第十三話「恋と彼岸」
文化祭もあと数日と近づいたある日の夜、真知の携帯電話に千里から着信があった。
「どうしたの。千里が電話なんて珍しいね」
「うん。最近また一緒に帰ってくれなくなったじゃない」
「言いたいことがあるならさっさと言いなよ」
「じゃ、そうするよ。噂になってることについて、本当のところどうなのかなって」
「だから遠回しな訊き方やめなって」
「将と毎日一緒に帰ってるらしいじゃない。目撃談がちらほら……、あたしも実際見たし。結局付き合うことになったの?」
「付き合ってるわけでは……、多分ないよ」
「多分って何よ」
「いわゆる『付き合って下さい!』からの『わたしでよければ』っていう儀式はやってないからね。マサくんがどう思っているかは知らないけれど、わたしにとってはどっちでもいいよ」
それから千里は真知と将の最近について根掘り葉掘り訊いてきた。そこに、以前のように二人の間柄を気遣う様子はなく、楽しい恋の話を聞いているといった風だった。真知と将が以前のような深刻な関係から完全に脱却したと思っているのだろう。
実際のところ、二人の関係に新たな展開が見られたわけではなかった。毎日一緒に帰る約束をしたというが、中学校時代はそれこそ毎日のように帰り道を共にしており、今更特別なことではない。話す内容もかつてと大差なく、「告白」によって一時的に断絶していた交流が回復した、というのが正しかった。
ただ、ここ最近の将の行動の裏に、恋愛的な目標が隠れているのは明らかだった。この関係をいずれは恋愛関係に移行させようという意図は丸見えだったし、依然として関係に変化が訪れないことへの焦燥も見て取れた。
真知が千里との通話を終えてしばらくして、今度は将から電話が掛かってきた。
「今、空野の家の前通ったから、何してるのかなって思って」
本来将は、こんな些細なことで電話を掛けてくる人間ではない。真知は眉をひそめた。
「さっきまで千里と電話してたよ」
「そうか。ところで、これから『真知』って呼んでいいか?」
「いいよ。わたしはずっと『マサくん』でいくけど」
「じゃあ、真知。真知のクラスに大田っているだろ? サッカー部の。あいつに彼女ができたって噂なんだけど……」
それから将は、用意していたかのように話題を次から次へと繰り出した。そのうち、通話料が発生する時間帯になったということで、真知の方から電話を切った。
熱狂の文化祭が終わった翌日は学校が休みで、真知は自宅で勉強をしていた。
昼食を終えて少し経った頃、将から電話が掛かってきた。
「今日、うち誰もいないんだけど、遊びに来ないか?」
「ああ、そういえばマサくんの家の前までは何回も行ったけど、何気に入ったことはないよね。いいよ。今から?」
「え、本当にいいのか? 誰もいないんだぞ?」
「うん。自転車でいいね?」
電話を切ると、真知は身支度をして自転車に乗った。
将の家は真知の家と似たような造りの一軒家だった。凝った書体のネームプレートの下にあるインターホンを押すと、将が家から出てきた。真知は招かれるまま家の中へと進み、将の部屋に入った。将の部屋も真知の部屋に似ていて、ベッド、机、本棚、箪笥などが置かれている主な家具だった。将はベッドに腰掛け、真知には椅子に座るよう促した。
「真知の私服って久しぶりに見た気がするけど、可愛いな」
椅子に掛けた真知の姿をつま先から頭まで眺めて、将は呟いた。
「ありがとう。マサくんも素敵だよ」
「よしてくれ。しかし、真知が服装に気を遣ってるっていうのは少し意外だな」
「どういう意味、って怒りたいところだけど、まあ言わんとすることは分からないでもないよ。別にファッションに気を遣っているわけではないけど、自分を飾り立てるのは好き。絵を描いているのと似たような感覚かな。だから鏡を見るのも嫌いじゃないし、自分の容姿もそれなりに気に入っているよ」
「え、それは自分のことを可愛いって思っているっていう……」
「気に入っているって言っただけでしょ」
二人とも笑顔で会話を続けたが、将の表情には時々陰りが差すことがあった。真知がそれを指摘すると、将は少し嫌そうな顔をした。
「いや、ちょっと真知は警戒心がなさすぎじゃないかって思ってさ」
「どういうこと?」
「今、この家には誰もいないんだぜ。俺と二人きりだ。危ないとか思わないのか?」
