第十一話「世界との対話」
二年生になって、二つの大きなイベントが終わった。
ひとつは球技大会。真知たちのドッジボールのチームは練習の成果が全く出せずに、八クラス中最下位という結果に終わった。
もうひとつは前期中間考査。真知は総合成績において初めてクラス四十人の中で一位となった。
六月に入って、クラスでは去年より少し早く文化祭の企画が始まった。
ある日の放課後、真知は教室に残って晴香と話をしていた。会話の内容は、今年の文化祭における自分の仕事量を減らしてほしいといったものだった。
「できるだけ皆の事情は考慮したいけど、空野さんはどうして準備に参加できないの? 予備校? まさか、部活始めたとか?」
「どっちも違うよ。単に、やりたくないだけ。川崎さん、去年言ったよね。参加するフリをされるくらいなら、表立ってさぼられた方がましだって。そのましな方になろうとしているだけだよ」
「確かにそうは言ったけど、やりたくないから参加しないなんて認められないよ。どうしたの? 空野さんはそういうこと言う子じゃなかったじゃない」
「わたしはもともとそういう人間だよ」
「本当に参加したくないなら、勉強の為とか適当な理由をでっち上げればいい。そうやってバカ正直に言ってくるあたり、空野さんは本気で文化祭が嫌だとは思ってないよね」
そう言われて真知は黙ってしまい、しばらく思案する仕草を見せた。
「その通りだね。じゃあ、体調が悪くなったり、急用ができたりしたときには連絡するよ」
そう言って教室を出ていった。
廊下に出ると千里が教室に向かってくるのが見えた。真知は構わず昇降口へと足を進めようとしたが、すれ違いざまに「ちょっと」と呼び止められた。
「真知、最近一緒に帰れないよね」
「前にも言ったと思うけど、電車に乗って知らない街に行ったり、そういうことをしているんだよ」
真知はそうとだけ答えると再び歩き始めようとしたが、今度は千里に腕を掴まれた。
「来て」
千里は真知を強引に引っ張り、屋上へと連れていった。
「気に入らないなあ。最近の真知、変だよ」
そう言う千里を、真知は鬱陶しそうに見ていた。
「楽しいの? そんな毎日毎日色んなところに行って。『くだらないこと』は義務でも日課でもなく、気が向いたときにやるものなんじゃないの」
「放っておいてよ。わたしが一人ですることなんだから」
「それってさ、逃避だよね。あたしと初めて会った頃の真知は、『くだらないこと』を愛していたけれど、一方で現実社会と向き合う必要性も強く感じていたはずだよ。今の真知は、好きで『くだらないこと』をやっているんじゃなくて、現実社会から目を背けるためにやっているように見える。……将のことなの?」
その名に、真知の肩がぴくりと動いた。それでも何も話そうとする気配がないので、千里は続けた。
「ひょっとして罪の意識とかもってたりする? 『くだらないこと』に没頭するあまり恋愛についての知識や経験を得てこなかったことが、その未熟さが、将を傷つけたんじゃないか、みたいな。確かに真知と将の関係は変わってしまったかもしれない。将もあれから一切真知のことを口にしなくなった。だけど、そうやって真知が思い詰めること、将は一番望んでいなかったはずだよ」
「わたしとマサくんの間のことは、千里には分からないよ」
「あたしは真知と将の友人として話している」
「分からないよ!」
真知は初めて声を荒げた。
その表情は悲愴そのものだった。
「恋愛が絡んで気まずくなったとか、振った負い目を感じているとか、そんな安い言葉で表せるものじゃない。マサくんは……、わたしにとってのマサくんは! 特別で、かけがえのない、かけがえのなかった……」
真知はそれ以上の言葉を絞り出せなかった。これ以上何か喋ると泣き出してしまいそうだった。
千里はそんな真知を見て、寂しげな眼を向けた。
「真知と将の間のことはあたしには分からない。そうかもね。多分今は、あたしの言葉が真知に届くことはないんだろう。でも、待ってるからね。いち友人として、真知が帰ってくるのを」
