんを二つ買って、ひとつを真知に渡した。手を温めると言って将はなかなか口をつけず、真知も餡まんを袋に入れたまま歩いた。
やがて公園に差し掛かった。第一公園という市内最大の公園で、寒さのせいか人はほとんどおらず、数人の子どもたちがサッカーボールを蹴っているのみだった。
将が立ち止まり、ようやく餡まんをかじり始めたので、真知もそれに倣った。将があっという間に食べ終えてしまった一方で、真知の食べ方はゆっくりだった。
「空野」
食べている最中に呼びかけられ、真知は目線のみで応えた。
「俺、空野が好きだ」
真知は眉を上げた。残りの餡まんを口に押し込み、咀嚼して飲み込むのには時間がかかった。
「それは、告白?」
「ああ」
真知の表情は動かなかった。数秒経って、真知は深い息を吐き、答えた。
「気持ちに応えることはできないよ」
「そうか」
それから初めて、真知の顔に感情の色が灯った。その眼は思考していた。この瞬間に浮かび上がってきた、耐えきれないほど膨大な情報を処理し、判断に追われていた。
「理由を話してもいい?」
「話してくれるなら」
「わたしにはまだ、恋が分からないから。……納得できないかも知れないけれど」
「いや、何となく分かっていたよ」
将の声音は穏やかだった。
「俺はむしろ、そんな空野が好きだったんだ。中学に入って、くだらない世界、取るに足らない世界に、俺と同じように魅力を感じている奴がいる。それが嬉しかった。だから俺も初めはそういう気持ちで空野と接していた。俺も空野も、お互いを異性として全く意識していなかったもんな。先に裏切ったのは俺だ。ごめん」
「マサくんにごめんと言われちゃ、何も言えないよ」
真知は俯いた。
「困ったな。マサくんにひどいことしたくないのに、傷つけたくないのに、誠意を示す方法が分からない」
「誠意なんて……」
「これからも、わたしのいい友だちでいてくれる?」
「空野が構わないなら、それほど嬉しいことはないよ」
「良かった。マサくん。わたしは、嘘はつかないよ。ずっと、本当の気持ちを話し続けるからね」
「十分だ。それ以上、優しいことを言おうとしなくていい」
将は満足だった。もともと叶わぬ恋だ。ならせめて綺麗な幕切れを、そう思っていた。真知は思っていた以上に心優しい少女で、こうして精一杯将のことを考えてくれたのだ。いい人を好きになった。それだけで、この出来事を大切な思い出として胸の内に仕舞うことができる。
空は揺るぎのない白色で、冷たく張りつめた空気は止まっているようだった。




