終章「ブルー・エイジ」
「本当にいいの? せっかくの晴れ舞台なのに」
母の幸子は制服姿の真知を見て言った。
真知の学校の卒業式は服装が自由で、男子ならば紋付袴、女子ならば振袖を着て出席する者が多かった。
「いいよ、別に。成人式じゃあるまいし。それに当日の朝にそんなこと言われても、レンタル、着付け、髪のセット、化粧、間に合うわけないでしょ。あれやる人は何ヶ月も前から準備してるわけだし」
真知はそう言って制服のネクタイを締めた。
「俺も見たかったけどな。真知の振袖姿」
スーツ姿の浩史がリビングに出てきた。
「まあ、制服ってのも青春っぽくていいか」
浩史は笑う。
「その通り。式が終わった後、皆で教室に残って窓から空を見上げるわけです。この三年間色々あったけど楽しかったな、また会おうぜ。そんな場面には制服こそ相応しい」
真知は物知り顔で言う。
「最後まで捻くれてんな、お前は」
同じくスーツ姿の真人がリビングに現れた。
「真人まで来ることないでしょ。デートでもしてなよ」
「いいじゃねーか。暇なんだし。つか、こういう日くらい素直になれよ」
「素直だからこう言ってるんです」
式は存外あっさりと終わった。
しばらくは皆教室に居残って記念撮影などを行っていた。夜の打ち上げまでには時間があり、やがて生徒たちは散り散りになっていった。
午後四時。教室では三人の生徒が談笑していた。制服姿の空野真知。振袖姿の向田千里。紋付袴を着た加原将。
「それにしてもまあ、都合のいい話だよね」
真知は目の前の男女を眺めて言った。
「すぐに二人仲良く北海道に行っちゃうのかな? マサくんの相談にずっと乗ってくれていて、予備校も志望校も一緒。確かに千里はマサくんの彼女になるべくしてなったようなものだ」
「イヤミなんてらしくないじゃない」
千里が応える。
「イヤミだなんて、そんなつもりは全くないよ。単に、よくできた話だなあ、って思っただけ。マサくんはマサくんで、わたしと色々やってた時には既に千里へシフトし始めていたのかな?」
「怖いよ、真知。そんなこと言うくらいなら、将と付き合っとけばよかったじゃん」
千里は引きつった笑顔を浮かべた。
「千里、空野は本当に皮肉だとかイヤミで言っているわけじゃないよ」
口を挟んできたのは将だった。
「分かるよ。これじゃあまるで空野が駄目だった場合の予防線を張ってたみたいだ……。だけどな、これは純愛だ。空野も誰かを好きになれば分かるさ」
「分からないな、大人の言うことは」
真知の表情はむしろ爽やかだった。
卒業後、ある日曜日に真知は浩史と二人でドライブに出かけた。
二人とも出発してしばらくは無言だったが、高速道路に入ったあたりで真知が口を開いた。
「わたしが今、『くだらないこと』が好きなのは、絶対父さんの影響だな」
「本当は、真人の方をお前みたいに育てたかったんだ。俺似にな。真知には母さんに似てほしかった」
「へえ、父さんにもそういう教育方針みたいなのあったんだ」
「そりゃ、あるさ。俺は別に放任主義じゃない。子どもが自分の思い通りに育たなくてもまあ仕方ないって思っているだけで、子どもに対する要望なんていくらでもある。結局お前は俺に似て、真人は誰にも似なかった。小さい頃からドライブについてくるのは真人じゃなくてお前だった。お前と真人、めっちゃ仲悪いし」
「でも、真人と父さんは仲いいよね」
「まあな。俺は、個人的には真知の考え方に共感するところが大きいが、真人みたいな生き方もアリだと思っている。何というか、したたかだよな、あいつは。その割には今になっても実家暮らしで、そろそろ出ていってほしいんだが」
車は高速道路を降り、山の中へ入っていった。
「高校生活最後の一年間は受験勉強に捧げたな。その結果として真知は学歴の面では俺をも凌ぐ超エリートになっちまったわけだが……。これからどうするよ?」
「大学には興味のあるものがいっぱいあるよ。そのうちバイトして、学費くらいは自分で稼げるようになりたいな。いかに生きるべきか、まだ全然分からないけど、当面は学業に専念する。幸いにも、わたしにはそれが許されているから」
「大人になることができず、社会的価値に意味を見出せなかった真知が、随分とまともなところに落ち着いたもんだな」
「そうかもね。きっとわたしは、大きな回り道をしていただけなんだよ。愛すべき、くだらない回り道を」
「時に真知、中学、高校と、青春と呼ばれる時期を過ごして、どうだった」
「青春は、青色だったよ」
「ほう。青い春だけに?」
「いや、青春の青って、多分どっちかっていうと緑のことでしょ? わたしの言う青は、本当のブルー。あの空のような、深い、澄んだ青。どうしてかは分からないけれど、中学、高校のことを思い出すとき、その映像は青色がかっているんだ。青春は、青い時代だった」
やがて山中の駐車スペースで真知と浩史は車を降りた。
真知が顔を上げると、桜の枝が目に入った。空の青さを背景にすると、細かい枝ぶりまでくっきりと見える。つぼみは色づいて膨らみ、間もなく花が開こうとしている。
続いて視線を下ろすと、ふもとの街並みが見えた。視野の中に凝縮された生活。何千、何万という人々の暮らしがそこにあると考えると、不思議な感じがした。
少女は思う。
わたしは「くだらないこと」が好きだ。取るに足らない、何の役にも立たないことが好きだ。自転車であてもなく遠くに出掛ける。夜のベランダでぼうっと星空を見上げる。取り留めもない考えごとに耽る。
皆、忘れていく。言葉は通じなくなっていく。それでも、あの空に、あの街並みに、思いを馳せずにはいられない。わたしはわたしの愛した世界を生きてゆく。
このくだらない世界を。
『ブルー・エイジ』




