第十二話「再会」
「何だかんだで来てくれるんだね」
窓越しに蝉の声が伝わる教室で、晴香は言った。
「割と川崎さんのことが好きになってきたから」
真知は晴香に笑顔を向けた。
真知はその日の作業を午前中に終え、住む街に戻ってきていた。
街には二つの駅があった。現在の通学では北側の駅を使っているが、真知の自宅は南部にあるため、通学以外では南側の駅を使うことが多かった。真知の用は南側の駅前にある書店にあった。本格的に勉強に取り組むにあたって、参考書の類を買ってみようと思ったのだ。
書店を出ると、真夏の白さが眼に飛び込んできた。八月。蒸し暑いというよりは「カッ」っとした暑さで、あまり不快感はなかった。
買い物も済んで自宅に帰ろうとしていると、見知った少年の姿を見つけた。大荷物を背負った、加原将だった。
「マサくん」
真知が声を掛けると、将は心底驚いたような顔をした。
「すごい荷物だね。里帰り? あ、分かった。オープンキャンパスでしょ。わたしも行ってきたよ。あと一校、どうしようかなあ」
真知は将の表情などまるで気にしていないように、にこにこと笑いながら話した。将は曖昧な相槌を打つばかりだった。
「これから家に向かうの? じゃあ、一緒に帰ろうよ。久しぶりにさ」
真知の申し出に、将は躊躇いがちに頷いた。
二人は線路沿いの道を歩き、やがて中学校時代の通学路に足を踏み入れた。
「懐かしいな、ここを二人で歩くのも。あ、そうそう。わたしもようやく進路について積極的になれる気がしてきたよ。まだちゃんと決まったわけじゃないけどね。とりあえず、勉強は頑張ろうと思って」
真知は一方的に話し続けた。将は固まった表情のまま、ただ真知の隣を歩いていた。
かつてよく立ち話をしていたT字路に辿りつくと、真知は足を止めた。
「懐かしいついでに立ち話でもしようよ。まだ時間があるなら」
「何だか、空野と話したの、すごく久しぶりな気がする」
将が初めてはっきりと口にしたのは、そんな言葉だった。
「気がする、じゃなくて、実際久しぶりだよ。十二月のあのとき以来、一度も口きいてないじゃん」
そう言うと、少し明るさを取り戻していた将の表情は再び曇った。真知は相変わらず笑顔だった。
「ねえ、マサくんはさ」
真知は両手を背中の後ろで組み、一歩将に近づいた。身長は将の方がはるかに高いが、道の傾斜のせいで真知が将を見下ろす形となっていた。
「まだ、わたしのこと好きだよね」
「馬鹿な」
将は間髪入れずに応えた。
「あれから何ヶ月が経った? 振られておいてなお、それだけの間忘れられないなんてあり得ない」
「ううん。マサくんはまだわたしのことが好き。忘れられるはずがない」
終始声の調子を変えずに話し続ける真知を、将は悪霊か何かを見るような眼で見た。やがてその顔は苦悶に歪んだ。
「……ああ、そうだよ。あれからずっと、空野のこと吹っ切れなかった。だけど、二度とあんなことはできない。一度きりだからこその『告白』だった。『告白』の後も忘れられないなんて、そんなこと、あっちゃいけない。だから、全ては終わったと、そういうことにしてきたんだ! 今更どうしてそんなことを言う? 俺を苦しめたいのか?」
将はほとんど叫んでいた。
「わたしも、マサくんのことが好き」
「いい加減にしろよ」
今度は、怒りを噛み殺したような声で言った。
「俺が空野に惚れているからって、何でも赦されると思うな。俺はな、空野真知という人間が好きなんじゃない。『空野真知』という名の、抽象的な何かに恋をしたんだ。この恋はただの倒錯だ。俺にとっては不本意だ」
「いいや、赦される。何故ならマサくんは、わたしに傷つけてほしいと思っているから。いくら優しい言葉を掛けても、燃え盛る火に薪をくべるようなもの。火傷した心臓を、凍りついた言葉で冷やしてほしいんだよね。だけど、わたしはマサくんの願いなんか、叶えてやらない。冷たい言葉なんか、掛けてあげない」
真知は自分の顔を、将の顔に触れそうなくらいに近付けた。将は思わず一歩退いた。
「何度でも言うよ。わたしはマサくんのことが好き」
将は怯えたように二、三歩ほど後ずさりし、やがて――化け物から逃げるかのように――その場を走り去った。
真知は将の背中を眺めていたが、しばらくすると自宅の方へと足を向け始めた。
翌日、学校の昇降口で二人は再び遭った。真知は文化祭の準備に、将はサッカー部の練習に、それぞれ学校を訪れていた。
真知が「おはよう」と声を掛けると、将は気付いたようだったが返事をしてこなかったので、真知は声をより大きくして「おはよう」と言った。
「あのさ、もう話しかけないでくれないか」
将は真知に背を向けたまま言った。
「怒ったの?」
「そうだ。それに、俺はもう空野のことが怖い」
「怖い? 変なことを言うね。マサくんはわたしのことが好きなのに」
「声が大きい!」
将は真知の手首を掴むと、走り出した。真知は校舎の裏の人気のない場所まで連れてこられた。
「痛いよ。どうしたの、マサくん。やっぱり変だよ」
真知は言葉とは裏腹に、笑顔を絶やさなかった。
「変なのは空野の方だ。いったい、あれから何があった」
「わたしは何も。特に変わったっていう自覚はないなあ」
「確実に変わった。今までの空野は、何というか、透明な感じだった。俺の傲慢かもしれないが、何を考えているか、何を感じているか、俺にも、すっと理解できるような気がしていた。だけど今、俺には空野が何を考えているか全く分からない! ……昨日、空野は俺のことが好きだと言ったよな。本当にそう思っているのか?」
「もちろん。言ったでしょ。わたしはマサくんに嘘はつかない」
「じゃあ、付き合ってくれるのかよ」
「マサくんが望むなら」
真知の言い回しに、将の表情は苛立ちを募らせた。
「訊き方を変える。空野は俺に恋をしているのか?」
「恋は、していないよ」
「もういい」
将は昨日と同じように、その場を一方的に立ち去った。
八月も終盤に近づいたある日、真知は久々に千里と帰り道を共にしていた。
千里は夏休みから予備校に通い始めたという。
「有名大学になると、大学別講座みたいなのがあるんだよね。で、あたしの志望校もそうなんだけど、その講座に将も来ていたんだよ」
「千里の志望校って、北海道の大学じゃなかったっけ」
「一応ね。だからとんとん拍子に受験が終われば、東京とはお別れってことになるな。そうそう、将といえば、あいつ最近急に元気になってきた気がする。何かあったのかな」
「それと関係があるかは分からないけど、この前マサくんと話したよ」
「おお、良かったじゃん! あたしとしてもそこのところは気がかりで」
「わたし、帰ってきたよ」
「おかえり」
千里はそう言うと真知の背中を強く叩いた。
九月に入り、学校が始まってから数日経った日の放課後、真知が教室で勉強をしていると将が訪ねてきた。「告白」以前から考えても、学校で将の方から真知に会いに来るというのは珍しかった。
「最近は教室に残って勉強しているのか」
真知を廊下に呼び出して、将はいつになく真剣な面持ちで言った。
「そうだね。ちょっと前まではすぐに帰る日も多かったけど、この頃は教室に残ることの方が多いよ」
「空野、提案があるんだけど」
「何かな」
「これから毎日、一緒に帰ろう」
「いいよ」
真知は即答した。相変わらずの笑顔だった。