千里はその場を去った。残された真知は、感情の波が静まるのを必死に待って立ち尽くしていた。
六月も終わりに近づく頃、真知は再び進路選択について考えさせられた。今度は一年生のときのように大まかな将来像を考えるのではなく、具体的な大学選択に関してのことだった。まず夏休みの宿題として、二校以上の大学のオープンキャンパスに行き、レポートを書くことが課せられた。その準備段階として、「志望校調査シート」に記入して提出することが求められ、担任との個人面談が組まれた。
真知たちのクラスの担任は白岡という五十代前半の男性教諭で、担当教科は数学だった。真知は白岡が好きだった。授業は分かりやすいし、たまに挟み込む小話の一つ一つが興味深かった。白岡は数学教師でありながら、どこか自然科学に懐疑的で、哲学や文学への造詣も深く、総合的な知性というものを感じさせる人だった。
その日、真知は普段使わない教室の扉を開いた。西日が差しこみ、白岡の顔は逆光になっていてよく見えなかった。白岡が促すと真知は椅子に掛けた。
「空野は学業の面では非常によく頑張っている」
白岡は生徒の成績表が収められたファイルをめくった。
「定期テストの成績もいいし、この前の四月にやった模試では総合成績校内五位……。文理のバランスもいい。率直に言って、このまま勉強を続けていけば、日本のどの大学のどの学部にも行き得るだろう。まあ、最上位の医学部となるとまた違った覚悟が必要になるが……」
白岡は真知に右手を差し出した。この面談で「志望校調査シート」を提出することになっていた。真知がなかなか動かないのを見て、白岡は「どうした?」と尋ねた。
「すみません、先生。まだ何も書いていません」
「そうか。確か空野は文章を書く仕事に就きたいんだったな」
「……よく憶えていらっしゃいますね」
「担任だからな。文章を書く仕事つっても色々あるし、極端な話、どんな分野でも極めれば本を出すことは出来るから、それを元に大学を選ぶのも難しいか」
「あれ、でまかせというか、何も思いつかなくて勢いで書いちゃったというか……。本当は将来の夢なんて、何一つもっていないんです」
それを聞いた白岡の反応は、真知の予想とは全く違ったものだった。彼は、愉快そうに笑った。
「珍しいな。空野くらいの成績の奴だと、おぼろげながらにも将来の方向性というのはもっているものだが、そうまではっきりと『夢がない』って言う奴はなかなかいない。ならば何故勉強している? この成績は、単に真面目だとか要領がいいとかで取れるものじゃないぞ」
「わたしには夢がありません。ありませんが、社会ともいずれは向き合わなければいけないとも思っています。そんなわたしが、立派なこと――それをやっていれば社会から評価されること――の中で一番興味をもてるのが、勉強なんです。もちろん、膨大な量の暗記に辟易することもあります。でも、古代の人々が暮らした世界を知ること、知識人と呼ばれる人たちが書いた文章を読み解くこと、この世界の理を知ること、楽しいんです。部活にも入っていないわたしですから、せめて勉強くらいは、と」
「なるほどな。話は変わるが、空野って趣味あるか? 勉強以外で。趣味というほどでもなければ、好きなこととか」
真知は迷った。真知は「くだらないこと」について、一部の友人以外には秘匿している。それがあまり理解されず、場合によっては非難の対象にもなりうることだと思っているからだ。同級生ですらそうなのだから、大人になど言えるわけがない。「わたしは社会で生きていくことに自明な価値を見出せない。それよりももっとささやかな、素朴な感動を求めている」などと言われたら、まともな大人なら「何を言っても社会から逃げる理由にはならない。社会で生きている以上、社会に対する義務を果たすことは当然であり、またそうしたいと思うべきだ」と答えるだろう。実際、真知はその種類の話を両親以外の大人にしたことはなかった。