「危ないって何? 押し倒したりするつもりなの?」
真知はからかうように笑った。
「わたしはバカじゃないし、男性に対する警戒心だって人並みには持ち合わせている。それでもここに来たのは、マサくんのことが好きだし、信用しているから。そんなことを考えるくらいなら、初めから呼ばなければよかったのに」
「……そうだな。忘れてくれ」
それからは何ということのないお喋りが続き、夕食前に真知は将の家を出た。
翌日、学校からの帰り道で、将が黙って手を繋いできた。真知は拒まなかったものの、握り返さなかった。将の手は温かかった。きっと、将には真知の手が冷たく感じられているのだろう。
その日からの帰り道、将だけが真知の手を握りながら歩いた。それは、将が真知を無理やり引っ張り回しているようにも見えた。
体育祭と後夜祭が終わった夜も、真知と将は住む街の駅から伸びる並木通りを共に歩いていた。相変わらず、将が真知の手を握って。
「なあ、空野。誰かと恋仲になりたい、って思ったら普通、その前にある程度親密になっておくものだけど」
会話の中で、将は唐突に始めた。真知は、将が「真知」と呼ぶのをもう忘れていることに気付いたが、何も言わなかった。
「もともとの関係がある程度できあがっている、っていうのもやりづらいものだな」
「わたしたちのこと?」
「ああ。ここ最近、空野との関係を何とかして恋愛関係に移行させようとしてきたけれど、どうも分からないんだ。今までの俺たちの関係がどう変われば恋愛関係になるのか」
話しているうちに――将がかつて「告白」をした――第一公園の敷地内に入り、将は足を止めた。
「空野は俺のことを『好き』だという。長い付き合いだ。その『好き』が『恋をしている』っていう意味じゃないのは分かった。だけど、わざわざ口に出すってことは、友だちとしての『好き』でもなく、何か特別な意味で言っているんだろう。じゃあどういう意味なのかって、それが分からない。俺にはもう空野の気持ちが分からない」
「だから、『恋をしている』っていう意味の『好き』だと、思い込もうとしたんだね」
「……そうだ。ここ数日の俺の行動、空野は拒まなかったけれど、俺はどうしても恋愛をしている気にはなれなかった。だから、俺たちが本当の恋愛を始めるには、何か象徴的な行為が必要だと思うんだ」
将はそう言うと繋いでいた手を離し、両手を真知の両肩に乗せた。
「これからキスをする。好き合っている者同士、問題ないはず」
重苦しい宣言だった。将の瞳は真知に何かを懇願しているようだった。目元には力が入り、唇はかたく結ばれ、これからキスをしようという人間の表情ではなかった。
真知はただ寂しげな笑顔を浮かべた。何を考えているか、何を感じているか、読みとれそうで読みとれない、擦りガラスのような笑顔だった。
風が強くなり、頭上の桜の枝ががさがさと音を立てた。木の上では蝉たちが最後の命を燃やしていた。面する道路の車通りは多く、サーというタイヤの音がひっきりなしに響いた。
「いいよ」
透明な声色で真知は囁くと、そっと目を閉じた。
真知の肩を掴む手の力が強くなった。ざっ、と将が一歩近づいてくる音がした。蒸し暑さの中にも、人の体温がはっきりと感じられた。やがてゆっくりとした息遣いが真知の肌に伝わった。引き伸ばされた時の中、二つの唇が限りなく近づいた。
晩夏の匂いがした。
真知は思わず目を開けた。将の顔は真知の唇を素通りし、真知の顔の真横にあった。肩を掴んでいた両手はそのまま背中に回され、将は一瞬真知を力なく抱きしめたかと思うと、今度はその手をだらりと下ろし、その場に両膝、そして両手をついた。
キスは叶わなかった。
将は地面を見つめていた。
「ごめん」
そんな声が将の口から響いた。
「こんなことがしたかったんじゃないんだ。俺は、俺は……」
土を大粒の涙が濡らした。
「もう一度、空野と夕焼けを見たかっただけなんだ」
一番星。金色の空。長い影。燃える手足。
あの日見た光景が、二度と手の届かない彼方へ行ってしまった。
真知は屈み、目線を将と同じ高さまで下ろした。
「わたしは待つよ」
その声に、将は神の声を聞いたかのように、茫然と顔を上げた。
「ずっと、待っているから。また、声を掛けて」
そう言うと真知は立ち上がり、歩き始めた。
将は追ってこなかった。