しかし、白岡なら。白岡なら分かってくれるのではないか。白岡の口から直接、真知の感じていることと共通する言葉を聞いたことはない。だが、話を聴いてくれる気がするのだ。この一年間でそう思った。
ここは勇気を出すべきときだ。白岡にすら話せないなら、今後二度と話す気になれる大人とは巡り会えないかもしれない。
「先生。今日の面談、わたしが最後ですよね」
「そうだ」
「少し、長話をしても」
「大歓迎だ」
「……わたしは『くだらないこと』が好きです。どうでもいい、取るに足らないことが好きです。夜のベランダでぼうっと星空を見上げること、あてもなくひたすら遠くへ向かうこと、取り留めもない考え事をすること……。美しい夕日を見ていると涙が出てきます。道の端に可憐な花を見つけると嬉しくなります。人は大きな夢の為、大切な人の為、果たすべき使命の為に生きるのだと言われますが、わたしは、今、この瞬間が好きだから、何の為だとかではなく、生きているのだと思うんです。だから、将来行くべき道が選べません。命を繋ぐために、お金を稼ぐために生きていくことなど、したくないんです。だけど、確かにわたしの言っていることは褒められたことじゃないのだとも思います。こうして生活できるのは家族のお陰。学校に通えるのも、電車に乗れるのも、お腹が空いたらパン屋さんに寄れるのも、社会の恩恵。わたしは社会の中で生きている。そう、わたしのやっていることは役に立たないことです。何にも繋がらない、それをやってお腹が膨れるわけではない、誰かを楽しませることもできない……」
「役に立たなくていいじゃないか」
俯きがちになっていた真知は、白岡の言葉に思わず顔を上げた。
「空野がやっていることは多分、世界との対話だな」
世界との対話。その壮大な響きに、真知は戸惑ってしまった。
「元来、この世界なんて無価値なのかもしれん。しかし、無価値な世界を生きろ、無価値な生を生きろ、なんて要求は人間には過酷すぎた。自分の生が意味のあることだと思わないとやっていけないんだ。だが空野はありのままの世界を祝福している。何故、どうして、何の為に、ではなく、ただ生きている。そんな愛すべき世界との取り留めもないお喋り、それが空野の言う『くだらないこと』なのだと、俺は思う。しかしだ。確かに我々はこの社会の中で生きている。これもまた事実だ。『この世界に人間として生まれた』――この最大の矛盾をどうするか」
白岡は「にかっ」と笑った。
「正直なところ、俺にもまだ分かっていない。俺はもともと物理学者になりたかったんだが……、それがどうして高校で数学なんか教えているのか、それは話せば長くなる。しかし、この教師という仕事もなかなか面白いもんだと思っている。高校は生徒、教師ともに数が多くて、二年生の半分は俺の授業を受けたことのない奴らだ。生徒と教師の距離だって近いとは言えんし、生徒は生徒でもう大人びちまってるから、どっか冷めてる。それでも、生徒と関わっていると、『おっ』って思うときがあるんだな。きっと、空野が向き合うべきは社会というより、人だぜ」
真知は身体が熱くなるのを感じていた。
白岡は自分の疑問に答えてくれたわけではない。それどころか、さらに大きな疑問をぶつけてきた。しかし、大人が自分の話を聴いてくれたのが嬉しかった。そして、疑問や謎は厄介事というより、それ自体で愛すべきものなのだと思った。
その後、白岡は「一応」と言っていくつかの進路のパターンを提示してきた。真知はそれを意外と素直に聴くことができた。
やがて、下校を促す校内放送が流れ始めた。
「すみません、長々と。あの、これ、どうすればいいですか」
真知はまっさらな「志望校調査シート」を鞄から取り出した。
「何でもいいから書いて提出しろ。そうしないと俺が困る」
またその場しのぎのことを書くことになるのだろう。しかし今度のその場しのぎは、希望のあるその場しのぎになる気がした。
真知は教室の窓から空を見て、思った。
――わたしはこのくだらない世界が好きだ。




